第13話 新和市付喪神絵巻②

 後先考えず前方へとその身を投げた殻烏は、辛うじて受け身を取りながら背後へと向き直る。視線の先にいたのは顎女である。

 直前まで顎女は確かに殻烏の目の前にいた。それが次の瞬間殻烏の背後を取り、頸を断ち切らんと鋏を閉じたのである。首筋に流れる一筋の血液を拭い、殻烏――叶は顎女を見据えた。彼女の心胆を寒からしめたのは、捉えられないほどの動きを見せた顎女

(今の動き――"先読み"できなかった?)

 先ほど顎女が分裂させた鋏でやってみせた強襲。それを難なく捌くことができたのは、殻烏――叶に備わる恩頼"先読み"の為せる業であった。以前、凄門が猿咬徒と交戦した際にはこれを以てその急襲を防ぎ、勝利に貢献している。

 その"先読み"が、顎女の背後からの強襲には対応できなかった。頸に受けた傷は、叶が殻烏を神威顕装して以降初めて負ったものである。

 より正確に言えば、"先読み"が全くできなかった訳ではない。鋏が閉じ始められ、殻烏の首に触れるまでの刹那にも満たない時間にようやく生じた"先読み"によって叶は自身の置かれた状況を把握し、その身を投げ出して鋏を躱すことができた。しかしその"先読み"はこれまでのものと比べあまりに与えられる猶予に乏しかった。

(さっきの瞬間移動じみた動きはもちろんだけれど、"先読み"ができなかったのもあの顎女の恩頼なの……?)

 心中でそう呟くが、当然応えるものはない。初めて経験する命を賭した戦い、その孤独さに打ち震えながら叶は再び拳を構えた。



 顎女デライラは内心、勝利を確信していた。行使した恩頼は〈非理結因・断髪〉――過程を省略し、あらゆる非理を無視して「髪を断つ」という「結果と接続」する、というものだった。一度射程圏内に捉えてしまえば互いの位置も距離さえも関係なく、対象の背後から頸に鋏を当てた状態で出現することができる。無論髪だけでなく、そのまま鋏を閉じれば頸を断ち切ることができる。


 そして顎女と叶の双方が気付いていないことではあったが、殻烏の"先読み"が起こらなかったのもこの〈非理結因〉という恩頼の特殊性が故であった。発動し、「断髪」するという結果が確定するまではその過程が存在せず、"先読み"することができない。鋏を持った顎女が殻烏の背後に出現してから初めて"先読み"が発動し、頸に触れるまでのわずかな時間でなんとか殻烏は鋏を回避することができた。


 再び鋏を向けられ、殻烏の体が僅かに強張るのを顎女は感じた。それだけで顎女は勝利を確信する。恐怖とは未知から生まれるもの、そして未知なるものに人間は命を晒すことができない――それこそが、人間という存在に100年以上も寄り添い、捨てられ、恨みを募らせた顎女の得た答えだった。

 そのはずなのに。


 ちり、と肌を焼くような違和感。それが殻烏から放たれた殺気であると気付いた時、すでにその拳の間合いへと捉えられていた。


――なぜ。


 その視線に迷いはない。その踏込みに躊躇いはない。その疾走はしる拳に容赦はない。放たれた一撃に打ち貫かれる寸前、顎女の喉は意思よりも先に言葉を紡いでいた。

「キ――キリィ!」

 焦りとともに必勝を齎す言葉を吐き出し、瞬時に顎女の姿が殻烏の背後へと移動する。先程は薄皮一枚を切り裂いたのみに留まったが、今度はその頸を斬り落とす――そう思って鋏を持つ手に力を込めた時。衝撃とともに視界の上下が反転した。何が起こったか理解する前に体が地面へと叩き付けられる。続いて視界を埋める勢いで振り下ろされた殻烏の踵を、一瞬遅ければ頭蓋が西瓜の如く粉々に砕かれていたであろうギリギリのタイミングで回避する。

 顎女は避けた勢いのまま距離を空け、殻烏へと対峙した。

「……分からなければ攻めるのみ、と思ってやってみましたが。今のでだいたい分かりました」

 顎女の頭を捉えて振り抜いた裏拳を構え直しながら、殻烏が語りかけた。

「背後においた裏拳へ綺麗に当たってくれた位置――最初に後ろを取った時のあなたの位置と私との間合いが、全く同じだったようですね。もっとも背後実際に見えていた訳ではないので、あくまで体感ですが」


 ――だから、どうした。


 顎女は内心で毒づく。今のは偶然に決まっている、もっと慎重にやれば……


「自分では制御できない速さで移動したのかとも思いましたが、それにしては『全く同じ』というのは不可解です。これは推論ですが――あなたの恩頼は『相手の真後ろ、決まった位置に出現する』というものではないでしょうか」


――恩頼は及ぼす効果が限定的であるほど強力になる。

 叶は、かつて彌月から聞いた言葉を脳裏に思い浮かべる。効果が限定的、つまり「相手の背後の決まった位置に出現する」という限定的な効果であるからこそ、顎女の恩頼は「瞬時に相手の背後を取る」という強力なものとなっているのではないか。

 顎女は答えず、ただギチギチと不快な音を立て続けている。が、別に叶とて答えが欲しかった訳ではない。これは謂わば、「お前の手札を知っている」という警告であった。


「最後の忠告です。仮面を外し、神威顕装を解除して下さい」

「それが分かれば――に勝てるってのかよ、アバズレがァ!」


 再び顎女が鋏を構えるのを見て、殻烏の足元が爆ぜた。駆け出した勢いで砕けた地面を撒き散らしながら、殻烏は顎女を目掛け一直線に疾走はしる。その拳が届くより先に顎女は絶叫した。


「その頸に別れを告げな――キリィ!!!」


 叫びに反応し、恩頼を発動して背後に出現するであろう顎女を狙って殻烏が背面蹴りを放つ――が、空気を抉る勢いの足刀が空振りする。背後には誰もいなかった。


(かかったな、アホ女が!)


 顎女は叫んだだけで、恩頼を発動させていなかった。本来切り札である恩頼をブラフとした、一度限りの裏技。空振り、無防備となった殻烏の頸を狙って顎女は鋏を構え――


「残念ですが、通りません」


 蹴りを放った勢いに乗り、殻烏がさらに体を捩る。その視線は今まさに自身を狙う顎女へと向けられていた。


は読めているんです」


 殻烏の"先読み"で見通せなかったのは、顎女の恩頼〈非理結因・断髪〉のみ。ただの囮としてしまえばその限りではなく、顎女は自ら唯一の勝機を手放していた。

 罠に掛けたつもりが、掛かっていたのは自分だった――なぜそのような状況に陥ったのか顎女には分かろうはずもなく。ただできることは、予定通り頸を狙って鋏を開くことだけであった。殻烏が頭一つ分身を沈め、鋏は空しくその頭上を過ぎる。

 一撃目――蹴りで深く抉れた顎女の胸部に殻烏の肘撃ちが突き刺さり、背中が破裂し砕けた血塗れの骨格が露出する。ごぼり、と顎の間から吐血し、今度こそ顎女は絶命した。


(……やった、んだ。私は)


 手に残った感触を反芻しながら、叶は地面に倒れ伏した顎女に目を向ける。その体は墨のような液体へと変化し、地面へと染み込んだ。あの猿咬徒――水沢という男の末路、そして茜の最期を看取った記憶が嫌でも呼び起こされた。

 やがて後には、顎女の卑神憑きであったのであろう女の姿が残された。手には昆虫を模して作られたような仮面と――


(これは……鋏?)


 顎女が持っていたものに比べると随分小さく普通の形をしているが、随分古いものだというのは分かる。それ以外は何の変哲もない。


(とにかく、この人をこのままにはしておけない。どこかに運んで警察か、病院かに連絡しないと)


 本当は神祇院外局にでも連絡すればいいのだろうが、生憎九朗達からは連絡先等を教わってはいない。こんなことになるなら聞いておけばよかった、と内心叶が毒づいた時だった。


「……う~ん、ん……?」


 その声は、うつ伏せになっていた卑神憑きからだった。

(意識が、ある……⁉)

 茜達の最期とは決定的に違うその末路に気を取られ、顔を上げた卑神憑きと目が合う。互いに状況が呑み込めず二人は硬直し――


「――バ、化け物ォ⁉」


 周囲にの悲鳴が響き渡った。



「卑神だった時の、記憶がない?」

「仰る通りでございます……」

 殻烏――叶の前で土下座の姿勢を保ったまま、男はそう答えた。

「とにかく顔を上げて下さい、脚も痛くないですか? 立ってもらっていいですから」

「では、お言葉に甘えて……」

 男はよろよろと立ち上がる。体のラインが出づらい秋物のワンピース、肩には若草色のストール、肩から背中へと流れる亜麻色の髪にはゆるくウェーブがかかっている。どこにでもいる、何の変哲もない見た目だった――女性であれば、だが。

「それで、あなたは一体何を……?」

 そう問い直す叶に、男は後頭部をかきながら答えた。

「実は私、女装が趣味でして」

「趣味、ですか」

 お仕事で女装をされているのではないんですね、としか言いようがない叶だったが、とりあえず男の喋るに任せることにする。

「仕事のストレスが溜まると気晴らしに、絶対知り合いがいないような場所まで出かけてはトイレで着替えて街を出歩いていまして……。新和市は色んな方がいるので、私のような者でも目立たないからお気に入りの場所なんです」

「……まぁ、言われてみれば」

 それで気が晴れるのか?と思わないでもないが、いちいち疑問を差し挟むと話が進まない気がした叶はその点に関し口を噤んだ。確かに都心部と近いからだろう、新和市には年齢も人種も問わずさまざまな人々がいる。男の言うように明らかに女装をしている者も、よく見かける訳ではないがいないではない。

「それで今日も気晴らしに女装をして駅前をぶらついていたんですが、学生さんに笑われた気がして――」

 確かに彼は、どんな格好をしていようが明らかに男だ。何というか、詳しくない叶から見ても全体的にいない感じがする。

(化粧とかのせいかなぁ……)

「笑われたり、揶揄われたりなんていうのはよくあることなんですが。今日はたまたまそれが気になって。モヤモヤしたまま路地裏を歩いていたら――それが、目に入りまして」

 それ、と言いながら男が指さしたのは、先ほどの古びた鋏であった。

「古そうな鋏だなと、そう思いながら拾い上げたところから」

「……記憶がない、と」

「仰る通りです」

 であれば、最初に逃がした青年がその「学生さん」なのだろうか。

(……本当かなぁ)

 叶は内心首をかしげながら鋏を拾い上げる。これをそのまま大きくし、形を多少凶悪にすれば顎女が手にしていた鋏とそっくりだった。男に対する疑念は晴れないが、しかし卑神が手にしていた武器が神威顕装を解除した後も残っていた例は記憶にない。

(……って言っても、私も別に詳しくはないんだけれど)

 鋏は今や何の変哲もない、錆びたただの鋏であった。その刃は途中から大きく歪んでいるが、それ以外は何もおかしな点はない。傍らに落ちていた仮面は、九朗達が卑神になる際に顔へ被せるものと同質に見える。

「改めて尋ねますけれど、この仮面を誰かから受け取ったりはしましたか?」

「いえ、初めて見るものです」

「……金子という男性や、八雲という女性に心当たりは?」

「名前を聞いたこともありません。ここ最近は家族と職場以外で会話をした記憶もないです」

 となると、いよいよ手詰まりとなった。

(八雲さん達と無関係の卑神憑き……? いや、いなくはないんだろうけれど)

 むしろ叶自身もなのだが、このタイミングで新たな卑神が新和町に現れたことと八雲達が全くの無関係だとも思えなかった。押し黙ってしまった殻烏に、男がおずおずと話しかける。

「ところで、私は一体どうしたらいいんでしょう……」

「体のラインが出にくい服を選ぶのはどうでしょう。喉仏が見えないようハイネックなものもいいとは聞きましたが」

「いえ、女装の話ではなく」

「……そうですよね」

(何を言っているんだ、私は――)

 つい生返事で余計なことを言ってしまう。

「幸い今回は誰も傷付けることはなかったようですが、であれば私にあなたをどうこうすることはできません。とりあえずこの仮面と鋏は預からせてもらいますが」

「えぇ、それはもう」

 しかし預かったところで、特にどうこうできるものではない。いっそ神祇院外局とやらに無理矢理押し付けてしまおうか、と考えながら鋏と仮面を改めた――その時だった。


 ずしゃり、と背後から聞こえた足音に、殻烏と男は同時に振り返る。


「……甲冑?」


 それは新たな異形だったが、叶の語尾に疑問符が付いたのは理由があった。

 甲冑らしき人型――少なくとも兜らしきものを備えた頭部と、具足を纏った四肢を備えてはいた――は多少歪であはあるものの、シルエット自体は人間のそれであった。しかし甲冑に付属しているものは雑多な器物……悪し様に言えば「がらくた」である。特に目立つのは手に携えた長い棒と縄、甲冑でいえば大袖にあたる肩部分に備わった数枚の大皿。そして踵には金属製の何かが嵌っており、その足音を一際大きく響かせる要因となっている。

「お知り合いですか……?」

「あのような格好をする人に覚えはありません」

 男の疑問を即座に否定しながら、叶は殻烏の目を通して鎧武者(推定)を観察する。器物に目を取られたが、よくよく見ると器物たちの芯となっている甲冑にも違和感を覚えた。彼女自身そう詳しくはないのだが、器物以外にもただの甲冑と比べて「余計な部品」が多いように思える。そもそも人間がただ甲冑を纏っただけにしては、手足の長さや体格が一回り大きいような気がする。

(まるで、人間以外の何かと戦うためにあつらえたみたい……)

「ど、どうしましょう?」

「おじさんは私の後ろへ、まだ――」

 何者かも分からない、と言いかけたその時。視界から鎧武者が消える。へ、と背後の男が気の抜けた声を漏らした時、殻烏の腕が弾かれたように跳ね上がり盾を構えた。一瞬遅れて周囲に響く、けたたましい金属音。

「なッ……!」

 盾に激突していたのは、鎧武者の蹴り足であった。盾の向こうでその踵がジェットエンジンのように炎を上げている。

「ひぃッ!」

「絶対にそこを動かないで!」

 再び悲鳴を上げる男を背後にしながら、内心叶は戦慄を覚えていた。

(今の動き、"先読み"がなければ対応できなかった……!)

 恩頼による、ある種裏技のような顎女とは事情が異なる。"先読み"を以てしても反応し切れない鎧武者の動き――その速度自体が、殻烏の近くを超えていることを意味していた。

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