第1話

 田舎の夜は早い。

 その夏の日も、気温が殺人的に上昇する前に農作業を終えるため、朝早くから活動を始めていた住民たちは、一様に早々と床に就く。

 先月までは喧しく夜通し鳴き続けていた蛙たちも、その多くが住処を移し、代わりに気の早い虫たちが心細そうな音色を響かせていた。

 辰虎が珍しく深夜に目覚めたのは、数十年飲み続けた寝酒を医者に止められたからではなかった。確かに彼は深い眠りに落ちていたし、その眠気は瞼を上げるのに相当な努力が必要なほど強かった。

 なぜ眠りから引きずり出されたのか、回転の遅い思考が追いつく前に、その原因である音が聞こえた。

 バチンと木が爆ぜる音と、直後にガラガラと何かが崩壊する音。その音の正体を暴くべく、サイレンと共にけたたましく鐘を打ち鳴らしながら、幾台もの消防車が走ってくる。

 ――火事だ!

昭子あきこっ!」

 辰虎は妻の名前を叫んだあと、もう三年も前に逝ってしまっていたのを思い出し、自分の寝ぼけ具合に舌打ちした。

 布団から抜け出たと同時に一際大きく崩壊する音が響いた。

 ここは田舎だ。

 隣の家でも五十メートルは離れている。真夏の夜で風もない。万が一にも延焼の可能性はないだろうが、都会とは違ってこの地域に見知らぬ隣人など一人もいない。自分が無事ならそれでいいというわけにはいかないのだ。

 辰虎は縁側の障子を開けてみたが、その方角に火事の気配はなかった。そのまま裸足で庭の飛び石に降り立って見回すと、火の粉をまき散らし、川面も赤く染めるほどに燃え盛る、かつて家であったものが見えた。

「ありゃあ、野田さんとこの」

 そこは数年前にあるじが亡くなった後、街に住む野田氏の子供たちからも放置され、仕方なしに集落の人間が誰となく雑草を刈り、風だけは通している空き家だった。

「なしてあの空き家から火が上がる?」

 辰虎がそう呟いた瞬間、反対方向から爆発音が響いた。

「今度は倉庫か」

 旧野田邸と辰虎の家を挟んで丁度反対側、川を渡った先にある、これも野田氏が農機具を納めていた倉庫が爆発し、瞬時に全体を炎が包んだ。

 倉庫には農業機械もそのまま置いてあった。それを考えると、ハウス用ボイラーの燃料も置かれたままだった可能性もある。

 しかし、いくら可燃性の物が放置されていたからといって、熱い日中ならまだしも、こんな夜中に自然発火するはずもない。

「誰だ。誰が一体火を……」

 放火以外に考えられないと辰虎は考えていた。

 そして、今まで感じたことがない怒りを覚えた直後、恐怖が彼の身体を支配した。

 ――次は私の家ではないだろうか?

 そう考えたのは辰虎だけではなかったようだ。この集落に住むもの全員が同じ不安を感じ、眠れぬ夜を過ごしたが、それ以降新たな炎があがることはなかった。

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