第9話 私の罪、あなたの罰③

「茜はやり遂げられたみたいだね、じゃあ次はあなたの番だよ。業陰」

 ビルの屋上から磐座会支部を見下ろす八雲。その瞳には映らずとも、今目の前の建物で一体どのような惨事が起こっているか彼女には十分伝わっていた。そして、その中心で歓喜の産声を上げる異形の存在も。

「ふふ、寝起きだっていうのに随分と元気みたい。じゃあ私も――」

 身を乗り出した瞬間、その姿が掻き消える。一瞬後に彼女のいた場所へと白刃が叩き付けられた。

「随分早いじゃない。九朗もあの子をお祝いに来たの?」

 刃を振り下ろしたのは、力士像の如き体躯を備えた異形――凄門。その黄金に輝く四つの瞳は、激しい怒りを込めて八雲を睨んだ。だが凄門は八雲から視線を外すと、ビルを飛び降り磐座会支部へと向かう。

「あら――目的はこっちかしら」

 八雲は指先から伸ばされた糸を見る。その糸は先程まで己と九朗、彌月、そして叶を繋ぎ、無遠慮に音や声を伝えていたものだ。今や糸は断ち切られ、空中を力なく漂っている。先程の凄門による斬撃で切り飛ばされたのであろう、しかし。

――お前は後で殺す。

 怒りの篭もった凄門の瞳が何よりも雄弁にそう語っていた。八雲はその眼光を思い出し身震いする。

「約束よ、絶対だよ。だから……ちゃんと後で殺しに来てね!」



 天井を突き破り、業陰は屋上へと躍り出た。街にはすでに夜の帳が降り、眼下には帰路を急ぐ人々が群れを成している。

 直前まで業陰の心を満たしていたのは、途方もない解放感だった。一体何に縛られていたのかは彼女にも分からない。だが今やどこへでも行ける、何でもできる、何にも阻まれることはない――そういう気分だったのに。遥か下を行き交う人々の大群を見た時、心が激しく揺り動かされた。

 業陰は、その感情の名前を知らない。己の心を満たしている感情が憎悪だということを知らない。だが、感情を発露する方法だけは分かっていた。

 全身に纏った血液が凝固し、金属が擦れるような音を立てながらその体をより鋭角な形状へと変形させる。爪は鋭く、体毛は固く、体毛は一本一本が針のように鋭く。元は腕から伸びた皮膜に過ぎなかったものが、れっきとした翼へと変化する。

 業陰は街の空へと身を躍らせた。眼下にはこちらに気付かない群衆、その一つに目を付ける。若い、子供と言ってもいいような女たち。皆が同じ衣に身を包み、和気藹々とした雰囲気で街を歩いている。

 彼女たちを見ていると、業陰の心は無性にかき乱される。その体に爪を突き立て、腹を裂き、臓物を撒き散らし、血の一滴残らず啜ってやればどんな気持ちになるだろう。楽しみだ、きっと愉快だろう。

 獰猛な笑みを浮かべながら、業陰は街を歩く女学生たちへ向けて急降下した。体毛に纏わせた血液が脚部に集中し、鎌のような鉤爪を形成する。彼女たちは頭上に自分たちの命を容易く奪いかねない脅威が迫っていても、まるで気付かない。業陰が鉤爪を振り上げたその時――

「おぉぉらッッ!」

 割り込んできた凄門が鉤爪を目掛け、直刀を振り上げる。けたたましい金属音とともに火花が飛び散り、刃と赤い爪とが交差した。業陰と凄門の姿は見えなくとも、彼らを中心に発生した衝撃は周囲へと伝わる。突発する衝撃に学生たちはその場に硬直していたが、すぐに悲鳴を上げその場を逃げ出した。だが彼らの無事に安堵する暇なとあるはずもなく業陰の一撃を受け止めた凄門はその威力に直刀を取り落としそうになっていた。

(この卑神、やはり前とは比べものにはならんか!)

 業陰との交戦経験は九朗にはなく、殻烏と戦っている姿を一度見たきりだ。だが直刀を通じて伝わる力は、明らかにその時を上回っている。分かっていたことだ、それでも九朗は一抹の期待を捨てきれなかった。

「朱田茜!」

 火花を散らす刃越しに、業陰が人であった時の名前を叫ぶ。しかし業陰の黒く光る瞳は僅かに揺れることさえなく、凄門を見据えていた。その体を動かしているのは、もう卑神憑き――茜ではない。

「……すまない」

 届くことのない懺悔、悔恨の念。業陰は高く吼えると、直刀ごと凄門を蹴りつけて空へ飛び上がった。反動で凄門は壁へと叩き付けられ、突如ひび割れた壁を見て周囲の人々が悲鳴を上げながら逃げ出す。

 直刀を八相に構え直し、凄門は空中で羽ばたく業陰を見上げる。その敵意は今こちらに向けられているが、いつ気紛れを起こして矛先を周囲の人々に再び向けるか知れたものではない。

(街中で使いたくはないが、なりふり構ってはいられん。勝負を決める――!)

「零落神名帳・たたら!」

 八双から大上段に構え直した直刀が炎を纏う。応じるように業陰が翼を広げた。


――来る!


 次に九朗が認識したのは、壁に叩き付けられる凄門の体だった。何が、と思う暇すらない。

(攻撃を受けた?)

 瞬時に全身を精査する。傷を受けてはいるが致命傷はない。が、安堵できる状況ではない。

(ヤツの恩頼は血液の操作だ、速度上昇等じゃない。ならば……!)

 致命傷に至らなかったのは、たまたま業陰の攻撃の軌道上に直刀があったという理由のみ。脊髄反射で防御はできた――できてはいたが、ほとんど幸運による結果だった。業陰の基礎的な速度はすでに、九朗の知覚できる上限を超えている。

 恩頼によるものではない。同じ卑神と言うのがおこがましいほど、単純に生物としてのが違うのだ。

 轟、と突風が巻き起こる。業陰の移動によってかき乱された空気が凄門の周囲で荒れ狂った。

「そこか!」

 ほとんど勘に依り凄門は背後を目掛けて直刀を振るう。手応えはあったが、浅い。炎を纏った刃は、血液が硬質化し鎧となった業陰の体表を薄く抉るだけに終わった。

 その刃を搔い潜り、業陰が地面を滑るようにして接近。先程より速度に慣れたためか今度は目で追えた、だが刃を振り抜いた姿勢の凄門に成す術はない。

 再び激しい衝撃。思考を揺さぶられ一瞬ブラックアウトした九朗が次に認識したのは、立ち並ぶビルの屋上だった。業陰は両足の鉤爪で凄門の体を掴み、上空へと飛翔していたのだ。

「この間合いなら!」

 足が地面に着いていない以上、武器を振るっても効果的な一撃は望めない。九朗が選んだのは刺突。凄門が高熱化し赤く輝く直刀を引き絞るように構えた時、業陰が突如急降下を始めた。切っ先がぶれて直刀は再び業陰の纏う血の鎧を浅く削る。

 業陰は凄門の体をビルに叩き付け、そのまま羽ばたきで加速して壁面をおろし金のようにして擦り続けながら地面へと叩き付けた。砕けたガラス片が頭上から無数に降り注ぎ、まだ逃げ遅れていた人々の悲鳴が周囲から上がる。業陰は再び鉤爪を振り上げ追撃の構えを取った。

「調子に――」

 上半身の発条だけで飛び上がり、着地した凄門の両足がアスファルトを砕いて沈む。零落神名帳・姑獲鳥うぶめによる質量増加の効果を右拳の一点に集中した。迫る鉤爪が僅かに食い込むが、致命傷ではない。鮮血を上げながら凄門が弓を引き絞るように拳を後ろへ構えた。

「乗るなッ!」

 渾身のカウンターと同時に周囲のアスファルトが宙へと舞う。その破片を突き抜けるように業陰の体が吹き飛んだ。

(手応えはあった、ヤツの動きもさっきよりは追えている。だが――)

 業陰は空中で翼を広げて滞空し、こちらを窺っている。警戒している証だ、今の一撃はダメージが通ったと見ていい。だからこそ、業陰が油断するという機会はもう望めない。

(浅い……!)

 凄門の恩頼「零落神名帳」は、他の卑神と違い森羅万象や現象の操作をすることではない。水氷操作も、炎熱操作も、能力の本質の一端でしかない。その多彩さは多くの卑神に対応できるという利便性の代償として、決定打に欠けるという一面があった。

 対する業陰は血を硬質化するという単純なものながら、こと戦闘における汎用性は十分であった。重ねて恩頼以外に飛翔が可能という機動性特性を備えている。

(決め手に欠けて、相性はこちらが明確に不利。どうする……⁉)

 しばし睨み合っていた二体の異形だったが、業陰が再度強く羽ばたき遥か上空へと飛んだことで中断される。地表から大きく距離を開けたため今すぐ人が襲われる心配はなさそうだが、だからといって状況が改善した訳ではない。柄にかかる手を緩めたその時。

「九朗!」

 彌月が、そして遅れて叶が駆け寄って来た。

「彼女は……茜さんは?」

は一時退いたようだが、祟りの性質上すぐに戻って来るだろう。ところで――」

 イントネーションを「業陰」で強めながら九朗は言った。

「御崎叶」

 意外にも初めて九朗に名前を呼ばれ、叶は姿勢を正した。

「君は……やれるのか」

「やります」

 黒く光る仮面を取り出し、叶は淀みなく言い切った。

「それで茜ちゃんを助けられるんですよね、前の……地面に潜るみたいに、あの業陰っていうのを倒せば茜ちゃんも――」

「助からない。もう朱田茜を救う術はない」

 え、という形で叶の唇が固まった。

「あそこにいるのは業陰、人を殺めることしか考えてない醜く哀れな化け物だ。『祟り』になった時点で卑神憑きはもう精神も肉体も卑神に取り込まれて死んでいる」

 淡々と語る凄門――九朗の声が叶の脳裏をすり抜けていく。否定しようとしても言葉が思い浮かばず、九朗だけが言葉を重ねる。

「本来は卑神の負った傷が卑神憑きに影響を与えることはないが、祟りは別だ。卑神と卑神憑きの精神と肉体とが深く結合している。祟りを殺せば彼女を人間として死なせてやれる、もう俺ができるのはそれだけだ」

 卑神の「御」を破壊された場合、卑神憑きは昏睡する。彼らを目覚めさせる技術は今のところないが――それはまだマシな方だった。祟りとなった卑神憑きが迎える末路は「死」しかない。生きている限り人を殺め続ける祟りは、「御」を破壊して止めるしか手立てがない。

 友達を殺すことができるのか。九朗は叶に対し、言外にそう問うていた。

「……やります」

 今度は九朗が固まる番だった。聞き間違いではないか。そう期待を込めて叶を見た。隣に立つ彌月も叶を凝視している。

「やります。それしか茜ちゃんを止める手段がないというのなら」

 仮面を持つ手がかすかに震えてはいる、唇も緊張しているのか戦慄いている。それでも彼女の目は、まっすぐに凄門を――九朗を見上げていた。

(あぁ、そうなんだな)

 九朗はその時になって、叶を理解した。

(この子は、子なんだ)

 思い返せば叶は、猿咬徒に対しても八雲に対しても、一歩も退くことはなかった。それは勇気や蛮勇ではない、「そうあるべきだ」という信念から来る、危うい意志の力。

「分かった」

「ちょっと、九朗⁉」

 声を上げる彌月を黙殺し、叶を見て頷く。

「じゃあ、私も神威顕装を……」

 面を額へ押し戴こうとした叶の手が止まり、「え?」と呆けた声が漏れる。それは彼女の未来予知にも等しい勘が察知したからだ。

 学生服を着た叶の胸に、凄門の直刀が突き立てられていた。

 直刀がするりと抜かれる。血は一滴も流れず、叶は痛みを感じない。だが……何か決定的なものを欠いたと、そういう感覚を得ていた。鞘に納めた直刀で鍔鳴りを立てながら九朗が語る。

「零落神名帳・ひだるは斬った相手を傷付けることはないが、その力を奪う。力とは体力や精神力を含み、そして君からは精神の力を奪った」

「何、を……」

 叶は自らの体を確かめる。九朗の言う通り傷はないが、頭に靄がかかったように思考が定まらない。面を持つ手にもどこか力が入りきらないのだ。

「卑神の神威顕装を為すには精神力が必要となる。今の君は殻烏となることができない」

「どうして――そんな!」

「……君が部外者だからだ」

 凄門は彌月を抱え上げ、その肩に担いだ。「ちょっと、待ちなさいよ!」と抗議の声を上げる彼女を黙殺し、叶へ背を向ける。

「もう一度言う。忘れるんだ、何もかも。卑神なんて異常な存在も、俺たちの事も。その仮面も――君が二度と着けることがないよう、願っている」

「ッ、そんな……今更……!」

 だん、と地面を強く蹴る音を立て、次の瞬間に凄門は姿を消した。業陰を追いかけたであろう二人の行く先を、叶は睨むように見上げていた。



「あんた、ちゃんと説明してあげるべきじゃないの?」

「『今から君の友達を殺すから置き去りにします』と言えばよかったか?」

「言うべきだわ」

 凄門の体が僅かに揺れる。巌のような背中に抗議の拳を彌月が当てたのだと、振り返らずとも分かった。

「そんなお為ごかしや出まかせより、よっぽどマシよ」

「……そうだな」

 ビルの屋上へ到着した凄門は空を見上げる。雲の隙間から星が覗く夜空に、翼を広げる異形が一つ。そこまで届く刃も、空を駆ける足も凄門にはない。

「それより、本当にやるのか」

「他に勝ち目のある方法があって?」

 沈黙で返した九朗を見て、「ほらやっぱり」と彌月は呆れるように言った。

「でも、お前にも負担が――」

「分かってるのよ、そんなことは」

 ひゅん、と彌月が振った指先から糸が伸びる。

「あんた一人を危ない目に遭わせるの、趣味じゃないのよ」

 無論その言葉が本心であるはずもないが、九朗は受け入れることにした。

「分かった……やってくれ」

 彌月は頷き、糸を凄門の体に付着させる。それを確認して凄門は大きく息を吐き、心を調えた。丹田に意識を向け、そこに内燃機関があるようにイメージする。

 恩頼、それもいつもより強い効果を発揮させようとする時、九朗は同様の方法を取る。今回はそれだけではない、全く異なる機関が寸分のぶれもなく同時に作動しているようなイメージ。凄門の中で二つの恩頼が発現する場所を得ようと暴れ回り、九朗の精神に過負荷という形を伴って現れる。

「……いくぞ」

 短い言葉に、彌月は首肯で応えた。



 これが自由か、と業陰は確かな実感を得ていた。

 空には彼女を阻むものは何一つなく、風だけが共に在る。冷たい空気も心地いい。ささやかな月の光も星の光も、ただただ愛おしく感じる。この世界に仲間も番いもなく孤独ではあれど、それで構わない。自分にそんなものはいらない。

 それに、地上は煩わしいだけだ。あそこにいると心がざわつく。蠢く人の群れもそうだが、何かもっと嫌なものたちがいた気がする……そう思い至った時、彼女の心を再び暗い感情が占めた。

 おかしい、間違っている。その感情がどこからわいてくるのかは分からないが、という衝動が彼女を再び揺らす。眼下に広がる街の人間を一人残らず鏖殺し、血を一滴残らず平らげて、次の街へと移るのだ。それを地上の果てまで繰り返せば、きっとこの心も晴れる。そうして再び空を羽ばたけば、今よりもっと自由を感じられる。その時ようやく、自分は本当の意味で自由になれる。


――やってしまおう、今すぐに。


 業陰が翼を広げて速度を落とし、街へ降下しようとした時。視界の隅に何かが見えた。何だ、と視線を向けた時に見えたのは、先ほど返討ちにしてやった卑神の姿。


――身の程を弁えないか。


 あれにはもう負ける気がしない。神格が違うのだ。あれは所詮卑神――卑しき神。対してこちらは……。


 そこまで思考が働いた時、業陰はようやく違和感を抱く。眼下のビルを次々と飛び移る卑神の姿、何かがおかしい。

 その理由に気付いた時、業陰は強く羽ばたき急降下を始めた。



「――来る!」

 ビルの屋上を蹴り、駆け、次々と飛び移って業陰を追う凄門。だがその速度は、これまでの凄門を遥かに凌駕していた。

 凄門の持つ恩頼〈零落神名帳〉は、条件を満たすことでさまざまな異能を後付けで獲得できるという破格の性能を持つ。本来一つの卑神につき一つの恩頼であるという思い込みを逆手に取った複数能力での不意打ちが、凄門の常套手段だった。

 その汎用性の反面、異能が及ぼす規模や範囲が小規模で決め手に欠けるという弱点を持っていた。炎や氷の太刀は単体では勝敗を決めるほどの力がない。その弱点を補うため、九朗は〈零落神名帳〉を応用した三つの〈相〉を用いていた。

 第一相が、短時間に連続して異なる恩頼を使用する〈続祀つづけまつりて〉。

 第二相が、同時に異なる恩頼を使用する〈合祀あはせまつりて〉。

 そして第三相が、同じ場所に異なる恩頼を発現させることで全く異なる効果を生み出す〈累祀かさねまつりて〉。

 だが異なる恩頼の連続・同時発現は九朗の精神に負荷をかける。第三相の〈累祀〉は成功率も不安定で、もし発現できたとしてもその効果はほとんど一瞬だった。その原因として九朗が推察していたのが「容量不足」である。

 卑神を精査する手段も方法もないため九朗の推察に過ぎないが、凄門の「容量」は獲得した様々な恩頼を記録することに大部分を割いている。そのため個々の恩頼が発現する力が他の卑神に比べると小規模なものに留まっており、また同時に発動したとしても「容量不足」により九朗の精神に著しい負担を強いていた。


 だが。今の凄門が実現している高速移動はまさにその〈累祀〉が一つ――〈火車かしゃ〉によるものだった。

 質量を操作する〈姑獲鳥〉で己の質量を限界まで軽減する。そして力を奪う〈饑〉を己に使用し、己の生命力を一度奪って体力に還元する。この二種類を同時に行う〈火車〉で、凄門はほとんど暴走ともいえる機動力を得ていた。

「大丈夫か⁉」

「気にせずブン回しなさい!」

 それを実現しているのが、凄門の肩に腰かけて体に縋りつくように掴まっている彌月だった。顔を強張らせているが、その原因は凄門が高速で動いていることだけではない。凄門の頭部と彌月の頭部との間に今、一本の蜘蛛の糸が渡されていた。その糸は淡く輝き、光が強くなる度に彌月は苦痛で顔を歪ませる。それは凄門の発生させる精神への負荷が、九朗だけではなく彌月にも流れ込んでいたためだ。

 殻烏との一戦の際、八雲が残していった糸を取り込んだ彌月の糸は強化された。それは糸が効果を及ぼす距離だけの話だけではなく、八雲に並ぶほどではいが音や振動といった物理的なもの以外にも作用するほどの伝導を可能にするというもの。糸が凄門から彌月へと〈零落神名帳〉が生む精神の負荷を伝えることにより、彼女は今や九朗の外付け容量として機能していた。これまで困難であった〈累祀〉の持続発動が可能となった凄門は、「祟り」となった業陰にも手が届き得る。

「跳ぶぞ!」

 九朗の声に返答はなく、繋がった糸から肯定の意思だけが伝わる。凄門は身を沈めると、彌月を抱いたままビルの屋上から跳躍。対する業陰はすでにこちらに気付き、腕から迸った血流を硬質化させて巨大な両刃剣を形成した。蛇のように波打つ巨大な長身は、西欧に存在する炎を意味する剣・フランベルジュを想起させる。

 業陰は器用に大剣を口で保持し、翼は広げたまま維持。飛行能力を持っているのに対し、あくまで跳躍しかできない凄門の軌道は放物線を描いている。

 業陰は己の勝利を確信した。馬鹿正直に正面から突っ込んでくる卑神の刃を避けるなど造作もない。躱した後に背後からでも、着地した後に頭上からでも好きなように弄ぶことができる。羽ばたいた業陰は凄門が振るうであろう刃の間合いからわずかに外へ位置すると、旋回して大剣を振るった。肩に縋りつく彌月の表情が硬直し――

「零落神名帳・姑獲鳥うぶめ!」

 放物線を描いていたはずの凄門の軌道がわずかに変化し、確実に凄門を捉えたはずの大剣が空を切る。〈姑獲鳥〉の効果によって凄門の質量が倍増し、その結果業陰の目算以上に下降する軌道へと変化していた。だが一撃を躱したのみ、空を飛ぶことのできる己の優位は揺らがない――業陰がそう考えた時。がくん、と高度を落とす。

 業陰の体が、下から何か重いものに引っ張られている。高度がみるみるうちに下がり、地表が近付いてきた。抗おうと翼を広げた時、異変の理由に気付く。胴体に結えられた極細の糸、その先にぶら下がるのは――

「お前も……墜ちろ!」

 大剣を躱した時か、と業陰はようやく気付いた。彌月は糸を付着させ、今や凄門がその糸で業陰の体を引き摺り下ろそうと体重を懸けている。業陰の飛翔能力では凄門の加重を支え切ることができなかった。凄門が糸を強く引き、糸の反動で再び業陰を目掛けて空を駆ける。白刃の光から逃れようと業陰が羽ばたくよりも早く、直刀が炎を纏った。

続祀つづけまつりてたたら!」

 先程よりも輝きを増した炎が夜空に眩い山吹色の剣閃を描き、血の装甲を纏った翼を深く抉り斬った。



 だん、と音を立てて凄門が彌月を抱えたまま着地する。二人が辿り着いたのは、新和市で最も高いビルの屋上だった。

「大丈夫か?」

「なんとか、ね。思ったよりキツいわ」

 屋上の床へと降りた彌月はよろめき、その腕を凄門が掴む。

「恩頼の精神負荷を肩代わりしながらの高速移動、ってのはもう無理かも。さっきみたいに〈火車〉で追いかけたりっていう芸当は難しいと思う。それに……」

 彌月が片手を上げると、その指先から途切れた糸が宙を漂う。

「茜さん……業陰に着けた糸も切られたわ」

「大丈夫だ、向こうも逃げる気はないだろう」

 凄門は天を仰ぐ。その視線の遥か先、夜空に翼を広げる一つの影。影は一直線に上昇を続けている。逃げているのではない、あれはだと九朗は知っている。次の一撃を最も効果的なものとするための助走。

 業陰を迎え撃つため、凄門は下段に直刀を構えた。

「離れていろ、次は死力で来るぞ」



 高く、どこまでも高く。遥か天を目指して業陰は羽ばたき続ける。比べるものなどどこにもない空では、己がどれほどの高度にいるのか検討もつかない。先ほどはあれほど心地よかった風も、美しく見えた星々も、今やただ寂寞を強調するだけの存在としか思えなかった。

 抉られた翼の傷は塞がったものの、それで何もかもが元通りになった訳ではない。眼下の街にはこの傷を付けた不愉快な卑神がいる。

 業陰は悟った、真の意味で自由になるためにはあれを殺さなければならない。自分を傷付ける者全てを皆殺しにしないと、自分はいつまでも元のまま――

 そこまで考え、業陰は思考を中断する。とは、一体何のことか。

 自分がこうなる前のことが思い出せない。どこで、何をして、どのような経緯でこの姿になったのか。何かとても不愉快な気分を味わったことだけは覚えているが、詳細を思い起こそうとしても靄がかかったように曖昧なのだ。

 だが、もうどうでもいい。今気にするべきなのは眼下にいるはずのあの卑神だ。赤黒い色をした体躯と、二本の角の下にある四つの金色に光る眼を備え、自分を追い詰めたあの卑神。あれを殺さなければ、いつまでも逃げ続けなければならない。あれこそが自分を追い詰める理不尽の象徴なのだと、業陰は確信した。


 高度3000メートル――その数値を正確に把握した訳ではないが、業陰は己の目的を果たすのに十分な高さに達したことを体感した。飛翔し続けた業陰は眼下を見据え、再度強く羽ばたく。今度は上昇するのではなく、一直線に下降。二度、三度と強く空気を翼で打ち、十分な速度を得ると鉤爪を下に向けた。

 そして業陰の体に変化が始まる。全身に纏っていた血液が脚部へと集中して硬質化し、一つの形を為す。それは長大な円錐形、西欧で用いられた騎槍ランスにも通じる、運動エネルギーをただただ貫通という破壊力に変換する形状。


――血河流アカラヒク・落錐。


 業陰が持ち得るなかで、最大の威力を発揮する形態。己を一振りの槍と為し、最大の硬度と最大の速度を以て相手に必殺を齎す恩頼。赤く輝く死の流星が、空を二つに断つが如く一直線に落下した。



 彌月が距離を取ったことを確認し、九朗は調息する。

 再びイメージするのは丹田の発動機。しかし今度は〈火車〉ではない。効果範囲を集中し、一撃の威力を高めなければ業陰の切り札には勝てないだろう。

 選択するのは〈鑪〉と〈蛟〉。炎熱と水冰の操作という対の恩頼が同時に発現して凄門の手にする直刀へと纏わり付き、熱せられた水分が白い煙となった。

 主となるのは〈鑪〉の炎、〈蛟〉はあくまでそれの補助だ。燃え盛る炎を凝縮し、刀身の刃先に添わせる。立体的な炎が刃先の直線に集中し、一本の線のようになった。九朗はさらに〈蛟〉を起動するが、水冰操作は目的ではない。過剰な熱で刀身自体が溶けないように冷却し、またその際に排される熱を〈鑪〉の炎に加えてさらに温度を上げる。炎の色が赤から黄、そして白色を経て青へと変化。加えて〈蛟〉により発生した水分が熱せられ、瞬時にプラズマと化して刀身を激しく輝かせた。


――累祀かさねまつりて不知火しらぬい


 凄門が足元にも及ばなかった殻烏を怯ませた白い刃。これが今、凄門の――九朗の持ち得る最大火力の一撃であった。


 凄門の頭部に着いた糸を経て、精神負荷が彌月に重く圧し掛かる。だが、これでもまだ本番ではない。今はまだ負荷を抑えるためのいわゆるアイドリング状態に過ぎず、最大稼働は業陰が落下する直前まで控える。

 それでも九朗は、負荷を受け持つ彌月を気遣う言葉すら口にできない。〈不知火〉の維持と、そして高速で落下しつつある業陰を刃の一振りで捉えるというタイミングの予測。その両方を同時に実現するため、九朗の脳が鈍痛を訴えるほどの精神負荷が発生していた。

 だが、〈不知火〉を解除することは一瞬たりとも罷りならなかった。頭上に広がる空を以て押し潰すような殺気が、九朗一人に注がれている。轟音とともに一直線で凄門へと襲い来る、赤い死。その落下速度は卑神という拡張された肉体を以てしても、直刀の間合いに入った瞬間を確実に狙って刃を振ることは叶わない。〈不知火〉を相手に当てるよりも早く凄門の「御」が貫かれる可能性の方が高いだろう。業陰が落下してくる己の体を囮として、守るように直刀を構えれば確実に〈不知火〉は当てられる。だがそれは凄門にも深刻な一撃が与えられることを意味していた。

 相対距離が1000メートルを切り、業陰は再び羽ばたいて加速する。その速度は時速500キロに達し、今や凄門に直撃するまで数秒を切った。


――やるしか、ないのか。


 ビルの屋上にその身を投げ出すかのように新たな影が現れたのはその時だった。背後で彌月が息を呑む。

「叶さん……⁉」

 影が着地した瞬間、輪郭が崩れて叶の姿へと戻る。叶が驚愕するのも無理はない、〈饑〉は確かに叶の力を奪っていた。わずかな時間でも神威顕装を実行するだけの余力などどこにも残っていない、そのはずなのに。殻烏の体を纏い、短時間とはいえ初めて己の意思で卑神の体を操って凄門たちのいる屋上へ辿り着いたのだ。

 最早立ち上がる力さえなく、しかし叶は顔を上げる。その鋭く、縋るような視線が凄門を見た。彼女との間に糸などなくとも、九朗には叶の葛藤が伝わる。茜を殺させたくない、しかし殺さなければ業陰は止められない。万全であったなら、叶は先程の言葉通りに迷いながらも九朗に加勢したであろう。今はただ見守ることしかできない歯がゆさが、彼女の心を満たしていた。

 そして、叶の存在が九朗に心の揺れを収めさせた。相討ちを狙った場合、万が一狙いが業陰の前に満身創痍の彌月と叶とを残すことになる。

 凄門は直刀を担ぐように構え直す。八相よりもさらに威力を求め、ほとんど刀身を隠すように背中へ背負った大上段。ただただ威力のみを求め、己の体を守ることを捨てて全身を相手の刃に晒すような構え。


――すまない。


 届くはずのない謝罪の念。これから命を奪うことに対する、何の意味も為さない言葉。だがその言葉とともに凄門の体が動いた。

 穂先と化した業陰の切っ先が触れる、まさしくその刹那。直刀を構えた凄門が左足を半歩引いて半身となる。業陰の狙いは正確無比、ただあまりに正確に過ぎたため、たったそれだけの動きで穂先は狙いを外れて凄門の面を浅く抉るのみに留まった。

 己の知覚を超えた速さで落下していた業陰は、凄門の動きに対応できない。しかし凄門の動きが少しでも早ければ軌道修正が可能であり、また遅ければそのまま「御」を砕き得た、ぎりぎりのタイミング。それを実現可能にしたのは凄門という卑神に備わった身体能力でも異能なく、ひとえに業陰の殺気を捉え続けた九朗の「読み」に尽きる。それは叶が持つ「先読み」とは異なり、これまで多くの卑神と対峙し続け、そして生き残ってきた九朗の積み上げた戦闘経験に依るものだった。

 そして凄門の持つ直刀が一時、激しい光を放つ。僅かに遅れて彌月をその脳が揺れるほどの精神負荷が襲い、同時に彼女は一柱の卑神が最期の時を迎えるに至ったことを知る。


「零落神名帳――累祀かさねまつりて不知火しらぬい!」


 天を裂く赤い光を迎え撃つ白い光がビルの屋上から放たれ、街は一瞬白夜が訪れたかのように照らされた。

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