四、白石家の異物 3
◇
翌日、ボクは美琴と顔を合わせずに登校した。かなり早い時間だったためお手伝いさんたちが慌てていたのは申し訳なかった。けれど、今美琴と顔を合わせたら仮面がはがれてしまいそうで怖かった。お手伝いさんたちには「早めに行く用が夜のうちにできた。早めに言わずに申し訳ない」と言って学校で何か用があるという体にした。申し訳なさそうな顔に騙されてくれたと思いたい。
登校して少し後悔する。早すぎて誰も教室にいないのだ。一人になると嫌でも昨日のことを思い出してしまう。こんな時に限って外は雨。晴れていれば外で朝練をしているところをぼーっと眺めていられるのに今日のグラウンドは泥にまみれて人など誰もいない。勿論屋内では何かやっているようで反響する声だけ聞こえる。元気そうな声。耳だけ廊下に向けていたら意外な人の声がした。
「あ、おはよ」
河原奈緒さんだ。確か女子テニス部に所属しているはずだ。こげ茶の髪を一つにくくった快活な女子。ボクの持つ彼女の印象はそんなところ。彼女の席は窓側から二列目の前から三人目。窓側一列目のボクの席の隣。こちらに向かいながら挨拶してくれたようだ。
「お、おはよう」
「早いね。珍しい」
「まあ、気分で」
「ふうん?」
「河原さんは?朝練あるよね?」
ボクが普段登校してくる時刻よりも早いのを流してくれたのはありがたい。さりげなく河原さんの方に話を向けると、
「朝練、雨降ると無くなるのよ」
との回答。
「なんか、いつも通りに起きちゃって。で、雨降ってるけどどうせならと思って早めに出てきた。いつもはゆっくりするんだけど、なんとなく」
「そうなんだ」
朝の習慣のまま行動した結果らしい。早起きは健康的だ。ボクのそれは眠れなかったからもあるため健康的でない。
「隈すごいね。なんかあった?」
「まあ、ちょっと眠れなくて。大したことないんだけど」
大したことはあった。それでもただのクラスメイト、ただのお隣さんには気軽に言えない。
そして同時に思う。隠し事をした、嘘を教えた両親。彼らを責める権利はボクにはない。ボクも嘘つきだから。何でもないような顔で取り繕ってほらを吹くのだ。
「そう?ま、授業中沈没してて指されたら、起こしたげるよ。あたしの答えが間違ってるかもしんないけど」
「ふふ、ありがとう」
河原さんとの何でもない会話で日常に心がシフトしていく。大丈夫、大丈夫。その日、本当に授業中に沈没したボクを指される前に河原さんは起こしてくれた。有難い限りだ。
◇
学校ではなんでもない日常を終えた。そのはずだった。自宅に帰ってみると、そこはボクの自宅ではなかった。継母の城だった。
お手伝いさんたちは憐みの目を向けてくるが何もしなかった。本当に何もしなかった、継母の命令以外。
自室は様変わりしており、ボクの自室ではなかった。継母の持ち物が所狭しと詰められ、ボクの荷物は廊下の隅に追いやられていた。教科書からノート筆記用具と言った文房具から布団や机、椅子などの一切合切が全て廊下の隅に寄せられていた。お手伝いさんたちの古株の一人、四島さんが申し訳なさそうに口を開き、継母の命令を話してくれた。
「奥様から、坊ちゃ…貴方様の荷物を全て、全てを移動するよう仰せつかりました。私は反対したのですが…」
彼女は苦しそうに言う。
「あ、貴方様は『もう息子でも家族でもないから』と…も、申し訳ございません」
継母は過激な部分がある人だ。そう思ってきた。まさかこんなことまでするとは思っていなかった。
呆然として固まるボクを見ていられないとでもいうようにお手伝いさんたちが目線を逸らして通り過ぎていく。四島さんも会釈をして去っていく。
気に入られていないとは思っていた。それでも家族だとは思ってもらえていると、思っていたのに。
どのくらいそうしていただろうか。誰かの足音がする。振り返ると美琴がいた。
「お兄様…」
美琴は泣き出しそうな顔をしていた。もう、美琴も知っているのだろう。矢継ぎ早に話しだす。
「お兄様は、お兄様です。わたくしのお兄様です。他の誰でもなく、お兄様は」
「美琴」
遮るように読んだ名前で美琴が弾かれたように黙る。
「大丈夫だよ」
「何がっ」
「大丈夫だから、だから…しばらく、一人にして」
美琴は逡巡していた。それでも、折れた。
「承知、いたしました。しかし、なにかございましたら、どうか、頼って、ください…」
「うん」
美琴は振り返らずに廊下を歩いて行った。努めて振り返らないようにしているように見えた。
何もしないわけにもいかず、明日の支度を始める。幸い、荷物は種類別に分けられていたため、スクバの教科書の入れ替え作業は思っていたよりも早く終わった。頼みの綱は父だ。父が帰ってくるまでにやるべきことは終わらせておきたい。机の上に宿題を広げ、空欄を埋めていく。普段はやる気の起きないこの作業が今は不思議とやる気になった。調べながらとはいえいつもよりも早く終わらせることができた。そこからは教科書やノートを取り出し復習を始めた。いつもはこんなことしない。
今は何かしていたかった。何もしていないと現状についてとめどなく考えてしまいそうで怖かった。ただただ頭を何かで埋めるために勉強をして、ボク個人が持つわずかな本を読み漁った。本と言ってもほとんどがラノベだ。続きが発売されているものもある。続きが読みたい。でも買えない。ボクのお小遣いは多くない。普段使う文房具を補充しているとあっという間になくなっていく。その文房具も安物ばかりそろえてやっと本に手が届く。
そうして、どれだけ経っただろう。物音がして廊下の先を見つめる。父が帰ってきた。一二も無く駆け寄る。
「父さん、ボクの部屋が…」
父はボクの言葉とボクが移動して来た方を見て、驚愕した。そして、独り言を言うように、うわごとを言うように、言った。
「僕は、間違っていたのか…?そんな、そんな…」
「父、さん…?」
「行人、すまない、すまない…!僕の考えが浅はかだった!」
一二も無く抱き寄せられた。自分でも何が起こっているのか分からない。
「あら、そんなところにいらしたの?」
艶やかな声がひどく恐ろしいもののように響いた。継母の声だ。質の良いスーツの下は襟ぐりの深いブラウス。高めにまとめた黒髪はとても艶やかだ。ピンヒールをカツカツと鳴らしながらまるでランウェイでも歩くかのようにこちらに優雅に向かってくる。継母が歩いている音で気が付いた。家の中でも継母がヒールを履くのはいつもの通りだが、いつもならこんなに高らかに音は鳴らない。廊下の端だろうと敷かれているはずのカーペットがこの場所だけ剥がされている。
「もうディナーのお時間だと、知らせるよう言いつけたのですが…。まあ、いいでしょう。参りましょう」
継母は父の腕を取って引っ張った。父は、
「行人を、どうするつもりだ…?」
と震える声で言う。
「ああ、同居人のことでしたらどうとでも。もう我が家の者ではないのでしょう?」
父は見る見るうちに青くなった。もう一度腕を引っ張り継母は父を促す。父はこちらを振り返らずに行ってしまった。丸めた背中がひどく小さく見えた。
呆然としてしまったがボクも移動しようと歩き出すと四島さんに止められた。
「…っ、申し訳ございません」
言葉はなかった。が態度で分かった。とうせんぼをするように止められ、苦しそうな顔をする彼女。父や美琴と同じテーブルに並ぶことは許さないと、そう継母が命令したのだろう。結局、夕食に呼ばれることが無いままボクはベッドに潜った。
それでも何とかなったのは、ボクのことを気にかけてくれたお手伝いさんたちのお陰だった。彼女達は継母の目を盗んでおにぎりやパンなどを少しずつ持ってきてくれたのだ。まかないをどうにかしてくれたのか、それともシェフ達がそのためにわざわざ作ってくれたのか分からないが、ただの塩にぎりや丸パンのようなものではなく、しっかりと具が入っていた。
周りにいる優しい人々の好意に感謝した一方で、明日が来るのが怖くあった。
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