第19話 戦略的な不合格


 たっぷり七時間眠って、少しそわそわする気持ちを連れてベッドから出た。体が汗ばんでいる。都会の暑さに浸されると、ようやく日常の感じがした。


 昨日は山麓支店の試験が終わってすぐ、採用試験を受け終えた旨の連絡をベアに送った。すると思いのほか早く返答があり、翌日、都合が悪くなければ報告して欲しいとのことだった。


 報告……か。

 ありのままを伝えればいいのだろうか。


 午前中はオーストウッド病院で研修を受け、それから同期の仲間と一緒に昼食を取った。時間はあっという間に過ぎる。


 そして――

 アポイントメントの時間ちょうどに、リズは内科部長室の戸をノックした。ややあって、熊のように野太いベアの声が入るよう促した。


 この戸が、人生の大きな分岐点となるような気がした。

 リズは足を踏み入れる。


 スポーツサングラスを光らせ、彼は革張りの椅子に座っていた。ご機嫌そうに爽やかな笑顔を湛えている。


「お疲れ様、試験はどうだった?」

「実はもう結果が出ているのですが、それがまるで暗号文のようで、私には意味がよく分かりません。ベア教授に伝えてくれと言われました」

「聞かせてくれ」


 リズはパブロから預かった伝言を読み上げた。忘れないように大まかなメモを残しておいたのである。


『リズの能力は合格に値する。雇いたいとは思うが、後ろにベア教授がいるのなら不合格にせざるを得ない。その方が効率的だからだ』


 ベアはそれを聞いて満足そうに頷く。


「なるほどな、これは第一関門を突破したとみていいな。残る第二関門は君の意見にかかっている。山麓支店やパブロの印象はどうだった?」


 彼には伝言の意味が分かったようだ。

 しかしリズには何も分からない。関門だか何だか知らないが、こんな話の進め方はフェアではない。


「その前に、分かるように説明してもらえませんか。これは私の今後にも関わる話ではないんですか」


 リズの不満に今気づいたでも言うように、ベアは頭を掻きながら苦笑する。


「これは失敬、じつは君には他にも色々と失敬な事をしているかも知れないな。全部話すとしよう。怒らずに聞いてくれるとありがたい」


 そう前置きしてベアが語ったのは、極めて単純な話だった。

 まとめると、こうだ。


 パブロがオーストウッド病院で図々しい振舞いをしていた頃、ベアは内科部の中堅医師に過ぎなかった。その彼の目には、パブロの図々しさが勇猛果敢な若きパイオニアのように映っていたらしい。


 無論、パイオニアという点においては正しいのかもしれない。パブロは幾つもの先進的な提案をしたし、その中には受け入れられたものもあって、旧態依然としたオーストウッドの体制に風穴を開けたという。


 しかし、生意気は罪だ。

 とりわけ大きい組織の上層部は安定を乱すものを嫌う。それで、例の審判が開かれることとなり、結果はジミーの一件で聞いた通りだ。


「あれは本当にオーストウッドの汚点だった」


 ベアは人知れず心を痛めていた。


「彼は悪い冗談を好んだが、悪い人間ではなかった。語気が強いのも、威厳を保つ努力だった。体が小さいぶん虚勢を張るしかなかったんだ」


 リズは買い被りすぎだと思うが、どうやらベアはパブロに心酔している。

 癖の強い人間に対する反応はたいてい両極端――気に入るか、嫌悪するかだ。ベアは前者だったのだろう。


 そして、時は流れ、今やベアは内科部の長。

 彼はパブロに戻ってこないかと誘いを掛けるが、にべもなく断られる。また追い出されたら癪だし、今の仕事は楽しいと。


 それでもベアは諦めなかった。

 なんとか彼とのパイプを作って、交流を持ちたいようだ。そこでベアが注目したのが人事交流制度。


 最近は病院でも人事交流を推進する動きが出てきている。おもに他の病院や研究機関を対象としたものだ。

 薬屋――例えば山麓支店は対象外。だが、あの薬屋には別の名がある。国立病態生理学研究所分室。あの玄関先の看板に書いてあったアレだ。


 これは国が疾病に関わる難題を分析するために設置した研究機関だ。本部は都心部にあるが、素早い対応をするために各地に分室がある。そのうちの一つをあの薬屋が担っているのである。

 これが「支店」と呼ばれるゆえんだ。


 パブロが嘱託医として様々な患者を担当したり、奇妙な伝染病を分析したり、変死事件などを請け負っているのは、この国立病態生理学研究所の分室としての仕事なのである。


 と、いうわけで――

 ベアはオーストウッド病院の人事課に働きかけた。内科部との人事交流先として国立病態生理学研究所を組み入れさせ、更にはその分室も対象とさせたのである。


 そこで、満を持してパブロに言い寄った。オーストウッドの優秀な人材をそちらに送り込んでやると。

 そしてまた、すげなく断られることになる。


「オーストウッドのホープをこんな辺境に連れてきたら恨まれるって言うんだ。それならまだ分かるんだが、アイツこうも言ったんだ。それにどうせプライドばっかり高くて役に立たない連中だろってさ」


 ベアは空中に拳を振り下ろす。


「これにはちょっとカチンと来たね。うちの若い子らをなめんなと。だからアイツが新人を募集したら、お忍びで送り込んで合格を勝ち取らせたかった。うちの若いのはやれるぞってのを見せ付けるために」


「それが……私だったと」

「そうだ。実のところ、パイプ役として山麓支店に出向してもらいたかったわけだ。ただこれには二つの関門がある。一つ目は、パブロが候補者を雇うに足ると認めること。二つ目は、候補者がパブロの下で働きたいと望むことだ」


 リズは首を傾げる。


「結局、私は合格だったのでしょうか……?」


 何を言っているのかと、ベアが肩を揺らして笑う。


「おい、頭を使え。そのメモに書いてあるだろ、パブロはお前を雇いたいとはっきり言ってる。バックに俺がいるから雇わないというのは、お前がオーストウッドの職員として出向してきてくれれば給料がこちら持ちになるという意味だ」


「あ、そういう」


「それならお前もオーストウッド病院のエリートを気取れるし、山麓支店よりは給料も高いだろう。パブロのやつもタダで労働力を得る」


「ベア先生には得があるんですか」


「人事交流自体が実績の一つになる。後は、お前から色々と情報をいただく。亡国の面白い技術や最新のブラックジョークがあったら教えてくれ」


「はあ、善処します」


 何となく、頭の中がすっきりした。

 ここにきてようやく、パブロが自分のことを認めてくれていたのだということがはっきりと分かった。これが、素直に嬉しい。


「先生、それにしても、どうしてパイプ役として私を? 私なら合格できる実力があると思ったんですか」


「それもある。が、それだけじゃない。パブロは変わったやつだ。あちこちに人脈があるが敵も多い。アイツをダシにしようとしたり、害を与えたがる輩も少なくない。場合によっては、パイプ役となったお前を利用しようとするかもしれない」


「それ、危ないのでは?」


「どうかな。ただ、お前の両親はとんでもない有力者だ。お前に対して強引なことをするやつは少ないだろう。それに、お前は金にも釣られないだろ」


「まあ、その点は心配いりませんが」


 確かに両親は頼りになる。それで万全とは言えないが、この庇護があるだけ自分は恵まれている。本来は、自分の身は自分で守るものだ。


「それで、他に疑問点はあるか?」


「いえ、今のところは」


「……さてと、それなら」


 ベアは仕切るように言うと、例のギラギラしたスポーツサングラスを外した。

 そして、やや姿勢を正してリズを見据える。


「第二の関門の答えをまだ聞いていないな。決して無理じいはしない。断っても構わない。その上で訊く。……君はどこで働きたい?」


 もはや、悩みはない。心は既に決まっている。

 リズは答えた。


「申し上げにくいのですが、私としては、熊の出そうな職場はご遠慮しようかと」


「そうか、山奥は嫌だったか」


「――いえ、逆ですよ。熊はこちらで見掛けます。現に……」


 リズの視線とぶつかり、ベアはきょとんと目を丸くした。そして、わずかの硬直の後、手で大きく膝を打った。


「なるほど、お前も毒されたもんだな!」


 彼はその凡庸なジョークに腹を抱えて笑いだした。熊のような巨体を大きく揺らしながら。


 しかし、リズは満足していない。ブラック成分が足りない。

 この分だと、もう少しパブロのもとで毒される必要がありそうだ――と、いささかの感謝とともに思うのだった。






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