第5話 トラブル
嫌らしい粗野な手が私に触れることはなく、男は路上に投げ出される。男は何が起きたか分からないのか目をパチクリとしていた。
たぶん私も同じような顔をしていると思う。
私の背後からは渋い声が聞こえた。
「少し悪酔いが過ぎるようだね」
モチェニーゴさんだった。
パタパタと足音がしてマルコが駆けてくる。息を切らしていた。
顔を戻せば残りの二人の男たちはあまりの華麗な早わざを目にして動くことができていない。
そこへ笛が吹き鳴らされて夜警が駆け付けてきた。
酔っぱらいたちを連行していく。言い訳は一切無視。
住んだ期間は短いながらも私はセルバ市の住人だし、仮にも商売をしている店主なのに対し、相手は流れ者なのでこういう結果になるのは当然だった。
今晩は夜警の詰所で長い夜を過ごすことになるのだろう。いい気味だ。
落ち着いたところで私はモチェニーゴさんにお礼を言った。
「どうもありがとうございました」
「いやいや、騎士たるもの、レディを守るのは義務のようなものだよ。それに礼を言うならマルコに言ってやってくれないか。息を切らせながらも急を知らせてくれたのだからね」
モチェニーゴさんは功を誇ることはない。
「マルコ。ありがとう。助かったわ」
「お役に立てて良かったです。それじゃ、失礼します」
マルコは帽子を深く被りなおすと、自分の家に向かって走っていってしまった。
私たちも家に目指して歩き出す。歩く最中はお互いに無言だった。まあ、事件の現場から家まではそれほど遠いわけじゃない。
帰宅を告げるとセシールさんがエプロンで手を拭きながらやってきた。
「あらあら。まあまあ」
いつも通りに三人で夕餉の食卓を囲む。
大事には至らなかったものの、これからはもうちょっと慎重に行動するようにと言われてしまった。
たかだか酔っぱらいにちょっと絡まれたぐらいで大騒ぎし過ぎなんじゃないかしら。すぐに夜警も来てくれたのだし、それほど危険なことは無かったに違いない。
恩人にそんなことは言えるはずもなく、私は別の話題をしようと試みた。
「それにしても見事でしたね。あの男、何をされたのかって顔をしてました」
「話を逸らそうというわけだね?」
「いえ。素直に感心したというだけです」
「子供だましのようなものだよ。そんなことよりも話を戻すが、これからは日が落ちる前に帰宅した方がいいね。いくら町中とはいえ、レディが一人で出歩くには不安がある」
「気を付けることにします」
間を置かず返事をするとモチェニーゴさんはやれやれというように首を振る。
「私が迎えに行った方がいいかもしれないね」
「そこまでお世話になっては亡き母に夢枕で叱られそうです。ちゃんとこれからは暗くなる前に帰宅します」
しおらしく言ってみる。
でもお客さん次第なのよねえ。遅くなったときは片づけを翌日に回すしかないかしら。
ささやかな事件の後、しばらくは平穏な日々が続く。常連のお客さんもついて商売は順調だった。この調子で仕事を受け続ければ、開店に要した費用も十年ちょっとで回収できるかもしれない。
そんな皮算用をしているところへ届いたのは私が預けられていた修道院長からの手紙だった。
半年ごとに払われていた預かり料の最後の一回分、十五リーレを支払って欲しいとのこと。いくら商売が軌道にのっているとはいえ、千五百枚分もの代筆料金に相当する金額を払えると思っているのだろうか?
修道院長の顔を思い浮かべる。
回収できるものなら回収しようというのだろう。
支払義務のあるものを払わないのは盗人と同じで牢屋に入ることになりますよ、という文言には失笑が漏れてしまった。
全額を一括で払えないなら、少額ずつでもいいとも親切ごかしに書いてある。
何も知らない小娘と侮っているに違いない。ばかばかしい話だった。
そういうことならやってやろうじゃない。
私は「払いません」と一言だけ書いて返信した。
二度ほど脅迫めいた手紙が届いたが無視する。
その後はなんの音沙汰もなかったので諦めたと思っていた。さすがにそこまでは愚かではないと判断したのは早計だったようで、ある日、物々しい紋章の入った手紙が届く。
近くセルバ市で開かれる巡回裁判所への出頭命令書だった。私は天井を仰いで深いため息をつく。
マルコが心配そうに質問した。
「何かあったのでしょうか?」
「ええ。裁判に出てくるようにとの命令よ」
「さ、裁判ですか? どうしてアンジェリーナ様が?」
マルコはびっくりして目と口を丸くしている。
一般人としてはこういう反応なのだろう。普通の生活をしていれば縁がない。何か悪いことをして裁かれるイメージなのだ。
「私が以前入っていた修道院からその時の未払い金があるから払えって訴えがあったのよ。無視していたら裁判になったってわけ」
「一体どれくらいの金額なのですか?」
「十五リーレ」
「じゅ、十五リーレ?」
声が上ずっている。無理もない。庶民はリーレなんて単位のお金とは無縁の生活を送っているのだ。
マルコは指を折って数えている。
「十五万サンスですか?」
「ええ、それで合っているわよ」
「払えるのですか?」
「無理ね」
「モチェニーゴさんに相談した方が……」
「余計な心配はかけたくないわ。いいこと、このことをしゃべったら首よ」
「で、でも……」
「マルコ」
はっきりと音を区切って名前を呼ぶ。
「はい。分かりました」
「それで、裁判の日はお店は臨時でお休みにするわ。お客さんにお知らせしておいて。まったくいい迷惑だわ」
壁に張り出してある暦のその日に大きくバツをつけた。伝馬便の発着の日の翌日か。まあ、比較的お客の少ない日だからまだ被害は少ないかしら。
そして迎えた巡回裁判の当日、私はいらいらしながら市庁舎のホールの端に置いてあるベンチに腰掛けていた。
呼び出し日の何番目に私の案件の審理になるかが分からない。係員に袖の下を渡せば教えてくれるのだろうが、それで順番が早くなるわけでもないのに無駄金は使いたくなかった。
同じように待っている人の中に修道院長の姿は見当たらない。
誰か代理人を立てているのだろう。本人がいれば文句を言うことも出来るのだが、居ない以上、想像の中で散々な目に合わせることぐらいしかできない。
ああ。本当に腹立たしいったら。
ようやく、私の審理の順番が回ってくる。
廷吏に呼び出されて部屋に入った。向かいの扉からは痩せこけたおじさんと修道院長が歩を進めてくる。修道院長は余裕しゃくしゃくといった表情を浮かべていた。
一段高いところに居る法服を着た判事が私を見下ろして表情をわずかに変える。
「被告人は代理人を立てなくていいのかね?」
「はい。閣下。親切にありがとうございます。ですが、自分で対応します」
判事は頷くと開廷を宣言した。
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