第7話 私の罪、あなたの罰①

 最初は雪が降っているのだと思った。


 空気中に舞うきらきらとしたもの、肌を刺す空気の冷たさ。だが雪はそんな風に降らないし、たとえ冬だとしても人は氷漬けにならない。


 氷柱に閉じ込められた人の亡骸が至る所に生えている。そんななかで、私は誰かの腕の中で横たわっていた。視界の隅に見えるのは静かに冷たく、しかし生命も何もかもが静止している世界。その中で私を抱いている人は、声を押し殺して泣いていた。


 私は何かを言ってあげたくて、しかし唇も喉も何の言葉を紡ぐこともなく。ただ泣いているその人を見上げることしかできなかった。


 だからその人の泣きはらした顔が向けられた時、私はひどく驚いた。私の知っているその人は強くて、仏頂面で、とてもそんな風に涙を流す人だとは思えなかったから。


 十津川九朗。私を助けてくれた人。

 恐ろしい形相で、あの八雲という人の姿をした化け物に襲い掛かった人。

 私が知っている彼より少し幼く見えるその人は、ただただ私へ涙を落としていた。



 意識が覚醒した時、最初に目に入ったのは見知らぬ真っ白い天井だった。

「ここは……」

 病院かとも思ったが、薬品の匂いはない。身を起こしても視界には設備などそれらしいものが見当たらない。サイドテーブルには照明、そしてポットや湯呑が並んだ鏡付きの机。制服姿のままの己が鏡越しに自分を見つめていた。少しやつれているが大きな怪我等はなさそうだ。ビジネスホテルの一室だろうかと当たりをつけたところで、扉が開きよく知る巫女装束姿の女性が入ってきた。

「気が付いた?」

「彌月、さん」

「よかった、心配したけれど特に問題なさそうかな。……ゴメンね、制服のまま寝かせちゃって。皺になっちゃったかも」

 彌月は湯飲みを取るとお茶を注ぎ、叶へと差し出す。それをおずおずと受け取り、口元へと運んだ。胃を通して体中に温かさが広がるる。眠っていただけのはずなのに、なぜか酷く体に力が入らない。

「あと、これも。九朗は渡すべきか迷っていたけれど」

 続いて彌月が差し出したのは、光沢を放つ黒い仮面だった。それを目にして叶の脳裏に、廃墟内で起こったことの記憶が蘇る。

「……そうだ、茜ちゃんは」

「逃げたよ。今は九朗が手掛かりを探してる」

 その言葉に安堵してていいのやら迷ったが、少なくとも無事ではありそうだ。

「これを着けていた時のこと、何も覚えてない?」

「ぼんやりとは……あまり、実感はありません」

 仮面を受け取りながら叶が言う。ひんやりとした、まるで抜き身の刃を思わせる手触り。この面のどこにあれほどの力があるのか、彼女にはまるで分からなかった。

「私、これを着けたんですよね。それで――」

「殻烏となって、八雲たちや九朗と戦った。大変だったよ、すっごく強くてさ」

(……そう、なんだろうか)

 叶は手にした面に視線を落とす。彌月の言う通りの記憶はあるが、それが実感として伴わない。あの廃墟で卑神――殻烏となってからのことは、まるで夢の様に記憶があやふやだ。

「神威顕装をしたのは、あれが初めて?」

「はい、この仮面もずっとただのお守りだと……。『殻烏』っていう名前も、あの時思い出しました」

「その仮面、どうやって手に入れたか聞いてもいい?」

 彌月の問いかけに、叶はかぶりを振る。

「きっと、聞いても信じてもらえそうにありませんから」

「……分かった。無理には聞かないわ」

 叶の表情に、彌月は殻烏と接触した時に見た炎の光景を思い出す。あれを見たのは殻烏か、叶か、あるいはその両方か。

「茜ちゃんは、どうなるんですか」

「彼女次第よ」

 彌月が放ったのは短く、強い言葉だった。

「知っての通り、卑神の力は人のなかで生きていくには強過ぎる。できれば彼女には卑神の力を放棄してほしいし、そのためには仮面をこちらで確保するか、破壊するか、もしくは――卑神の核である『御』を破壊する必要があるわ」

「その、『御』っていうのを壊されたら。茜ちゃんはみたいになるんですね」

 彌月が言う「あの人」とは、猿咬徒の卑神憑きである水沢を指していた。車のトランクに転がされていた水沢の姿は、ただ眠っているだけだとはとても思えなかった。

 叶がベッドから立ち上がろうとした時、足元がふらつき、その体を彌月が支えた。

「まだ無理しないで。初めての神威顕装だったのよ、精神も体の負担も大きいはずよ」

「でも、茜ちゃんが手遅れになる前に止めないと」

「……どうして?」

 叶は顔を上げる。仮面に空いた穴から、彌月の瞳が真っ直ぐな視線を向けていた。

「あの子はあなたがそこまでする必要がある人間なの? 最初はあなたに八雲の神酒を呑ませようとして、その次は八雲の所まであなたを届けたわ。それでも?」

「それでもです。茜ちゃんは関係ありません、私がしたいから、やるんです」

 ビジネスホテルの一室で、巫女装束と学生服という奇妙な組合せの二人の視線が正面からぶつかった。



「これが金子って男の情報だ。あんたらの仕事にどれだけ役に立つか分かんないがね」

「助かります」

 軽自動車の車内、九朗は助手席の男から封筒を受け取った。

「警察に情報があるとは思いませんでした」

「持ってたのはウチじゃないよ、教育委員会。伝手を頼って回してもらったんだ、感謝してよ?」

 封筒を開くと、数枚の書類とともに履歴書が見えた。貼られている顔写真は確かに彌月から聞いた金子という男の人相に違いないようだ。

「そいつ、教育実習の期間中に生徒をラブホに連れ込んだらしくてね。大事になりそうだったのを、父親が取り成したお陰で示談で済んだようだ」

 書類のなかにあった調書には、金子の家族構成も記されていた。どうやら一族は代々政治家で、国会議員を輩出したこともあるようだ。父親は現役の地方議員であるらしい。

「ほぼ勘当同然で、今は塾講師なんかをしながら暮らしているらしい。しかし神祇院の職員さんが何だってこんな男のことを?」

「神祇院ではなく正確には外局ですし、俺はそこの使い走りです。上が考えることなんて知りませんよ」

 そう嘯いてみせたものの、九朗も内心助手席の男が信じるとは思っていない。愛想笑いを浮かべ、「煙草、いい?」と男が懐を探りながら言う。

「すみません、相方が苦手なもので禁煙車です」

「あ、そう」

 名残惜しそうな口調で煙草を仕舞う男に、九朗がガムの束を出し出す。男は手刀を切ってから受け取った。

「何の根拠もない俺の妄想なんだけどさ。最近巷で起きてるあの変な事件、関係ある?」

「さっきも言いましたけど、俺はただの丁稚です。何か言う権限はありません」

「……同じ宮仕えだし。そういう言い方しかないってのは分かるけれども」

 男がドアに肘をつく。下から睨め付けるようにこちらを見るその笑顔は、目だけが笑っていなかった。

「普段はおっかなくて近寄らない署長の部屋に朝イチで呼び出されて、何かと思えば『例の連続変死事件から手を引け』ってさ。何だよそれって食い下がったら、『いいからこの男の情報を集めて神祇院に渡してこい』だとさ。やってらんないよね、街のお巡りさんとしてはさ」

 ぐしゃ、と男がガムを握り潰す。

「一晩で髪の毛が5メートルも伸びて、その髪の毛で絶対一人じゃ登れないような木の上なんかで首を括る女学生が何人も出ているんだ。娘はどうしてあんな死に方をしたんだ、って泣いて縋る親御さんにさ。俺はなんて説明したもんかね。分かるか? そんな両親にウチじゃ分かりません、不甲斐ない組織で申し訳ないって謝らなきゃいけない俺の気持ち」

「……すみません」

 歯切れの悪い返事に、男は舌打ちで応えた。

「ま、アンタに言っても仕方ないんだろうけどな。お互いパシリ同士頑張ろうや」

「――俺は」

 ドアハンドルに手を掛け、車外へ出ようとした男の背中に九朗が声をかける。

「これ以上、人死にが出ないよう努めるだけです」

 男は振り返り、相変わらず笑っていない視線を向ける。しばしの沈黙の後、男は握り潰したガムの包みを開き、へし折れたその中身を口に放り込んだ。

「俺もそう祈ってるよ」

 改めて男は車外を出ると、ドアを閉めて九朗の乗った車が走り出すのを見送った。懐から取り出した煙草に火を点け、紫煙を味わう彼に道端から「芝さん」と若い男が歩み寄る。

「……どうでしたか、神祇院のお偉いさん」

 芝、と呼ばれた男は側溝に灰を落としながらため息を吐いた。

「お偉いさんなもんか、俺たちと何も変わらんよ。損な役回りを押し付けられて、無理をしているただの小間使いさ」

 名残惜しそうに煙草を吸い続ける芝に、若い男は携帯電話に画像を表示して見せた。

「さっき部長から連絡がありました。遺族への説明は別の人員を向かわせるから、我々もこの男の確保に向かえと」

 芝は自分の携帯電話にも送られていた画像と資料を確認する。

「それで? この朱田って男が何かしたのか」

「さぁ、特に犯歴もありませんしね」

「家族構成は妻と娘に……息子が最近事故死か。やりきれんな、全く」

 側溝に吸殻を落とす芝に、「携帯灰皿くらい持ってくださいよ」と男は眉をひそめた。



「助けたいよね。友達、だものね」

 ビジネスホテルの一室で睨み合った二人のうち、先に視線を逸らしたのは彌月だった。

「じゃあ……!」

「でも、今のままでは行かせられないわ」

 彌月は叶の眼前にコンビニ袋を突き出す。怯みながらも受け取って開くと、叶の目に入ったのは雑多に詰め込まれたおにぎりやサンドイッチなどの食べ物だった。

「私はもうちょっと栄養価とか気にしなさいって言ったんだけど、そういうところに気が回らない男だから……」

「――これ、九朗さんが?」

 手頃な包みを一つ取り出す。「日高昆布」と書かれた、何の変哲もないおにぎりだった。

「あいつも、出来ることならこれ以上卑神で不幸になる人を増やしたくないの。それは卑神憑きだって同じこと。『御』を破壊することなく、神威顕装をする前に仮面を確保できれば一番いいわ。そのために――」

「やります、私。茜ちゃんを助けられるなら」

「なら、とりあえずお腹に何か入れないとね。神威顕装の負担は肉体ではなく精神に掛かるけれど、精神だって体力がないと十全にはならないわ」

 彌月はコンビニ袋に手を突っ込むと、中身も見ずに取り出した。握られていたのはサンドイッチの包みだ。

「ただ、一番の問題は叶さんが卑神……『殻烏』を使いこなせているとは言い難い現状ね」

「そうなんですか? 仮面を着けてからのことはほとんど覚えてなくて……」

「だと思った。もし叶さんの意思があったとすれば大事だわ」

 サンドイッチの包装を開きながら、彌月は殻烏の姿を思い返していた。もし凄門を一方的に叩きのめした殻烏が叶の意思で動いていたとすれば、今の自分はそんな人物と身一つで対峙しているということになる。たまごサンドを頬張りながら、彌月は叶が殻烏になっている間の状況を大まかに説明した。

「――なるほど、つまり卑神には一人につき一つ『恩頼』という……能力? が備わっているんですね」

 日高昆布入りのおにぎりをもそもそと食べながら、叶は納得したように頷く。

「私に使った〈饑〉という恩頼であれば、茜ちゃんの卑神でも『御』を壊さずに無力化できるんですか?」

「理屈の上ではね。行動不能に追い込むまである程度の時間が必要だし、〈饑〉を使っている間に相手が止まってくれるとは限らないから。返り討ちに遭う可能性の方が高いわ」

「そうなんですか?」

「九朗……というか凄門って、あんまり強くないから」

 その言葉は叶にしてみれば意外ではあった。猿咬徒との交戦では確かに自分が最後に手助けしたとはいえ、凄門が有利に立って戦闘を進めていたように思えたからだ。

「卑神同士の戦闘では恩頼が重点を占めるわ。よほどの差がない限り、恩頼の優劣が覆されることはない。まぁ恩頼もそれこそ卑神と同じだけ種類があるから、単純な優劣なんて決めようがないんだけれど」

「――そういえば、九朗さんの恩頼って一種類じゃないですよね。氷を刀にしたり、刃を燃やしたり」

「あー、うん。確かにそう見えるよね」

 途端に彌月の歯切れが悪くなる。食べ終わったサンドイッチの包装をぐしゃぐしゃと丸めると、ゴミ箱へと放り込んだ。

「広い目で見れば一種類よ。ただちょっと特殊でね、色々できるんだけど器用貧乏なの。だから戦う時も相手に話しかけて挑発してるのよね、それでボロを出すと期待して」

 あの挑発トラッシュ・トークはそういうことか、と叶は得心した。

「地中に潜る恩頼は逃がすと厄介そうだったし、被害も相当出ていたから手段を選んではいられなかったんでしょうね。手加減ができる相手でもなかったし」

「そうるすと――茜ちゃんの恩頼は」

「血で武器を生成していたね。九朗の〈蛟〉と似てはいるけれど、強度はあっちが上だと思う」

「恩頼においては、九朗さんよりも茜ちゃんの方が優れているということでしょうか」

「一概には言えないけど、恩頼には法則みたいなものがあってね」

 彌月はコンビニ袋からペットボトルを二本取り出し、サイドテーブルに並べた。中身はミネラルウォーターとほうじ茶。

「液体を操る恩頼で水を武器にした場合と、ほうじ茶を武器にする恩頼。それぞれの恩頼で作られた武器がぶつかった場合、勝つのはどっちだと思う?」

「……水の方が混ざっているものが少ないので、構造的に強い前者ですか?」

「正解は後者よ。恩頼は文字通り神の御霊みたまふゆであり、卑神を中心とした極小の宇宙。既存の物理法則は影響しないの。その強弱を測る目安の一つとして、恩頼が影響を及ぼす範囲の狭さがあるわ」

「狭さ、ですか」

「液体であるなら種類を問わない〈蛟〉と、血液に限定して作用する茜さんの恩頼。齎される結果が同質なら、勝つのは後者よ。加えて彼女は恩頼に関係なく『飛行する』という特性もあるから、決して凄門が戦いやすい相手とは言えないわ」

「人から大きく外れた姿形をしている卑神は、それだけで脅威なんですね」

 叶の言葉に彌月は頷いた。

「……でも、これだけ覚えておいて。九朗があなたから仮面を押収せずに残していったのは、自衛が第一の目的ということ」

「というと、私にはまだ八雲さんに狙われる可能性があるということですか?」

「茜さんを……業陰を寄せ付けないほどの強さであれば、絶対にあの人の目的の障害になるはずよ。あの人が何を考えているかはなんて私には分からないけれど」

「目的……」

 叶は黒く光る面へ視線を落とす。

「あの人は、一体何がしたいんでしょう」

「九朗と一緒にずっとあの人を追いかけているけれど、正直なところ何か目的があるかどうかも分からないのよね。只の愉快犯かもしれないし。卑神憑きを増やしているけれど、それはあくまで手段だろうし」

 彌月は背もたれに身を任せ、天井を仰ぐ。

「ただ強い卑神を探しているという訳でもなさそうなのよね。正面から殴り合えばあの人に勝てる卑神憑きなんていないもの」

「そんなに強いんですか……」

「叶さんも見たでしょ? あの人が凄門の刀を素手で受け止めるところ」

 確かに、と叶も頷いた。激昂した九朗が神威顕装した凄門の直刀を、八雲が指先で受け止めたのはつい先日のことだ。

「人間では卑神に太刀打ちできないのと同様に、ただの卑神ではあの人には太刀打ちできないわ。神威顕装しなくても卑神と戦えるだけの体と、〈萬物伝導〉なんて反則みたいな恩頼。相手にするだけ無駄なのよ」

「萬物、伝導?」

 叶の疑問符に、彌月は指先に糸を漂わせながら続ける。

「文字通りなんでも伝え導くのよ。炎も衝撃も、糸を伝って全部どこかへ受け流すの。ズルよ、ズル。あんなの相手にできるのなんて、お伽噺の世界だわ」

 呆れたように天を仰ぐ彌月を見て、叶が呟いた。

「……正直、ちょっと意外です」

「へ?」

 椅子を傾け、器用にバランスを取っていた彌月が身を起こした。

「彌月さんは九朗さんと違って、八雲さんへの言葉にあまり棘を感じないというか」

 その言葉にばつの悪い表情を浮かべて、彌月が頬を掻く。

「確かに、恨みがないと言えば嘘になるけれど」

 ぱき、と音を立てて彌月がミネラルウォーターの入ったペットボトルの蓋を開ける。中身を一口飲んだ後、視線を窓の外に向けた。

「……余計なことに拘ってないで、九朗には前向きになってほしいだけだよ。私は」

 それは一体、と聞き返す前に「あ、けど!」と彌月が叶へと向き直る。

「あの人相手に絶対心を許しちゃダメよ。人間の姿形ナリしてたって、あの人は化物か大蛇なんだから。人の人生を丸ごと呑み込むの」

「大丈夫です、それは重々承知していますから」

 叶もほうじ茶に手を伸ばし――その手が弾けるようにして殻烏の仮面を掴んだ。

「どうしたの、急に――」

「酷い言い草だよね、私はみんなの幸せを考えているのに」


 室温が下がった気がするのは、気のせいか。或いは自分の血の気が引いたのをそう錯覚したのか、彌月にも叶にも分からなかった。いつからそこにいたのか。二人を睥睨するように、机の上に"化物"が腰掛けて見下ろしている。

「それにしても、大蛇とは恐れ多いね。私は蜘蛛よ。しがない一匹の蜘蛛」

 八雲を前に、顔へ押し戴こうと仮面を掴んだ叶の手がぴくりとも動かない。よくよく見れば部屋中に糸が張り巡らされ、二人の体を固定していた。先ほどまでは間違いなく存在しなかったはずなのに、まるで予め用意された蜘蛛の巣の中に二人がわざわざ立ち入ったかのように絡め取られている。

「凄いね、叶ちゃん。私が声をかける前に面を取ろうと反応してた。勘がいいのかな? それとも――殻烏の影響かな」

「……さぁ、どうでしょう」

 唯一動く目で、叶は部屋の中に何かこの状況を打開できるものがないか探す。しかし自分はおろか彌月の近くにさえ、そのような都合のいいものは落ちていない。

(この人がそんな都合のいいものを残すはずがないか……)

「それに引き換え彌月は減点ね。伝導の負荷を嫌って糸を張るのを怠っていたでしょ。ダメよ、ちゃんと慣れておかないと」

 冷や汗か脂汗か。彌月の頬を伝い一滴が床へと落ちた。

「……あの、一つ質問してもいいですか」

「どうぞ! 機嫌がいいからなんでも答えちゃう。あ、おかか一つもらうね」

 八雲は机から飛び降りると、ベッドに座る叶の隣に腰掛けた。我が物顔でコンビニ袋からおにぎりを一つ取り出すと、包装を剥がしぱりぱりと食べ始める。「ベッドでご飯食べるなんて、女子会ってやつ?みたいだね!」とはしゃぐ姿から想像もできないが、これは間違いなく少女の姿をした化生なのだ。

「あなたは何が目的なんですか」

「もちろん、みんなの幸せだよ?」

 無遠慮に核心を突く質問に対し、八雲はあっけらかんとした表情で応えた。

「茜ちゃんを卑神憑きにした上で、見捨てたことも彼女の『幸せ』のためですか?」

「あの子にも幸せになってほしかったからね、それは私に依存してちゃ実現できない。独り立ちしてほしいんだよ」

「詭弁を……!」

 ぎり、と握り締めた仮面が叶の掌に食い込んだ。八雲は涼しい顔で食べ終えたおにぎりの包装をゴミ箱へ放り投げる。

「そうかな? むしろ私には叶ちゃんの方が分かんないな」

「叶さん、それ以上耳を貸さないで!」

 八雲の指先から走った幾条もの糸が束になり、叫んだ彌月の口元に絡みつく。

「ちょっと黙っててね、私は叶ちゃんとお喋りしてるの」

 八雲は改めて向き直り、「ねぇ、叶ちゃんは茜をどうしたいの?」と口にした。

「どういう、ことですか」

「叶ちゃんは茜のこと、どれくらい理解しているの? ちゃんと理解して、その上であの子にはどうなってほしいの?」

 口を噤んだままの叶を余所に、八雲は滔々と続ける。

「私はあの子には、思いのままに振る舞ってほしいよ。せっかく卑神から選ばれたんだもの、人の法からも倫理からも縛られないでいてほしい」

「……あなたは、茜ちゃんを突き放して一体何をやらせたいんですか」

「それも分からないのに、あの子を助けたいの?」

 叶の座るベッドが沈む。八雲がすぐ近くに腰かけたのが分かった。衣擦れの音を立てながら彼女が唇を叶の耳元に近付ける。嗅いだことのない甘く、しかしどこか退廃的な香りが漂った。

「叶ちゃんの正しさ、傲慢なんだね」



 アパートの扉を開くと、饐えた臭いの生ぬるい空気が漂ってきた。さらに開くと脂の切れた蝶番が甲高い音を立てる。

 八雲の冷めた目に耐えられず逃げ出した茜は人目を避けながら一晩中街をさ迷い、最後に辿り着いたのは己の生家だった。もう何日ぶりの帰宅であるかさえも思い出せない。

 アパートの中に人の気配はなく、しんと静まり返っている。薄暗い廊下はパンパンに詰まったゴミ袋で溢れ返り、その隙間には満遍なくアルコール飲料の空き缶が詰め込まれていた。子供部屋も、両親の寝室も同じ。それでも唯一異なる場所があった。居間の一角、最も日当たりのいい場所。一切乱れることなく掃除の行き届いていることが、このアパートの中では却って違和感を演出している。

 それは木組みの簡素な机でできた祭壇だった。上には三方に載せられた米や酒、果物などが並ぶ。中心に鎮座するのはどこの河原でも拾えるようなただの石ころ。そんなものが、この家で最も価値があると言わんばかりに鎮座していた。

 宗教法人磐座会では、「寄進」に応じて信徒に「清石」を下賜していた。清石とは「宗祖」の力の一端が込められた石のことであり、大きさは違えど全ての清石は宗祖と繋がっている……というのが神官たちの謳い文句である。清石に対し朝夕の寿詞よごとを奏上することは信徒の義務であり、そして宗祖と同一である清石への不敬は磐座会において最大の不徳であった。

 茜は母がこの清石を家庭に迎えるため、一体如何ほどの寄進を積んだのかは知らない。だが清石の大きさは磐座会におけるヒエラルキーに直結しており、この清石を携えて帰宅した母が浮かべていた恍惚とした表情と、以降の磐座会内における母への扱いが格段に上がったことからも、決して安くはない金額であったことは確かだった。そして、寄進を捻出するため親戚中に金を無心したことで茜の家庭は絶縁状態となり、最早彼女たちに手を差し伸べる者はどこにもいなかった。

 茜は清石に指を触れる。もし母が見ていれば怒り狂うところだ、なんでも「清石様に触れる時は榊の葉を咥えなければならない」のだという。ざらりとした、冷たい触感。彼女は知る由もないが、この石は磐座会の本部が中国の採石場からコンテナ一つ幾らで買い叩いた、ただの石だ。「宗祖」の力をこめるという儀式も、本部付きの神官が石の入ったコンテナの前で寿詞を唱えたに過ぎない。

 茜にも磐座会にとってもこれはただの石。本当の価値を知らないのは彼女の母を始めとする信徒達だけだった。

 そして、祭壇の横。追いやられるように部屋の隅に置かれていた小さな黒塗りの祭壇には、屈託なく笑う少年が写った黒縁の遺影が飾られていた。


――でも、あんたじゃなくてよかった。


 弟の通夜の席で、柩に縋りつく母の放った言葉が脳内でリフレインする。茜は衝動的に清石を掴んでいた。


「こんな、こんなものが……!」


 床に叩き付けられた清石はあっさりと割れ、何の面白みもない断面を晒した。さらに茜は飾られていた真鍮の燭台を掴むと、祭壇に向けて振り下ろす。一度やってしまえば歯止めはもう効かなかった。安物の白木が砕けても、供物が部屋に散乱して元々あったゴミの山と区別がつかなくなっても、何度も、何度も振り下ろす。

 暫し木が砕かれる音がアパートに響き渡る。祭壇であったものが元は何であるかも分からない散乱したガラクタとなっても、茜を思いやれる者はどこにもいなかった。彼女の手から燭台が抜け落ち、ごとんと音を立てる。その振動に転がり出るものがあった。

 立ち尽くす茜の足に当たったのは、血がこびり付いて汚れたサッカーボール。茜はボールを追いかけて公園を飛び出し、車に撥ねられて命を落とした弟の最期の姿を幻視した。


(そうだ。あの時もこのボールで……)


 思い出も、家族も、何もかもがぶちまけられた坩堝の中心で茜は、初めて叶と出会った日を反芻した。



あきらー、お姉ちゃんもう帰りたいんだけどー」

 幼き頃の茜の呼びかけに「もうちょっとー!」と応えたのは、彼女の弟だった。

 彼らに親しい友人というものはいない。それは彼らの母がとある新興宗教に異常ともいえるほどの熱を入れており、授業の有無に拘らず姉弟をその行事に同行するよう強いているのが原因であった。クラスメートとしては付き合うが、決して深い付き合いはしない。それが二人に与えられた級友からの評価であった。

 そのため常日頃の遊び相手は姉(あるいは弟)だけであり、その日も茜は「サッカーがしたい!」という暁の相手をするため公園へと足を運んでいた。

 夕焼けに染まる公園で、たった二人の間で延々と続く玉蹴り。それでも弟は先日の誕生日の際、父から贈られたサッカーボールを楽しそうに蹴り続けていた。

「もー、あとちょっとだからねー」

 弟の転がしたボールを呆れ気味で蹴り返そうとした時。その向こう、公園の前を歩く少女の姿に茜は見覚えがあった。


 その日、隣のクラスは担任が急病とかでほとんど丸一日自習だったそうだ。重石がなくなった児童たちは授業時間中に何度も騒ぎ始め、そのたびに他のクラスの担任が顔を出しては注意する。朝から何度もそんな光景が繰り返されていた。

 そして何度目かのざわつきが茜たちのいる教室に伝わった時。けたたましくドアが開き、「先生!」と叫びながら一人の少年が駆け込んできた。小学生にしては長身で、スポーツも得意なタイプだとクラスの女子が噂していたのを茜は覚えていた。バレンタインの日などは教師の目を盗んでチョコレートをいくつも渡される、そういう少年。その整った顔が、今は鼻血に塗れていた。

「先生、助け――」

 彼が再び叫ぼうとした瞬間、遅れて教室に駆けこんできた少女があった。だが少女は彼のように助けを求めるのではなく、手にしていた椅子で少年を殴りつけたのだった。教室は悲鳴で包まれ、後から来た少女は担任によって職員室へと連れて行かれた。やがて学校に救急車が何台も来る騒ぎになり、その日は学校中が授業どころではなくなった。

 後から知ったことだが、きっかけは些細なことだったそうだ。クラスの気弱な男の子が、ヒエラルキーの高いグループに読んでいた本を取り上げられたらしい。他の児童は「またいつものが始まった」と、加わるでもなく止めるでもなく、彼らが飽きるのを黙って見ていた。

 ただ一人違ったのは、数日前に転校してきたばかりの一人の少女。彼女は立ち上がると、自分の座っていた椅子を持ち上げてグループの中心的な少年に近寄り、背後から椅子で殴りつけたのだという。

 当然グループは矛先を彼女へと変え、総出で抑え込もうとした。しかしなぜか手が届くあと一歩というところで躱され続け、彼女は他のクラスに助けを求めた少年をわざわざ椅子を持って追いかけたのだという。

 グループは手酷く叱られたが、それは彼女も同様だった。以降クラスで騒ぎは起こっていないようだったが、その凶行に恐れをなして今では話しかける者が誰もいないのだという。


――今度来た転校生はヤバいらしい。


 その「ヤバい転校生」が、すぐそこを歩いていた。

(あっぶな、近寄らないようにしないと――)

 意識を余所に向けたまま蹴り返したためだろう、ボールは彼女の予想を大きく超え、暁のはるか頭上を飛んだ。「あっ!」と叫び、ボールを見上げながら追いかけた少年の行く先には公園の出口がある。

「バカ、危ない!」

 走りながらも姉を振り返った暁の前でボールは跳ね、道路へと勢いよく転がる。脇目も振らずに少年が飛び出した道路を、土埃を上げながらダンプカーが通過した。

「暁!」

 けたたましいブレーキ音が響き渡り、窓から身を乗り出した運転手が「大丈夫か!?」と叫んだ。駆け寄った叶が見たものは、間一髪襟元を掴まれて危機を免れた弟の姿だった。掴んでいるのはその転校生だった。

 茜の目には、少女の動きがまるで暁が飛び出すことを予め知っていたかのように感じられた。暁が公園から飛び出た瞬間、少女はすでに公園へ背を向けていた。それが急に振り向き、ボールを追いかける暁へ駆け寄ったのだ。

 襟を掴まれていた暁が解放され、少女へと振り返る。「あ、ありがとう」とたどたどしく礼を言うが、少女はまるで意に介していなかった。信じられないものを見るかのように、自分の手を見つめている。

「……どうしたの?」

 茜がそう言った瞬間、少女はぼろぼろと涙を流し始めた。姉弟は呆気に取られていたが、少女――御崎叶と親しく遊ぶようになったのはそのことがきっかけだった。



「あの子、なんで泣いてたんだろ」

 汚れたボールを天井目掛けて放り投げる。落ちてきたそれを受け止めようとした時、部屋に何かが割れる音が響いた。脱力し膝から崩れ落ちる茜は、それが己の頭蓋が割られた音であることと、そして頭から熱いものが流れ出したことに気付く。

「……あんた、何やってんのよッ!」

 床に散らばったのは割れた酒瓶の破片。そして怒号は、いつの間にか帰宅していた母の発したものだった。流れる感触は割れた頭から流れ出る血。彼女の母は娘の頭蓋を叩き割っておきながら、倒れる彼女には目もくれずに割れた石へと駆け寄った。虎落笛のような気の抜けた悲鳴を上げる母を見て、意識を失いながらも茜は心が晴れ行くのを感じる。

(……あぁ、でも。どうせなら)

 その心に一抹の後悔が混じる。 

(暁が生きている間に、めちゃめちゃにしてやればよかったなぁ)

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