第5話 金剛不壊 殻烏②

 道の真ん中で立ち止まったまま会話を続ける訳にもいかず、叶はひとまず少女を連れて手近な喫茶店へと入った。学校帰りの女学生と和装の少女という組合せは店内でも浮いていたが、幸い客はまばらだ。数少ない何人かもこちらにちらりと視線を向けただけで、目立った反応はない。叶は奥まった窓際の席を選ぶと少女を座るよう促した。傾きかけた陽の光に照らされた均整の取れた顔立ちはまるで日本人形のように見え、同性である叶でさえも少し心が落ち着かなくなる。

「ええと、私は御崎叶っていいます。あなたのお名前は?」

 昨日の反省を受けて、叶はそう切り出す。

たちばな八雲やくもといいます。九朗さんたちとは同郷で」

 続いて八雲が名前を挙げたのは、ここから新幹線や電車を乗り継いでも数時間はかかる場所だった。

「風の噂で二人が危険な仕事をしていると聞いて心配で……。お館様にも無理を言って出てきました」

(お、お館様……?)

 どうやら古風なのは見た目だけではないらしい。自分が知らないだけで、まだそういう風習が続く場所はあるのだろう。しかし、確かに二人が「危険な仕事」をしているのは確かだ。

(なら、この子は卑神のことを知っているの……?)

 そんな疑問が叶の脳裏を過ぎる。とはいえ彼女自身、自分が昨日目撃した事態が現実のものと信じ切ることができず、そのような状態で卑神のことを打ち明けるつもりにはなれなかった。

「失礼を承知でお聞きしますが、叶様は九朗さん達とはどのような御関係なのですか?」

「御関係――命の恩人、かな。私が危ない目に遭ったところを、二人が助けてくれたの」

「なるほど、どおりで」

 納得したように頷くと、八雲は意を決したような目で続けた。

「叶様……その『危ない目』とは、卑神に関することではありませんか」

 薄々予想していたとはいえ、急に飛び出した「卑神」という単語に叶の目が泳ぐ。それが何よりも叶の内心を雄弁に物語っており、見て取った八雲は「やはり、御存じですか」と頷いた。

「ではある程度卑神については理解されているという前提でお話しします。……実は、私共の郷里では『卑神憑き』――卑神を体に降ろす『神懸り』となる技術を古くから伝承しているのです」

「それって、九朗さんみたいな『卑神憑き』がもっと沢山いるってことですか?」

「沢山、というほどではありません」

 八雲は運ばれてきた水を飲み、続ける。

「元々過疎が進んでいた村ですし、誰でもなれる訳ではありません」

「才能とか、向き不向きが?」

「いいえ、全てはえにしです。……叶さんは、『卑神』とは何だと思いますか?」

「何って……、トクサツに出てくる怪物とか、ですか?」

 何だ、と改めて問われてもあまりに材料が乏しく、叶には想像が及ばなかった。あの異様な風貌や目の当たりにした能力の特異さは、悪の秘密結社によって生み出された怪人と言われても納得しかねない。

「彼らはその名の通り、各々が一柱の『神』なのです。天津神によって討たれ、名も運命さだめすらも奪われて、『向こう側』に封じられた『まつろわぬ神々』。それが卑神なのです」

「神様って、お髭をたくわえて杖を持っていて、『フォフォフォ』って笑うお爺さんみたいな、あの?」

「それは随分ととつ国の印象に引っ張られていますね……」

 苦笑する八雲に、叶は質問を重ねる。

「でも封じられたって、おかしいじゃないですか。現に卑神はあんな風に表れて、暴れて……」

「問題はそこなのです」

 八雲は一拍置くと座り直し、叶の目を真っ直ぐに見つめた。

「村には……ある卑神憑きが監禁されていました。それこそ封印と言っていいでしょう、あの人は千年以上も前からいわやにいたのですから」

「せ、千年!?」

 思わず叶の声が上ずった。

「卑神憑きって、その人は人間……なんですよね? 本当に千年も生きていたんですか?」

「あまりにも強い力を持つ卑神は、その依り代である卑神憑きにも影響を与えることがあるといいます。そこまで強力な卑神の例はほとんど記録に残ってはいないのですが……」

 千年以上前となると、少なくとも平安時代。叶にとっては「日本史の授業で習う時代」以上の印象はなかった。

「そのうえ、千年というのはあくまであの人が閉じ込められた時点から数えてです。本当はもっと長生きなのかもしれません」

「そんな昔に、その人は一体何をやったんですか?」

「名前を出すことも禁忌とされていたので、私も詳しくは。ただ卑神憑き達を率い、その力を使って都を攻め滅ぼすようなことをした、と聞いております。結局争いには負け、しかし強すぎる力のため殺すことも叶わず、封じ続けるために私たちの村――東雲村は作られました。ですが……あの人は、千年間ただの一度も諦めていなかったんです」

 八雲が俯き、唇を噛む。

「あの人は、封じられながらも窟の中から人を操る術を持っていました。そしてある時、村に不和を齎して混乱を生じさせ、人を卑神憑きにする神酒を持ち村を去りました」

 そう言われて、叶は金子たちに飲まされそうになった瓶子入りの液体を思い出す。あれは彼らが何らかの事情でその「神酒」を手に入れたものなのだろう。

「その混乱の際、窟の封を解いてしまったのが九朗さんなのです」

「じゃあ、あの人はそれに責任を感じて――」

 八雲は沈痛な面持ちでグラスを握りしめた。こわばった指先が微かに震えている。

「九朗さんが直接殺めた訳ではないとはいえ、それをきっかけに人命が失われることとなったのは確かです。彌月さんも、その一人ですから」

「彌月さんって……あの人は生きているじゃないですか!」

「……彼女の身体、御覧になったことは?」

「それはもちろん――」

 ある、と言いかけて、それが言葉通りの問いではないことに気付く。記憶に残る彌月の体、傷を受けた時に見えた彼女の傷口からは、筋肉繊維の代わりに束ねられた無数の糸が覗いていた。

「彌月さん……元の彼女は、その混乱の折に命を落としました。今の彼女は失った体を、その卑神が恩頼で蘇らせた存在です。もちろん彼女は既に亡くなられているため以前とは別人ですし、記憶も受け継いではいませんが」

「そんなこと……卑神には可能なんですか?」

「普通の卑神ではできません、命を差配するなど。あの卑神はそれだけの力を持った卑神なのです。だから彼女の体は、半分が卑神と同じなんですよ」

「確かに普通の人間とは違うと思いましたけど、でも卑神だなんて……」

「あのような格好でも人目を集めませんでしょう? 卑神は只人には見えませんから」

 確かに叶が思い返してみれば、初めて出会った時の彌月を気に掛ける人間は周囲にいなかった。

「卑神が普通の人に見えないのは、以前村に来た学者さんが言うには認識阻害の一種と考えられるとかなんとか。あまりにも常識から外れたものだと、見えていてもそこに存在していないかのように脳が振る舞っているそです」

「じゃあ……彌月さんが使う糸も、卑神の力ということですか」

「失われた彼女の体を補うために与えられたものです。自分の体を削って使うようなものなのであまり多用はできませんし、卑神相手に戦えるほどではありませんが。なかなか便利に使っているでしょう? ものを運んだり移動したり、遠くの物音を聞いたりだとか。多分今も叶さんにも着いていますよ」

「えっ⁉」

 咄嗟に自分の体を検める叶。それらしいものは見当たらなかったが、彼女ならそうそう見つからない場所に付着させかねない。

「気に障ったのなら申し訳ありません。でも、あなたが一度卑神と関わった以上はいくら警戒しても足りるということはないのです。叶さんを守るためにしていることなのです、大目に見て差し上げて下さい」

「それは、そうでしょうけど――」

 拗ねたような表情の叶を見て、八雲はふふと笑みを浮かべた。



 コインパーキングに軽自動車を停め、九朗は彌月とともに件の支部へと歩き始めた。通りですれ違う多数の人は彌月に目もくれず、しかし彼女にぶつかりそうになると自然に避けて道を行く。

 ふ、と彌月が顔を上げた。「どうした」と前を歩く九朗が振り向く。

「叶さん、近くにいるわ。どうして気付かなかったのかしら」

「そんなに近いのか? まぁ……」

 九朗は周囲を見渡す。

「これほど人目のある所なら危険はさほどではないだろう。一人か?」

「ちょっと待って、一カ所に留まっている。移動もせず、どこか静かな場所にいるわ。会話は聞こえないし一人だと思う。けれど……うーん?」

 糸を確かめながら彌月は額に皺を寄せる。

「何か気になるのか」

「詳しくは分からないんだけど、脈や呼吸はまるで誰かといるような感じがするわ。胸が騒ぐような話を聞いている、そんな感じがする」



 叶が八雲に、昨日の卑神との遭遇や九朗に助けられたことなどをおおよそ話し終えた頃。

「あっ、噂をすればです」

 八雲が声を上げた。その視線の先、道路を挟んだ喫茶店の向かいに、九朗と彌月の姿が見える。

「声をかけてみましょう、きっと驚きますよ」

「あ、でも――」

 叶は昨日、別れ際に九朗から告げられた言葉を思い出す。

「怒られるかもしれません。卑神のことは全部忘れろって言われたばっかりですし」

「大丈夫、その時は私が謝ってあげます。きっと私の方が叱られますよ」

 えへん、と言わんばかりに胸を張る八雲。何にそれほどの自信があるのかは分からないが、年下の少女にそこまで言われては叶も折れざるを得なかった。

 会計を済ませ、八雲に手を引かれて叶は店を出る。道の向こうでは九朗が立ち止まり、彌月と何か話し込んでいるのが見えた。

「どうやって声をかけよう、まさかここから叫ぶ訳にもいきませんし」

「大丈夫です、二人ともすぐこちらに気付きますよ」

 そう言いながら八雲が摘まみ上げたのは、夕日を受けてきらきらと光る極細の糸。それは叶の腰辺りから続いており、先は彌月の方角へと伸びていた。

「あ、本当に付いてたんだ……あれ? でもその糸――」

 叶が見えたのは自分から伸びた糸のすぐ先。糸は枝分かれし、伸びたもう一本は八雲の指先へと続いていた。

「えいっ」

 ふつり、と。そんな音を立てた気がして糸が切れた。



 彌月が音を立てて息を呑む。九朗が見やると、その顔は仮面越しでも分かるほどに蒼白だった。一度死んだ身である彼女だったが、顔面がそうまで蒼白くなっているのはそれだけが理由ではない。

「嘘よ……なんで⁉ どうして叶さんが、その人といるのよ!」

「どうした、何があった?」

 只ならぬ様子を感じた九朗だが、彼に叶から伸びた糸は着いていない。彌月が一体何を知覚し、ここまで焦燥に駆られているのかは分からなかった。

 弾かれたように顔を上げる彌月。その視線の先には――



「ほら、気付いてくれました」

 八雲の言う通り、九朗と彌月の視線が叶に向けられる。

(……しまった、どんな言い訳をするか考えてなかったな)

 まさか本当に八雲を盾にする訳にもいくまい。

 今更ながらそんなことを思った叶だったが、すぐに二人の様子が普通ではないことに気付く。彌月は硬直し、九朗はこちらを見ている。いや、彼が見ているのは――


「八雲」

 零れるように、九朗の口が名前を呼ぶ。


「ええ、私よ。九朗」

 彼の声が聞こえているかのように応えた八雲。だが叶は、その声のトーンが先程とまるで異なっていることに気付いた。


「八雲……」

 そんな、と呻き声を上げる彌月。震える手で九朗は懐から、二本の角と四つの目が象られた面を取り出す。


「会いたかったわ、九朗。あなたもそうでしょう?」

「それって――」

 どういう、と八雲を聞き咎めた叶の言葉を遮る音が轟いた。

 否、ただの音などではない。意味のある音、声、言葉。名前だ。たった三文字の。ただ、そこにこめられた感情だけが尋常ではない。


「――八ァ雲ォォォ!!!」


 風が吹き荒れる。見上げた叶の眼前、凄門への神威顕装を果たした九朗が直刀を大上段に構えていた。

 続いて自動車がガードレールに激突したかのような激しい音が辺りに響く。

「きゃっ!」

「何だ、事故か!?」

 周囲を歩いていた人々が驚愕の声を上げたが、その視線は周囲を見渡すばかりで凄門達には向けられていない。

(本当に、この人達には卑神が見えていないんだ)

 改めてそのことを確認した叶だったが、目に飛び込んできた事態はそれどころではなかった。

 大上段から振り下ろされた凄門の直刀を、八雲は涼しい顔で受け止めていた。それも、たった三本の指で。

「再開の挨拶にしては随分とささやかだね、私に会いたくなかった?」

「抜かせ、毒婦が! 零落神名帳・たたら!」

 九朗の声に応じて直刀が炎を帯びる。猿咬徒を銛ごと溶断した炎の刃は、離れた場所にいる叶でさえ肌が焼けるような熱を生じる。が、しかし。

「――あまり失望させないで」

 その命を断ち斬らんと迫る赤熱化した刃を、八雲は未だ涼しい顔を崩さず平然と受け止め続けている。髪の毛の一本も焦がすことなく、火の粉が肌に触れることなく。淑女が桜の枝に触れるが如く、彼女の指は直刀を止めていた。

 そして再びの衝撃音。思わず目を閉じた叶だったが、再び目蓋を開いた時には凄門の巨躯が文字通り目の前から消えていた。その場に残っていたのは足を高く振り抜いた八雲の姿。

「……えっ?」

 見上げれば遥か上空、凄門が宙を舞っていた。50メートルほどだろうか、付近にあるどのビルよりも高所。まるで凄まじい勢いで何かに打ち上げられたかのように。

「じゃあ叶ちゃん、また後でね。ちゃんと先導を寄越すから」

 呆けた叶にそう言い残し、凄門を追うように上空へと飛び去る八雲。跳ねるような挙動はまるで、彌月が叶を抱いて空へ飛び上がった際の動きを連想させた。

「――叶ちゃん!」

 叫びながら彌月が走り寄って来る。彼女が激しい焦燥に駆られていることは仮面越しにでもすぐに分かった。

「どうしてあの人と一緒にいたの!?」

「わ、私も何が何だか」

 目の前の事態が呑み込めず、また彌月の様子に気圧されて叶はしどろもどろになる。「八雲さん、いや橘さんとは――」と話し始めたその時。「橘」という名字を聞いて彌月が声にならないうめき声を上げた。

「あの人が……そう名乗ったの?」

 異様な雰囲気に呑まれ、叶はがくがくと首を縦に振る。

「そのこと、九朗の前では絶対に出さないで。あの人はただの『八雲』よ、『橘』なんて名前と何の関係もないわ」

「――そうだ、九朗さん」

 それを聞いて叶の脳裏に、先程聞いたばかりの話が思い出される。

「本当なんですか、あの人が千年間封印されていた卑神憑きを解放してしまったって」

「……ええ」

 苦々しい顔で彌月は頷く。

「間違いないわ。あの人を――八雲を解き放ってしまったのは九朗よ。その所為で村の生き残りはもう、あいつ一人しかいないわ」

 えっ、と叶は呆けたような声を上げる。

「つまり、八雲さんが千年封印されていた卑神憑き……?」

(その所為で、彌月さんの肉体は一度死んだ?)

 口にできず言い淀んでいた叶の言葉を、当の本人である彌月が引き継ぐ。

「ええ、そうよ」

 言葉に詰まる叶を引き継ぎ、彌月が続ける。

「あれが神代から生き永らえる唯一無二の卑神憑き、決してまつろわぬ『土蜘蛛つちぐも』の八雲。この体の本来の持ち主、橘瑞妃みずきが死ぬきっかけとなった、そして今もなお各地で卑神憑きを増やし続けている全ての元凶よ」

 そんな人と、自分は机を囲んでいたのか。今になって自分が瀕していた危機に気付いた叶の腕を彌月が掴む。

「とにかく、あの人が出てきた以上はもう何が起きてもおかしくないわ。何かあればあなたは神祇院外局に保護してもらえるよう手配はしてあるから、今すぐ――」

「そんなの、許さない」

 叶を連れて彌月が歩き出そうとした時、底冷えしそうな声が二人へ届いた。弾かれたように顔を上げた叶の瞳に写ったのは、先日より幾分かやつれた様子の茜だった。頬は赤く腫れ上がっている。

「茜ちゃん、今までどこに――」

「ねぇ、どうしてあの時瓶子を壊したの?」

 叶の問いを黙殺して茜が言葉を発する。その手が晴れた頬へと伸びていた。

「あの後ね、金子さんに殴られちゃった。基調な神酒だったのにどうしてくれるんだ、これ以上卑神憑きを増やせないじゃないか……って」

「それは――」

 確かに叶は彌月に連れられて逃げる際、茜の手から瓶子を叩き落としていた。あの時はそれが人を卑神憑きにするものだとは知らず、危険な薬物か何かだと思ったからだ。

「でも、もういいの。今はあんな人じゃなくて八雲さんが私を導いてくれる。八雲さんが私を見てくれる。あんな家に帰らなくても、私の居場所はちゃんとあるんだって心の底からそう思えるの。だから……」

 叶に構わず話し続けながら茜は何かを取り出した。それは――何かの獣を模した面。

「私は八雲さんに報いなきゃいけないの」

「お願い、やめて茜ちゃん」

「どうして?」

 面を額へと近付けた茜の手が止まり、その隙に彌月は叶の前に出る。いつでも糸を飛ばせるよう幾束か指に絡ませるが、茜手から面を奪うにはわずかに間合いが足りない。

「私のことが心配なんでしょう? なら一緒に来てよ。私と一緒に、八雲様の所へ行こうよ」

「……行けない」

 躊躇いながら、しかしはっきりと叶は口にする。それを聞いて茜は諦めたような笑みを浮かべた。

「そうだよね。あんた、いい子だもんね」

「違う。茜ちゃんをあの人の所へ行かせたくないだけ」

 じり、と彌月は茜へ向け距離を詰める、その意図を掴まれる前に糸の間合いへと捉えることを狙いながら。

「あの人はあなたのことなんか見ていないわ。自分の手駒として使い潰して、飽きたらまた別の玩具で遊び始めるの」

「うるさい、あなたに何が分かるの」

「分かるのよ、

 帰ってきた予想以上に強い口調に茜が後ずさるが、仮面を持つ指に力を込めて再び顔を険しくする。

「八雲さんと離れて、またあの家に戻れっていうの? 叶だって知ってるでしょ、が死んであの家がどうなったか。お父さんが帰ってこなくなって、あの女がどんどんおかしくなって!」

「――だけど、それが誰かに理不尽を押し付けていい理由にはならないよ……!」

「うるさい、うるさいうるさい!」

 駄々をこねる幼子の様に茜は叫び、再び面を正面に構える。奇妙な獣を模した仮面が、茜の顔に重なりかける。

「あんたに――もう親がいないあんたに、私の気持ちなんか分かるはずないのよ!」

「茜ちゃん、駄目!」

 彌月が茜を目掛けて跳躍し、同時に糸を飛ばす。その先が到達するより早く茜が仮面を推し戴いた。

「神威顕装――業陰かあまいん

 叶は彌月の背中越しに、その瞬間を目に焼き付けた。空間から滲み出るようにして姿を現した異形の巨躯が、茜の姿を覆い隠す。折りたたまれた皮膜を具えた、鳥とも獣ともつかない四肢。血に濡れて乾いたような、ひび割れた赤黒い体躯。面の奥から二つの眼が叶の姿を捉える。

「八雲さんがね、二人とも連れて来いっていうの。本当は嫌なのよ、だってあんた、きっと私より上手くやれるでしょ?」

 「叶さん、逃げて!」

 叫びながら彌月は糸を放つが、業陰の羽ばたきによって巻き起こった風に押し流される。業陰は見せつけるように掌を翳し、それに呼応して体表から矢印のような赤黒い線が迸った。

血河流アカラヒク葬輪華そうりんげ


 ああ、間に合わない。地面を伝い、眼前の異形から走る赤い線を見て叶は悟る。いくら一瞬先が読めようとも、先読みを反映できる体がないと意味がない。

 それが前後左右上下、ありとあらゆる方角から迫る槍のように硬質化した血液を目の前にして叶が抱いた感想だった。


 叶の眼前で、激しい赤色の華が花弁を開いた。



 上空に高く放り出された凄門の中で「蹴り上げられた」ということだけ認識できた九朗は、凄門を通して腹部へと伝わった衝撃でそれが如何なる威力であったかを思い知った。卑神が負った傷は卑神憑きへ影響を及ぼすことはない、はずなのに。八雲の蹴りはその大前提を覆すほどの威力を有していた。

 このまま地面へ叩き付けられる訳にはいかない。直刀を抜きざま、己の掌を浅く斬る。

「零落神名帳・姑獲鳥うぶめ!」

 途端に身体から質量が減少する。凄門は体を広げて空気の抵抗を受けながら、そのままビルの屋上へ静かに着地。直刀を構え周囲を警戒した。

(どこだ……⁉)

「質量操作、懐かしいね」

 声とともに来た衝撃で九朗の思考が真っ白になる。

 脳天に衝撃、などという生易しいものではない。天地が逆転したような勢いで凄門は地面に叩き付けられる。遅れて理解するのは、直上からの……おそらく踵落とし。落雷のような一撃だった。

「憶えてる? って、忘れる訳ないか。九朗に優しかったもんね。あの子、確か名前は――」

「黙れ!」

 起き上がりざまに直刀を払う。視界のすみでふわりと浮かぶ和装の少女。

「――八雲」

「そんなに呼ばなくても聞こえてるよ。甘えん坊だなぁ、やっぱり私に会いたかったんじゃない。ぎゅってしてあげようか?」

 ビルの屋上に設置された貯水槽の上へ、声の主は音もなく降り立つ。

 出来の悪い子供をあやすような少女の声。惑わされていたかもしれない、九朗の腹に憎悪が煮え滾っていなければ。目の前にいるのは見た目通りの少女などではない、こいつは――

「ご飯、ちゃんと食べてる? 仕事が忙しいからって食事は手を抜いちゃダメよ。彌月とは仲良くやれてる? 喧嘩してない?」

 かたかたと直刀の鍔が音を立てる。九朗は気付かぬうちに柄を握り締めていた手を緩め、調息した後に八雲へと向き直った。八相の構えから、さらに直刀を肩に担ぐようにして傾ける。

「東雲村を滅ぼし、卑神憑きを撒き散らし、今度はこの街を地獄に変えるのか」

「酷い。そんな言い方しないでよ、いじわる」

 かつんと、八雲の履いた下駄が貯水槽で音を立てた。拗ねたように貯水槽を蹴を蹴ってみせる仕草、だがその足は先程卑神の頭部を打擲し、床へとめり込ませたのだ。

「私はただ、あなたのためを思って――」

「吐かせ!」

 叫びながら滑るように踏み込み、跳躍する凄門。零落神名帳・姑獲鳥――八雲が「質量操作」と呼んだ恩頼。その異能により凄門は、自身及び自身に属する甲冑や直刀の質量を操作できた。上限は己の質量の二倍、加減はほぼ零に。落下の際に空気抵抗で衝撃を減らすため発動させた質量の減少はまだ持続していた。脳天目掛けて振り下ろされた直刀を……

「前にも言わなかったっけ。は便利だけれど」

 先程の光景を再演するかのように、八雲は再び指先だけで受け止める。

「剣撃の威力が損なわれるから、使いどころは考えなさいって」

「言ってろ!」

 受け止めた刃に違和感を抱く八雲。質量を減らしていたとしても、今の刀は威力が軽すぎる。それもそのはず、直刀を握っているのは凄門の右手だけだった。そして左手は――

 背後に飛び、下から掬い上げるような一撃を躱す八雲。凄門の左手には、逆手で構えた直刀の鞘。その風を切る音から、八雲は鞘の質量に凄門と同等の質量が上乗せされていることを察する。

「惜しい、今のは当たっていたかもね!」

「用があるのはお前じゃない、こっちだ」

 歓喜で声が上擦る八雲を尻目に、凄門は足元の貯水槽へと直刀を突き立てる。

「零落神名帳・蛟」

 金属が擦れる不快な音を立てて貯水槽がひしゃげる。ずるり、と凄門が引き出したのは、直刀を芯に形成された巨大な金砕棒だった。

「ふふ、水冰操作だ。それも懐かしいね。憶えてる? 瑞妃ちゃん。また会いたいなぁ」

「――続祀つづけまつりて、零落神名帳・姑獲鳥」

 別種の恩頼を連続で起動。電柱を束ねたような金砕棒に、さらに質量が加わる。凄門の足元、屋上に亀裂が走った。

「お前が……瑞妃を語るな」

 屋上が凄門の踏込みに耐えられず爆散する。大上段、渾身の力を込めて金砕棒が振り下ろされた。八雲はただの一歩も動かず、片腕のみでそれを受け止める。

「お前が殺しておきながら、その名前を口にするな!」

 轟音が轟き、衝撃で砕けた屋上の破片が舞う。しかし八雲の身体には傷一つつかない。

「ごめんごめん。でも会いたいのはホントだよ? でも……あの子を殺したのって、私じゃないでしょう?」

「――合祀あはせまつりて、零落神名帳・蜃気!」

 絶叫とともに金砕棒の芯となっていた直刀が灼熱を帯び、一瞬で氷の凶器が融解する。発生した水蒸気は瞬く間に冷却され、屋上を覆い尽くす濃霧と化した。

「……ふぅん。二種類の恩頼の連続発動に同時発動か。それくらいの冷静さはあったんだ」

 霧の向こうにいるはずの凄門へ向けて八雲は語り掛ける。再び質量を減少させているのだろう、凄門の足音はほとんど発生しておらず位置の特定は困難であった。

「そこかな?」

 無造作に八雲が手を天へ掲げる。それを目掛けるかのように、氷の刀が落下した。その数五振り。八雲は先頭の一振りを造作もなく受け止めると、残る四振りを一薙ぎで打ち払った。

(その隙、逃さん!)

 地を這うような姿勢で、猟犬の如く凄門が走る。狙うは八雲の首筋。〈鑪〉によって灼熱を帯びた直刀の切っ先が柔肌に突き立てられる――はずだった。

「うん、今のは悪くなかったね」

 直刀が刺さる直前で静止している。その切っ先に在るはずの灼熱は、放射状に拡散していた。

「萬物伝導……!」

 それを可能としていたのは、ありとあらゆるものを――精神であろうが形而下であろうが――糸を媒介して伝え導く八雲の卑神の恩頼。一たび発動してしまえば、八雲にはありとあらゆる攻撃、斬撃も炎熱も通ることはない。

「だが、まだだ!」

 直刀を構え二の太刀を繰り出そうとした凄門。しかしその胴体へ、八雲が掌を当てていた。まるで最初からその姿勢でいたかのような彼女の体が動く「起こり」すら、九朗には捉えることができなかった。

「もういいよ、だいたい底は見えたから」

 次の瞬間、凄門の身体は再び宙に在った。遅れて知覚したのは破城槌を打ち込まれたかのような衝撃。それが八雲の掌底による衝撃による打撃と認識した直後、貫通した衝撃により凄門の纏う挂甲が爆散した。

 卑神の負った傷は、卑神憑きの肉体ではなく精神に還元される。凄門の背負い切れなかったダメージは九朗の精神に負荷として現れ、一瞬意識が飛びそうになる。身体が宙に投げ出された状態で意識を失えば、彼は生身のままビルの高さから落下。待っているのは確実な死だった。

(まずい、意識が……!)

 態勢を立て直し、再び〈姑獲鳥〉による質量操作で軟着陸を試みたその時。

「大丈夫だよ、ちょっとだけお休みしようね」

 囁くような声とともに、慈母の如き柔らかさの手が後頭部に触れる感覚。そのまま凄門の頭部は、九朗が意識を失う暇すらなく叩き付けられた。

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