第5話 遭難

「ど、どうなってるんだよ。これ!」


 ツヨシの怒号が山中に響く。かれこれ二時間、俺たちは九句里山を彷徨っていた。現在は木陰の石の上で休憩を取っている。


「絶対に遭難だろ! おい、どうすんだ!」


「いや、まだ決まってわけじゃないって!」


「ああっ? 行きに三十分で帰りが二時間ってどう考えてもおかしいだろ!」


 苛立ちのせいか、ツヨシとヒサはもみ合いの喧嘩を始めていた。喧嘩と言っても、ツヨシが一方的にヒサに絡んでいるだけであったが。

 だが、ただの遭難にしては奇妙な点がふたつある。まず、なぜ俺たちが遭難してしまったのか、ということだ。既に何度も話題に出ているが、俺たちはこの山を何度も登頂している。

 加えて、現在地は標高一〇〇メートルから二〇〇メートルといった距離だろう。遭難をするにしては明らかに低すぎる。それに、あの一本道を間違うはずがない。

 俺は携帯を起動し、画面の右上を確認する。アンテナは依然として立っておらず、圏外の文字が出ていた。


 これが最も不可解な点。なぜか、携帯の電波が入らなくなってしまったのだ。原因は分からない。途中、何度か携帯で時間を確認していたのだが、その時は確かにアンテナが立っていた。だが、本格的に迷ったのではないかという不安が募り、三十分前に携帯を確認してみたところ、突如としてアンテナが立たなくなり、圏外の文字が出るようになってしまった。

 明らかに不自然だ。標高が何千メートルの山ならともかく、この程度の距離でアンテナが立たないなんてことは明らかにおかしいはず。しかも、山に入ってからしばらくの間は使えたはずなのに、それが突然圏外になるなんて、おかしい。

 何か、何かが変だ。俺の額からは嫌な汗が零れ出ていた。恐らく、ツヨシもヒサも俺と同様に異変に気付いているか、気付かない振りをしている。


 そうだ。これが普通の遭難だったらまだいい。だが、もしも、そこに何らかの霊的現象が介入しているとしたら。八月に死者が出ているこの山で、次の犠牲者として俺たち三人が選ばれたのだとしたら。

 恐ろしい。ただ、恐ろしいとしか言えない。


「くっそ! 電波もないし、どうなってんだ!」


「お、落ち着けよ。ツヨシ」


「落ち着けだと! 元はと言えば、ヒサがこんなところで肝試しなんかやろうって言いだしたのが原因だろ!」


「は、はぁ? 俺が悪いって言うのか」


「そうだよ! クソッタレ!」


 ふたりの喧嘩は俺を置いて、徐々にヒートアップしていた。そろそろ止めないと、殴り合いの喧嘩を起こしかねない。


「ツヨシ、さすがに言いすぎだ」


「だってよ、こいつが」


「こうなったのは誰のせいでもない。一旦落ち着いた方がいい」


「……あぁ、クソッ」


 そう言うと、ツヨシは少し離れた岩陰へと移動した。


「すまん。ノブ、助かった」


「いいって、ツヨシが喧嘩っ早いのはよく知ってるし」


 ヒサの額からは汗が数滴、流れていた。

 先程のツヨシも彼と同じように、汗だくだったことから、ふたりも相当焦っていることが察せられる。これは本格的に不味い状況かもしれない。


「ノブ。お前はどう思う」


 ヒサは目の前の土から突き出ている石の上に座り、指を顔の前で組み、深刻な顔をしながら、俺に尋ねてきた。


「どう思うって……何が」


「この状況だよ。本当に、これがただの遭難だと思うか」


「…………」


 ヒサの問いに、俺は言葉を返せなかった。

 仮に、ここで今回の遭難と九句里山の呪いが関係していると言ってしまったら、俺たちが置かれている異常事態を肯定してしまうような気がして、恐ろしかった。


「ヒサ。ひとついいか」


「なんだよ。こんな時に」


 話題を逸らすように、俺はヒサに質問をした。


「あの定期的に自殺者が出てるって話、誰から聞いたんだ」


「……なんで、こんな時にそんなこと聞くんだよ」


「いいから、教えてくれ」


 このような事態の最中に話す内容ではないというのは重々承知している。だが、あの話を聞いてから、疑問に思っていたのだ。

 この九句里山で、八月になると死者が出る。これはあの十一年前に死体を目撃した俺ですら知らなかった情報だ。恐らく、地元の人間も皆そうだと思う。だからこそ、ヒサがこの怪談話をどこから仕入れたのか、その情報源が知りたかった。

 現実逃避、と言えばそうなるだろう。俺は今、この状況から目を背け、ただ疑問を解消しようとしていた。


「……この山のすぐ下にある民家に住んでる田畑さんだよ。俺、今その人と同じ職場のスーパーで働いてるんだけど、休憩時間にその話を聞いたんだ」


 田畑、聞いたことがない名前だった。山のすぐ下に住んでいるということから、きっとその人は全ての事件が耳に入っているのだろう。だからこそ、他の人々の記憶から忘れ去られたことを覚えていたのか。


「すまん、ノブ」


「な、なんだよ。急に」


 突如、ヒサは謎の謝罪をした。俺は困惑しながら、発言の意図をヒサに問う。


「こんなことに巻き込んじまって。やっぱり、ツヨシの言った通りだよ。こんな時間に、来るべきじゃなかった」


「ヒサ……」


 十年以上の付き合いだが、彼が真剣に謝る姿なんて初めて見た。目元は涙で潤んでいるようにも見える。


「そんなこと……言うなよ。大丈夫、きっと帰れるって」


 自分にも言い聞かせるように、俺はヒサに励ましの言葉を贈る。そうだ、今は山でちょっと迷っただけ。すぐに帰れる──はずだ。

 それから数分間、俺とヒサは無言で石の上に腰を降ろしながら、どこか虚空を眺めていた。何か考え事をしていたわけではない。ただ、この目の前の現実から逃避する時間が欲しかっただけだ。だが、その沈黙の空間はツヨシによって破られた。


「おい、お前ら。ちょっとこっちに来い」


 俺とヒサから距離を取り、少し離れた場所に行っていたツヨシは戻ってくるなり、開口一番にこう言い放った。少し焦った様子であり、何かを見つけたというのはすぐに察しがつく。


「どうしたんだ」


「いいから、早く」


 腕を大きく振り、来いというジェスチャーを取りながら、ツヨシはどこかへと歩き出した。その姿を見て、俺とヒサは互いに顔を見合わせる。その刹那、俺も、ヒサもすぐに同じ思考へと辿り着いた。ツヨシは山を抜ける道を見つけたかもしれないと。

 俺たちはすぐに立ち上がり、ツヨシの後を追った。

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