七、漫画絵と油絵
「ただいま」
アタシでも母でもない声が遠慮がちに聞こえる。双子の弟(仮)が帰ってきたらしい。ソファに寝転んでいたアタシはどう返して良いか分からず無言を貫く。行人は気まずそうにスクバを下した。
アタシはいまだに行人との距離感に悩んでいた。急に現れた双子の弟。母が言うには一卵性らしい。一卵性双生児は受精卵が二つに分かれて生まれ、遺伝子的には全く同じ人間らしい。それなら性別も同じになりそうなものだ。そもそもアタシはいまだに百五十センチを超えないのに行人は母の血なのか長身だ。行人と視線を合わせようとするとアタシはかなり見上げなくてはならないだろう。今のところ目を合わせたことなどないが。
行人の話を間接的に母から聞き、行人がどのような境遇にあったのかは理解した。行人は悪くない。それどころか追い出された被害者だ。優しくしたい。それでもそうできない自分がいる。いきなり目の前に現れた、母と自分を引き裂く異物。まだ、アタシの中にそんな認識が消えてくれない。母一人子一人で今までやってきたのだ。それ以外の誰かを家族と思えない。
いたたまれなくなって部屋に移動することにした。起き上がって立ち上がり、自室に一直線、するつもりだった。
「姉さん」
遠慮がちに低い声がアタシの鼓膜を揺らした。
「…何?」
不機嫌そうな声しか出せない自分が憎い。
「その、河原さんから聞いた。姉さん絵、描くんだね」
「ほんなら、なんや?」
「ボクも描くんだ。父さんにキャンバスを触らせてもらったから、油絵を少しだけ。あと、風景画のスケッチ」
行人も絵を描くんか。意外に感じた。方向性は違うものの、分かりやすい共通点のように感じた。それでも素直に喜べなかった。アタシが描くのは漫画絵。主にキャラクターの絵だ。風景画や油絵は芸術としての格が高い。漫画はそう言ったものに比べると明らかに格が低い。自分の好きなものを、けなされた気がした。
「ほんなら、なんや、自分の方がええモン描くっちゅうんか」
「え、いや、ちが」
「違わんやろ!?」
行人に当たってもどうしようもない。分かっている。悪いのは継母だ。それでも、自分が止まらない。
「ムカつく」
行人が青い顔をしている。そのこと自体も気に入らない。分かりやすく震えていれば誰かが助けに来るとでも思っているのか。
自室に入り、わざと大きな音を立てて扉を閉めた。お母ちゃんがいたら、近所迷惑やろと怒られるなァと思いながら。
それでも自分だけの空間は落ち着く。本棚を埋め尽くす漫画、ラックから溢れそうなCD、そこら中に散らばるラフ。他の人から見たらただの汚い部屋だろう。だがアタシにとっては安息の場所で、ゲームで言うならセーブポイントだ。
書きかけの漫画のネームを広げ、続きを描いていく。描きながら思う。アタシは背景が苦手だ。だからどうしても人が向かい合うような構図が多くなる。本当は緩急をつけるために俯瞰や煽り、遠隔のコマを入れたい。しかし描けない。知り合いに背景の得意な人がいればいいのにとは何度も思った。
行人の先程の言葉がリフレインする。「ボクも描くんだ。父さんにキャンバスを触らせてもらったから、油絵を少しだけ。あと、風景画のスケッチ」
行人なら背景をあたしよりも上手に描けるだろうか。もし協力を頼めたら。しかしそんなことは夢のまた夢だ。そもそも絵の時だけ手伝ってほしいなんて都合がいいにもほどがある。アタシが行人を拒絶しているのだ。頼んでも首を縦に振ってはくれないだろう。
黙々と作業を続け、無心になろうとする。しかし、行人の存在が頭の中でちらついて、なかなか作業は進まなかった。
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