第2話

『異世界ロケーションサービス Co.』は異世界のロケ地をコーディネートする会社だ。


 主な顧客は、映画、ドラマやアニメの監督、映像制作会社、出版社の制作部門などで、そういう娯楽が発展していない側の需要はほぼなく、必然的に側からの依頼頼みになっている。


 から見ては異世界。だから社名は『異世界ロケーションサービス Co.』。さもありなんである。


 側、つまり、布袋監督から依頼の電話があった数日後―


 タチバナはピッケル片手に雪山を下っていた。大きなバックパックを背負い、一歩一歩踏みしめて歩いている。アイゼンが規則正しく雪を食む音に、なんだか心地よさを覚えながら黙々と歩いていると、目的地はいつの間にかすぐそこまで迫っていた。


 雪山にぽつぽつと建てられたドーム型の家々。ここは「クー族」の住む集落の一つである。それぞれの家の煙突からは白い煙がぷかぷかと立ち昇っている。ちょうど朝餉の時間だ。そこには煙の数だけハートウォーミングな家族団らんがあるのに違いない。


 タチバナは赤く塗られた扉の前でようやく重い足取りを止めた。肩に薄く積もった雪を払いのけ、裏起毛の耳あて付きの帽子を外して軽く頭を振り、ドアノッカーに手を伸ばす。2匹のサラマンダーが円を成す金属製のドアノッカーが、重厚な木の扉に深く乾いた音を響かせた。


 その瞬間、家の中がにわかに騒がしくなった。何かが大わらわで駆けてくる足音の後ろで、「は〜い」とおっとりした女性の声がする。「ちょっと待ってくださいね〜」と言いながら近づいてくるその声を、掻き消さんばかりの獣の鳴き声が、扉一枚隔てたすぐそこから騒がしい足音とともに聞こえてきた。


「もう、二人とも。そんなに慌てないの」


 かんぬきを外す音がして、暖かな空気をまとって現れたのは銀色の長い髪と白いふわふわの耳を持つ見目麗しい一人の女性。シェリーによく似ているが心なしか年長に見える。扉の向こうは暖色で、食欲そそるコンソメが豊かに香っている。外と中の温度差にタチバナは軽く鼻をすすった。


「早くに悪いね、チャコ」

「あらぁ、タチバナさん。あっ、こら」


 チャコはタチバナの足元で転げまわる二匹の子犬をなんとか拾い上げた。タチバナの周りを嬉ションの跡が取り囲んでいる。子犬たちはタチバナに構ってもらいたくてしょうがないようで、抱き留められたチャコのたわわな胸からなんとか抜け出そうと暴れまくっている。


「なんか…大きくなったな…」


 タチバナは何がとは言わなかった。タチバナの視線の先に気がつくこともなく、チャコは子犬たちに愛情たっぷりの眼差しを向けながら嬉しそうに尻尾を振った。


「ムギは小さく産んでしまったから心配だったんですけど、今はちゃんと大きくなってホッとしてます。ココは相変わらず元気いっぱいでちょっと大変なくらい」


「クー族」は産まれたときは動物の姿をしている。その姿で二年ほど過ごし、ある日突然、人間の姿に変わるらしい。「クー族」は多産な種族だ。だから、産まれた時から動き回れる動物の姿の方が何かと都合が良いのだろう。タチバナはそう推測している。


 そういうわけでこの子犬たち、ムギとココはれっきとしたチャコの子どもたちなのだが、タチバナには二人とも同じに見えてどっちがムギでどっちがココだか未だにさっぱり見分けがついていない。


 に来て短くはない時を過ごしているのだが、限りなくニンゲンに近い生き物の子どもが動物そのものの姿をしているというのは、いつまでたっても慣れないものだった。


 チャコは腕の中で動き回る子どもたちを抱え直し、家の中へと踵を返した。


「中にどうぞ。シェリーはまだ時間が掛かりそう。朝ごはん、先に食べてましょう」


 促され、タチバナは躊躇うことなく家の中に足を踏み入れた。そして、壁際のフックに慣れた手付きで帽子を引っ掛けた。そこが彼の帽子の定位置だ。


「スープだけでいいや。食べてきたんだ」


 室内は暖かかった。タチバナはアウターをダイニングチェアの背に掛け、自身もどっかり腰を下ろす。まだまだ着込んでいるのだが「クー族」の家の適温はタチバナにとっては少し寒い。


 息をついたのもつかの間、母親から解き放たれた子犬たちがタチバナ目掛けて飛びついてきた。


「おわっ。そういえばコウタローは?」


 コウタローとはチャコの夫だ。ムギとココに顔中を舐められながら、疑問に思い振り返ると、ちょうどチャコが二人分のスープを運んでくるところだった。自分用に食パンもこんがり焼いてきている。チャコはタチバナの対面に腰掛けた。


「昨日から猟に。一週間は帰ってこないかなぁ」


 黒髪に黒い耳に黒い尻尾の婿養子。犬種で言うならドーベルマンみたいなキリッとした顔立ちの美丈夫。今となってはこの家の大黒柱である。


 タチバナは執拗に攻めてくる子犬たちを片手間にあやしながら、差し出されたスープに口をつけた。干し肉と根菜の優しい味わいのそのスープはタチバナの体を芯から温めた。いつだってなんだってチャコの料理はウマい。あっという間に飲み干して、口元を袖でぞんざいに拭う。そして、こんがり焼けた食パンをはむっとかじるチャコにさり気なく問いかけた。


「シェリー置いていこうか? 一人じゃ大変だろう」


 この短時間でもタチバナは子犬たちにかなりもみくちゃにされている。正直、もうしんどい。『ベルガ』出張はおおよそ一週間の予定だ。その間チャコ一人での子育ては大層骨が折れるだろう。


 そんなタチバナの心配をよそに、チャコは荒れ狂う我が子たちを見つめ、愛おしそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。でも私は大丈夫ですよ。慣れてるし。だからシェリーを連れて行ってあげて。お邪魔でなければだけど」

「邪魔じゃあないけど、いなくても別に大丈夫なんだよなぁ…」


 子犬たちはタチバナの袖を噛んで引っ張り始めている。次から次に新しい遊びを思いつく彼らとそろそろお別れしたくなってきたタチバナが、シェリーを置いていくことを真面目に考え始めたとき、地下から大きな悲鳴が聞こえ、噂の彼女がドタバタと階段を駆け上がってきた。


 階段を上がりきり、ちょうどタチバナと目が合ったシェリーは再び悲鳴をあげた。顔を覆って指の隙間から恐る恐る覗き見ている。


「しゃ、社長! もう来てたんですか!」


 もうも何も待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。タチバナは意地の悪い笑みを見せた。


「今何時だと思ってんだ。自分でも分かったから叫んでたんだろ」

「うぅ…首輪を選んでたら、つい…」


 尻尾を垂らし、しょんぼり俯くシェリーの首には赤い首輪が飾られていた。首輪は犬っぽいクー族の間で「つけているとなんか落ち着く」と最近流行りのファッションアイテムだ。


 シェリーはチャコの背中にピタッとくっつくと、いじけたように頬を膨らませた。


「社長が来てるなら、お姉ちゃんも教えてくれたら良かったのに〜」

「久しぶりだったから、私もタチバナさんとお話できるのが嬉しくて。ごめんね?」

「むぅ…いいけど」

「はいこれ、朝ごはん。包んでおいたから途中で食べてね」


 そう言って渡されたスープポットとたまごサンドにシェリーは思わず姿勢を正し、うやうやしく受け取った。


「お姉様、いつもありがとうございます」


ふわふわの厚焼き玉子のサンドイッチ。シェリーの大好物である。


 そんな姉妹のハートフルな会話の横で、タチバナは自身のアウターと追いかけっこをしていた。子犬たちがいつの間にか室内中を引きずり回していたからだ。なんとか回収したものの、回収したころには、肩で息をするほどに疲れ果てていた。タチバナは残りの体力を振り絞って玄関に駆け出した。


「もーぉ駄目だ! シェリー行くぞ」

「はい社長!」


 こうして、チャコとまだまだ元気いっぱいの子どもたちに見送られながら、タチバナとシェリーは雪山の家を後にした。ドーム型の集落から次々にあがる白い煙たちが、まるで二人の旅路にエールを送っているようだった。

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