第12話 新和市付喪神絵巻①

「私――キレイ?」


 自慢ではないが、あまり女性の顔にはこだわらない方だと思っている。女性は見た目よりハートだ、などと父は常日頃から声高に口にしており、その度に母は「何よ、それって私の見目が麗しくないってこと?」等と茶々を入れていた。

 まぁ……実際に彼女がいたことはないのだが。とにかく女性の見た目にどうこう言うつもりはない。ないのだが。


「ねぇ、私――キレイ?」


 目の前でそう繰り返されても、何の返答もできずにいた。何か言おうとして舌が口内で空回る。声になる前に息が喉から抜け出、ひ、と引き攣った音を立てる。


「ねぇ……キレイ?」


 目の前のそれは、人ですらなかった。黒く大きな複眼、昆虫か甲殻類のような硬質が覆う体躯。顔面には口の代わりに開閉する顎のような器官が備わり、声を出すたびに擦れてギチギチと音を立てた。

 本当に虫かカニであれば何かの見間違いとでも思えたであろう。しかし目の前にいるのは、自分よりも遥かに大きい。動物園で一度見た羆が、ちょうどこれくらいの大きさだっただろうか。


「キレイでしょ? ねぇ……」


 なぜ、こうなった。

 確か友達と駅前を歩いていて、に目を取られた気がする。それが何だったかはもう思い出せないが、気付いたらこの路地裏にいた。目の前にはこの異形、他には誰もいない。

 この街はしばらく前からずっと、水に浮いた泡のように浮ついている。きっかけはあの、ビルの屋上から陽炎のように光が立ち昇った日……


「キレイかって――訊いてんだろうがァァァ!」


 ひぃ、とようやく悲鳴らしき声が絞り出た。しかし足はまるで自分のものではないかのように動かず、その場に尻餅をつく。股間に冷たいものが流れたが、失禁したとして誰が咎められようか。

 異形が何かを取り出す。それは、鋏だった。もし刃の部分が人の胴体ほどもあるものを鋏というのであれば、だが。

 ところどころに錆の浮いた鋏がぎたぎたと震える。ざきん、とそれが目の前で開かれた。無駄と分かっていながらも、思わず腕で顔を覆い――


「……あれ?」


 自分の命を収穫せんと鋏が閉じられるかと思ったが、その瞬間はいくら待てども来ない。恐る恐る顔を覆う手をどけてみると、目に入ったのは黒い影だった。

 いや、影ではない。黒一色に染まった何かの背中。新たな異形の姿だった。だが先ほどまで対峙していた異形に比べると、新たなそれの姿形には均整さが見て取れた。人型ではあるものの、猛禽類のようなしなやかさと鋭さを兼ね備えた体躯。それが自分を庇うように、両手で鋏を阻んでいた。

「走って!」

 黒い異形が叫ぶ。その声が自分に向けられたものだと気付くのに、ほんのひと時の猶予が必要だった。

「逃げろって言ってるんですよ!」

 再び自分の頬を叩いた声で、ようやく足に力が戻る。がくがくと膝を震わせながらもなんとか立ち上がり、異形らに背を向けて駆け出した。


(……それにしても、今の声)


 恐怖に苛まれる心の片隅で、そんな考えが浮かぶ。


(女の子、だったよな?)



 逃げ出す男の足音が遠ざかるのを聞き届け、新たな黒い異形――殻烏は目の前の異形に蹴りを叩き込んだ。ぐぅ、と鈍い呻き声を上げながら異形が距離を空ける。

(まさかとは思ったけど、まだこの街に卑神がいたなんて……!)

 八雲、そして九朗達が姿を消してから約半年。新和市では卑神に起因すると思しき不可解な事件が一時期なくなっていたものの、最近は再び疑わしいものが幾つか発生していた。無論「疑わしい」だけでは卑神が関わっていると断定はできないが――

(実際に見ると、疑いようはないか)

 叶は殻烏の目を通し、改めて眼前の偉業を見る。鋭利な顎と、昆虫じみた無機質な容貌。後頭部からは野放図に伸びたざんばらの髪が覗いている。裾のほつれた貫頭衣からは細い手足がむきだしになっているが、見た目通りひ弱だとは思わない方がいいと叶は判断した。人の胴体を用意に両断できそうな巨大な鋏を軽々と把持していることも、それを裏付けている。


「ねぇ」

 異形――顎女がか細い声で呟く。叶は返答せず僅かに身構えた。

「あなたは……どう思う? 私、キレイ?」

 そういえば、鋏女はそんなことを男に尋ねていたなと叶は思い返す。卑神の姿で綺麗も何もないとは考えたが、答えに窮していると再び顎女は口、ではなく顎を開く。

「ねぇ、キレイかって訊いてんのよ」

 気付けば女の手にする鋏が、かたかたと音を立てている。過剰に力がこもるのは、苛立ちからだろうか。

「……美醜の判断は人によって差異があると思いますが」

 苛立ちを見せた顎女に、つい叶は返答してしまう。

「自分が『綺麗』だと信じる姿形をしているのなら、それでいいのではないでしょうか」

 その声が届いたのか、断続的に金属音を立てていた鋏がぴたりと静止する。ほっとした叶は言葉を続けた。

「仮面を外して、『卑神』を解除して下さい。そうすれば悪いようには、いや私にそんな権限はないんですけれど。とにかく――」

「……じゃねぇよ」

 上手く聞き取れず、叶が「はい?」と聞き返した時。顎女の絶叫が周囲に響いた。「その場しのぎなんか言ってんじゃねぇよ! そんなモン聞きたかぁねぇんだよ、このクソブスが!」

「す、すみません何かゴメンなさい⁉」

 決して誤魔化したつもりはなく叶の嘘偽りない言葉だったが、顎女は錆びの浮いた凶器を振り上げて襲い掛かる。殻烏は僅かなバックステップで間合いから逃れて躱すが、それは顎女にとって予想通りの動きだった。鋏が女の影に隠れた瞬間、その留め金を外す。殻烏の死角で巨大な鋏は二振りの刃へと分かれ、二条の軌跡を描いて迫った。一条は頸、一条は足。あえて大振りの一撃目すらブラフとし、予測ができない変化の攻撃は殻烏へと迫り――


「失礼な物言いをしたことは、謝ります」

「なッ……!」

 驚愕の声を上げる顎女。弧を描いて走った二振りの刃、それを握る手元を殻烏が押さえていた。刃が加速し切る前にその間合いへ今度はあえて踏み込む、死角で行われた攻撃の変化すら予測する殻烏の"先読み"に依るものだった。


「ただ……卑神を使って誰かを傷付けるのであれば」


 逃れようとする顎女だったが、鋏を握る手は万力の如き力で掴まれている。眼前の殻烏の体躯は己と大して違いはない。卑神の強さは単純な外見に左右されないとはいえ、女性的な外観のどこからそれほどの力が湧き出しているのか。顎女はその時、ようやく己が対峙しているのは同じ卑神――人智を超えた存在であると理解した。

 ぐ、とくぐもった声が顎女から漏れ、その体が弾き飛んだ。人であれば肺がある位置に、殻烏の回し蹴り踵によって穴が深々と穿たれている。


「私が赦しません。あなたを裁きます」


――傲慢だね。


(そう、私は傲慢だ)

 あの時の八雲の声が叶の中でリフレインする。

 叶の目の前で「御」を砕かれた卑神は二柱。片方は昏睡状態となり、そして片方は命を落としている。人に人を裁く権利はない、それは法だけが持つ権能であり、人はその代行者に留まるべきだ。

(それでも、私がやる。私にしかできないのであれば)

 蹲る顎女に止めを刺すべく、殻烏は歩を進めたその時。顎女が再び立ち上がった。

 穿たれた穴からは砕けた骨や臓腑が覗いているものの、致命傷――卑神の核である「御」には至っていないのだろう。顔を上げたその瞳からは表情が読み取れないが、こちらに未だ敵意を抱いているのは確かだろう。殻烏が拳を構えるのに応じ、顎女も鋏を眼前へと掲げる。


「き、キリ――」

 怨嗟の声か、断末魔か。突如として顎女が漏らした声を警戒し、殻烏が足を止める

「……きり?」


「――キリキリキリキリキリキリキリキリキリィ!」


(これは――恩頼みたまのふゆを使う気⁉)


 恩頼。卑神に与えられたただ一つの切りワイルドカード。卑神が神足り得る、人智を超越した奇跡、まさに御霊みたまふゆ。突如として響く顎女がただの奇声ではなく、恩頼のに殻烏の行動が止まり、そのひと時が命取りとなった。

 顎女の顔面へ、鋏もろとも砕かんと直突きを放つ殻烏。一切の容赦も手加減もないその一撃は間違いなく異形を行動不能にするであろう――ただし、当たればの話である。


「……なっ⁉」


 驚愕の声を上げたのは、捉えたはずの顔面が霞の如く掻き消えていたからである。

 一瞬前にそこにいたはずの顎女は、まるで最初から存在していなかったかのように消えていた。一体どこへ、と視線を巡らせる前に感じたのは脊髄に氷柱を突っ込まれたかのような悪寒。


「……切ル!」


 殻烏の背後、顎女の構える錆の浮いた大鋏が、その頸を目掛けて閉じられた。

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