第3話

 目的地の『ベルガ』はタチバナとシェリーが暮らしている『ツェルヴェ』の隣の国である。ツェルヴェの国土の90%は険しい山岳地帯からなり、その麓から先がそれぞれ東西南北四つの国に分かれている。ベルガはそのうちの南側の国、海あり山ありの豊かな大地に恵まれた住み心地の良い国だ。高度な産業は無いものの、海陸ともに交通の便が良く、そのため、古来から商人たちの通り道となっており、この国の街にはいつの時代も廃れることなく陽気な風が吹いていた。


 タチバナとシェリーは二日かけて無事にベルガの首都へとたどり着いていた。着いて早々宿を探し、翌日に備えて休息をとる。タチバナは嫌がったが、経費削減のため、シェリーは同部屋にすると言って聞かなかった。ツインベッドだったのがせめてもの救いだ。もちろん何が起こることもなく、普通に朝が来て、ついにその時がやってきた。


 宿の一室、いつもより洒落込んだシェリーが腕時計にそっと目を落とす。


「社長、時間です」

「はいよ」


 部屋にあった家具は全て端に寄せている。そのため、部屋の中央には何もない広い空間が出来ていた。必要なのはこれだけだ。


「それじゃあ、お越しいただきますか」


 タチバナは親指と人差し指で輪を作り、軽く口に含んだ。甲高い笛の音とともに空気が震える。部屋の空間に小さな亀裂が入った。何もない空中に突然現れた亀裂。それは次第に空間をこじ開けていく。その隙間から紺碧の光が漏れ出し、部屋の中を光の網目で満たしていく。


 タチバナは揺れる光に目を細めた。さながらここは水底だ。軽く息を吸うと、すぐそこに潮の香りを感じた。この匂いはよく知っている。生命の生臭さ、泥臭さ、それら混濁を内に秘めた大海原、太平洋。タチバナはその昔海辺に暮らしていた。あの家はまだあそこに建っているのだろうか。匂いは記憶を呼び覚ます。


 はっと我に返ると、亀裂はすでに人が通れるほどの大きさになっていた。


「そろそろか」


 タチバナが独りごちた瞬間、亀裂というにはすでに大きすぎる隙間から、ぬるっとニンゲンの片腕が伸びてきた。


「わぁ!」


 シェリーの尻尾がブンブン揺れる。


 何かを探すように空中をまさぐる腕を、タチバナはぐっと掴んで引っぱった。その瞬間、亀裂から生まれるように恰幅の良い丸眼鏡の男がその姿を現した。


 これが、こちらの世界に来たときに天から賦与されたタチバナのスキル『Call inこーりん』である。からへ客人を呼び出すことができる、否、あっちとこっちを繋ぐ通り道を作ることができると言ったほうが正確だろうか。


 時空を歪め、通り道を作っても客人にやって来る意思が無ければ結局呼び出すことはできない。また、物体を単体で召喚することはできないが、呼び出された客人が持ってきさえすればそれも可能なのだった。


 後光を背に、すっかり姿を現した今回の客人は、軽く辺りを見回すと、すぐに人の良さそうな笑みをその丸い顔に浮かべた。


「橘くん、シェリーちゃん、久しぶり。今回もよろしくね」

「布袋監督ぅ〜お久しぶりですぅ〜、わんわん!」


 シェリーは瞳を潤ませ、尻尾をブンブンさせながら、男の周りをくるくる回った。犬っぽいクー族の異常なまでのニンゲン好きな性質はDNA単位で組み込まれているとしか思えないほどである。


 じゃれあう二人を傍目にタチバナはあくびを噛み殺していた。通り道をこじ開けるのにどっと体力を消耗した。早く仕事を終わらせてさっさと眠りたい。安宿の薄いベッドでも寝転がれば即落ちしてしまいそうだ。


「俺の体力は保って六時間。早く行きましょう、ささっ」


 タチバナは感動の再会ごっこ真っ只中の二人を、野良犬でも追い払うかのようにそそくさと出口に駆り立てるのであった。

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