第10話 聞け、くちなわの声

「茜ちゃん!」

 ビルの屋上に叶の叫び声が響く。〈不知火〉の直撃を受け、上半身のほとんどが抉り取られていた業陰へと叶は駆け寄った。傷は「御」にも及んでいたのであろう、業陰の体は墨のように漆黒へ染まり、次の瞬間地面へと飛び散る。残されたのは茜の姿。それが床へと倒れる寸前に叶が抱き止めた。

 だが叶の呼びかけに茜が応じることはない。だらりと茜の腕が垂れ下がるのを見て、分かっていた帰結ではありながら彌月は目を逸らさずにはいられなかった。

 傍らに立つ凄門とて無事ではなかった。業陰の〈落錐〉は直撃こそしなかったものの、胸部を覆っていた甲冑は一部が砕けて血が滴っている。また短時間で高い出力の恩頼を連発したため、彌月に一部を請け負わせたとしても精神への負荷が重い。九朗は面を外して凄門の神威顕装を解こうとした、その時。

「零落神名帳――〈野衾〉!」

 凄門が刃を振るい、腕から直刀へと伝っていた血が剣先を伝って飛ぶ。血は空中で硬化して弧状の刃となり――

「残念、バレちゃった」

 殺気とともに飛来した血刃を、まるでひらひらと飛ぶ蝶を捕まえるかのように摘み取る白魚のような手。

「八雲……!」

「宴もたけなわ、って感じかな?」

 怒気を孕んだ声でその名を呼ばれても、少女の姿をした怪異は涼しい顔のままで歩み寄った。その背後にいるのはスラックス姿の優男。直接会うのは初めてだが、九朗はそれが金子という名前の男だとよく知っていた。

「今さら何をしに来た……!」

「今さら? まさか、本番はこれからだよ」

 血刃を放り投げながら八雲は振り返ることもなく「金子」と呼び掛ける。それが合図だったのだろう、彼はサコッシュから仮面を取り出すと額へと押し戴く。

「その通り、本番はこれからなんだよ――堂売僧どうまいす!」

 金子の輪郭が歪み、その姿が新たな異形へと変化する。襤褸のような僧衣と袈裟を纏った直立する齧歯類、それが金子の卑神「堂売僧」の姿だった。

 もし九朗が一対一でこの堂売僧と対峙していた場合、彼は他の卑神よりも脅威度は低いと断じていただろう。この街で戦ってきた卑神たちのうち、散婆娑羅と業陰は人から大きく外れた姿をしており、傾向としてそういう形態の卑神は強敵である。理由は単純、人間は基本的に自分と大きく異なる形のモノと戦闘する経験がないからだ。大型バスの大きさほどもある毛虫や飛行が可能な哺乳類など、その最たる例である。

 それに引き換え堂売僧は、大きさも形状も人間とさほど違いはない。が、問題は数である。

「……恩頼か」

「僕は複製リプリケイションって呼んでいるけどね」

 業陰の体の成れの果てである黒い色が染み込んだ床を中心にして、堂売僧を小型にしたような齧歯類の獣が等間隔に並んでいた。その数十六体。一体一体は脅威ではないが、一斉に襲いかかってきた場合彌月たちを守れるか定かではない。

「分かるかい? 複製だよ、ただの分身なんかじゃない。全く同じなんだ」

 そのうちの一体が、金子と同じ声で話し始める。

「この全てが本体である堂売僧と同様に『御』を備えている」

「僕を倒したければ、この全員の『御』を同時に破壊するしかない」

『それが――君にできるかな?』

 獣たちは次々に話し始めた、最後の一言は十六人全員によるサラウンドだ。

 直刀を構え直すが、金子の言葉が真実であれば倒す方法はない。ハッタリだという可能性もあるが、その可能性を差し引いても業陰との激戦を終えた後、しかも八雲が控えているという状況は絶望的だと九朗には思えた。

「さぁ――八雲様、御下命を! 今ならコイツら低学歴を如何様にでも始末してみせます!」

「うん、ありがと。でもそれはいいかな? ……動かないでね」

「へっ?」

 ずるり、ぼとん。

 そんな異音とともに堂売僧の――金子の視界が揺れる。気付けば夜空を仰いでいた。いや、天を仰ぐことしかできなかった。続いて目に入ったのは己の胴体……その頭部があるべき場所には、何もなかった。

「んなっ……⁉」

 九朗たちには何が起こったのかよく見えていた。周囲を取り囲んだ堂売僧の上半身が全く当時に、まるで最初から繋がっていなかったかのように細切れとなって落ちたのだ。ただ分かったのは「何が」起こったかというのみで、「なぜ」起こったのかはまるで分からない。

「私ね、君にはけっこう期待してたんだ」

 未だ自分の身に何が起きたのか分からない堂売僧の横へ――正確には堂売僧の生首の横へと、八雲がしゃがんで話しかける。まだ「御」は破壊されていないのであろう、堂売僧の神威顕装が解除されることはない。しかし首が繋がっていない以上は、体を動かすこともできない。堂売僧はまさに手も足も出ないまま絶句することしかできなかった。

「リプリ……何だっけ。まぁ君がどう呼ぶかなんてどうでもいいんだけどさ。すっごく面白いよ、あの忌々しい村でさえそんなことができた卑神は何十年かに一柱ってところかな。でも、君は駄目。ほんっと〜に駄目」

 八雲は立ち上がると、堂売僧の首に下駄を履いたその足を乗せた。まるで毬を転がすかのようにぐりぐりと弄ぶ。

「そんな凄い恩頼があっても、君がやったことってば出歯亀くらいだもの。肝心なところは全部手下みたいな子たちにやらせてさ、せっかく目を掛けてあげたのに」

 八雲が手を上げた途端、まだ立ったままの堂売僧全てが異音を立てる。それは目で見えないほどの細い糸が堂売僧の胴体を締め上げる音だった。彼女は誰も気付かないうちに堂売僧の体へ糸を巻き付け、その頸部を締め上げることで首を同時に落としてみせたのだ。

「だから、せめてこういう使い方がいいかなぁ……って」

「やめッ――!」

 肺が繋がっていないため、気管支を絞り潰すような声しか出なかった。それが堂売僧の――金子の発した最後の言葉となった。

 ばしゃり、と。そのような音を立てて十六体の獣たちの胴体が寸分のズレもなく弾ける。今度は間違いなく「御」が破壊されたのであろう。纏っていた襤褸と見分けがつかないほどに潰された堂売僧の体が先程の業陰と同様に地面へ広がる染みとなり、その上に意識を失った金子が倒れた。

「これでよし。九朗、お待たせ!」

「今度はなんのつもりだ」

 直刀を構え直し、凄門が八雲へとその切っ先を向ける。

「なんのつもり、って?」

「とぼけるな。朱田茜を『祟り』にして、あの金子とかいう男をけしかけたと思ったら自分の手で縊り殺して。何がしたいんだ、お前は!」

 凄門の放つ殺気に、その対象でない彌月でさえ底冷えする心地だった。だがそれを向けられた八雲は、はにかむような、牙を剝くような満面の笑顔で応える。

「気付かない? ねぇ、本当に分からないの?」

 とんとん、と音を立てて八雲の下駄を履いた足が床を蹴る。何が、と言いかけた九朗は、己の足元を見てようやく気付いた。

(地面が、黒いまま?)

 床を濡らすように広がる黒い染みは、卑神――業陰と堂売僧――のいわば亡骸の証だ。それらは物理的に存在する訳ではなく、通常なら床であろうが土であろうが染み込むようにしてすぐに消える。だが今度は、業陰と堂売僧の成れの果てのいずれも未だに残ったままなのだ。

「……彌月、離れろ!」

 叫びながら凄門が叶と茜の体を抱えると、足元の黒い色から飛び退く。八雲も慌ててまだまともな色の残っている床の上へと逃れた。理由はない、だがこれは異常な事態だ。そして、八雲が何の考えもなくこの事態を引き起こすとは思えなかった。

「待ちきれなくてそのまま開いちゃうところだったよ。それじゃあ――」

 風が吹き、凄門たちの肌を撫でる。何もおかしいことではない、そこに空気があれば風が起こることは当然だからだ。しかし。

御戸開みとびらきといこうか」

 その風が、地面に広がった黒い染みから吹いているとあれば。間違いなく異常と言っても差支えないだろう。

「これは……何⁉」

 彌月が染みを見て叫ぶ。否、それはもうただの黒い染みではない。

「『御』を破壊された卑神の体は根國底國ねのくにそこのくにへと押し流される。みんな知ってるよね」

 まるで教え子に諭す教師のように、八雲が言う。その眼下に広がる黒色は最早平面ではなく、奥行きを持った穴となっていた。穴の中に広がっているのは彼らがいるビルの中見ではなく、ただただ暗い闇である。

「今、この場所は『祟り』という大き過ぎる卑神を流そうとしているところだったの。そこに無理矢理新しい卑神と、卑神もどき十六体を流そうとすれば、穴――いや、扉のが外れてしまったのよ」

「そんなことをして何になる、開いている間に余計なモノでも放り込むつもりか⁉」

「まさか。やんごとなき場所に不作法をするほど私は無粋じゃないよ。ただ……」

 その時だった。九朗も彌月も、そして押し黙ったままの叶も全く同時に穴――否、扉を見る。

「聞こえたみたいだね。心音が」

 言葉を発することができない。本能がそれを拒否している。まるで目の前の猛獣を刺激したくないかのように、体が動くとを拒んでいる。

 何か、濃密な気配が扉から漂っていた。今にも雪崩が起きそうな山の麓にいる……そんな漠然とした、しかしとんでもないことが起こりそうな気配。

「これ以上何かを送る必要なんてないよ。あちらがお越し下さるというのなら、私たちはただ待っていればいいの」

 ただ黒いだけだった扉の中に一つの色が混じる。その内側を煌々と照らす、赤い炎の光。

 どん、と黒い穴……八雲曰く「扉」が揺れ動く。ビル全体が振動し、どこかで衝撃を感知した警報機が作動したのかけたたましい電子音が聞こえる。まさか発信源がビルの屋上とは誰も夢にも思わないだろう。

「この街はただでさえ短期間で卑神を送り過ぎた。絶対に開かない扉が何度もノックされているんだもん、外がどうなっているか気になるのは当然だよね」

 何かが昇って来る。何か――とてつもなく大きく、禍々しいものが。この街に果てしない災いを齎すものが。

 とてつもなく大きな何かが扉に激突し、生まれた亀裂から炎が噴き出す。「扉」の真上に横たわっていた金子の体が炎に炙られ、一瞬で炭化した。今や扉は内側からの圧力に耐えきれず悲鳴を上げてる。それほどまでに大きく、猛々しいものが扉のすぐそこまで来ているのだ。

 亀裂が一際大きくなり、扉が音を立てて砕け散る。扉はいつの間にか最初の大きさを超え、ビルの屋上のほとんどを覆うほどに広がっていた。

「さぁ、伏して皆で拝み奉りましょう。これが神代かみよに謳われた古き神、国を――世界を焼き滅ぼす『くちなわ』だよ」

 ついに災厄が顔を覗かせる。いや、それはもう「覗かせる」などというささやかな表現には留まらなかった。扉の周囲を突き破り、先ほど凄門が放ったよりも強い勢いで、そしてビルそのものよりも高く炎が吹きあがる。

 それは、炎ではなかった。

 炎は吠えない――それには牙の備わった口があった。

 炎は睨まない――それには九朗たちを捉える瞳があった。

 炎には首がない――それは鎌首をもたげ、見上げる凄門や八雲を睥睨した。



 東京都千代田区の外れ、古びたビルが立ち並ぶ一角。その一棟の玄関に「内務省神祇院外局」と墨書された看板が掲げられていた。一見ただのビルであったが、多少なりとも知識を備えた者であればそこにあらゆる「人払い」の工夫が施されていることに気付けたであろう。そこには物理的、呪術的、その他自然・超自然を問わず、罷り間違っても理由なくば立ち入ることができないよう細心の注意が払われていた。

 そのビル内、リノリウム張りの廊下を早足で歩く背広姿の初老の男が一人。傍らには彼の秘書であろうか、歩調を合わせ同じ速度で書類の束を抱えた女性が付き従っている。

「反応はいつから?」

「『余震』は五分ほど前から断続的に。そちらは『祟り』のものかと思われますが――」

「十津川君達と連絡は?」

「定時連絡以降は何も。先程から何度も試みていますが応答はありません」

 二人はエレベーターに乗り込り、女性の方が操作盤の下に備わった鍵穴付きの蓋を開錠する。そして中から現れた無地のボタン数種類を一定の順番で押し込んだ。動き出したエレベーターは、地上しか書かれていないビルの階数表示を無視して地下へと潜行する。

 凡そ30メートルも降りたところでエレベーターの扉が開いた。その向こうに広がっていたのはビルの外観に似つかわしくない、板張りの大広間。そこではスーツ姿、あるいは白衣白袴、あるいは巫女装束、あるいは山伏など統一感のないさまざまな格好の者達が慌ただしく走り回っている。男は彼らに目もくれず広間の中心に据えられたものへと歩み寄った。

 それは、数畳ほどもある巨大な日本地図であった。地図の上には鎖で天井から繋がれた金属製の振子が設置されている。

 何も知らずにその大広間を訪れた者ならば、「なぜこんな所に日本地図が?」と疑問に思うだろう。地図には土地それぞれの霊地で採取した石が埋め込まれている。石の種類は関係ない、翡翠、瑪瑙、あるいはただの白石。その濃淡によって床に日本列島が描かれていた。

 個々の石は採取された霊地・霊脈と繋がっており、各地における霊的異常――卑神や、それに類する超常現象――の発生を感知すると、天井から地図の上に吊るされた八つの振子へと伝える。地図の上で揺れる振子は何も異常がなければただ真円を描いているが、もし何か起こったとあれば磁石で引き寄せられるかのように円は歪み、異常が強ければ発生源のある方へと引き寄せられる仕組みになっていた。

 今、その振子全てが一点へと引き寄せられている。最も遠い位置、地図でいえば沖縄の上へと吊るされた振子は重力に逆らい、ちょうど45度ほどの角度を付けて固まっていた。

「降神しているとでもいうのか。卑神ではなく、真の神が……」

「あるいは」

 男の言葉に重ねるようにして、彼の背後にいた女性が言葉を紡ぐ。

「地の底より、この国を揺るがすものが」



 新和市に聳える最も高く太いビル、その頂上から「くちなわ」は首を覗かせていた。もし卑神を見ることのできる者が街にいたのならば、まるでビルが途中から炎を纏って曲がりくねっているように誤認したかもしれない。

 しかし。たとえ卑神を視認できなくとも、「くちなわ」というあまりに強い存在感は全く別の自然現象として人々の目に映った。

「……何、アレ」

 最初に気付いたのは学校帰りの少年たちだった。すでに日は落ち、空には夜の帳が降りている。降りていたはずなのに。

 釣られて見上げた少年の連れは目撃した、ビルの上から陽炎のように赤い光が立ち昇っているのを。彼らは光がまるで意思を持っているかのように身じろぎしたのは見えたが、それがビルの上にいる者たちを見下ろす動きであることには気付かなかった。


 彌月は驚愕していた。その「くちなわ」の姿にではない。「くちなわ」がかつて、殻烏と糸で繋がった時に見たものと同じだったからだ。

(なんで、アレが今ここに⁉ もしあれと同じなら――扉の下にあと七本も首があるってこと⁉)

 視線を向けると、茜の亡骸を抱いたままの叶は「くちなわ」を見上げて硬直していた。それが「くちなわ」という存在自体に怯えているのか、それとも彌月と同様「くちなわ」の姿に見覚えがあるか今は分からない。

 「くちなわ」が再び吼える。「くちなわ」にとってはただの威嚇だったのかもしれない。だが巨体による咆哮は、全身から吹きあがる炎と相まって物理的な破壊力を伴い彌月たちを襲った。

「伏せていろ!」

 二人の前に凄門が立ち塞がり、衝撃を受け止めた凄門の全身が軋んだ。

「……大丈夫⁉」

「俺のことは気にしなくていい――おい、何のつもりだ!」

 炎で照らされながら「くちなわ」を見上げていた八雲に九朗が叫ぶ。

「何って?」

「とぼけるな、こんなものを呼び出しておいて何が目的だ! この街を焼き払うつもりか⁉」

「まさか、そんなつもりないよ。呼べそうだったから呼んだだけ」

「……はぁ⁉」

 あまりにも軽い言葉に、九朗は彌月と揃って絶句する。

「『降神』……っていっても、この場合は下から引っ張り上げたようなものだからってのもおかしいか。とにかく降神する方法のアイディアはあったけれど、実際にできるかどうかは分からなかったからね。予行演習はいつかしてみたかったんだけれど、そうしたら茜ちゃんが『祟り』になりそうだったし、金子っていう丁度いい駒もあったし、だから、出来心で」

「出来心⁉」

 思わず鸚鵡返しに繰り返した九朗だったが、すぐに思い直す。八雲これはこういう存在なのだ、人の姿をしていても、その倫理観はまるで違う。人命を何とも思わず使い捨て、磨り潰し、その血で描いた道を進み、気まぐれでその道を捨てる。

 これは、そういう化け物なのだ。

「まぁ、残念だけど扉はすぐ閉じるよ。このまま開いてくれていれば『くちなわ』が全部出て、それこそ本当にこの御代を丸ごと焼いてくれるんだけれど。『沼矛』だってポンコツじゃないしね」

 八雲の言葉が全て把握できなくとも、「くちなわ」がこのまま首を出し続けられる訳ではないことだけは理解できた。

「ただ、いつ扉が閉じるかは私にも分からないんだよね。それまで大人しくしてくれる訳もないし」

 その言葉が引き金になろうはずもないが。「くちなわ」が咆哮とともに突進した。向かう先にいた凄門は光を放つ直刀を構え、激突。

「ぐぁっ……⁉」

 彌月が呻き声を上げる。それは「くちなわ」の衝撃だけではなく、再び凄門が〈不知火〉を発動させたことによる精神負荷に起因するものだった。

「彌月、大丈夫か⁉」

「……アンタも私のことは気にしなくていいから、遠慮せず全部使いなさい!」

 そう言いながらも、彌月は九朗が一切手加減などしていないことは分かっている。対峙するのはこれまでの卑神――「祟り」となった業陰業陰でさえ――との死闘が児戯に思えるほどの存在。九朗と彌月が持ち合わせる全てを賭けても、勝機などどこにもない。業陰との戦闘がなく、凄門が万全であったとしても何の違いも見いだせないだろう。

(それでも、今はこうするしか――!)

「零落神名帳・〈火車〉!」

 一つでさえ多大な負担となる累祀かさねまつりての併用。その強烈な精神負荷に、彌月はこれが今際の際だというのに意識が飛びそうになる。質量を増した凄門の足がビルの床に食い込み、上乗せされた膂力と〈不知火〉を纏った直刀で「くちなわ」の首をを跳ね上げた。しかし九朗には有効な打撃を与えられた手応えとも思えず、「くちなわ」の動きはただの気紛れにも感じられる。

「彌月、ヤツの根元を見ろ」

 九朗が背後へと話しかける。言われた通りに視線を向けた彌月の目に映ったのは、軋むような音を立てながら蠢動する「くちなわ」の胴体だった。「扉」の周囲に走っていた亀裂も徐々に塞がり始めている。

「さっきより『扉』が狭くなっている。恐らくだが向こう側から顔を出していられる時間にも限界があるんだろう」

「……それ、希望的観測が混じってない?」

「否定はできんが、今は分が悪くともそれに賭けるしかない」

 凄門が直刀を肩に担ぎ、身をわずかに沈める。

「悪いがもう一度無理をさせる。ありったけの余力で〈不知火〉を奴に打ち込むから、後は御崎叶を連れてここから跳べ。彼女を連れて着地するだけの余力は残す」

「ちょっと、正気⁉」

「全員助かる都合のいい方法はない、迷ってる時間は――⁉」

 その時「くちなわ」が再び雄叫びを上げる。突進してくる巨大な顎に対し抗するように直刀を構え――

「ちょっと失礼いたしますね」

 燃える巨体が轟音とともに逸れ、凄門たちの真横を通過する。戦車が鼻先を通過したような衝撃。「くちなわ」は再び鎌首をもたげたが、今度は自分の突進を妨害した存在――八雲を警戒しているのか、こちらを見下ろしたまま仕掛けてはこない。その元凶が凄門達を振り返り、声を弾ませた。

「ねぇ、さっきからのそれ……恩頼の精神負荷を分散させているの?」

 質問は理解できても、その意図を把握しかねた九朗たちは押し黙ったまま睨み返す。その視線を無邪気に笑顔で受け流して八雲は続けた。

「じゃあ私にも分けてみてよ、それならあの『くちなわ』にも通じるかも!」

 ぞくり、と。背筋を冷たいものが這ったかのように彌月が身震いする。その瞬間だけ、彼女は目の前に「くちなわ」がいることも、その横っ面を殴り飛ばした八雲がいることも忘れ、自分たちを庇うように立ちはだかる凄門を恐れた。

「何を、言っている」

 耳に届いたその言葉。知っている声のはずなのに、その声を発する表情が想像できない。いっそ九朗ではなく、今身に纏っている凄門そのものが発した声であればまだ納得できたかもしれない。

「私なら彌月よりも大きな精神負荷にも耐えられるよ。『凄門』自身の出力にもよるけれど、さっきの〈不知火〉だってもっと――」

「黙れ」

 凄門が直刀の切っ先を八雲へと向ける。八雲以上の脅威が控えているはずなのに、敵意も、殺意も、害意も今は一片の偏りもなく彼女へと注がれていた。

「この刃に、〈零落神名帳〉に染み付いているのは、今までお前がけしかけ――俺が殺してきた卑神の! 卑神憑き達の恩頼だ!」

 怒号を涼しい顔で受け流す八雲の視線が、凄門の後ろに控える二人へと向けられる。

「それを振るうためにお前の力を借りるくらいなら、あの蛇を斬る前にお前の首を斬り落とす」

「へぇ? 後ろの二人が死ぬかもしれないのに? そんなに私を殺したい?」

「知りたいなら試してみろ、生首だけになってもまだそのニヤけ面を保てるのか」

「……すみません、その話」

 今にも殺し合い始めそうな二人の会話に割って入る声があった。

「私が引き受けます」

「叶さん⁉」

 今まで押し黙ったまま茜の亡骸を抱いていた彼女へと、彌月が驚愕の声を上げながら振り返る。

「その代わり、九朗さん」

 未だ八雲へと直刀の切っ先を向けたままの凄門へ、叶は言葉を投げかける。

「生き残れたらあなたと……ちゃんと話をさせて下さい。今度は私を置いて行かずに」

 叶の声に応えずしばし直刀を構えたままの凄門だったが、やがて溜め息とともにその刃を降ろす。

「そっか、叶ちゃんを選ぶんだね」

 八雲は唇を尖らせ、自分を睨みながらも構えを解いた凄門を見て呟く。

「不愉快な言い方はやめろ。元々お前を選ぶつもりなどない」

「いいもん。二人で仲良くしてれば?」

 九朗の反論などまるで聞こえないかのように、八雲は歩き出すとビルの淵へ立つ。そしてくるりと反転した。

「じゃあ――九朗は死なないように頑張って。叶ちゃんもまた会おうね」

 そのままふわりと飛び上がり、ちょっとした段差を飛び越えるかのようにビルから身を躍らせた。

「勿体ぶった退場をして……どうせその辺から見ているんだろうが」

 吐き捨てるように呟く九朗だったが、凄門は直刀を構え直す。八雲が姿を消したからか、「くちなわ」が再びこちらに狙いを定めるかのように身を起こしたからだ。

「彌月さん、『糸』を私にもお願いします」

「……分かった」

 躊躇いながらも彌月がこめかみに着けた糸から、叶の脳に精神負荷が流れ込む。ふらつく足元に力をこめて体を支える叶の視界で、凄門の構える直刀に〈不知火〉の光が再び灯った。それに応じるが如く「くちなわ」が身をしならせる、力を溜めていることが見て取れた。

「一発勝負だ、駄目だと思ったらさっきも言ったが――」

「私は、ここを動きません」

 九朗の言葉を、短く強い言葉がかき消した。

「そして九朗さんも、約束したなら無事に全員で帰れるように頑張って下さい」

「頑張れって……」

「腹を括りなさい。あんたは叶ちゃんと約束したんだから」

 激しく、雄々しい咆哮を「くちなわ」が上げる。ビルが激しく揺れ、上階のガラスが一斉に割れて地面に破片が降り注いだ。のたうつ「くちなわ」の根元へ視線を向けながら九朗が言う。

「ヤツの根元、『扉』はもう限界なんだろう。それまで凌ぐぞ」

「門限が来れば大人しく帰ってくれる、ってタマでもなさそうだけどね」

 その「限界」が来るまでに残った力を全てぶつけるつもりなのだろう、「くちなわ」が深く身を沈める。

「……行ってくる」

「ちゃんと帰って来なさいよ」

 歩を進め、間合いを詰める凄門。その背中に何か言葉をかけようとした叶だったが、唇が動く前に凄門は駆け出していた。


 「くちなわ」が顎を開く。そのまま噛み砕くつもりか、あるいは呑み込むつもりか。直進すれば顎へ飛び込むこととなり、下手に避ければ身に纏う炎に焼かれる。

「行くなら……そこだ!」

 そのまま直進するでもなく、さりとて積極的に避けるでもなく。凄門は軽く跳躍する。宙へ浮いたその体を目掛けて「くちなわ」が突進した。

「おォらッ!」

 裂帛の気合とともに、「くちなわ」の鼻先へと〈不知火〉を纏った直刀が叩き込まれる。光を纏った刃が「くちなわ」の表皮に食い込み、わずかな傷を付けた。反射的に凄門を跳ねのけようと「くちなわ」が顔を跳ね上げ、口腔が露わになる。

「――貰った!」

 炎で焦がされることも顧みずに凄門が「くちなわ」へと手を掛け、閉じられる前の口腔へと飛び込む。

(やはり、燃えているのは表皮だけか!)

 八雲が横面を殴打した時、間近で見えたのは炎が一切見えない「くちなわ」の口内だった。よもや自分の炎で火傷をすることはあっても、を喰らって無傷ではないと九朗は踏む。例え希望的観測であろうと、九朗はそう決めた。

「中からも炙ってやる、遠慮せず持っていけ!」

 大上段へ掲げた直刀に残る全ての力を注ぎ込む。〈不知火〉の光が直刀からあふれ出し、宙に巨大な光の刃を形成した。

 口内の凄門を振り落とそうとしたのか、あるいは噛み砕こうとしたのか。大きく身を捩らせた「くちなわ」だったが――

「遅いんだよ、蛇野郎!」

 噴き上がる光の全てが「くちなわ」へと叩き付けられる。先程の咆哮よりも激しい衝撃がビルを中心に放出され、立ち昇った激しい光が天を焦がした。


「……叶さん、大丈夫?」

「はい、何とか……」

 光で目が眩んではいたが、彌月が衝撃から庇ってくれたのだと叶は理解した。次第に目が慣れ、二人がいる屋上の光景が焦点を結ぶ。

 「くちなわ」を背に凄門がこちらへと歩いてくる。そのすぐ横へ、どちゃりと音を立てて落下するものがあった。視線を向けると「くちなわ」の白濁した巨大な眼球と目が合う。叶が周囲を見渡すと、他にも無残に引き裂かれた大小さまざまな肉塊が目に付いた。大きいものだと大型自動車ほどの塊。それらはすぐに漆黒へと染まり、溶解して床へと染み込むように消えて行った。

 肉塊が落ちてきたであろう先を叶が見上げると、「くちなわ」は未だそこに屹立していた。しかしその頭部は丸ごと失われ、胴体の途中から巨木のような脊椎が露出している。死後硬直のようなものなのか、あるいは他の何かに起因するのか。「くちなわ」は頭部を失いながらも倒れることなく天を衝くように立っている。根元に開いた「扉」へ、その巨体はずるずると音を立てて沈み込んでいた。もうこちらに残る余力はないのだろう。だが、余力がないのは九朗も同じことだった。

「流石に、今回は限界だな」

 凄門を纏う九朗の精神は、押し寄せる負荷で今にも意識を失いそうなほど疲弊していた。脳が上手く働かず思考もまとまらない。彌月か、叶か、あるいはその両方か。何事か叫んでいるものの、ぼんやりとした脳が声を言葉だと認識できない。とりあえず二人へ近付こうと歩を進め――


「九朗さん、後ろ!」


 その声が何を意味するか理解する前に感じたのは、背後からの衝撃。何が起こったかなど、わざわざ振り返って確かめる必要もなかった。衝撃の原因が凄門の体を捻り、締め上げる。

「こいつ、まだ――!」

 血に塗れて斑模様になった象牙色の、節を備えた巨大な物体。それは筋肉を喪失しても未だに動き続ける「くちなわ」の脊椎だった。

 振りほどこうと身を捩らせる凄門だったが、却って鉤爪のような肋骨を備えた背骨が体に食い込む。さらに「くちなわ」の体がじりじりと、凄門ごと「扉」へと近付いていた。

「やらせない!」

 叶が仮面を取り出し額へと押し戴く。しかし黒い面は彼女の手をすり抜け、床に跳ねて軽い音を立てた。限界を迎えた彼女の精神が脳貧血に似た症状を引き起こし、視界が黒く塗り潰される。

「彌月……!」

 倒れかけ叶の体を抱き止める彌月の耳へ、九朗の絞り出すような声が届いた。顔を挙げた視線の先では凄門の体は絡み付いた「くちなわ」の背骨とともに、「扉」の中へと沈んでいく。

「九朗!」

 叶を床へ座らせ、彌月は「扉」を目掛けて走り出す。しかし床に広がった「扉」はみるみるうちに小さくなり、そして凄門の体もすでに首元まで「扉」の中へと引き摺りこまれていた。それでも彌月は凄門を目掛けて手を伸ばし――

「来るな!」

 強い声に足を止めた彌月の視線の先。何かを言い返そうとした矢先に「扉」が波紋を残しながら消える。慌てて駆け寄った彌月だったが、足元はまるで最初から何もなかったかのように固い感触を返すだけだった。

「……九朗?」

 震える彼女の声に応える者は最早どこにもいない。膝から崩れ落ちた彌月が、凄門の消えた場所へ手を突く。炎の「くちなわ」も、凄門たち卑神もまるで最初からいなかったかの如く、街に降りた夜の帳は高楼にも等しく夜暗を落とした。

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