第8話 対面、患者さま


 リズは三〇三号室に足を踏み入れた。今回の仕事に関しては、あくまで受験生らに主導させたいらしく、パブロは一番後に控えている。


 患者のベリンダ・スキナーはベッドに上体を起こして軽食を取っていた。外で買って来たドーナツの容器を抱えている。体系はすらりとした痩せ型で、顔色は良好だ。外見からは重い病気があるようには見えない。


 この病室は四人部屋だが、どうやら今はスキナー氏一人だけのようだ。彼女は食べかけのドーナツを容器に戻すと、ハンカチで手を拭きながら愛想のよい笑みを浮かべた。


「ごめんなさい、オートン先生から少し時間が掛かると聞いていたので。あの、失礼ですけれど、どなたが主治医の先生ですか」


 研修生のような若い医者が来れば心配にもなろう。リズが返答を考える間もなく、パブロが背後から答えた。


「主治医のパブロです。なかなか病気の特定ができないと聞いて頭脳を集めてきた。みんなが知恵を絞ってくれます」


「研修生ですか」


「おい、さっそくお前らの実力を疑われてるぞ。とっとと問診を始めろ」


「いえ、疑っているわけでは」


 ジミーが柄にもなく爽やかな笑顔を拵える。


「お気になさらず。そして心配もいりません。私はしがない町医者ですが多くの人を見てきましたし、パブロ先生は診断にかけては一流です。他の面々も優れた洞察眼を持っています」


 彼に紹介される形で、リズと木蓮も簡単な挨拶を交わす。


 ジミーが既に臨床で働いていたことは初耳だった。患者に向ける愛想のよさもそこで培ったのだろう。

 リズは出遅れている気がして、一歩前に踏み出す。子供っぽく見えないように声を少しだけ作った。


「スキナーさん、今日は体調が優れないと聞いていますが、具体的にはどんな感じですか。無性にドーナツが食べたくなるとか」


 ドーナツの容器を床頭台に置きながらスキナーは小さく笑った。


「それを症状だというなら、世の中の半分はドーナツ病でしょうね」


「おい、私もドーナツ病に感染したみたいだ。誰か治療薬を買ってきてくれ」


 パブロが一早く冗談に反応する。彼は見舞い客用の椅子をどこかから見つけてきて悠々自適の様相だ。相変わらす奔放である。


 暗黙の了解で、このままリズが問診を進める流れとなった。


「まずは症状を聞かせて下さい」


「前任のオートン先生に話しましたが、聞いていませんか」


「先入観をなくすために、今の状態を一から聞かせてもらいたいんです」


「分かりました。どこが悪いとは言いにくいのですが、とにかく体調が悪くて辛いんです。体がだるいのと、頭痛もありますし、ときどき吐き気やめまいも」


「どういう感じのめまいですか、それが吐き気の原因かもしれませんね」


「とにかく酷いんです。そういう病気はないんですか」


「それだけでは何とも――頭痛というのは、どこがどんなふうに痛みますか。どういった時に痛みます?」


「常にですよ。頭全体が痛いんです。どんどん悪くなっているみたいです」


 スキナーはやや興奮したように語気を強めた。


「誰からもこの苦しみを分かってもらえません。だから病名が欲しいんです。何でもいいので病名を出してください。もう間違っていてもいいですから、今はとにかくこの苦しみが病気だと示してください」


 ――不定愁訴。

 そう一括りにされるが内容は様々だ。


 一通り検査しても診断がつかなければ、精神的な問題として扱われることが多い。そうなってしまうと痛みや倦怠感が実際にあっても、周囲からの理解は得られにくい。怠けるための方便とさえ言われてしまう。


 病名がつかず、ゆえに治療もされず、処方されるのは気休めの薬だけ。そもそも病人として扱われないことも多い。


「先生、どうか私に病名をください――」


 外来患者に忙殺されがちな勤務医が業を煮やす気持ちもわかる。が、こんな場面こそパブロのような嘱託医の活躍どころかもしれない。


 時間ならかけられる。

 本当に原因がないのなら対症療法もやむなしだが、一連の体調不良が大きな病気の前触れでないことをまずは明確にしなければ。


「病気を特定するにはまだ情報が足りません。どんな些細なことでも、他に自覚している症状があれば仰ってください」


「そうですね、手足が痺れる感じがします」


 皆の視線が集まった。

 オートンのカルテにはなかった症状である。しかし、あれだけ検査をしたオートンが書き漏らすとは思えない。


「それはいつ頃からで、どんな時に痺れますか」


「少し前からです。ずっと痺れています。力が入らなくて、物が持ちにくいんです」


 やはり、新しく出現した症状とみた方がよさそうだ。


「具体的にはどの部分ですか」


「両手と両足、どことはなしに全体が動かしにくい感じがします」


 脳梗塞や脳出血であれば普通は体の片側だけに感覚障害や筋力低下が起こる。両方の手足に痺れがあるなら末梢神経の障害が疑われるが、その原因は多岐にわたる。


「私が筋力や反射を診ましょう」


 買って出たのは木蓮である。スキナーを椅子に座らせ、簡易な検査をてきぱきと順次こなしていく。

 ……手際がいい。彼女はひけらかしたりはしないが、どうやら必要な知識は備えている。疑ったことを申し訳なく思いつつも、リズは問診を続ける。


「既往症はないそうですが、他の病院にもかかっていたり、薬を服用中だったりはしませんか」


「いいえ、今はこの病院だけ」


「職場は大手建設会社の事務とありますね。環境はどうですか。空気が悪いとか、化学物質に暴露したりは?」


「ありません。完全なオフィスワーカーです。その仕事も体調を理由に退職予定ですが……。自宅でも変な化学物質は使いません」


「では、同居人はいますか」


「未婚の一人暮らしです」


 どうにも決め手に欠ける。

 手がかりは増えたが、パズルのピースは散らばったままだ。その後も問診を続けたが、これといった情報は出てこなかった。ちょうどリズの質問が途切れるのに合わせ、木蓮が検査の手を止めた。


「一通り調べましたが異常はないようです。痺れの症状が出たのは気に掛かりますが、座っていて血流が悪くなった可能性もあります。少し様子を見ましょう」


 確かに、血流が悪くなって痺れることは日常的に起こる。しかし、両方の手足が痺れた上、物が持ちにくいほどまでになるだろうか。

 ずっとメモを取っていたジミーが顔を上げ、場をまとめる。


「それでは血圧の測定と血液検査を行いましょう。前にもやったとは思いますが、定期的に調べることが大事なんです。調べる項目も増えていますので」


「はい、よろしくお願いします」


「では、こちらへ」


 こうして検査事項は当初の予定通りとなった。血液検査で広範囲に探りを入れつつ、甲状腺の機能検査も同時に行う。


 具体的には、血液中から甲状腺機能の指標となる物質を検出する。オートンの超音波検査では甲状腺に異常は見つかっていないが、画像だけでは見落とすこともある。この検査も加えればはっきりする。


 これで異常が見つかれば楽な解決だ。

 甲状腺機能の異常で手足に痺れが出ることもある。矛盾はないはずだが、患者を見ていると甲状腺疾患ではないようにも思えてくる。


 リズは心の中で溜息を吐く。

 医療は勘に頼るものではない。検査をし、診断がつけばよいのだ……。







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