第6話 金剛不壊 殻烏③

「九朗はさ、将来の夢とか……ある?」

 初夏のある日。先を歩く瑞妃から唐突に問われ、九朗は「夢ぇ?」と返した。

「村を出てあんな仕事がしたいとか、こういう人になりたいとか、そういうの。ない?」

「そう言われてもなぁ……」

 ぼやきながら九朗は周囲を見渡す。二人の前後には田圃に挟まれた道路が遠くまで続いており、四方は深い山に囲まれている。人家が各所に点在しているものの、どこに出してもおかしくないありふれた田舎の風景だ。風景は。

 そんな中で、瑞妃のセーラー服の白さだけが光っているように感じられた。

「俺、東雲村から出た記憶もないし。仕事って言われても……村の外で就職したとしても、いつかは村に帰ってこなけりゃいけない決まりだし。なるようにしかならないよ」

「ダメだよ、そんなの」

 立ち止まった瑞妃が振り返る。長い黒髪が肩口をさらりと流れた。

「この村に生まれたからって、私たちの人生はこの村だけで終わる訳じゃないのよ。もっと外に目を向けていかないと」

「いいのかよ、橘家のおひいさまがそんなこと言って」

「……お父様も、お爺様も馬鹿よ」

 瑞妃の顔に影が差すのを見て、九朗は(……しまった)とばつの悪い思いを抱く。瑞妃が生家に対しあまり快い感情を抱いていないことは知っていたが、村で数少ない同年代ということもあり、ついつい九朗は彼女に対し口が軽くなる時があった。

「あんな家、なくなってしまえばいいのに」

 瑞妃が道の先へと視線を向ける。村を囲む山の中でも一際高く、そして深い山。その麓には村で一番旧い屋敷がある。山から降りてくる者も、登ろうとする者も拒むかのような威圧感を備えた屋敷。それが瑞妃にとっての生家であり、そして同時に人生を縛る牢獄であった。

「……やめとけって、誰かに聞かれでもしたら」

「誰もいやしないよ、それとも九朗がお爺様に告げ口する?」

「する訳ないだろ、そんなこと!」

 思わず大声を上げた九朗に対し、振り向いた瑞妃は満足そうに笑いかけた。その顔に見惚れる前に九朗は歩を進める。

「ねぇ九朗。いつかさ、こんな村出ない?」

「……出て何ができるんだよ。外へ行ったところで――」

「なんでもできるよ! もっと大きな学校にも通ってみたいし、テレビでしか見たこともない都会へ行ってみたい! 知ってる? 街には裏のお山なんかより高いビルがいっぱいあるんだって!」

「知ってるよ、それくらい。でも……そうだな、いつか行けるといいな」

「でしょ?」

 それがどんなに儚い願いか、叶わない夢だと知っているのか。知っていて、そんなことを口にするのか。満面の笑みを浮かべる瑞妃の表情から、九朗は読み取ることができなかった。

 


「あっ、やっと起きた?」

 廃墟の中、冷えた地面の上で意識を取り戻した時、九朗から凄門の体はすでに失われていた。

(……俺は何秒、意識を!?)

 卑神の動力は卑神憑きの精神の力。卑神の核である「御」が破壊されずに凄門が除装されているということはダメージにより卑神憑きの精神が途切れていたことを示し、そして八雲はそんな九朗に止めを刺さず見逃していたということになる。

 穴の空いた天井から覗く空はすでに暗くなっている。意識を失う直前、九朗は八雲によってこの廃墟の床に叩き付けられたことを思い出した。天井の穴はその時に出来たものだろう。

「大丈夫、一分も経ってないよ」

 まるで心を読んだかのように言う八雲は、九朗の顔を覗き込んで微笑む。

「すっごく幸せそうな寝顔だったよ。ねぇ、どんな夢見てたの?」

「……黙れ」

「あ、そーいうこと言うんだ。じゃあコレは返してあげない」

 その手には凄門の面が握られていた。奪い返そうとした九朗だったが、腕も足も動かない。どうやら糸で縛られているようだった。

「せっかちだなぁ、ちょっと待っててよ。……あっ、来た来た」

 子供のように手を振る八雲の前へと、天井の穴から降り立った赤黒い巨躯。獣のようなそれは、両脇に一人づつ人影を抱えていた。

「いらっしゃい叶ちゃん。それに……彌月も。久しぶりだね」

 二人が地面に投げ出される。叶は無事のように見えたが、彌月の体は至る所に傷を負っていた。八雲は小さくうめき声を上げる彌月を一瞥し「ねぇ、茜」と傍らの異形へ語り掛ける。

「丁重にお連れするよう言わなかったかな」

 その声に、名を呼ばれた異形――業陰の体がびくりと震える。

「今度は私も失望させたいの?」

 底冷えする声に身体を強張らせる業陰。その前へと進み出る者があった。

「――八雲さん」

「あら、どうしたの?」

 人ならざる異形と、人の形をした異形。その二つの間に挟まれても、叶は毅然とした態度で立っていた。

「本当なんですか、九朗さん達の村を滅茶苦茶にしたって」

「うん、本当よ」

「……どうして、そんなこと!」

 何を当然のことを、と言わんばかりに答える八雲。それを見て叶は声を荒げた。

「必要だからだよ」

 だが、それに答える八雲はただただ平静であった。

「あの村をなくしたのも、卑神憑きを増やすのも。私の目的に必要だから」

「――何なんですか、その目的って」

 ふふ、と八雲は笑みを浮かべる。

「教えたら、叶ちゃんも手伝ってくれる?」

「死んだってお断りです」

「じゃあ内緒。……でも、きっと叶ちゃんは手伝ってくれると思うな」

 笑みを崩さない八雲は、懐から何かを取り出した。それを見た九朗が呻く。

「――やめろ」

 八雲が手にする瓶子。それは先日金子が持っていた瓶子と同じものだった。中に入っている液体が音を立てて揺れる。

「ねぇ叶ちゃん。これを飲んでくれたら九朗も彌月も、そしてあなたにも何もしないって約束するよ。無事に帰してあげる」

「信じるな、その女が約束を守る訳がない。他人をカトンボとも思わない毒婦だ」

「もう、またそんな意地悪言って。この状況を覆すような手が九朗にあるの?」

 瓶子の封を繙き、中身を盃に注ぐ。透明の液体が灯り始めた街灯の明かりを反射して光った。

「大丈夫、これは毒なんかじゃないよ。飲んでも体を壊すようなものでもない。ただ、少し特殊な成分が溶けだしていてね」

 口元に近付けられた盃を見て、叶が固唾を飲んだ。

「これを口にすれば、あなたの第六感はとても鋭くなるの。見えないものが見えるようになるし、感じないものを感じるようになる。こことは違うところにいる存在とか」

「……卑神のことですか」

「そう!」

 叶の返答を聞いて八雲の笑みが、これから行おうとすることのグロテスクさに反して明るくなった。

「彼らは常に『向こう側』から私達を通して『こちら側』へ還る機会を待っている。これを呑んだ人間は謂わば誘蛾灯だね、あなたにも縁があればきっといずれかの卑神に選ばれるよ」

「……私を卑神憑きにして何をさせたいんです?」

「それは叶ちゃんが、どんな卑神と縁を結ぶか次第」

 八雲は傍らに立つ赤黒い卑神――業陰を見上げて続ける。

「この子も悪くはあるんだけど……ね? 私の趣味じゃないんだ。使い所がない訳じゃないんだけど。ただ強いだけの卑神なんて興味ないんだ」

 話の水を向けられ、業陰は無言のままだがその体を震わす。

「少しだけ、分かったことがあります」

 差し出された盃を叶が受け取り、「やめろ」と九朗が呻くように言った。

「私、あなたのことが嫌いです。自分のためなら人の気持ちを踏みにじっても何とも思わない、他人に理不尽を押し付けても構わない、あなたみたいな人が。本当に、心底嫌いです」

「そう?」

 憎悪にも等しい言葉をぶつけられても、八雲は涼しい顔をしていた。

「私はもう叶ちゃんのこと友達みたいに思ってるけどなぁ」

 嘯く八雲の言葉を無視して、その眼前へ盃を突き出した。

「そして――こんなもの、必要ありません」

 そのまま盃を傾けた。ぱたぱたと透明の液体が溢れ、コンクリートの床に染みとなる。足元に広がった液体を見つめ、八雲が呟いた。

「ちょっと、意外だな。叶ちゃんは呑んでくれる方だと思った。てっきり自分を省みないタイプかなーって」

「勘違いしないで下さい」

 空になった盃を投げ、空いた手で制服の内側へ手を入れる。指先から伝わるのは、"お守り"の硬く冷たい感触。

「私は、『こんなもの必要ない』って言ったんです」

 外から差し込むわずかな光に照らされ、叶の取り出した"お守り"に反射した。黒曜石でできたような、黒く鋭く、湾曲した平らな板。まるで――仮面のように見えた。九朗も、そして八雲でさえも叶が取り出したそれを見て目を見開く。

 八雲に見せつけるようにゆっくりと、しかし確かな意志を持って。叶はそれを額へと押し戴き、宣言する。


――覚えておいて、この名前を。

 彼女は最期の力を振り絞り、幼い叶に"お守り"を握らせる。

――今は忘れてもいい、本当は思い出すこともないといいんだけれど……きっと運命はあなたを逃さない。そんな時、この名前はきっとあなたの力になってくれる。

――いい? この子の名前は……


「神威顕装――殻烏からがらす!」



 某県、とある山中において十年前。登山中の老夫婦により一人の少女が保護された。その少女はよほど過酷な目に遭ったのか「みんなもえてしまった」「へびにたべられてしまった」等と不明瞭な証言のみを繰り返すだけ。所持していたのは黒いガラス状の板のみであった。また付近の警察署にも少女に関する捜索願などは出されておらず、身元は不明なままだった。

 「生まれた時に出生届を出されなかった子供が何らかの理由により山中に置き去りにされたのであろう」という尤もらしい推測とともに孤児院へ送られることになりかけた少女は、その後彼女を保護した老夫婦に引き取られることとなり、二人のもとで何事もなく成長した。それから月日は流れ、彼女の内に残る家族の思い出は薄れ行くばかりだ。しかし彼女は、時折幼い頃に聞いた母親の言葉を思い出す。


――誰かの願いを叶えられる人になりますように。だから、あなたの名前はかなえっていうのよ



 その場にいた者達の中で最初に解へと至ったのは、業陰への抵抗で傷を負いながらも機を伺っていた彌月だった。

――あまりにも強い力を持つ卑神は、その依り代である卑神憑きにも影響を与える。

 八雲が叶に語って聞かせたこの一言は、「千年以上生き続けている八雲という異常な卑神憑き」の存在を納得させるためだけに生み出されたものだ。彼女ほどに異常といえる卑神憑きも、強力といえる卑神も、東雲村で確認されたことはなかった。だからこの一文は、八雲という存在を肯定するためだけに存在したものだ。


 だから、彌月はこの瞬間まで思い至らなかった。叶が懐からそれを取り出すまでは。それが、"仮面"であると認識するまでは。


「予知能力にも等しい、完璧な先読み――」


 思い返せば、彌月の姿が卑神が見えていたことも。卑神が見えていたことも。そして卑神という異形の存在に対し一切臆することなく対峙できたことも。

 "そう"考えれば容易に納得がいく。


「そんなものがあるとすれば、天佑神助でも神意でもない。まさに恩頼」


 叶の姿が掠れ、代わりに彼女と全く同じ動きを取る黒い姿が滲み出る。

 顔面を覆うのは黒く輝く、わずかに透ける硬質の面。流線型でしなやかなシルエットながら、弱さなどは微塵も感じさせない体躯。体の各所を覆うのは羽根のような意匠と、そして翼を畳んだような外套。そのいずれもが黒一色。

 唯一の例外が左手に備わった盾だった。装飾は少なく、ただ表面は一点の曇りがない鏡のように輝いている。


「――盾、じゃないね。鏡かな?」


 喜色を隠さない八雲に向け、叶が変じた卑神――殻烏が踏み出す。

「茜」

 八雲は傍らに立つ業陰へと呼び掛けた。その声を待たずして業陰は殻烏を目掛け駆け出している。疾走のさなか、業陰が振るう両腕から血飛沫が飛散し、その両の手中に赤い双剣を形成した。

(血液を操作して武器を形成する……〈蛟〉と同質の恩頼か?)

 九朗の眼前で業陰は双剣を交差させ、殻烏へと迫る。刃が火花を散らしながら殻烏へと迫り――

「……え?」

 次の瞬間、業陰は廃墟の壁へと激突していた。

 呆けた声を上げる彌月の眼には業陰が自ら壁へぶつかったようにしか見えなかったが、九朗は殻烏の動きをある程度捉えていた。

 突撃してきた業陰を殻烏は半身だけ躱して回避し、剣を握った腕を抑えていた。業陰は自らの勢いで手を支点として空中へ投げられ、宙に浮いたその体目掛けて殻烏は強烈な後ろ回し蹴りソバットを放っていた。

 だが、殻烏は逆様に壁へ突き刺さった業陰に目もくれず次の目標を目掛けて跳躍する。

「あら、次は私?」

 業陰を容易く蹴り飛ばした足刀が、音を置き去りにする速さで八雲へと迫る。

「目がいいのかしら、それとも別の何か?」

 文字通り刀のようにその頸を切り飛ばさんと迫った足刀は、しかし八雲の直前で止まっていた。殻烏はすぐさま後ろへ跳躍し、それを追うように地面を抉って極細の糸が走る。少しでも遅れれば殻烏の身体は絡め取られていただろう。

「期待以上だね、叶ちゃん! それに引き換え……」

 間合いを図り、構えずとも警戒は解かない殻烏。八雲はその視線を外し、無言のまま壁で蹲る業陰へと向けた。

「茜」

 自分に向けられた言葉ではないのに、その声が帯びた冷たさに九朗と彌月の肌が粟立った。短く名前を呼ばれた業陰が顔を上げる。

「あなたはどうなの、もうお仕舞い? それとも……私を失望させて、あの母親が待つ家へ帰りたいのかな」

 ざわり、と業陰の赤い体が総毛立つ。

「お前の命に価値があるというのなら、示してみなさい」



(叶……あんた、


 業陰を纏った茜は、前方の殻烏を見据えながら思う。殻烏は八雲へ視線を向けたまま、こちらを一瞥すらしない。


(本当は卑神のことも全部知ってたの? 知ってて……私のことを笑ってたんじゃないの?)


 脱力したまま、構えらしい構えを取らない殻烏。それはあらゆる事態に対処するための謂わば"無形"ではあったものの、茜には自分を虚仮にしていると受け取ることしかできなかった。


――私を失望させて、あの母親が待つ家へ帰りたいのかな。


 叶の脳髄に八雲の言葉がリフレインする。同時に想起するのは、耳障りな。通夜の席。そして……母親の声。

「私は、違う」

 双剣を握り直し、業陰が立ち上がる。叩き付けるように双剣を重ねると、二振りは融け合うようにして一つの巨大な鎌へと変形した。

「もう――前の私じゃ、ない!」

 絶叫と共に、再び業陰が殻烏を目掛けて跳ぶ。鎌の間合いに入り、ようやく殻烏は業陰を見た。赤い軌跡を残して振り下ろされる鎌を紙一重で、しかし危なげなく躱す。だが茜は殻烏に避けられることを想定した上で動きを組み立てていた。

(……った!)

 振り下ろされた鎌は地面に触れる直前、再び血飛沫となり殻烏の視界を閉ざす。業陰の身体から地面を伝い、血が幾条もの赤い線となって殻烏を囲んだ。

「穴だらけにしてやる――血河流アカラヒク葬輪華そうりんげ!」

 茜の言葉に呼応し、血液が再び花開く。殻烏を中心に前後左右上下、360°あらゆる方角から血の刃を向ける死の鳥籠を形成した。

 刺し貫かんと迫る刃が届く寸前。その時になってようやく、殻烏は業陰を見た。

「――あ」

 業陰から茜の声が漏れる。その全身を突き抜ける物理的な圧を伴った衝撃は、殻烏から放たれた敵意が齎したものだった。


 今この瞬間まで敵とすら見られていなかったことをようやく茜は理解した。先程の回し蹴りは、足下に転がっていた小石を爪先で弾いた程度のことだったのだろう。

 そして今、殻烏は間違いなく己を敵と見做している。排除するべき対象だと認識している。それだけのはずなのに。

(あれも同じ卑神、そのはずなのに――!)

 埋めがたい生物としての圧倒的な差から来る恐怖が茜の心を占める。


 殻烏が左腕の盾を構え、今まさに己を貫かんと伸び来たる無数の血刃を目掛けて飛ぶ。あまりにも無防備に見えた跳躍、しかし血刃の群れは盾に触れると、片端から飴細工のように砕けた。業陰が全精力を注ぎ込んだ切り札、血の牢獄の切り札を呆気なく砕き、殻烏が身を翻しながら足刀を走らせる。体の支えがない空中、体の発条だけで繰り出される回し蹴り。しかしそこに込められた威力は、業陰の命を刈り取るには十分過ぎる威力であった。

「はい、そこまで」

 殻烏の体が必殺の一撃を解き放つ直前で静止する。八雲の指から伸びた糸が廃墟のありとあらゆる場所を伝い、殻烏を絡み取っていた。

 が、しかし。

「……流石にこの程度じゃ止められないかな」

 殻烏の体が駒のように回転して糸を振り払う。一瞬の着地の後、今度は八雲に向けて跳躍。だが彼女は既に準備を終えていた。

 九朗の視線が、初めて見る八雲の形態へと注がれる。

(何だ、あの腕は!?)

 八雲の右腕は銀色の光沢に包まれていた。外つ国の甲冑のような、もしくは昆虫の外骨格のような、生物を逸脱しながらも人を模したような捻じくれた形。それが彼女の神威顕装――卑神の姿であると気付いた瞬間、廃墟の中に轟音と凄まじい衝撃波が吹き荒れる。


「叶ちゃんとも、もう少し遊んでいたいんだけれど」


 舞い上がった土埃が晴れた時、衝撃の爆心地の中心に佇んでいたのは八雲一人。吹き飛ばされた殻烏は未だ八雲への敵意を保ちつつも、流石に無傷とはいかなかったようだ。盾を構えながらも片膝をついていた。


「今日は偶然の出会いってことで、お楽しみは後日に取っておくね」

「……八雲様!」

 八雲が腕を振るとそれを包んでいた銀色の光沢は解除された。元に戻った手の調子を確かめるように関節を曲げていると、その傍らへ業陰が傅く。

「御助力ありがとうございます、後は私が――!」

「……あぁ、まだいたんだ」

 再び血の刃を形成して殻烏へ向けた業陰に対し、掛けられた声はひどく抑揚を欠いていた。

「手負いでも茜じゃ荷が重すぎるんだけど……その程度のことも分からない?」

 赤刃を握った手が揺れる業陰の様子に気付かないかのように、否、気付いてなお八雲は続けた。

「あなたはもう十分。せっかくお膳立てをしてあげたのに、初めて神威顕装をした子に手も足も出ないんだもの。底が見えちゃった、もういいよ。後は母親のところへ帰るなり好きにすれば?」

「八雲!」

 声を荒げる九朗の眼前を目掛け、軽い音を立てて凄門の面が投げられた。

「九朗ももう少し強くなってほしいな、あなたはやればできる子なんだから。でないと、これから大変だよ?」

 ふわりと八雲の体が浮き、天井に空いた穴へと手を掛ける。

「望めば虎にも龍にもなれるというのに、あなたはいつまで地を這う野良犬でいるの?」

「――待て!」

 顔も見ず肩越しに投げかけられた言葉。だが次の瞬間、少女の姿をした怪物は跡形もなく消えていた。そして力なく立ち上がった業陰も、佇んでいる殻烏を一瞥してから八雲を追うように翼を広げて飛び立つ。

 二つの影が見えなくなった後、九朗は身を捩りながらなんとか体を起こした。

「散々好き勝手して行ったわね、いつものことだけど」

 満身創痍といういで立ちで、彌月も傷を押さえながら立ち上がる。

「……すまない、あれを目の前にして我を忘れていた」

「ん、反省しているならよろしい。どうせあの人の狙い通りに動かされたんだろうけどね。それで……」

 九朗の手足を縛る糸を千切りながら彌月がぼやいた。死線の先には黒い卑神。その視線が二人に真っ直ぐ向けられていた。

「……卑神を解除する方法が分からない、って感じじゃないわよね」

「ないな。仮面を外せばいいだけだし、そもそもそういった方法は卑神になった時に『理解する』」

 人間が呼吸の仕方を忘れないように。歩き方が分からなくならないように。卑神憑きには卑神の体を動かすためのマニュアルのようなものが、初めて神威顕装を行う際に脳へと刷り込まれる。それは恩頼を発動する方法であったり、あるいは卑神を解除する方法であったり、というものだ。

(ならばなぜ、彼女は神威顕装を解除しない?)

 恐る恐る、といった様子で彌月が殻烏へ声をかける。

「叶さん、大丈夫? どこか怪我でもした?」

「――待て」

 少し前へ出た彌月に合わせ、殻烏が視線を動かす。それを見てようやく九朗は殻烏が二人ではなく、彌月だけを見ていたことに気付いた。

 殻烏は両手をゆっくりと降ろす。それは先程まで業陰と対峙する時に見せていた"無形"の構え。殻烏の体が僅かに沈み――

「危ない!」

 咄嗟に彌月を庇った九朗だったが、強風に押されたかのように二人の体が壁へと押し込まれた。そして二人が寸前までいた場所に、今は殻烏が拳を振り抜く直前の姿で立っている。

(拳を振らず、移動するだけでこの衝撃なのか⁉)

 無論拳が直撃していれば二人とも無事では済まなかっただろうが。

「私を狙った? そんなに嫌われることをした覚えはないんだけど!」

「多分、お前の体の中にある糸が原因だ」

 言われて彌月は、己の傷から覗く糸の束を見た。

「お前の今の体は八雲が……瑞妃の亡骸を元に、糸を加えて作ったものだ。そのせいであれはお前を八雲の眷属か何かだと認識しているんだろう」

「迷惑な話ね! でも、それならあの卑神を動かしているのは……?」

「御崎叶の意思では、ない」

 彌月が息を呑む。卑神の体を、卑神憑きである人間以外が動かすことは通常有り得ざることだ。卑神に意識はない、神代に失われた。

「あれが『祟り』だとは考え辛い、彼女がその条件を満たしているとは思えないからな。お前を殺したいほど嫌っているなら話は別なんだが」

「冗談言ってる場合じゃないわよ、どうするの?」

「ここから見逃してくれるならありがたいんだが、望み薄だろな」

 殻烏と彌月との間に立ちはだかり、九朗は拾い上げた面を構える。

「刺し違えてでも彼女を無力化する」

 でも、と続けかけた言葉を彌月は呑み込む。言っても仕方のないことだ、これしか方法はないと彼女も分かっている。それでも。

 九朗と八雲との差は隔絶している。先程も鎧袖一触、成す術もなく降されたことは明らかだ。その八雲に、殻烏は抗ってみせた。彼女がそれほど積極的ではなかったとはいえ、業陰を相手にしながら。その業陰ですら、先日の猿咬徒よりはよほど手強い卑神だと思えた。


 その殻烏に、「刺し違える」程度の覚悟で勝てるのか。


「――神威顕装、凄門!」

 仮面を拝戴し、九朗は異形の姿へと変異する。卑神の負った傷は卑神憑きへの精神へと還る、一度意識を失ったお陰か凄門のコンディションは多少ではあるが回復していた。

(万全の時と比べれば三、四割といったところか。例え好調だろうとあれに勝てるとは思えないが……)

 凄門は直刀を構え、正眼に構える。殻烏の動きはその速度故にを捉えることはできないが、来ると分かっていればやりようは――

 九朗の思考がそこまで進んだ時。

 たん、と目の前で乾いた破裂音がする。それが一瞬で距離を詰めた殻烏の踏み込んだ足が立てた音だと気付いた時、凄門は構えを解いて直刀の峰に左手を添えていた。

 続いて衝撃。殻烏が放ったのは決して渾身ではない単なる拳打であった。

(たかがジャブ程度、それが……!)

 だが正眼のままでいれば直刀を容易に跳ね飛ばしていたであろう重く鋭い一撃であった。

「――零落神名帳・ひだる!」

 防御を考えず振るわれる、なりふり構わない剣閃が淡い光とともに軌跡を描く。すでに間合いの内に殻烏はおらず、一歩で踏み込めるよりわずかに離れて佇んでいる。

(間合いを取った、が有効だと判断したのか……?)

 殻烏は淡光を放つ直刀に目を落とす。〈饑〉は刀を通して生気の与奪を行う恩頼だ。その力を最大限発揮すれば僅かな傷で相手を戦闘不能に陥らせることができるが、あらゆる性能が凄門を上回る殻烏を相手取るには決して上策ではない。それでも、手加減できない相手であっても、無闇に傷付けることも避けたい。九朗が勘案した末の判断であった。

(問題は俺に……凄門に残された体力が心許ないこと。そして――)

 視界から殻烏の姿が消えるのと、凄門が跳躍したのとは同時だった。深く身を沈めた殻烏の足払いは不発に終わり、無防備な脳天を目掛けて凄門は空中から直刀を振り下ろす。

 その刀身が、弾き飛ばされた。

「なッ……!」

 思わず驚愕の声が漏れる。剣の腹を横から叩いたのは殻烏の踵。足払いを躱された殻烏はその勢いのまま回転し、屈んだまま後ろ回し蹴りを放っていた。咄嗟でできる判断ではない、初撃が回避されることを全て織り込んだ上での運びであった。

 空を切る凄門の両手、そして殻烏は身を起こしつつ回転の勢いで右半身を後ろへ下げる構え。咄嗟にその身を庇った凄門の両腕へと、殻烏の正拳突きが突き刺さった。


 彌月の目の前で廃墟の壁へと吹き飛ばされた凄門。勝負が決まったのは明白だった。殻烏は立ち上がると、まだ神威顕装を解除しない凄門へ向けて歩を進める。

 今の一撃で凄門の「御」が破壊されなかったのは偶然でしかない、次は確実な止めを刺す気だ。精神の消耗を度外視した短時間の連続した神威顕装、凄門に逆転の手はない。

「何か――何かないの!?」

 黒い翼を携えた死神が凄門へと迫るなか、声を上げる彌月の視界の隅で何かが光った。

「これは……?」

 それは地面に落ちていた糸だった。自分のものではない、先ほどまで九朗の手足を縛っていた八雲の糸。

 彌月も知る八雲の恩頼――〈萬物伝導〉。それを為す恩頼の要である糸。その糸が、廃屋の天井に空いた穴から届くわずかな光を受けて輝いていた。思わず掴み上げた彌月の手は、その重さを全く感じ取ることができない。

 同じく糸を使う者であっても。いや、同じく糸を使う者だからこそ、その糸が己のものとはまるで異なる力を秘めていると分かった。

「イチかバチか……って、考えている暇もなさそうね」

 迷っている暇はなかった。彌月は糸の束を口に押し付けて嚥下した。



 最初はそれが音だと認識できなかった。

 鼓膜を通して脳へと叩き付けられる刺激を、彌月は物理的な衝撃と認識していた。

(違う、これは――)

 ほんの少しずつだが、彼女の脳が適応して音の輪郭を捉え始める。

 

 烏の羽音。

 下水の水音。

 叢で蠢く虫達。

 揺れる草木の音。

 車のクラクション。

 ビルを巡る空調の音。

 雑踏を歩く人々の足音。

 会話、雑談、罵声と喧噪。

 風で僅かに軋んだビルの音。  

 遥かな地中を走る地下鉄の音。

 次第に小さくなる、九朗の鼓動。

 その全てが一度に奔流となり、彌月の思考をかき乱した。

(これが、あの人が糸で知覚している世界……)

 彌月の全身に張り巡らされた糸は、八雲の糸を取り込むことで暴走と言えるほどの活性化を遂げていた。とても制御できるとは思えない、しかし他に方法があるとも思えない。

「この糸なら、萬物を伝導するあの人の糸なら――!」

 今まさに凄門を目掛けて拳を振り下ろさんとする殻烏を目掛けて駆け出す。その顔がこちらに向けられた。だがもう止めることはできない、走り出した以上はこの手しかない。

 狙うは殻烏の眉間。そこが正しいという確信はない、だが彌月はそこだと決めた。

(後はもう、どうとでもなれ……!)

 彌月の指から糸が伸びる。いつもの糸とは違う、さらに細く、月の光のように輝く糸。殻烏はそれを軽く払おうと手を伸ばし――

「余所見を……」

 九朗が吠え、腰に帯びていた鞘を引き抜く。

「するな!」

 技もなにもない、力任せの「居合」。殻烏に傷を負わせられるものではない、容易く払われるであろう。しかし。

(出たとこ勝負は得意じゃないんだが――!)

 丹田に力をこめ、恩頼を起動する。選択するのは〈蛟〉と〈鑪〉。水冰と炎熱、相反する効果を同時に発動させる。

――零落神名帳で複数の恩頼を起動するのには種類がある。

 連続して起動する〈続祀つづけまつりて〉。

 同時に起動する〈併祀あはせまつりて〉。八雲との戦闘で霧を生み出したのは、これに該当する。

 それらに続く、三つ目。


(〈続祀〉も〈併祀〉も、この卑神相手には足りないが……!)


 振り抜かれる鞘を殻烏は盾も使わず受け止める。何の小細工もない鞘一つ、造作もないことだった。だから、受け止めさせた。

 殻烏が止めた鞘の先端、その一部が白い光を発する。


「――累祀かさねまつりて、零落神名帳・不知火しらぬひ!」


 複数の効果を一点で発動し全く異なる効果を生み出す〈累祀かさねまつりて〉。負担が大きく、持続時間も短くて効果も小規模。それ故に生み出す効果は、他の零落神名帳に類を見ない。

 一秒にも満たない、線香花火のような小さい光。しかしその笹谷かな光が灯った鞘を、殻烏は手ではなく盾を以て弾いた。先程の〈饑〉による攻撃を危険と判断し回避した。で、あれば。

(〈不知火〉の威力なら、お前は確実に盾で防ぐ!)

 殻烏の意識がただ一時凄門のみに注がれ、その防御ががら空きになる。

「今だ、彌月!」

 凄門――九朗と彌月とを繋ぐ糸によって、彼女が何かを狙っていることだけは伝わっていた。詳細は分からない、ただ「時間を稼いでほしい」という意思だけ。彌月から返答はない、ただ肯定の意だけが糸を通じて伝わった。 

「私の、声!」

 手首を翻した彌月の拳に糸が絡まる。

「伝わって!」

 面に覆われた殻烏の額。その正中に彌月の拳が叩き込まれた。



――……え?


 彌月は呆けた声を漏らす。確か自分はさっきまで廃墟のなかで、殻烏を止めようと九朗とともに戦っていたはずだ。


――これは……何?


 どうして、自分は夜空を飛んでいるのか。

 どうして、腕の中に叶が眠っているのか。

 どうして、大地は激しく燃え盛っているのか。


 どういうことだ、と体を動かそうとして気付いた。体が勝手に動いている――というより、これは自分の体ではない。自分は今誰かの体に、視界だけを間借りしているかのような状態だ。

 先ほど八雲の糸を食したことで、音を伝導するという能力が制御不能なまでに強化された彌月の糸。それを用いて殻烏へと神威顕装をしたものの、何らかの理由によって殻烏の体を動かせない状態にいる叶か、もしくは殻烏の殻を動かしている何者かへ自身の声を伝えることで意思疎通ができるのではないか――それが彌月の考えだった。

 推論に推論を重ねた、とうてい成功するとは思えない、作戦とすら呼べないもの。だが今見ている状況は、彌月の想定を遥かに超えていた。


(音を伝える能力が強化されたんじゃない。〈萬物伝導〉が限定的に発揮されて、殻烏の思念が私に伝わっている……?)


 自分ではない誰かは、叶を抱いたまま炎から逃れようと空を飛び続けている。眼下では街も、人も、山も何もかもが紅蓮に包まれている。

 その視界が、炎の中の一点に引き付けられた。

 否、一点どころではない。完全に炎と同化した巨大な何かが蠢いていると、彌月はその時ようやく気付いた。比較できるようなものがすべて炎上しているため大きさは把握できないが、建造物ではなくむしろ山や河と比べた方が適切だと思えるほど巨大に感じられた。


(あれは――卑神?)


 最初は巨大な道が燃えているのだと思った。しかしどれだけ幅広い道であろうと、街を呑み込むほどの面積はない。そして、道は自らの意志を持って動くはずがない。

 八つに岐れた道の一つが、こちらを見上げて鎌首をもたげる。


――……蛇?


 太陽で発生する紅炎プロミネンスと見紛うほど巨大な炎が、咆哮を上げてこちらを見据える。それに応じて周囲の炎が渦となり、天を焦がさんとこちらへ迫った。彌月が視界を借りる何かは黒い翼を羽ばたかせ、空へと逃れる。視界の隅に写る翼の意匠が、先ほど戦っていた殻烏と重なった。


――じゃあ、私が見ているこの光景は殻烏が見た景色? 私は今、あの卑神の記憶の中に……


 蛇がさらに咆哮を放ち、炎の猛りが一層激しくなる。間に合わない、そう彌月が思った刹那。


 ぱちん、と音を立てて世界が弾けた。



「彌月!」

 名前を呼ばれて意識を取り戻す。いや、意識を失っていた訳ではない。糸が巻き付いた右手は殻烏の面に触れたままだ。まだ顔を殴りつけるように触れてから、おそらく刹那と時間は経っていないのだろう。一瞬の白昼夢のような光景は、覚醒したはずの彌月の脳裏に今も色濃く残っている。

 後ずさり、殻烏を見上げる。面の奥に見える瞳は自分を追ってはいない、まるで立ったまま気絶しているようだ。

「九朗、今よ!」

 凄門が地面に落ちていた直刀を踏み付ける。反動で跳ね上がった直刀を掴むと、まるで弓を弾き絞るように構えた。

「暴れるなよ、加減なんてできないんだからな!」

 とん、と置くように突き出された直刀の切っ先。殻烏の胸元を撫でるように刺さった刃が淡く輝く。

「――零落神名帳・ひだる!」

 刃を介し、殻烏の生気を奪う。「御」を破壊せず、卑神を行動不能に陥らせる、今出来得る唯一の方法。直刀を通して流れ込む荒れ狂う生気が、内側から九朗の身を焼いた。

(何だ、この力は……何者なんだ、この卑神は⁉)

 凄門の身体に糸が巻き付く。体内で暴れ回っていた生気が、その糸を伝い体外へと排出された。

「彌月⁉」

「過剰な分はこっちで何とかするわ、あんたはしっかり押さえてて!」

 生気は糸を燃やしながら、奔流となって廃墟内に充満する。彌月はその度に新たな糸を飛ばし、凄門から生気を排出し続けた。殻烏は抵抗することもなく棒立ちのまま、凄門の刃を受け入れ続ける。

 やがて暴風のように排出されていた生気は収まり、殻烏が膝をつく。その顔から面が落ちると体は霞のように消え去り、後には叶が残された。

「おっと」

 倒れ込みかけた叶の体を彌月が受け止める。

「大丈夫か」

「多分ね、今は眠ってるだけみたい」

 業陰を寄せ付けず、八雲にさえ抗ってみせた卑神憑きの少女は今、静かに寝息を立てていた。しばらくは目を覚ます気配がないことを確かめ、九朗は凄門の神威顕装を解除する。

「その子も心配だが、お前もだ。その糸……〈萬物伝導〉か」

「そ、あの人の糸を食べたのよ。眷属と間違われるくらいなら、あれを取り込めば音を伝播させる以外にも何かできるようになるんじゃないかと思って。確証はなかったけど結果オーライね」

「無茶をする……」

 呆れた様子の九朗を見て、彌月は口を尖らせた。

「あんたこそ、饑を使えばこの子を元に戻せるなんて確証なかったでしょ」

「今ある手で一番穏便だったのがこれだった。駄目ならお前を背負って逃げたさ」

「無茶はどっちよ、全くアンタは……」

 立ち上がろうとした彌月がふらつき、その腕を九朗が掴んだ。

「無理はするな、後のことは何とかしておくから帰って休め」

「そういう訳にはいかないのよ、叶さんのこと」

 彌月は寝息を立てている叶に目を向けた。

「この子は、ただ巻き込まれただけだと思ってた。でも……この子は私たちの知らないもっと深い事情を抱えているわ」

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