第6話 証拠の書類

「15リーレが支払われていないと言うことだが、修道院からの主張を認めるかね?」

 あまりに長く待たされてうんざりしていた私は、さっさと終わらせたくて話の核心を突く。

「15リーレが支払われていないかどうかは私は知りません。仮に払われていないとしても、それが私に関係あるとも思えないのですが。そもそも、この契約は私の父と修道院の間の約束です。私を受益者とする契約ではありますが、当事者ではありません。また、父は亡くなりましたが、私は財産を全く相続していないので、私へ話を持ってくるのはお門違いではないでしょうか。相続してないことは修道院長も同席していたのでご存じのはずですが」

 私は持参した二通の書類を判事に提出した。私を修道院に預けるというものと、叔父が全額財産を相続するというものの写し。

 判事は書類に目を通した。

「確かに被告の主張を裏付けるもののようだが、被告はこの内容を読んで理解しているのかね?」

「もちろんです。閣下」

 判事がいぶかしむのは、言い回しが独特で堅苦しい文章で書かれているからだろう。若い女性が読めるのかというのが表情にありありと現れていた。

 判事は修道院長とその代理人のおじさんの方を向く。

「被告が契約の債務者の相続人でないという主張への反証を提出できるかね?」

 当然ながら返事はない。

 おじさんが制するのを押しのけて修道院長がしゃべり出した。

「判事閣下。私どもの修道院はこの費用が支払われないと運営が苦しくなってしまいます。日常の世話を受けておきながら、その支払いをしないというのは何という不義理でしょう。まったく最近の若い者は礼儀というものを知りません。賢明なる閣下ならば……」

 長広舌をさえぎるように判事は手を振る。

「つまり反証はないのということを認めるのだね。であれば、私は職権に基づいて判決を下すのみだ。念のために聞くが、代理人から何かあるかね?」

 おじさんは力なく首を振る。

「ございません。閣下」

「原告の請求は棄却する」

 厳格な顔を緩めて判事は誰に言うともなくつぶやいた。

「これぐらい証拠がはっきりしていると楽でいい。目の前で口論やらつかみ合いを始めるのを見るのにはうんざりしていた」

 私は書類を返してもらうと共に書記官が書いた判決文も受領する。

 私の勝ち!

 修道院長に背を向けると跳ねるような足取りで出口に向かった。

 なおも言いつのる修道院長にうんざりするような声で判事が言い聞かせている。

「いいですか。これは神は関係ない話です。私は何も15リーレの支払いが不要と言っているのではない。真正の相続人に請求すればすむ話だ。なに? 有力者相手に訴えるのは憚られる? そんなことは小職の知ったことではない……」

 扉が閉まる時に聞こえたのは廷吏を呼ぶ判事の大声だった。

 やれやれ。

 無知な小娘と侮った報いを噛みしめるがいい。

 色々と面倒な噂が絶えない叔父セルヴァに未払金を請求するのが難しいと判断して私にツケを回すつもりだったのだろう。もし私が督促に負けて少額でも払っていたら、債務を認めたとして全額の支払い義務があると裁定された可能性もあった。

 それをしなかった時点で勝負がついていたのだから諦めればいいものの、巡回裁判所に呼び出せば震え上がると思ったというところかしら?

 お生憎さま。私の母方の祖父は法学者というのを知らなかったのね。まあ、法学者なんて世間一般からすれば縁の薄い職業だから知らなくても当然か。

 祖父の家に遊びに行ってもあるのは法律関係の本ばかり。文字なら何でもいいと読んでいた私に祖父は何を考えたのか内容の講義をしてくれた。

 現役を退いて暇だったのか、孫の相手ができてうれしかったのか。

 今となっては祖父が何を考えていたのかは分からないが、一対一での濃密な授業は学校で数年間学ぶに匹敵する内容だった。

 だから、裁判所に呼び出されたぐらいで私は驚いたり身をすくませたりはしない。

 市庁舎を出るとその足で近くの食堂に入った。

 長く待たされていたのでお腹が空いている。普段はそんなことはしないけれど、裁判で勝てた高揚感から少し贅沢な食事にした。セルリア地方特産の葡萄酒も一杯だけ頂いてしまおう。修道院のものと違って芳醇な香りとしっかりとした風味が広がった。

 食事を済ませるとお店に顔を出す。

 マルコが店番をしていた。休みというのを知らずに来るお客への対応をしてくれていたことを労う。

「三人お見えになりました」

 お客さんの名前をそらんじるので、反故紙の端に書きつけた。

「アンジェリーナ様。ご機嫌がいいようですね」

「そうよ。マルコ。私の大勝利。私にお金を支払わせようという陰謀を徹底的に木っ端みじんに粉砕してやったわ。いい気味よ」

「そうですか……。それはおめでとうございます」

 少し引き気味にマルコは祝意を述べてくる。

「本当にアンジェリーナ様は凄いですね。読み書きができるというだけでなく、恐ろしい裁判も無事に切り抜けられるなんて。本当に尊敬します」

「そお? 向こうの方が思慮が足りなくて自失したようなものだけどね」

 マルコの憧憬の視線を浴びて気持ちが良かった。

 褒められたようなことが得意な代わりに日常生活能力はほぼ無いのだけれどね。それだけでなく、いわゆる御令嬢が得意とすることもほぼできなかった。ダンスなんてやったら、パートナーの足の甲をあざだらけにする自信がある。

 我ながら歪に育ったものだと可笑しくなった。まあ、お陰で勝利の美酒に酔えているわけだから、このような自分になったことに悔いは無い。

「そうそう。前にも言ったけど、裁判のことは誰にも話さないこと。いいわね?」

 きっちりとマルコに釘をさす。

 それほど残り時間はなかったけれど、お店の営業を始めた。

 冷静になれば、半日分以上の稼ぎが無かったことになる。僅かとはいえ、この下らない騒ぎで私は損害を被っていた。少しでも取り返さなくっちゃ。

 数人のお客さんの相手をして店じまいをする。もう少し店を開けておきたいところだったが、日が暮れる前には帰宅する約束だ。

 頼りになるモチェニーゴさんだが少々過保護ぎみなところが玉に瑕。

 裁判のことが知られたら、また心配して何か私の行動に制限をかけかねない。まあ、マルコから漏れない限りは大丈夫だろう。当地での裁判が終われば判事以下の一行は次の場所へと移動する。

 私が待たされている間も隅っこで顔を伏せていたし、特に誰かと顔を合わせたという記憶も無かった。

 チラリと見てもきっと書記か何かの臨時雇いだと思うはずだ。

 そんな楽観的な気分でいたが、裁判の翌々日、夕食時にモチェニーゴさんが切り出す。

「金を払えと訴えられていて、見事に相手の主張をくじいたそうじゃないか?」

「あらあら。まあまあ」

 目を見張るセシールさんと見つめてくるモチェニーゴさん。私はどこから話が漏れたのかと疑問に思いつつ、なんと回答するか必死に頭を回転させた。

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