第7話 大口取引
法廷での一部始終が漏れている。
どうも流出元は私の事件を担当した判事らしかった。すべての審理が終わった後で市庁舎の役人たちと判事たちの送別会で私の案件が話題になったということのようだ。
近年まれにみる即決審理ということでいい話のネタになったらしい。
古語混じりの契約書を理解し証拠を遺漏なく揃えて淡々と提出した若い娘。可愛げないという声もあったようだが、概ね好意的な評価だったそうだ。
役人経由で話が広まり、弟子の一人からモチェニーゴさんの耳に入ったという次第。
モチェニーゴさんは穏やかな笑みを浮かべていた。
「先に話をしてくれれば少しは伝手もあったのだが、まあ結果的にはこれで良かったのだろうね。商店主の中には、契約書の草案の作成をアンジェリーナ様にお願いしようかという話もあるようですよ」
モチェニーゴさんの話は翌日現実になる。身なりの良い紳士が開店早々の私のお店を訪れた。
年の頃は三十手前だろうか。パリっとしたシャツにフランネルの上着を着ている。
「私は葡萄酒の製造をしているアンドレア商会のモリヤ・アンドレアです」
「当店の代表を務めるアンジェリーナ・オルシーニです。先日、飲食店で御社の赤葡萄酒を頂きました。なかなか美味しかったですわ」
「お褒めに預かり恐縮です。アンジェリーナ様ご推薦ということで売り出せば、もっと売れるかもしれませんな。その件もいずれご相談させていただくとして」
そこでモリヤさんは居住まいを正す。
「今日お伺いしたのは、こちらの契約書についてご意見を頂ければと思いまして」
さっと目を通した。
「御社がお売りになる葡萄酒十樽の契約書ですね」
「はい。初めての取引先なのですが、これは先方が提案してきたものなのです。私も読むことはできるのですが、いかんせん、ややこしい言い回しが多すぎまして、これに署名してよいものか判断ができないのです」
熟読するとなると時間がかかる。モリヤさんを小テーブルに案内した。
マルコにお茶を淹れてもらって勧め、その間に私は契約書の条項を目で追っていく。気になる点をメモした。
顔を上げるとモリヤさんと目が合う。
「それでいかがでしょう?」
「まず、助言についての対価を決めましょう。千サンスでいかがでしょうか?」
「ふむ。指摘内容がどれほどのものか分からない中で判断が難しいところですな」
「少なくとも四点、重要な項目が抜けています」
「分かりました」
モリヤさんは銀貨をテーブルの上に置く。
私はメモを確認しながら説明をした。
「一点目ですが、品質によって一樽ごとの料金が三段階で変わることになっていますね。それなのに葡萄酒の品質確認をいつ行うか明記されていません。ここセルバ市での引き渡し時とすべきです。このままでは配達先のヴェヌージアに到着してから行うことも出来てしまいます。その場合、輸送中の管理が悪くて味が落ちることもありえるでしょうが、それをアンドレア商会が負担することになります」
「もう一点は?」
「葡萄酒を買い会の倉庫にある間に、例えば隣家からの延焼で燃えてしまった場合についてです。その場合でも先方に代金の支払い義務はあるのが一般的ですが、紛争防止のために契約書上でもはっきりとしておいた方がいいでしょう」
「なるほど。そして残りの二点は?」
「契約が履行されなかったときの損害賠償額の定めがありません。双方ともに無いので条件は同じとも言えますが、本気で取引する気があるのか少々疑問です。その点を考慮すると、これが最後の指摘になりますが、総額六十リーレにもなる高額の売買契約を素性の不明な相手と結ぶのはお勧めしません。この金額なので決済は手形で行うことになりますが現金化できない可能性があります。取引相手の信用調査はお済みですか?」
モリヤさんはしばらく黙っていたが、愉快そうに笑いだした。
「今年は葡萄の作柄が良すぎてね。少々だぶつきそうな予測なんだ。そこへ大口の取引を持ちかけられたというわけだ。私は乗り気なんだが、父にここで相談するように言われてね。契約書の中身も粗いようだし、もう少し検討した方が良さそうだ。ありがとう」
「いえ、契約の中身にまで踏み込んでいささか無遠慮な指摘にも関わらず、受け止めて頂いて恐縮です」
モリヤさんは契約書をしまい立ち上がる。
「あのように親身になって説明して頂きましたからね。子供の頃の家庭教師が綴りの間違いを指摘したように高圧的に言われたら反発したでしょうが。では失礼」
ふう。モリヤさんが店を出ていってからしばらく考えた。
少々差し出がましい意見を言ってしまったが、相手が納得してくれたので良しとしよう。
翌々日、モリヤさんがやってきて手紙の依頼をしてきた。内容は提案のあった取引を断るもの。
熟慮したがやはり恐らく何か裏があると思われる。ただ、間に入った有力者への遠慮もあり、万が一、真っ当な取引だった時のことを考えて何かいいフレーズはないかというものだった。
「それでしたら、お告げというのはいかがでしょう?」
「お告げですか?」
「吉凶を占ったら、今は手堅く商売をする時との結果だったということにするのです」
商売で占い頼りというのは意外と少なくない。
「なるほど。それなら角は立たないかもしれません。それにアンジェリーナ様の助言は、種明かしが無ければ私にしてみれば占いのようなものですし」
私はモリヤさんの話を聞きつつも手は忙しく動かして、手紙を書き上げた。
「これでいかがでしょう?」
「結構です。あー、今回の働きに所定の料金だけでは感謝しきれない気がします。今度お食事でもいかがでしょうか?」
おっと、そうなっちゃうか。
アンドレア商会はセルバ市でそこそこ羽振りがいい商家だが、それはモレヤさんの父親が剛腕だったからだ。モレヤさんは悪い人ではないし、見た目もすっきりしているけれども二代目のお坊ちゃん感は拭えない。
自分の足で立って生きて行くことを選択した私の決意を翻させるには、申し訳ないが今一つどころではなく足りない気がした。
「せっかくのお誘いですが、今は仕事が忙しくて。皆さんのお役に立てるよう夜も勉強の時間に当てているんです」
ちょうどタイミングよく、扉のベルが音を立てる。
「いらっしゃいませ」
マルコが声をかけていた。
私は立ち上がるとモレヤさんに会釈をする。
「次のお客様がお見えになったようですので失礼いたします」
簡単に諦めてくれればいいのだけどと思いながら、私は次のお客に笑顔を見せた。
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