第7話 主訴、不定愁訴
山麓支店でバンに乗せられ、悪路を揺られること十五分。車はメリングトン病院の駐車場に滑り込んだ。
だだっ広い駐車場だが、それなりに埋まっている。どうやら病床数二百を超えるこの病院は、まあまあ繁盛している。
ここまで車を運転したのはパブロの秘書、シド・ワトキンという青年だ。普段は店番をしているというが、それ以外の素性は知れない。
容姿端麗、眉目秀麗。
パブロと対極を成すように物腰は穏やか。流れる
確かにあのアンティークじみた店にシドが立っていれば様になるな、とリズは好奇の目を向ける。とはいえ、彼に医薬の知識はないらしい。パブロと受験生三人を降ろすと、シドは店に帰っていった。
とにもかくにも、外は暑い。
早く日陰に入ろうとリズが顔を上げると、そこには病院の威容がそびえていた。生と死が交錯する生々しい場所だ。みな、口数は少なかった。
パブロに引率されて院内を歩き、小さな会議室に着く。そこが仮のスタッフルームとのことだ。
長机の上に三人分の白衣が用意されている。パブロに三つのオマケが付くことを、秘書のシドが連絡してくれたのだろう。
それにしても――。
なかなか小綺麗な施設だ。メリングトンは建物も機材も全てが新しい。病院らしい重苦しさを減らそうと内装も小洒落ている。リズが内定をもらっているオーストウッドほどの大病院ではないが、先進的な印象だ。
リズは落ち着きなく廊下の外を観察する。
忙しく行き交う職員らを眺めていると、勝手に忍び込んだエセ医師のような気分になった。借り物の白衣を纏いながら、リズはパブロに視線を向ける。
「先生はここの勤務医ではないんですよね」
「私の勤務地は山麓支店だけだ。だが、こうして病院から依頼を受けて患者の診断に出向くこともある。第三者の意見が欲しい場合だ。だから採用試験とは言え、これも真面目な仕事だ」
「肝に銘じておきます」
別の医者の意見――いわゆるセカンドオピニオンが欲しいということは、現状の診断に何らかの不安があるのだろう。現役の医師が難しいと思う患者を、新米の受験生がどうにかできるものだろうか。
……いや、それがパブロの想定するチームの水準と考えるべきだ。我々は期待されている。ならば、見せつけてやらねばならない。
「お待たせしました、パブロ先生」
リズの考えごとを遮るように、白衣の男がひとり入ってきた。
脇に書類の束を抱えている。どうやら彼が最初に患者を担当した医師、ロニー・オートンであった。小太りで人の良さそうな顔付きをしている。
彼は長机の前で軽く一礼すると、四人の前に一部ずつカルテのコピーを配った。腰の低そうな人物だ。一同は名前だけの簡単な自己紹介を済ませ、さっそくオートンから事のあらましを聞いた。
「実のところ、今回お願いしたのは症例が難しいからではありません。カルテを見て下さい。患者はベリンダ・スキナー。三十二歳、女性。主訴は頭痛、倦怠感、吐き気、めまい。特徴的な症状はなく総じて
不定愁訴とは、病気の特定に結びつきにくい体調不良の訴えだ。何となく具合が悪い、疲労感が抜けない、頭が重いといった具合だ。
「私の所感は夏バテといった所なのですが、当人は何か重い病気だと信じ込んでいるようなので一通り検査を行いました」
「で、軒並み陰性だったと」
「そうです。血液検査、胸部エックス線、CT、消化管内視鏡、腹部超音波、肝機能検査、腎機能検査、心電図、いずれも異常なし。妊娠もしていません。ビタミン剤、鉄剤、抗生剤、抗炎症剤、どれも効果なしです」
パブロが唸る。
「なるほど、検査のやり過ぎで異常が出ていないか、検査が必要だな」
「ええ、正直、無駄な検査でした。それで納得してもらえるかと思っていましたが、どうやら別の医者の診断が欲しくなったようです。今日は特に具合が悪いというので入院病棟で寝かせています。病床には空きがありましたので」
難しい患者が回されてくるとは聞いていたが、思っていたのとは違うベクトルの難しさだ……。
リズはカルテに目を落として患者の主訴とにらみ合う。が、やはり何の病名も浮かんで来ない。
「今回はお前達が主治医だ。何か意見はないのか」
パブロに水を向けられ、木蓮がカルテから顔を上げた。
「甲状腺機能の検査はしましたか? 甲状腺の異常は比較的よく見られますし、女性には多いです」
「喉の脹れや痛みはないようですが、エコー検査だけ行いました。異常は見つかりません」
「よし、我々はもう少し甲状腺を掘り下げておこう。何の検査がしたい?」
問題集でも解いている気分だ。リズが答えた。
「血中のTSHとFT4を測定しましょう。甲状腺機能が亢進しているにしろ低下しているにしろ、それで捉えられるはずです」
「念のため心拍と血圧も測っておけ、あれは気まぐれだが何かと頼りになる」
「慢性の感染症の可能性は?」
これはジミーの提案。パブロは首を傾げた。
「発熱もないし白血球数は正常、血中CRPも正常、望み薄だな。患者に同居人がいるなら同様の症状がないか聞いてみろ。血液検査のついでに血沈速度も測っておくといい。まあ、その前に当人に会った方がいいな」
「患者は右手の入院病棟です。三〇三号室。私は夕方までおりますので、何かあればお声がけください」
オートンが席を立ち、それにパブロが続く。
「ご丁寧にどうも、オートン先生。我々はさっそく患者の診察にかかろう」
オートンが軽く会釈して部屋を後にし、ようやく受験生一同も動き出した。診察の手伝い程度だろうと高を括っていたが、どうやら主治医を任されるらしい。即戦力が欲しいというのは本当のようだ。
「おっと、忘れていた。君たちもメリングトン病院の医者としてふるまうことになる。これを持っておけ」
パブロから渡されたのはクリップ式のネームプレートである。白衣の胸ポケットに付けると、たちまちスタッフらしさが出る。
「当日限り有効の職員証だ。必要があれば更新する。これがあれば設備も使っていいし、ステーションの看護師に言えば薬を持ってきてくれる。ただし――」
ただし、この職員証は木蓮には渡されなかった。
「医師の免許がなければ医師を名乗れない。木蓮は見学を許可された一般人のゲストだ。院内の機器や薬を使うことはできない」
残酷なようだが、免許がないとはそういうことだ。彼女もそれを分かった上でこの場に立っていなければならない。
木蓮はあの底知れぬ微笑を浮かべたまま、ひとつ小さく頷く。
「心得ています」
「よし、患者のところへ行こう」
リズは一つ深呼吸をした。病院の匂いがする。
今や自分を場違いな闖入者だなどと言ってはいられない。一人の医者として生身の患者と向き合わねばならない。
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