第8話 私の罪、あなたの罰②

 殻烏――叶が凄門との戦闘の後に意識を失っていた頃。新和市内のネットカフェにおいて、息を潜める金子の姿があった。時刻はもう丑三つ時、他の客もほとんどが寝入っており店内はほとんど静まり返っている。

 だが金子の潜むブースの薄い壁を越え、隣室から男の高い鼾が響いていた。ちょうど頭部が二人のスペースを隔てる壁の近くにあるのだろう、不快な音に何度も睡眠を中断されて金子は一睡もできずに寝返りを打つ。その手にサコッシュが触れた。

 布越しに硬い感触が伝わる。中に入っているのは堂売僧――金子が卑神になるための仮面だ。

(……そうだ、どうして俺が他人のために我慢してやらなきゃいけない)

 体を起こし、サコッシュから齧歯類を思わせる獣を模した面を取り出す。

(殺してやればいい、どうせここにいる凡俗には何が起こったかなんて分かりはしないんだ)


 金子の生家は明治から続く議員の家系だ。過去に国会議員も輩出しており、彼の父親も現役の地方議員、兄はその秘書を務めている。彼は幼い頃から周囲の大人達に「代議士先生の坊ちゃん」と扱われ、その境遇は当たり前のものとして受け入れていた。もっとも周囲は彼自身ではなくその背後に見え隠れする父親に対してごまを擦っていたに過ぎなかったが、己はその境遇に見合うだけの人間なのだと過信して周囲を見下し、彼もゆくゆくは自分も父親の後を継ぐのだと信じて疑わなかった。

 輝かしい未来予想図にケチがついたのは大学生の頃。教育実習生として赴任した高校の生徒を伴って繁華街のホテルから出てきた所を巡回中の警察に呼び止められたことから、彼の人生は転落の一途を辿る。父親が示談金を出したのは息子を慮ってのことではなく、自分の経歴に泥を塗られまいとしたため。以降は父親の姓を名乗ることすら許されず、「金子」というのは母の旧姓だった。

 手切れ金として生活費の入ったキャッシュカードを渡された金子は、夜逃げするように郷里を離れ、大学を出た後は塾講師として糊口を凌いでいる。生徒からの評判は決して悪くなかったが、「坊ちゃん」と呼ばれていた頃思い描いていた人生とは遠く離れてしまった。あの頃に見下していた人間と同じ立場に甘んじることを、二十年以上の人生で築いていたプライドが許そうはずもなかった。

 彼に転機が訪れたのは、ヤケ酒の後に繁華街のゴミ捨て場で埋もれていた頃である。

(俺は選ばれた人間――いや、選ぶ側の人間なんだ)

 目障りならば殺せばいい、気に入らなければ殺せばいい。法とは人を縛るものであり、人を超えたものが縛られる必要はない。面を押し戴かんと額に近付ける。

「俺は地を這う犬じゃない、虎や龍のように――」

「その言葉、貴方に贈ったものではないんだけれど?」

 はっ、と顔を上げる直前、後頭部に固いものが当たる。それが何であるか理解する前に、金子の顔面はマットレスへと押し付けられた。鼻の奥に熱い感触がこみ上げる。

「随分と優雅そうじゃない。こんな所で何をしてるのかな、お前は」

「や――八雲様におかれましては、ご機嫌麗しく……」

 後頭部に食い込むのは下駄、頭上から降ってくるのは今一番聞きたくない声。顔を上げずとも分かる、金子はこの事態こそを恐れて己のマンションから離れて身を隠していたのだ。

「麗しい訳がないでしょ。せっかく増やした卑神憑きは消されるし、小間使いは行方をくらますし。あ、この小間使いってあなたのことね、分かる?」

 下駄が二度三度とねじられ、後頭部に食い込む。マットレスに鼻血が広がっていくのを感じながら、金子はただただ耐えていた。自分が選ぶ側になったなど勘違いにも甚だしい、少なくともこの人――人の形をした何かに比べれば、自分も周囲の有象無象の一つに過ぎないのだから。

 ふ、と頭に掛かっていた重みが軽くなる。安堵して顔を上げた途端、今度は金子の右手、面を持ったままのその手に下駄を履いた足が振り下ろされた。

「――ッッッ!」

「駄目じゃない、こんな夜に大声出したら。他のお客さんに迷惑だよ?」

 ぐりぐりと下駄が手の上を動き、悲鳴を漏らしそうになる口を金子は慌てて塞いだ。目の前にいるのは天災だ、気分を害せば自分など次の瞬間どうなるか分かったものではない。

「あの忌々しい村から持ち出した神酒をあなたに任せたのは何のため? 一人でも多く卑神憑きを増やすためでしょ? なのに生まれる卑神憑きといえば切った張ったが得意なだけの、どうでもいい子たちばかり。あの地面に沈む子はちょっと面白かったけれど……それだって九朗にどんどん始末されて、それであなたがやるべきなのはこんなところで油を売ること? ねぇ、貴方に期待した私が間違っていたのかな?」

 金子の顔が涙と血と、口角から漏れる泡で塗れる。なんとか口を開き「も、申し訳――」と言いかけた時、手の上から下駄の重みが引いた。

「まぁ、それももうすぐ終わり。そろそろ仕上げに入るわ」

「……では、いよいよ!」

 痛みも忘れて声を上げる金子を、八雲は人差し指を立てて制する。


「黄泉戸を開くのよ、全て根國底國ねのくにそこのくにへと押し流してしまいましょう」



「朱田さん、ですね」

 芝はベンチに座っていた男へ歩み寄ると、懐から取り出した警察手帳を示しながら話しかけた。

「職場の方に聞いてみたら、きっとここだろうって。お時間よろしいですか?」

「……お巡りさんの御厄介になるような心当たりはありませんが」

「私もそう思います。用があるのは私じゃないんですよ」

 要領を得ない芝の言葉に不信感を隠さない朱田だったが、芝は気にせず続けた。

「神祇院ってご存じです? 浮世離れしたお役所なんですが」

「神祇院?」

 鸚鵡返しに朱田は聞き返す。知らない名ではなかったが、役所といっても神事等を司る行政機関だ。自分には何の関係もないし、心当たりもない。

「あそこからあなたを匿ってほしいと依頼を受けましてね」

「私を? なぜ?」

 芝は肩をすくめて首を横に振る。

「それが私にも全っ然。とにかくあなたを丁重に保護するようにと。とはいえ、令状も何もないんで私はあくまでお願いしかできないんですが」

 ……ますます訳が分からない。朱田は立ち上がると、「お断りします」と芝の顔も見ず返答した。

「そろそろ仕事に戻らないといけないので。任意ですよね?」

「どうして最近、お家へ帰られないんです?」

 不意に投げかけられた言葉に、立ち去ろうとした朱田の足が止まる。

「職場で聞きましたよ。最近は安宿を転々としていらっしゃるとか」

 余計なことを、と内心で舌打ちを禁じ得なかった朱田だが芝の指摘は事実だった。沈黙を肯定と受け取ったのか、芝は話を続ける。

「きっかけは息子さん、ですか」

「……警察ってのはみんなあなたみたいに、デリカシーがないんですか?」

 朱田の声は怒気を孕んでいたが、芝はどこ吹く風という表情で続ける。

「息子さんのことはお気の毒だと思います。でも傷付いているのはあなただけではないでしょう、御家族と一緒にいるのが父親の役目ってもんじゃないんですか?」

 芝が閲覧した署の記録によれば、朱田家の長男・暁は数カ月前に交通事故で命を落としていた。不審な点はない、どこにでもある「不幸な事故」。残されたのは彼の他に母と姉が一人だ。

 慰霊の形は人それぞれだ、受け入れるのに時間がかかるというのなら理解できないでもない。それでも芝は、「夫」や「父」という立場に背を向け続けるかのような朱田の態度を理解したくはなかった。

 だから、その時。小刻みに震え出した朱田の肩を見て、彼が泣いていると思った。。くつくつと小さく漏れる声も、嗚咽なのだと。振り向いた彼は確かに涙を流していた、だが彼の口角は歪みながらも――笑っていた。

「家族? 家族ですって? お巡りさん、あの家にいるのが……私の家族だと?」

 本当に、心の底から芝の言葉が愉快だとでもいうように朱田は哄笑を抑えない。芝とてこの道三十年近いベテランだ、血生臭い現場などもう慣れたものだし、薬でハイになった男の相手なぞ何度こなしたか分からない。しかし、今目の前のどこにでもいるような中年の男に相対して、彼は気圧されてしまった。

「……家族じゃないなら、何だっていうんだ」

 絞り出すような芝の言葉に、ふつりと笑い声を止めて朱田が答えた。

。あの家には家族なんて、もうどこにもいないんですよ。お巡りさん」

 そして朱田は、立ち尽くす芝の前でいつまでも笑い続けた。



「――いい加減に、しろ……!」

 叶と彌月を拘束している糸がざわりと蠢く。見れば彌月の指から伸びた糸が、部屋中に張り巡らされた八雲の糸へと絡みついていた。彌月が一気に引くと拘束が緩む。

「叶さん、仮面を!」

 自由になった手で仮面を額へと押し戴こうとした叶の前に、涼やかな薄い光が割り込んだ。叶の喉元に突き付けられたのは、八雲の手から伸びる一振りの刃。ゆるく弧を描いた刀身は刀にも似ているが、柄は短く柄頭が蜷局を巻いた蛇のような形をしていた。

「いいのかな、叶ちゃん」

「……何が、ですか」

「その仮面が与えるのは人にとって過ぎたる力。あなたを呪うことはあっても、祝福することはないよ。殻烏だってそれを分かっているから、一度はあなたにその身を委ねなかったんじゃないかしら」

 隣で彌月が息を呑む。その手の力が弱まり、再び二人の体に糸が食い込んだ。

「今ならまだ、何もなかったことにして戻れるよ。卑神のことも、茜ちゃんのことも忘れて――」

「忘れたふりなんて、できません」

 糸で縛られた体が悲鳴を上げるが、叶は仮面を持つ手にこめた力を緩めることはない。刃に触れた首筋が薄く斬れ、赤い線の様に血が滲む。それでも叶は、仮面を構えた手を下げることはない。

「あなたが言うように、この力で後悔する時がきっと来る。それでも――もう知ってしまったんです。この世には私の知らない、あなたみたいな理不尽があって、それを理不尽を押し付けられている人がいる」

「……そうだね、理不尽だよね」

 応えた八雲の声に叶の心が一瞬揺れる。その響きが、今まさにこの街に混乱を巻き起こしている張本人とは思えない柔らかさに感じられたからだ。

 八雲はそんな動揺など露知らず、刀を降ろして血の滲む叶の首筋を撫でる。如何なる作用か、それだけで傷は跡形もなく消え去った。体を拘束する糸が緩み、叶は再び仮面を構える。しかし八雲の手が仮面ごと叶の手を掴む。間近で笑う彼女の瞳には先程感じた柔らかさなどどこにもない。冬の夜に浮かぶ月のような冷たさを湛えている。

「叶ちゃんが行こうとしているのは、きっと険しい道程だよ。これまで何人も叶ちゃんみたいな人を見てきたけれど、心を殺して道に殉じたせいで、最期はみーんな自分で自分の首を絞める結果になった。だから」


――叶ちゃんは、私のために最期まで折れないでね。


 窓ガラスが割れ、外から外気が吹き込む。二人を縛っていた糸も、そしてそこにいたはずの八雲の姿も掻き消えていた。窓際へ駆け寄った彌月だったが、すでに外にも窓下にも見当たらない。

「急いで九朗に連絡しないと。あの人は桁違いのろくでなしだけれど、今回は特別にまずい気がする。でも――」

「でも?」

 一際強く風が吹き込み、彌月の髪を乱す。夕焼けの光が叶からは逆光となり、仮面に隠された彌月の顔に濃い影が降りた。

「叶さんに、言っておかなければならないことがあるの。卑神憑きにおける最大の禁忌――『祟り』について」



 磐座会新和市支部ビル一階の受付で、唯山順子は欠伸を嚙み殺した。平日の夕刻、夜の部会に出席する信者はすでに講堂へと入ったはずだ。とはいえ他の職員がいつ来るとも限らない、順子は頬を叩いて気合いを入れ直した。

 順子の父親はこの支部の幹部である。大学を卒業しても暇を持て余している娘に、父から与えられたポジションがこの支部の職員だった。彼女自身はさほど強い信仰心を持ち合わせておらず、支部内の座談会や勉強会等の集会にはほとんど出席していない。そのことを父がどう考えているのか彼女には知る由もなかったが、堪忍袋の緒が切れたとしてもその時はその時だと開き直るつもりでいた。

 そんな順子だから、磐座会へ熱心に通う信者たちの気持ちに今一つ共感できなかった。

(特に、あの人なんか――)

 先ほど別の信者を押しのけるようにして、支部へと駆け込んできた女性。髪を振り乱し、息も絶え絶えで順子に掴み掛らんばかりの勢いで「支部長はどこ⁉」と叫んだその顔には、鬼気迫るものがあった。しかも通報してもいないのに何人か警察官らしき人間が姿を現し、彼女がひどく暴れたためパトカーに乗せられて警察署へと「保護」されたようだ。一体何事だろうか。

 確か朱田という女性で、よく子供を連れて支部に姿を現していた。集会にも熱心に出席していたが、ここ最近は子供連れではなく一人でいる姿を見ることが多い。

 他の職員が話しているのを聞いたが、彼女の過剰な勧誘活動については支部に苦情が何度か寄せられていた。主に子供の同級生の家族に対し、磐座会のパンフレットや書籍を押し付けては支部に来るようしつこく促していたらしい。とはいえ、その勧誘活動によって信者が多少増えたのも事実だ。磐座会ではやんわりと注意するに留め、彼女の活動を表立って咎めてはいないという。

(あれじゃあ子供たち、学校で肩身が狭いだろうなぁ……)

 ため息をつきながら受付へ向き直った時、自動ドアが音を立てて開いた。出迎えようと座り直した順子だったが、その目に入った姿を見て驚きを隠せなかった。そこに立っていたのは、先ほど駆け込んできた朱田の娘――茜。その姿が只事ではなかった。

「こんばんは……って、どうしたの!?」

 茜の頭部には血が滲んだ包帯が荒々しく巻かれている。身に着けている学生服にも数か所に血の乾いた跡があった。

「大丈夫です、それより支部長さんはいますか?」

「大丈夫って……病院はもう行ったの?」

「本当に気にしないで下さい、すぐに用は済みますので」

 訝しみながらも、順子は(自分で言うのなら、問題ないのか……?)と自分を納得させる。

「支部長ならまだ支部長室にいるんじゃないかな。部会は始まっていないし、それより――」

 彼女の母のことを告げようとした順子を素通りし、茜はエレベーターへと真っ直ぐ歩いていく。

「ねぇ、本当に大丈夫⁉」

 後ろから見て分かったが、包帯に付着した乾いた血らしき汚れは後頭部が著しかった。包帯も患部と思しき場所に当てられたガーゼも、ほとんど茶色く変色している。順子の声に振り向かず、茜はエレベーターに乗り込む。追いかけようとした順子の目前で扉は閉まり、エレベーターは静かな音を立てて上昇していった。



 最近駅前に出来たという高層マンション、最上階の廊下に九朗は立っていた。隣に立つマンションの管理人がスペアキーを片手に、その一室の扉を開く。

「詳しいことは監視カメラを見返さないと分からないけれど、最近金子さんの姿は見てない気がするねぇ」

 そう話しかける管理人を背に、九朗は室内へと踏み込む。彼の言葉通り、部屋にはしばらく帰宅した形跡がない。

「以前はよく色んなと並んで歩いているのを見たよ、ほとんど女の人だったけれど。……それにしても彼、お役所に目をつけられるようなことをしたの?」

「そこまでは、私も」

 好奇心が頭をもたげる管理人を適当にあしらいながら、九朗は部屋を見渡す。やや埃が残っているものの、それ以外は清潔な室内には白や単色を基調とした家具が整然と配置されていた。写真をそのまま物件情報誌に載せても違和感はないだろう。

「まぁ、管理人室にいるから終わったなら声かけてよ。神祇院の役人さんなら問題は起こさないだろうし」

 そんなはずはないだろう、と内心ぼやきながらも九朗は部屋を出ていく管理人を見送る。とはいえ、金子の足取りを追うのに役立ちそうな何かが見当たる予感もない。どうしたものかと思案した時、九朗の胸で携帯電話が震えた。慣れない手つきで取り出しながら、押し間違えないように通話ボタンを押す。

「……神祇院、十津川です」

『もしもし、芝だ』

 スピーカーから聞こえてきたのは、タバコで荒れた刑事の声。それだけでも彼の渋い表情が伝わってきそうだった。

「朱田夫妻の身柄はどうなりましたか」

 挨拶もなく本題へと入った九朗に対し、芝は深く深く長い溜息を吐いてから『……大変だった』と絞り出すように付け加えた。

『旦那の方は大人しいもんだったが、問題は嫁さんの方だな。たまたま巡回中の若いのが見つけたから職質をかけたんだが、大暴れだよ』

「……お手数をお掛けします」

』あんたに謝られたって仕方ないよ。何があったのか知らんがえらい剣幕でな、磐座会の支部長に会わなきゃならないって断固として任意同行に応じようとしなかった』

「それで、今はどこに?」

『署だよ。新人の巡査が怪我させられてな、公務執行妨害で引っ張った。割れた石でやられたんだが、まぁ軽い傷だよ。名誉の負傷にもならん』

「石?」

 そう言われ、九朗は彌月が侵入した朱田家の様子を思い出していた。水晶の原石やらがあったという話だが、それだろうか。

『磐座会ってのは信者に石を買わせるんだよ、家で拝ませる用に。……あぁ、そういうことか』

 何かを思い出したかのような雰囲気の芝に、「どうかしましたか」と九朗は続きの言葉を促す。

『自分なんかより娘を逮捕しろって何度か叫んでたんだが、ありゃあ娘が石を割っちまったのかもな』

 朱田家の娘――言葉通りであれば茜だろう。朱田家に茜の姉妹はいない。

『割れた石なんか持ち込んでどうするつもりだったんだろうな、拝んでもらえばくっつく訳でもなかろうし。信仰は自由だが、他人様に迷惑かけてまでやることかね』

「……分かりました。夫妻の確保、ありがとうございます」

『気にすんなよ、これが街の平和にどう繋がるのかはまるで分からんけれどな』

 芝の皮肉とともに通話が切れた電話を見つめた後、九朗は耳に指を当てる。そこから伸びる、常人には見えぬ細さの糸は遥か遠く――ホテルで叶とともにいる彌月へと繋がっていた。

「彌月、朱田家の件だが――」

 だが糸は九朗の呼びかけに対し、雑音のみを返す。本来この街程度の広さであれば、彌月の糸はほとんどタイムラグを生じず互いの声を伝えるはずだった。

「何があった、応答してくれ」

 不吉なものを感じながら九朗が駆け出そうとした時、糸はようやく反応する。その返答に九朗は思わず耳を疑った。

『聞こえたわ、九朗。……こっちにあの人が来た』

 「あの人」という言葉が何を指すのかなどという確認は、二人の間に不要だった。



『何があった、二人とも無事か!?』

「大丈夫。何もされて――ないことは、ないけれど」

 口ごもる彌月。とはいえ、突如現れた八雲がしたことといえば叶と話したことと、窓から姿を消したくらいだ。先日凄門を叩きのめしたことに比べれば些事といえた。

『……分かった、そっちは悩んでも仕方がない。それより朱田家の様子は』

 朱田、という言葉に彌月は叶を振り返る。叶に聞こえないよう声を抑え、彌月は返答した。

「何もないわ、ずっと無音のままよ」

 朱田家のアパートにはすでに彌月の糸が張られている。もし茜が帰宅した場合、その音や振動は糸を通じて彌月に伝わる、はずだった。

『何の音もしなかったのか、例えば石が割れるような』

「石?」

 彌月も先程の九朗と同様、自分が忍び込んだ際の光景を思い出す。確かに室内にはいくつも石があったが、それと何か関係があるのか。

「そんな音、全然気付かなかったけれど……どうかしたの?」

『さっき、茜の母親が警察に確保されたんだが――娘に石を割られたと叫んでいたらしい』

 それがどうかしたの、と彌月が続けようとした時。記憶のなかのアパートは確かに荒れていたが、割れた石などどこにも見当たらなかったと思い至る。

「じゃあ、茜さんが帰宅して石を割ったっていうの? でもそんな音……」

『聞こえたよ、ちゃんと。茜の頭がお母さんに割られる音もね』



 糸で繋がった二人が、全く同時に息を呑む。割り込んできた声――九朗でも彌月でもない声の主は、絶句している二人をよそに声を弾ませた。

『糸に頼り過ぎたよね、便利だとは私も思うけれど。この能力が誰に由来するのかを考えれば、警戒くらいはしてもよかったんじゃない?』

「……八雲!」

『九朗は元気? もう凄門の傷は治った? ……って、殴った私が言うのもおかしいよね』

 無遠慮に鼓膜を震わせる声が頭蓋を逆撫でする。怒りで脳髄が揺れるような錯覚に襲われたが、声は意に介さず続いた。

『私が何の用もなしに会いに行ったと思った? 誘ってくれたら喜んで会いに行くんだけど、まだちょっと恥ずかしくて……』

「まやかすな、化け物風情が!」

 金子の部屋を震わせるほどの怒声だったが、八雲は軽やかに笑う。

「いつからだ、どうやって……!」

『ずーっとだよ……って言いたいけれど。本当はこの前、あなたたちと久しぶりに会った時からだよ。二人の間に糸が見えたから私も付けちゃった、でも全然気付いてくれないんだもん。笑わないようガマンするのに苦労したよ』

『何のために……⁉』

 彌月の呻くような声に『もちろん、茜のためだよ』と八雲はあっさり返答した。

『放っておくと、二人ともあの子の邪魔をするでしょ?』

「お前はあの子を見捨てただろうが!」

『そういう厳しさも必要じゃない? ――あ、そうだ』

 糸から一瞬雑音が伝わり、続いて『え、これは……』と戸惑う声が聞こえる。

『やっほー、叶ちゃん。聞こえる? さっき会った時に叶ちゃんにも糸を付けてたんだ、これでみんなお喋りできるね』

「何がしたいんだ、お前は……!」


「何がしたい? 決まってるじゃない、これから産まれる『祟り』を、みんなでお祝いするの」

 市内に聳えるビルの屋上で、八雲は正面に建つ磐座会支部に視線を落とした。



 祟り、という単語が八雲の口から出た途端。叶は隣にいる彌月が絶句したのを感じた。

「……さっき彌月さんも言いかけてたんですけど、何なんですか。その『祟り』って」

『説明するところだったんだよね。もう、九朗のタイミングが悪いからこうなるんだよ』

 八雲の口調はまるで、何か簡単な家事を忘れたことを咎めるかのようだ。だが彌月の顔色がそれどころではないことを、何よりも雄弁に明確に物語っていた。

『卑神はね、本当は自分の意思を持っているの。でもから、彼らの意思は深い眠りに落ちている。その意思を持たない体を操るのがあなたたち卑神憑き。でも手順さえ踏めば彼らの意思を呼び覚ますことができる、どうすればいいと思う? あ、九朗と彌月は答えちゃダメよ』

 八雲に従うはずもなかろうが、二人とも応じることはない。叶は戸惑いながらも「卑神憑きが、死ぬとかですか」と答えた。

『惜しい! いいセン行ってるんだけどなぁ~、でも誰かの死がキッカケっていうのは当たってるよ!』

 女学生が友達とはしゃぐかのような明るい口調。人の死という言葉の重さに反して――むしろ八雲は声を弾ませた。

『正解はね、卑神で卑神憑きの肉親を殺すこと! 曲がりなりにも"神"だからね、彼らは穢れや不浄を嫌うの。特に肉親の死による穢れは最も重い穢れだからね、血が繋がっていれば親兄弟でも子供でもいいよ』

『だが、朱田茜の両親はもう確保している。ここに業陰が来るなら――』

 怒りと不愉快さとを隠さない九朗の声に『知ってるよ? だから九朗は金子の部屋を出て急いで警察署に向かったんだもんね』と八雲は平然と答えた。

『でもそれだけじゃないよ、あの子の肉親。というより、本当の父親はその人じゃないの』



 芝が朱田の両親を確保しているという警察署の前で、九朗は糸から耳へ伝わる八雲の声に言葉が詰まった。

「何を、言っている」

『これはみんなの罪なの。私と茜だけじゃない、判断を誤った九朗、警戒を怠った彌月、そして――何も知らなかった叶ちゃん』

 耳を傾けるべきではないのに、言葉が頭から離れない。

(誤った、何を?)

 茜、父親、祟り、九朗は頭の中でそれらの言葉を残響のように繰り返す。答えが出るはずもなく、しかしこれから起こることだけは痛いほどよく分かる。やめろ、と届くはずがないのに叫びかけた九朗に先んじて。

『だから、嚙み締めようね? 私たちの罰』



 磐座会の支部長室で、増沢は鏡に映った己の装束姿を見て舌打ちをした。白袴の上から纏った束帯の裾が乱れている。これでは帯を解いて一から着付けをやり直さなければならないが、もうあまり時間がない。

 今日の夜の部会は特別なものだった。月に一度の恩謝会――本部より下賜された「御石様」が奉納されている本殿の扉を開き、信者が一斉に日頃の感謝を石に伝える日だ。その先導は宗教法人磐座会の新和市支部長である自分が務めなければならない、束帯はそのための装束である。

 恩謝会の成功は信者からの喜捨、そして本部への上納金、引いては支部長である彼の評価にも繋がる。些細な失敗すら看過することはできず、そのためには裾の乱れですら気を抜くことはできない。だというのに。

 仕方なく増沢は内線の通話ボタンを押す。一人で着替えられる装束ではないので、誰か他の職員を呼んで手伝わせるしかない。……が、いつもならすぐに反応があるはずの電話は沈黙したままだ。二度、三度と苛立ちながらも通話ボタンを押すが、結果は変わらない。

「何だ、みんな出払っているのか?」

 そう口にしながらも、そんなはずがないことは十分分かっている。恩謝会という支部の行事を目前に事務室を空にするなど、あるはずがない。

「どうかされましたか、支部長さん」

 思わず声をかけられ、弾かれたように振り返る増沢。支部長室の扉、その前に一人の少女が立っていた。なぜか頭に包帯を巻いた、学生服姿の少女。母親に連れられて何度もその姿を支部内で見た。その名前を、忘れるはずはなかった。

「あぁ、茜さん。丁度いい所に。申し訳ないが着付けを手伝ってくれないかな、一人だと難しくて――」

 そう言いながら、増沢は疑問を抱かずにいられなかった。支部長室は支部の最上階、入るには職員の大勢いる事務室を通らなければいけない。信者でさえ無断では立ち入れない場所だ。

(それを、この子はどうやって……)

 彼の疑問をよそに、その背後へ回った茜は装束の帯に指をかける。茜の唇から笑い声が漏れた。

「こういうことすると、親子みたいですね」

「……どうだろう、私は子供がいないから分からないが」

 装束の帯が緩み、その間に増沢は裾を直す。

「そういえば、以前は弟の葬儀に来ていただきありがとうございました」

「暁君か、まだ若いのに不憫なことだ。……そういえば、お母さんはその後大丈夫かな。気を落とされてはいないといいんだが」

「大変だったんですよ、通夜の時は。母が『あなたの子じゃないからよかった』なんて父に言うものですから」

「――何だって?」

 思わず振り返った増沢は、自分の胸元ほどの身長しかない少女を見下ろす。その時ようやく彼は、彼女の頭に巻かれた包帯が血に塗れていることに気付いた。

「聞き咎めた父が問い詰めたら、『暁はあなたとの子供だったからよかったけれど、茜はそうじゃない』って言い出して。びっくりですよね」

「ちょっと待ってくれ、君は一体何を――」

「もう隠さなくていいんだよ、

 声が上擦る増沢を茜は見上げる。その顔は母親に――増沢がよく知る、若い頃の彼女の母親によく似ていた。

「母が父に言ったんですよ、『あなたは私を』って。当然父は知らなかったみたいですが」

「ば、馬鹿馬鹿しい」

 笑いながら否定しつつ、増沢は後ずさる。本能が告げている、この少女は何かとんでもないことを隠している。自分の父親が誰かということなど些細なことと思える、何かを。

「それを、君は信じたと? 申し訳ないがたちの悪い冗談としか思えないね」

「……でしょうね、私も証拠があるとは思えませんし」

「なら話は終わりだ。私は恩謝会の準備がある、そろそろ君も講堂へ――」

「証拠はないけれど、確かめる方法はあるんです」

 増沢は茜が取り出したものを凝視した。白い、素焼きのような素材の仮面。少なくとも磐座会で使用する祭具ではないし、何より彼らの親子関係を証明する道具にも見えない。

「それは……一体、何だね?」

「『仮面』ですよ。私が卑神と契約を交わし、卑神憑きになった証です」

 卑神、という意味の分からない単語が混じり、まるで返答の形をなしていない答え。戸惑う増沢の前で、茜は面を額へと押し戴いた。


「さぁ、私に教えて――業陰カーマイン


 目の前に現出した異形を見て、増沢は悲鳴を上げながら尻餅をついた。生物として人間を圧倒的に超越した存在感。脆弱な人間など容易に縊り殺しそうな体躯。自分を睨んだまま視線を外さない黒光りする瞳。そして、返り血を浴びたような赤く濡れた体毛。

「ば……ば、――」

 化け物、と叫びそうになる増沢だが、震える喉から漏れるのは気が抜けた息ばかり。慌てて机に縋りつき内線電話のボタンを連打するが、やはり応答する声はない。

 その掌に、固く冷たい何かが触れた。照明の光を反射する、赤く細長いもの。否、ただ触れているだけではない。それが掌ごと、内線電話を貫いている。痛みが脳に伝わるよりも早く、ひぃと肺から漏れるような悲鳴が漏れた。

 増沢は無我夢中で駆け出す。支部長室の扉にぶつかりながら部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、事務室へと飛び込んだ。恩謝会の直前だというのに職員の姿はどこにもなく、部屋は静まり返っている。

「誰か、誰かいないのか!」

 よたよたと事務室を進むその足が何かに引っかかり、増沢は転倒する。体を起こして足元を見た目に入ったそれを、彼は最初枯れた観葉植物の枝だと思った。だが、それが見慣れた磐座会の事務員が着用する制服の袖から出ていると気付いた時。ようやく枯れ木などではないと思い至る。

 人の腕だ。それも、まるで数週間も砂漠に晒されたように表面が干からびている。首筋に開いた傷口からは一滴の血も流れず、色あせた赤い色の断面だけを覗かせていた。

「でも、変ですよね」

 扉がゆっくりと開き、娘が――娘を名乗る女の声で話す異形が姿を現す。

「本当の親なら、娘を化け物呼ばわりなんて……しませんよね」

 異形の手から血が垂れるように伸びる。光沢を備えた液体は、宙に巨大な鎌の形を為した。

「あなたが父親だなんて、そんなはずがないんです。だからあなたを殺しても、私には――業陰には何も起こらない」

 室内灯の光を反射して赤く輝く鎌を、増沢は見上げる。目の前にいる異形の全身から滴る血液は、今足元に転がっている遺体から奪ったものだと気付いた。そして、今から自分がどのような末路を辿るかということにも。

「あなたを殺して、あなたが父親なんかじゃないと証明する。そうすれば父さんも帰ってくるし、母さんだって――だから、お願いです」

「私は、知らない……お前も、お前の母親も!」

 その言葉はある意味真実だった。彼は知らない、十年以上も前に行きずりの関係を持った女が、その後密かに自分の子供を産んでいたことも。その女が自分とは別の男と結婚し、名字が変わっていたことも。そして――その女が偶然見かけた自分を振り向かせようと、磐座会という宗教に生活を省みず過剰ともいえる挺身を行っていたことを。

「死んでください」

 大鎌が振り下ろされ、頭蓋が唐竹割にされるまで。増沢という男は己の死に至る原因を何一つ知ることはなかった。



 磐座会新和市支部大講堂。普段は静寂に包まれている空間が、その時は人々のざわめきで満ちていた。恩謝会の時間になっても、先導を務める支部長も、他の職員も誰一人として姿を現さないのだ。

 最前列に座っていた白忌衣姿の信者――当然ながら、講堂における恩謝会の席次は喜捨の多寡に比例する。彼女はこの場所を得るため夫の退職金の大部分を会へ注ぎ込んでいた――が席を立つ。座って待っていても埒が明かないと事務室へ足を運ぼうとしたその時。

「あら――何かしら」

 誰に聞かせるでもなく、天井を見上げて呟く。彼女の真上、白いはずの天井に一点、赤い染みができている。染みは一つではなく、一つ、また一つと彼女の目の前で増殖していく。やがて染みでは収まらず、天井を穢す液体は雫となって垂れ――彼女の額に触れた。その体ががくんと飛び跳ねる。

 その様子に別の信者が気付く。上を見上げてがくがくと震える彼女を見て「おいアンタ、どうか――」と声をかけたが、続きを発することはなかった。目の前で彼女の体は、みるみるうちに萎んでいく。それが彼女の額に触れた血の為せる業だと、気付く者はいない。やがて全身に流れていた約3リットルの血液の一滴に至るまで吸い上げられた彼女の体は、がさりと――人一人が立てるにしてはあまりにささやかな音を立てて倒れた。

 異常に気付いた者は僅かだったが、正常性バイアスによりその異常性を正しく認識できずにいた。だが、人が間違いなく死んでいる。ようやく一人の信者が悲鳴を上げようとした次の瞬間――講堂の天井から無数の血の刃が降り注ぎ、そこにいた全ての信者を一人の例外なく串刺しにした。

 傷口から体内へと入った血の刃は、触れた血管を経て全身の血液を支配する。そして新たに得た血液を使用し、四方八方へと伸びる血の刃を無数に形成した。信者たちは瞬く間に全身を内側から細切れにされ、そして彼らの傷口から流れ出た血もさらに新たな血の刃を形成する材料となる。

 傷つきながらも逃げ出そうとした信者は背中から無数の刃によって串刺しにされ、悲鳴を上げて立ち尽くす信者は方々から伸びた死の刃によって穴だらけにされる。刃が流血を生み、流血が新たな刃を生み、そんなことが幾度も幾度も繰り返され、至る所で血の茨が生まれ、根元の人間も隣にいる人間も串刺しにした。

 阿鼻叫喚のなかで幾度も生まれた刃はその場にいた人間を一人の例外もなく丹念に切り刻み、全てが終わった時――講堂は隙間なく信者たちの血で赤く染め上げられていた。

 誰一人として息を立てず、死体から血が滴る音だけが講堂を満たした時。祭壇に、天井を破り巨躯が舞い降りた。肥大した四肢、翼の如き皮膜、そして人とも獣とも判別できない面貌。その異形が――業陰が祭壇から酸鼻を極める講堂を一瞥した。

 べしゃり、と音を立てて周囲を満たす流血の一端へ手を置く。その途端に血液は意思を持っているかの如く業陰の体へ纏わり付き、その体をより深い赤色へ染めた。

 異形の神は偽りの神を足蹴にし、天を仰いで高く高く吼える。それこそが、祟り神たる業陰の産声であった。



「聞こえる? 九朗、叶ちゃん」

 風を受けながら八雲は夢心地で呟く。先ほどまで彼女の鼓膜を満たしていた信者たちの絶叫はすでに消え、今度は常人には聞こえない咆哮が彼女の元へと届いている。きっと糸を通じて九朗達も耳にしていることを期待し、八雲は目を閉じて耳を傾けた。

「五月蠅為す神の声――これが、『祟り』。害を為し、災いを振り撒き、死を賜わす人類の天敵。生まれながらにして人草を心の底から憎悪する、卑しき神の本当の姿よ」

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