第3話 九句里山

 夜の山道を登るという体験は初めてだ。九句里山の見慣れた道でも、どこか不気味に感じてしまう。懐中電灯の光があると言っても、逆にそのぼんやりとした光が揺らめく様子が恐ろしくも見える。

 多分、ツヨシとヒサがこの山を肝試しの場として選んだのも、何かの機会でこの時刻に山を訪れたことがあるのだろう。そんなことを考えていた時、危うく道端の小石に躓き、転げそうになっていしまった。


「うおっ」


「おいおい、何やってんだよ」


「肝試し会場はまだ先だぞ。ノブ」


 小石に躓いた俺に向かって、ふたりは笑みを向ける。俺も照れ隠しとして、乾いた笑いを出しながら彼らの背中を追った。

 山に入り、十分程度が経過したが、不思議と思っていたよりは気分に余裕があった。考えられる要因としてはツヨシとヒサの存在だろう。彼らがそばにいる安心感のおかげで、この九句里山でいても平静を保てる。思えば、あの体験をした後も、学校の行事で何度か九句里山自体には訪れていた。その時も、嫌悪感はあったが、比較的に平気な方ではあった。周囲に人間が存在しているという安心感はそれだけ心に平穏をもたらすのだろう。

 そう考えると、真に恐ろしいのは幽霊のような異形の存在よりも、ひとりぼっちという孤独なのかもしれない。

 ──いや、それでもやはり、あれが一番恐ろしい。今思い出しても、あの光景は鳥肌が立ってしまう。これだけは自信を持って言えた。


 あれは俺が小学四年生の夏休みの出来事だった。

 個人的な意見ではあるが、この時期の子どもは一番万能感に溢れている年齢だと思う。小学校生活も折り返しとなり、上から数えた方が早い学年に進学し、初めて年齢が二桁に到達する。その達成感は当時の子にしか分からない貴重なものに違いない。

 とにかく、その時の俺は謎の万能感により、何事もひとりでやり遂げたいと思っていた。朝食や昼食も気が向いたら自分で料理し、他人が食せば顔を歪ませるような味でも満足して頬張っていた。そんな子どもの前に夏休みという長期休暇が訪れてしまったらどうなるかは決まっている。


 そう、冒険だ。


 俺は初めてひとりでこの九句里山へと虫捕りに行く計画を立てた。今にして思えばくだらない発想だが、その時の俺にとっては一世一代の決断。食人族が生息するジャングルに向かう探検隊にも似たような心境だったに違いない。母親に電車賃を貰い、昼食として自分で握った巨大なおにぎりを二つと水筒を持って家を出たのをよく覚えている。だが、当時の俺は知る由もなかった。この冒険が、あんな恐ろしい出来事へと変貌してしまうことに。


 その日は特に日差しが強かったことを覚えている。帽子を被ってこなかったことを後悔しながら、俺は虫捕りに勤しんでいた。

 近所でも、この九句里山は特に多種多様な昆虫で溢れている。カブトムシやノコギリクワガタ、運がいい時は巨大なオオクワガタまで見ることができたが、その日に限っては特に成果は得られなかった。精々、捕獲に成功したのはセミやトンボ、カマキリ程度であり、それらの昆虫を乱暴に虫かごへと放り投げ、次の得物を探していた。


 あれは昼食を取って、一時間程度が経過した頃だったと思う。ついに、俺はその日に一度も捕まえたことがないクワガタムシを発見した。だが、それは網を限界まで伸ばしても届かない木の頂上近くにいた。当時の俺の身長は一四〇センチ程度であり、その身長では届かない場所に昆虫がいるという状況は多々あったのだが、その時は半ば自棄やけになっていた。いつまで経っても本命のカブトとクワガタに出会えないという苛立ちから、意地でもそのクワガタだけは捕ってやろうと思い、ある妙案を思いついた。いや、実際は妙案というほどのたいしたものではなかったが。

 ただ、隣の木に登って足りない身長を補い、クワガタを捕獲するというシンプルな作戦だった。今思うと、だいぶ危険な行為だったが、小四の万能感には敵わない。俺は木をよじ登り、無事にクワガタを捕獲することに成功した。


 だが、その時──木の下から見下ろした光景の中に、何か妙なものを発見した。巨大な『ミノムシ』が、木に垂れ下がっていたのだ。


 その奇妙な光景に、俺の目は釘付けになった。遠目で分かりづらかったが、遠近法や見間違いではない。確かにそこには常軌を逸するサイズのミノムシが存在した。

 正常な思考を持つ大人だったら、まず疑いを向けて、全ての事情を察していたかもしれない。しかし、当時の俺はそのような考えに至るほど賢くはなく、まだ幼かった。好奇心で満ち溢れていた俺は──そのミノムシを間近で確認しようと、木から降りてその場所へと向かってしまった。

 位置を特定するのはそう難しいことでもなかった。真下に見えたということもあり、山道を少し外れた場所にそれはあった。

 巨木の幹に一本の糸が垂れており、その下でミノムシは左右に振り子のように揺れていた。だが、どこかおかしい。そのミノムシは──人間の衣服を着ていたのだ。上は白いシャツ、下はジーンズ。そこでやっと、俺は真相に気付いた。


 あれはミノムシじゃない。死体だ。首を吊って、自殺した。


 それからの出来事は正直あまり覚えてない。網と虫かごを放り投げて、山を駆け下りたのは覚えている。そして、すれ違った一般の登山客に泣きついたらしい。そこで、九句里山で死体が見つかったのが知られることになった。

 とは言っても、その首吊り死体に何か事件性があるというわけではなかった。すぐに自殺者の身元は割れた。状況から他殺の線はまずないと判断され、ただの山中の自殺という形でこの事件は幕を閉じた。

 世間的に見れば、この事件はそこまでたいしたものじゃない。平和な田舎で起こったにしては物騒な出来事だが、加害者が存在しない以上、数年も経てば人々の記憶から薄まり、十年も経てば誰も気にしない程度に風化してしまう。俺も、部外者だったら同じようにあんな事件はすぐに忘れていただろう。

 だが、死体の第一発見者になってしまった以上、俺だけはそういうわけにもいかなくなった。この九句里山で見てしまったミノムシは──記憶に深く刻まれることになってしまったのだ。




「…………」


「おい、ノブ」


「…………」


「ノブ、聞いてんのか?」


「あ、あぁ。なに?」


 少し、ぼーっとしていたようだ。ふたりの声に気付かなかった。


「どうした。トイレにでも行きたいのかよ」


「いや、大丈夫。ちょっと眠いだけ」


「トイレになら先に行った方がいいぞ。これからチビっちまうかもしれないからな」


 飲み物を飲むなっていうのはそういうことか。腑に落ちたくだらない言い回しを思い出し、俺はつい鼻で笑ってしまう。

 山に入ってから三十分程度が経過した。九句里山は二時間で登頂できることを考えると、それなりの距離は進んだはず。一体、肝試し会場とやらはどこにあるのだろうか。まさか、山頂にまで行くのか。


「なぁ、どこまで行くんだ?」


「まあもうちょっとだって。そうだ。ヒサ、歩いている間に、あの話をしてやれよ」


「オーケー。こっちも、そろそろ話すべきだって思ってたよ」


「……何の話だ?」


「ノブ、知ってるか。この九句里山で自殺者がいるって」


 ──知ってる。嫌というくらいに。

 まさか、その死体を発見した第一発見者が俺だとはふたりも思わないだろうな。言っても信じないだろうけど。

 これで合点がいった。多分、ツヨシとヒサがこの九句里山を肝試しの場としては選んだのは偶然じゃない。何かのきっかけで十数年に前に起こった九句里山の自殺事件を思い出して、俺を怖がらせようと考えたのか。

 これも因果というやつだろうか。忘れようとしても、こびりついた便所の汚れのように人生に付き纏う。

 だが、いい機会かもしれない。いい加減、俺も向き合うべきなのだろう。トラウマを克服する時が来た。肝試しという趣旨には反するが、これは絶好のチャンスだ。ここで九句里山に対する苦手意識を消滅させることができるのならば、あの事件はただの自殺、自分は偶然死体を見つけただけだと改めて認識させることができる。そうなれば、夏に対する陰鬱なイメージも少しは解消できるはず。

 しかし、その直後にヒサの口から放たれたのは──俺にとって想定外の一言だった。


「実は去年、ここで自殺者が出てるんだよ。首を吊ってたらしいぜ」


「……は? 去年?」

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