第16話 平成35年6月11日

「平成、という元号をご存じですか」

「ヘイセイ?」

「平らに成る、と書きます」

 唐突な叶の言葉に、四谷は顎に指を当てて思案する。

「確か、そのような元号はなかったと記憶していますが」

「私の記憶では、10年前は平成35年です」

「……10年前は」

 四谷は応接室の壁に掛かっていたカレンダーを見上げる。西暦の隣に書かれている元号は「平成」というものではなかった。

「10年前は……光文35年だったと記憶していますが」

「『光文』は大正の次に来るはずが、諸事情あって使われなくなった元号です……私がいた世界では」

「叶さんのいた世界、ですか」

 自分に言い聞かせるように四谷がその言葉を復唱する。叶は静かに頷き、言葉を続けた。

「十年前のある日、私は両親と一緒にピクニックをしていました。葛城山という、近畿地方にある山です。最初に気付いたのは母でした、もう顔もよく思い出せませんが……」



「何かしら、今の音」

「おと?」

 叶は母・つぐにつられ、おにぎりを頬張る手を止めて彼女と同じ方角を見た。

「ねぇ、あの雲。何だか変じゃない?」

「本当だ。ゲリラ豪雨……かなぁ」

 秀史は訝しむ妻とともに、その視線の先へ目を向けた。葛城山に並ぶ山の向こう、その上に先程まではなかったはずの分厚い雲が急激に広がっている。が、不審に思う理由はそれだけではなかった。

「……なぁ。気のせいかもしれないが、揺れてないか」

「ホントだ!」

 叶は声を上げてしゃがみ込む。手を当てた地面からは微かな振動が伝わってきたが、その体を秀史が抱え上げて立たせる。

「まだ雨も降ってないから土砂崩れはないだろうけれど、どちらにしろ嫌な予感がする。もう降りた方がよさそうだ」

「そうね、叶ちゃんもそれ食べたらごちそうさましよっか」

「えぇ〜、もう帰っちゃうの?」

 不満そうな娘を尻目に夫婦は弁当箱をバスケットに仕舞い、ブルーシートを折り畳み始めた。

「叶ちゃんもリュック背負ってね。忘れ物はない?」

「はぁ〜い」

 しぶしぶと小さなリュックを背負った叶の視界に、赤い光がちらつく。「あ、ゆうやけ!」との空を指差して叫んだ娘の示す方向を見て、夫婦は揃って息を呑んだ。


 季節外れの厚く高い積乱雲、その下部が赤く輝いている。しかし陽の光を受けてではない、太陽は未だ中空に差し掛かった頃合いだった。

 赤い光は、大地からのものだった。一家が見上げる山の向こうで何かが天を焦がすほどに強い輝きを放ち、それが雲に照り返している。

 それだけではない。

「ねぇ、この揺れ……地震じゃない!」

 未だに続く告が言う通り、揺れは地震ではなかった。微弱な揺れに混じって時折、長く、強い振動が伝わる。まるで地下で何かとても大きなものがもがくような――

「荷物はいい、急ごう!」

 そう叫んだ秀史の声は、より大きな音に掻き消された。


 もはや物理的な衝撃となった轟音に顔を上げた一家は、目撃した。

 瞬間を。


 燃えたのでも、崩れたのでもない。文字通り山一つが丸ごと赤い液体となって、その形を失った。

 そして溶け落ちた山よりもはるかに巨大な光が、その向こうから噴出した。

 太陽が間近で顔を覗かせたような、天地を遍く塗り潰す激しい光。一つではない、立ち昇った八つの光が、それぞれ意志を持つかのように身をよじらせて空を舐めた。


 きっと、母は逃げろと言ったのだろう。

 恐らく、父は走れと叫んだのであろう。


 だが、激しい光が轟音を伴い叶の視界を満たした時。二人の声も、姿も、幼い叶の記憶から永遠に喪われた。


 次に覚えているのは、炎に包まれた大地だった。

 比較するものがないので、実際の高度は分からない。だが眼下に広がる小さな瓦礫のようなものがビルの群れだと分かり、人の身のままでは到底たどり着けないほどの高さにいるのだと気付いた。

 それほどの高さにいても、眼下で燃える街の熱が伝わる。

 もう燃やすものなど何一つ残っていないだろうに、炎は執拗に大地を弄り続ける。その中心に、がいた。


 八つの首を持つ、大いなるくちなわ

 それは、明らかにこちらをめ付けている。分かっているのだ、自分の炎が届かない遥か高さへと逃れた者達がいることを。どれほど世界を炎で包んでも燃やし足りないと、駄々をこねる子供のようにもがいている。


「――あぁ、ごめん。目が覚めちゃったね」


 不意に声が叶の耳に届いた。その時初めて、彼女は何者かの腕の中にいると気付く。顔を上げた彼女の目に入ったのは、猛禽類のように鋭く、黒いガラスのような仮面を着けた顔だった。


「一度降りようか。大丈夫、のことは心配しなくていいよ。あの炎が私たちを侵すことはない……今はね」


 仮面のものは黒い翼を広げ、どこかの山の頂へと降り立つ。鳥居や石畳から社の境内であることは分かったが、辛うじて燃え残っているのはそれくらいだ。やがて何もかもが炎に包まれるのも時間の問題だろう。

 翼の主が仮面を外すと、異形はたちまち人の姿を取った。叶の母よりは若い女性だったが、背は父親に並ぶほどだろうか。

「ごめんね、あなたしか助けることができなかった」

「おねえさんは、だれ?」

 確かめるように区切りながら話す叶を見て、女性は力なく笑う。

「ただのつまらない女だよ。仲間をみんなあれに焼かれた、情けない女。妹も逃げられたかどうか――ッ」

 その顔が苦悶に歪んだ時、ようやく叶は彼女の脇腹が黒く炭化していることに気付いた。

「いたいの」

「どうってことないよ、これから君がやることに比べれば……」

 女性は外した仮面を叶に握らせる。身を切るほどに固く、冷たい感触が叶に伝わった。

「これはお守りだ、これがあれば誰も君を傷付けることはない。だから、覚えておいて。この名前を」

 仮面を握らせる彼女の手から、徐々に力が失われていく。幼い叶にさえ、彼女が大切な何かを残して逝こうとしているのが分かった。

「今は忘れてもいい、本当は思い出すこともないといいんだけれど……きっと運命はあなたを逃さない。そんな時、この名前はきっとあなたの力になってくれる」

 ぼろり、と焦げた肉が彼女の胴から剥がれ落ちる。もう痛覚すら上手く働いていないのだろう、彼女の顔に少しだけ穏やかさが戻っていた。叶の顔に仮面を当て、その体を抱き寄せる。脳へと刻むように耳元で囁いた。

「いい? この子の名前は殻烏からがらす

「……から、がらす」

 炎がもう間近に迫っている。この炎は「くちなわ」と同じように意志を持っているのだ、自分たちから逃れるものを許すまいと執拗にどこまでも追い続ける――叶にはそう思えてならなかった。

「そう。私と一緒に唱えて。――神威顕装」

「しんい、けんそう」

「そう。そして名前を呼ぶの、あなたを守ってくれる、その名前を」

 そして、彼女に言われるがまま叶は名前を唱えた。


「――殻烏」


 叶の体が異形へと変化を遂げると同時に、二人がいた境内が炎に包まれた。


――その子のこと、お願いね。


 それが誰に向けられた言葉だったのか、もう分からない。最後に覚えているのは、炎の中で微笑む彼女の顔だった。



「気付けば私は滋賀県の山の中にいました。たまたま登山に訪れていた夫婦に保護されて、それが今の養父母です。

 ここは私がいたのとよく似ていますが、全く違う世界です。元号だけではなく歴史も……」

「歴史も?」

 四谷の声に叶は首肯する。

「私が知っている世界では、戦争はもっと悲惨な形で終わりました。東京は何度も空襲に遭い、昔から残っている古い建物はもっと数が少なかったと思います。流石に幼かったのでそれ以上詳しくは覚えていればいませんが」

「……なるほど。叶さんが神威顕装を行ったのは、その時が初めてですか」

「はい。トラウマのせいかそれ以降は『殻烏』という名前もうろ覚えになっていました。でもこの仮面だけは……」

 叶は携えていた鞄から黒いガラスでできたような仮面を取り出す。辺が緩やかな曲線を描いた、猛禽の嘴を連想させる黒い逆三角形。 

「ずっと肌見放さず持っていました。お守りという言葉を理解していなくても、自分を守ってくれる安心感みたいなものはずっと感じていましたから」

「……彌月さんの報告にあった、あなたがくちなわを見た時の違和感。ようやく合点がいきました」

 四谷はティーカップを手に取り、若いた口内を潤した。

「あなたはすでに見ていたのですね、アレを」

「信じて、くれるんですか?」

「無論です」

 四谷は間髪入れず、力強く頷いた。

「この国は古来、様々なモノたち……"まつろわぬ民"に狙われて来ました。そして彼らは時に荒ぶる神を呼び起こし、この国を根幹から破壊しようと企てるのです」

「荒ぶる、神」

「卑神などではない、文字通り本物の神々です。地の底で眠る怪魚、空より降る凶岩まがついわ、そして――星を灼く大いなるくちなわ

 叶は、あの日空から見た炎上する風景を反芻した。

「当代の"まつろわぬ民"、その首魁である八雲は、間違いなく蛇を呼び起こすことへ王手をかけています。卑神も、そして祟りも彼女にとってはその手段でしかありません。新和市はあくまで修礼、次は――」

「……蛇が招かれてしまった、私のもといた世界はどうなったんでしょうか」

「文字通り全てが灼かれてしまうため、その後どうなったかは記録が残ることはありません。しかし残念ながら……」

 言葉を濁し、首を横に振る四谷。叶は手にした仮面に視線を落とした。

「申し訳ございません、お力になることができず……」

「いえ、薄々そんなことだろうとは思っていましたから」

 すっかり冷めた紅茶を飲み、叶は顔を上げる。

「あの蛇は、理不尽の体現です。誰もあのようなやり方で死を迎えるなんて、あってはならないことです。だから、あれを止めるためならどんなことでもするつもりです。例え誰かに止められたって」

「……本当なら、あなたにこのような要請をするべきではないのでしょうが。敵はあまりに強く、そして我々には圧倒的に人手が足りません」

 傍にずっと控えていた二条が、机の上に封筒を置く。

「近日中、我々は"向こう側"にいる九朗君を救出します」

「救出……可能なのですか?」

「時期も手段も限られ、とても容易とはいえませんが……。彼は欠くべからざる人材ですので。中にはその要綱が入っていますが、来週には詳細を詰めるミーティングを行います。もし御助力いただけるのならば――」

「やります。何でもやらせて下さい」

 間髪入れず前のめりでそう返事した叶に、四谷は苦笑しながら首を垂れた。

「お恥ずかしい限りですが、何卒よろしくお願い致します」



 百合に自宅まで送迎させるという四谷の申し出を固辞し、叶が退出した後。

「あなたの話を、疑ったことはありません。ですがいざ、実体験された方の言葉を聞くと――」

「怖気付きましたか?」

「まさか、そのようなことは」

「分かっています、冗談ですよ」

 応接室に残った四谷と二条。局長とその秘書という立場。しかし二人の口調は本来の立場に鑑みて、明らかに逆転していた。

「それにしても、叶さんに殻烏を託したというあの女性の話。やはりあれは」

「ええ。どうして彼女が"殻烏"を持っていたのか、ようやく分かりました。彌月さんの報告を聞いた時はまさかと思いましたが」

 二条は己の掌を見つめている。そこに残った四つの痕は叶が話している間、とくに殻烏を渡される際の経緯を話している間、爪が食い込むほど固く手を握っていた証だった。

「あなたのは己の死を悟り、最期に叶さんへと託したのです。我々はその思いを無碍にする訳にはいきません」

「分かっています、それでも……」

 二人分のティーカップを片付ける二条の手に、雫が落ちる。

「私は姉さんに、生きていてほしかった」



「ただいま」

 一人暮らしの部屋。帰宅を告げる声に返答するものは当然いない。しかし叶はこの習慣を欠かしたことはなかった。

 靴を脱ぎながら、己の言葉を反芻する。


――薄々そんなことだろうとは思っていましたから。


 思うはずがない。思えるはずがない。

 もう朧気にしか思い出せなくても、もう離れて暮らした時間のほうが長くても、最愛の両親だった。いつか再会し、「おかえり」と言ってくれる――そんな時が来ると信じていた。

 10年間。どこかでその望みを心の支えとして生きてきた。


 足の力が抜け、冷めた廊下へと頽れる。

 言葉にならぬ嗚咽が喉から漏れ、堪え続けた想いがぼろぼろと零れる涙となって溢れ頬を濡らす。

 もう両親の顔を思い出すことはできない。彼らが生きた証を見つけることはできない。物心ついてから2、3年。ほとんど記憶に残ってはいない世界だとしても、確かに彼女はあの世界で形作られた。

 もう永遠に喪われ、灰となり、二度と取り戻すことはできない。

 そのことをようやく受け止めた叶の泣き声を聞くものは、どこにもいなかった。

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