四、白石家の異物 5
◇
ピンヒールは凶器だ。踏まれたら痛そう。幼いころから継母の足元を見ながら思っていたが、実際に踏まれることになるとは思っていなかった。
美琴からお金を受け取ってしばらく。夕飯を抜かれた日から続く継母への父や美琴の抗議。その口論が日に日に激しくなっていく。そんなある日に唐突にボクは継母に蹴られ、踏みつけられた。
机に向かっていたボクは継母が来たことに気が付いてそちらを向いてしまった。椅子の足を軽く蹴られ体勢を崩したところにピンヒールが飛んできた。押さえつけられるように床に転がされ、ヒールがへその上に食い込んだ。激痛。痛そうじゃなくて痛い。痛みが電撃のようにお腹に刺さる。思わずうめき声が漏れる。
「うえぇぇ」
「無様ね」
「ぐぅ…」
「鳴くことしかできないの?本当なら今すぐにでも放り出したいのだけれど」
継母はさらに強くボクを踏んだ。どんどん声のボリュームが大きくなる。
「あの人とあの子に何を吹き込んだの!?さすがはあの女の子どもね!!酷いものだわ!!」
応えたくてもボクは何も言えない。痛みで頭が支配される。その様子が気に障ったのか継母は肩やお腹、太もも足と、服を着たら隠れる部分を執拗に蹴った。ほとんど叫ぶように継母は言う。
「何とか言ったらどうなの!?」
そんなことを言われても何も言えない。痛い、痛い。それしか考えられない。
最後の最後だとばかりに無抵抗の僕を蹴り飛ばし、継母は去って行った。床を転がり踏まれたのだ。服がひどい有様だ。ボクの皮膚がもっとひどいことになっているのは見なくても分かる。
洗濯と風呂は、時間は切られているが使えるだけまだましだと思っていた。しかしそれは違った。今日蹴られて分かった。洗濯と風呂が使えたのはボクが外を歩いていても不審に思われないようにするためだったのだ。食事を抜いたのも僅かな金銭を使い尽くさせることが目的だったのかもしれない。
先ほどの継母の台詞が頭の中で響く。「あの人とあの子に何を吹き込んだの!?さすがはあの女の子どもね!!酷いものだわ!!」ボクの本当の母親は何かしたのだろうか。そうだとしてもボクは知らない。知らないし、父と美琴はボクの心配をしているだけだ。しかしそんな視線さえ、継母には煩わしいのかもしれない。
その日を境に、ボクは継母から暴力を振るわれるようになった。もちろん暴言もセットだ。継母の気が済むまで殴られ、蹴られ、踏まれ、叩かれる。その間耳に入る聞くに堪えない言葉。日に日に父と美琴と継母の口論は白熱していく。比例するようにボクへの暴力と暴言も増加の一途をたどった。反対にボクは思考能力と体力を奪われていった。
◇
「なんか、最近顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫…」
「大丈夫そうじゃないから聞いてるんだけど?」
「本当に大丈夫だから…」
「そう…?まあ、それなら良いけど…。キツくなったら誰かに頼った方がいいよ?あたしでもいいし、先生とか親とか…」
「うん。そうする…」
お隣さんの河原さんから度々心配されていたが、ここまで深く言われた辺り、相当僕はひどい顔をしていたのだろう。昼食がパンやおにぎりになったことに関しては新たな「普通」と認識されたのかそれに対しては何も言われなくなった。
継母から暴力や暴言が始まるまでは何でもないようにふるまえていた。しかしここ最近はそれでは済まなくなっている。定期的に父や美琴からお金の供給はあっても体力面はどうにもならない。継母の目を盗んで二人ともあれこれと世話を焼いてくれたりしているが、消耗が激しい。
チャイムが鳴った。三時間目は現国。国語の現代文の授業だ。
担当の佐藤先生の指示で丸読みしていく。句点が来るまで、要は一文ずつ読み、読み終わったら次の人が読んでいくというシステムだ。縦列で前から後ろ、最後まで来たら隣の人、その次はその前の人というように、今度は後ろから前に読んでいく。蛇腹状に順に進む音読。ここ最近は『濁った視界』といういじめがテーマの物語文だ。
いじめられている生徒、黒田を庇った主人公の努(つとむ)。彼はいじめっこ達の次の標的になり次第に疲れていく。
「はい、そこまで」
佐藤先生の指示で丸読みが止まる。そこからは先ほどまで読んだ部分の解説だ。佐藤先生が几帳面な字で黒板に板書していく。
「つまり、黒田君は努君をいじめるよう指示されて、それに反抗して手を上げてしまうんですね―」
佐藤先生の声が頭の中でわんわん響く。やられたならやり返す。やりたくないからと反抗する。抗うことはボクにも許されるだろうか。もしもそうできたなら…。今までされたことが次々に思い起こされる。部屋を取り上げられたこと、食事を抜かれたこと、父や美琴と気軽に話せなくなったこと、僕に味方をした人を簡単に切り捨てたこと、殴ったこと蹴ったこと言われた暴言の数々。
湧き上がるのは純粋な怒り。継母に気に入られていないのは分かる。それに関してはどうしようもない。血のつながりのない前妻の子など目障りだろうから。しかしそれでも納得いかない。ボクはお母様に何かしただろうか。ただそこにいただけだ。
それなのに彼女はボクからすべてを取り上げようとしている。「ここから出て行け」と何度も言われた。彼女は気に入らないものを受け入れようとしない。替えの利くものか何かのように簡単に切って捨てる。そして自分の好きなものだけにしようとする。自己中心的な人。
そんな人に反抗することは良くないことだろうか。一度でもいい、その傷など作ったこともない頬を張って、床に転がすことが出来れば…。
止めどない怒りは利き手に形となって表れた。そして、怒りも何もかもがパキンという音によって現実に引き戻された。
音は右手から聞こえた。無意識に握りしめていたシャーペンのプラスチック部分が割れていた。
「何?今の音」
クラス内がざわつく。咄嗟にシャーペンごと右手を机の下に隠した。「静かに」という佐藤先生の声で徐々にざわつきが収まっていく。
授業が再開し、クラスメイトが落ち着きを取り戻したのを見計らって右手を机の上に出した。
壊してしまったシャーペンは五百円程度はする振ると芯が出てくるもの。なけなしの小遣いで買った大切な文房具だった。その大切にしていたものが今は見る影もない。何よりも内部に入っている金属製の数センチくらいの長さのパイプ状の部品を見て目を疑った。金属のパーツが、素手ではそう簡単に壊せそうにない部品が歪んでいる。ひしゃげた部品を見ているうちにボクは段々パニックになっていく。こんな力で人に手を出したら、その人はどうなる?大けがでは済まなかったら?ボクは、さっきまで何を考えていた?
息が苦しい。酸素が欲しい。いや、肺が、苦しい?
「白石君?大丈夫?白石君!?」
右隣から聞こえる凛とした声が焦りを滲ませる。再び教室がざわつく。
「先生!白石君を保健室に連れて行きます!良いですよね!?」
佐藤先生の返答も聞かずに僕は腕を掴まれて立たせられた。そしてそのまま肩を貸されて歩かされる。僕よりも高さが低く華奢な体。彼女は、河原さんは僕に肩を貸したまま、代ろうかと声をかける他のクラスメイトを断って教室を出た。そのまま廊下を歩いていく。ボクは河原さんの負担にならないように、それだけを考えて保健室まで懸命に歩いた。
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