第14話 患者に釣り糸を垂らす


「ばかばかしい憶測だ!」


 業を煮やしたジミーがとうとう啖呵を切った。 


「患者が本当に病気だったらどうする気だ。ふざけた探偵ごっこをやっている間に悪化させるようなことになったらどう責任を取る?」


 感情的な意見にも聞こえるが、実のところ、この意見には賛成すべき所もあるとリズは考える。

 木蓮の言うように詐病の疑いもあるが、その前に挙がっていたアルドステロン症や褐色細胞腫の可能性も排除されたわけではない。


 無論、ジミーにはもう少し冷静でいて欲しいと思うが、彼もまた彼なりの理屈があって意見を述べている。


「私はまだ褐色細胞腫を疑っています」


 リズは思うところをそのまま述べた。


「木蓮さんの話によれば、患者は別の病院で起立性低血圧の診断を受けています。これって我々が見落としていた重要な症状ですよ。それに起立性低血圧は人為的に作れません。少なくともこれは詐病ではない」


 起立性低血圧とは、立ち上がったときに過度の血圧低下が起こる症状で、立ちくらみやめまいを引き起こす。

 仮にスキナーが血圧を下げる薬を持っていたとしても、体を起こしたときだけピンポイントで低血圧にすることはできない。そういう意味で、でっち上げることが難しい症状なのである。


 リズは意見を続ける。


「起立性低血圧は褐色細胞腫の患者に見られる症状でもあります。褐色細胞腫が原因となる起立性低血圧にはミドドリンは禁忌――絶対に投与してはならない薬の一つです。早めに取り上げるなり何なりしないと」


 その提案に、パブロが難色を示す。


「まあ待て、いきなり私物を取り上げることはできんだろう。褐色細胞腫も確定したわけではないし、過去を詮索されたと知れれば患者が逃走するかもしれん」


 そこへジミーが割って入る。


「簡単ですよ。疑うべき病気の検査を優先すればいいんです。詐病だの何だのは後回しにすべきです」


 それをリズが宥める。


「それも一理あるけど、詐病とミュンヒハウゼン症候群を除外しないと無駄な検査を繰り返すことにもなる」


「はっきりしないな、君はどちらの味方なんだ!」


 ジミーが呆れたように喚く。それに対し、リズも辟易したように首を振る。


「私は患者の味方になろうと努力してる」


 議論は膠着状態だ。


 詐病にせよミュンヒハウゼン症候群にせよ、これらを除外しておかなければ患者の言葉を信じられないし、間違った診断に行き着く可能性も高くなる。


 しかし、これらを除外するためには患者の症状が嘘ではないと証明しなければならない。本人が感じている苦痛が、本物か、そうでないのか。それを客観的に示すことなどできるのだろうか。


「患者が詐病でないと証明……できるんでしょうか」


 リズが呟く。

 一同はしばし黙り込んだ。


 まるで、悪魔の証明だ。

 悪魔が存在しないことを示せないなら、悪魔は存在する。彼女が詐病でないと証明できないなら、彼女は嘘つきだ。いや、――そんなことがあろうか。


 すると、パブロが唐突に席から立ち上がった。


「なるほど、やるべきことはその逆だ。いい診断方法を思い付いた」


 パブロは嬉々としてスタッフルームを後にする。


 皆、慌ててその後をついて行くが、リズは嫌な予感を拭い去れない。

 彼がいきいきとし始めたときは大抵、辛口のブラックユーモアを繰り出す前触れだった。

 何かとんでもないことを仕出かさなければいいが……。



 §



「これから診断を確定させるための大事な検査をします」


 スキナーの表情が怪訝そうに動くのが分かった。驚きとも不安とも疑いとも取れるような表情だった。


 それは、そうだ。

 今まで散々はっきりしない返答を聞かされ続けてきたのだから、確定などという言葉を聞いても実感はわかないだろう。


 パブロは淡々と説明を続ける。


「なに、やるべきことは難しくない。平凡な尿検査だ。ただ、この検査で調べるのは少々厄介な相手になる」


「何の病気なんですか」


「褐色細胞腫という副腎にできる腫瘍だ。良性のものも悪性のものもあるが、もし悪性のものなら予後は極めてよろしくない。陰性であることを願おう」


「……そうですか」


 ぼそりと言って、スキナーはまたスタッフを見回した。まるで、その検査を始めるにはどうすればよいのかと問うように。


 鋭い直感などなくとも違和感は明らかだった。

 この悲嘆すべき報告を前にしても、スキナーの目の奥にあるのは冷静で平坦な感情だけだ。病気に対する恐怖の色が表れない。


 ――見間違いであって欲しいが、今はどうしてか信じることができない。本当に彼女の苦痛は全て作り事であったとでもいうのか。


 その可能性があることは分かっていたが、それは否定されるべき可能性であってほしかった。リズの目が無意識に木蓮の表情を窺う。


 木蓮の面持ちは怒りでも悲しみでもなく、ただただ純粋な観察者の顔だった。口元には愛想のよい微笑が張り付いているが、前髪の間から透かすようにして、瞬きひとつない視線でスキナーの一挙一動を分析している。


 こうあらねばいけない気がした。

 医者は根拠なき願望など持つべきではない。患者に勝手な理想を抱くべきではない。それは、ともすると誤診のもとだ。


 その瞬間、リズは自分の甘さを悟った。

 ただ、漠然と、自分はこの人に負けたのだという感覚と共に。


「さあ、これを」


 スキナーに手渡されたのは採尿カップと二本のスピッツ管。片方のスピッツ管にだけ派手な印がつけられている。


「その二つのスピッツ管に尿を採取するだけです。線の所まで。片方のスピッツ管に印が書いてあるでしょう。そちらにだけ検出試薬が入っていて、もし褐色細胞腫なら尿と反応して茶褐色に変わる」


「茶褐色……」


「そう。印のある方だけ茶色っぽくなっていたら、残念ながら褐色細胞腫の診断を下さなければならない」


「それでもう、確定なんですか」


「その通り。そうなれば、今日中に診断書を書くことになるでしょう。では、採取が終わったら検査室までお持ちください」


 パブロは踵を返して病室を出た。

 リズも重い足を動かして、その後を追いかける。検査室の方へ向かっていた。そこで尿検体が届くまで待つのだろう。


 やがて、スキナーに声が届かないところまで離れると、パブロは木蓮に言った。


「悪いが、彼女の動向を遠巻きに見張っておいてくれるか」


「ええ、任せて下さい」


 木蓮が一も二もなく引き受けて、姿を消す。


 もはや、皆、パブロが何をしようとしているのか理解していた。患者が欲しいものをちらつかせ、検査結果を細工しやすい環境を与えたのだ。


 患者の感じている苦痛が本物であることを示すのは難しい。が、患者が偽物の症状を捏造するところを押さえるのは、やりようによっては簡単だ。


「こんなやり方は――」


 ジミーが呟いた。

 そう、これは患者をだます行為だ。


 患者が我々をだますかもしれないから、我々も試しにだましてみる。これでは信頼関係も何もあったものではない。


 しかし、こうでもしなければ先には進めない。おそらくジミーにも代案はない。だから彼は言い淀んだのだろう。


 彼は正義漢だ。

 そして、患者思いで、善良な医者だ。それゆえに、こういうケースでは苦しむことになる。その顔は、悲嘆と苦痛に満ちていた。


 こんなやり方が正しいのか――?

 たぶん、その懊悩に正解なんてありやしない。





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