第4話 金剛不壊 殻烏①
両断された猿咬徒の体が宙を舞い、その顔に張り付いた面に音を立ててヒビが入る。脱力したその身体が地面に落ちる寸前、猿咬徒は黒い液状に溶解した。
びしゃりと水音を立てて広がったその中心にいたのは、あの水沢という男。弛緩した男の体は、まるで糸の切れた操り人形のように地面へ倒れた。
「ありがとう、助かったわ。……にしても本当にアイツが壁から出てくるって分かったのね。まさか本当に女の勘?」
彌月が叶の体に付着させた糸を外す。先程、彌月が叶を逃がそうとした時。彼女はまるで糸電話の様に振動を介して叶に言葉を伝えていた。それに気付いた叶も糸を介し、最後に猿咬徒が地表ではなく壁から出現することを凄門――九朗へと知らせることができたのだ。
(それにしても……)
――あの人に、私の声を伝えて下さい。
――私なら、あれが次にどこから出てくるか分かります。
(まさか本当に言い当てるなんてね)
彌月は叶の、「勘の良さ」どこでは片付けられない危険察知の能力を測りかねていた。彌月はちらりと腕の傷を見る。この傷を付けられた時も、叶が袖を引いてくれなければもっと深手になっていただろう。
「そういうのではないんです。昔からたまに、本当にたまになんですけれど、少し先の事が分かる時があって、予感みたいに」
そういえば、と彌月は重ねて思い返す。金子たちに捕らわれた叶に当たらないよう注意して、ビルの屋上から瓦礫を降らせて叶を助けた時も。まるでこれから何があるかを先読みしているような行動を叶が取り、携帯電話を取り返すとともに瓶子を茜の手から払い落としていた。
「――それ、誰かに話したことある?」
「クラスの子たちには、たまに勘がいいって思われているみたいですけど……」
そう、と納得したように言ってみたものの、彌月の疑念は晴れない。
(例え数秒先だったとしても的中率100%の「予感」、神憑りもなしに…?)
彌月はちらりと叶を見る。どこにでもいそうな、ただの女学生がそこできょとんとした表情を浮かべていた。
(そんなの天佑神助なんかじゃない、本物の「神意」じゃないの)
考えあぐねる彌月の思考を、ずしりとアスファルトを踏みしめる重い足音が中断した。
「大丈夫か」
叶が見上げると、そこは凄門が立っていた。携えているのは今まさに死闘を繰り広げた抜身の直刀。先ほど猿咬徒を両断したその刃の輝きを見て、叶は後ずさる。
「大丈夫よ。こんなの放っておけば治るわ」
どう見ても治りそうにない傷を隠しながら、彌月はそっぽを向く。
「……そんな訳があるか」
彌月の反応を見て凄門の肩が少し下がる。
(あ、今この人呆れたのか……)
その様子で、叶は目の前の凄門が急に人間臭く思えた。
直刀を逆手に持つと、凄門は彌月の肩に手を置く。
「――
その言葉とともに、直刀が淡い燐光を帯びる。そして刀を構え直すと、置いた掌ごと彌月を突き刺した。
「えっ……何を!?」
驚愕の声を上げる叶を彌月が制止する。刃に浮かんでいた燐光はそのまま彌月の体――猿咬徒に大きく抉られた背中と腕へと移る。そして彼女の傷痕は時間を巻き戻すかのように塞がっていった。
「まだ痛むか?」
刀を引き抜いた凄門の声――九朗の声は、先ほどよりわずかに疲労の色が濃くなっているように感じられた。
「治るって言ってるじゃない。……でもまぁ、ありがと」
その言葉が強がりではないと確認してか凄門は仮面を外す。それを契機として巨躯が霞のように掻き消える。代わりに現れたのは一人の男だった。
叶より何歳か年齢は上だろうか、あの金子たちとさほど違わないように見える。だが実年齢よりも老けているように感じるのは、その纏っている雰囲気のせいだろう。夜の海のような沈んだ目つき。葬式帰りのような黒いスーツに暗色のネクタイ。先ほどまでの戦いを繰り広げていた、凄門という尋常ならざる存在の正体がこの十津川九朗という男だと叶には思えなかった。
「こいつの後始末をしてくる、その子のことは任せた」
そう言いながら九朗が懐から出したのは、今やそうそう見る機会のない古い型の携帯電話だった。通話以外の機能はおそらくないだろう。
「あんた、いい加減もうちょっとマシな機種に変えなさいよ。次もさっきみたいに間に合うとは限らないわよ」
「……善処する」
「ぜひそうして。――それと!」
電話を片手にどこかへ去ろうとした九朗へ向けて、彌月は強い口調で続ける。
「何か忘れてるんじゃない? 誰かに何かを言い忘れてるとか」
しばらくそのまま立ち止まっていた九朗だったが、思い当たるものがあったのか振り返ると叶の前へ歩み寄った。気圧されて後ずさりしそうになった叶だが、彼の顔に浮かんでいたのはあまりにもばつの悪いという顔だった。
「さっきは、助かった。ありがとう」
「あっ、いいえ。――どういたしまして」
言うべきことは言った、これでいいか――と言わんばかりの視線を向けられた彌月は、大仰に頷く。それを見届けてから九朗は改めてその場を立ち去った。
「無愛想な奴なのよ、前はもうちょっと可愛げがあったんだけどね」
呆れながら見送る彌月の声が、叶にはまるで不出来な弟を見る姉のように感じられた。
「……あ、それと。私も助けられておいて、こんなこと言う資格はないんだけどさ」
彌月は片手で叶の肩を掴むと、ぐっと自分へ引き寄せる。
「お願い、もう自分の命を粗末にするようなことはしないで」
面の奥。穿たれた穴から叶は初めて彌月の瞳を見た。九朗とは正反対な生気に満ちた瞳。自分とさほど違わぬ年端の、しかし生半可ではない雰囲気に気圧され、叶はただ頷くことしかできなかった。
●
やがて戻ってきた九朗は、「車を回してきた。乗れ」と言いながら未だに意識の戻らない水沢を担ぎ上げた。
「あんまり無理しないでね。この前だって……」
「腕を千切られかけた奴にやらせる訳にはいかないだろう」
「そうだけど……ああ、もう。頑固なんだから」
呆れながらも彌月は「あ、そうだ」と振り返り、叶に笑いかける。
「お家まで送っていくわ、もう遅いでしょ? 親御さんも心配してるだろうし……ええと」
何か言葉を続けようとして、言いあぐねる彌月。何か言い辛いことでもあるのだろうか、と叶が首を傾げていると、彼女は自嘲気味に笑いながら続けた。
「ごめん、まだ名前も聞いてなかったね」
そういえば、と叶も思い当たる。死線を潜ったと言っても過言ではない相手なのに、まだ自己紹介すら満足にできていなかった。
「御崎といいます。御崎、叶です」
「叶ちゃんね。うん、覚えた。今日は、本当にありがとう」
差し出された彌月の手を叶は握り返す。その手から伝わる温もりは、確かに人間のものだと彼女には感じられた。
「助けに行ったはずなのに助けられちゃった」
「こういう時は、お互い様ですね」
笑い合う二人に向けて、九朗の「おい、早く行くぞ」という声が届いた。
空き地を出、しばらく歩いた細い道の先には一台の軽自動車が停まっていた。彌月が開いたドアに乗り込んこもうとした叶は「……うわっ」と小さく悲鳴を上げる。座席の後ろ、荷室部分にはあの水沢が転がされていたのだ。
「……大丈夫なんでしょうか。この人」
その両手足は彌月の糸で縛られており、丁寧に扱われている様子はない。それでも彼は意識を失ったまま静かに寝息を立てている。
「そいつの目が覚めることはない、安心していい」
そう言われて本当に安心できようはずもないが、叶は腹を括って座席に座りる。何かそういう薬でも飲ませたのだろうかと納得しつつ、叶は促されるまま後部座席に乗り込んだ。続いて彌月が助手席に、九朗が運転席に座る。叶がシートベルトを締めたことを確認してから、九朗は教えられた彼女の住所へ向けて走り出した。
車窓から覗く街はすっかり陽が落ち、街には帰路を急いでいるのであろう人々が溢れ返っている。まさか少し先の路地裏で人外の異形が殺し合っていたなどと、彼らは夢にも思わないだろう。
体を落ち着かせると途端に睡魔が襲ってくる。自分でも思っている以上に身体は疲労していたのだろう、うつらうつらとしている間に今日一日の記憶が叶の脳裏に浮かんだ。
(朝、叶ちゃんを見かけて、そのあと彌月さんと出会って、夕方にまた茜ちゃんを追いかけて、そしたらあの変な人たちに――)
そこで叶ははたと顔を上げた。
「……そうだ、茜ちゃんは」
眠気が一気に吹き飛んだ。どうして今まで忘れていたのか、全てきっかけは彼女だというのに。
「すみません、茜ちゃんはどうなるんですか? というか、あの人たちは一体何なんですか⁉」
「それは――」
何かを言いかけ、口ごもる彌月を遮って九朗がハンドルを握ったまま続ける。
「俺たちにそれを話す権限はないが、君には窮地を救われた恩があるため支障のない範囲で答える。彼女は例の金子という男と協力関係にあると見ていいだろう」
「じゃあ、茜ちゃんも……」
叶はちらりと水沢が眠っている荷室を見やる。
「俺やその男と同様、卑神の力を宿した『卑神憑き』になっているであろう可能性は高い。君もあの神酒を飲まされていたら、同じ存在そうなっていた」
言われて叶は口元を押さえる。すぐに吐き出したため口内に神酒は残っていようはずもないが、今すぐにでも口を
「もし、茜ちゃんがその――卑神だったとしたら、どうするんですか」
「その男と同様に対処するだけだ」
「そんな……!」
それはつまり、あの異形――凄門となって茜と戦うということか。
思わず身を乗り出した叶だったが、車が減速したためがくんと前につんのめる。気付けばすでに叶の自宅前へと到着していた。運転席から九朗が振り返る。
「いいか、二度と危険な所へは近付くな。なるべく人混みを選び、一人にならないうようにするんだ。奴らは正体を知っている君を狙ってくるだろう。次も俺たちが助けられるなんて保証はない」
続けて九朗は荷台を指さす。
「この街にはその男のように、人間の命なんて何とも思っちゃいない化け物がまだ蠢いている。決して警察に捕まらず、法の下で裁きを受けることもない。人の外見と知能を持った羆よりもタチが悪いやつらなんだ、君も今日実感しただろう」
金子と、そして水沢が変じた異形を思い出し、叶の体が震える。
(そうだ、私は死んでもおかしくなかった――)
アドレナリンで麻痺していた脳に、恐怖感が遅れてやってきた。脳裏に浮かんだのは周囲を蠢く無数の統率された獣、そして目の前に突き付けられた猿咬徒の銛の穂先。
「車を降りたら今日のことは忘れろ。俺たちのことも、卑神とかいう頭のおかしい存在のことも。そして……茜って娘のこともだ」
叶は恐怖から来る震えを抑えながら、なおも続ける。
「友達が危険かもしれないのに、忘れたフリをしろっていうんですか?」
「今日は運が良かっただけだ、一つ間違えれば全員死んでいた可能性もある。次に同じ状況になったとしても、君を守ると保障はできない」
そんなもの、とさらに言葉を続けようとした叶を、振り向いた九朗の視線が制する。
「頼む」
彼はただ真っ直ぐに叶を見つめた後、静かに頭を下げた。
●
「正直、意外だわ。あんたが素直に頭を下げて頼むなんて」
「……俺のことを何だと思っているんだ」
水沢の体を担架へ放り投げるようにして乗せながら、九朗がぼやく。
「『素直に頼む』以外に何ができる、俺にあの子の行動を制限する権利も権限もないだろう」
がちゃがちゃと音を立てながら、担架を押す九朗と彌月はリノリウムの床を進んでいく。夜の病院は静寂と、医療機器が時折立てる電子音で満たされていた。
「――お待ちしていました」
やがて辿り着いたのは、白衣の男が傍らに立った扉で遮られた一角。普通の扉と同じ作りに見えるが、その扉にだけ電子キーが取り付けられていた。
「もう一人の容態は?」
「相変わらずです。体に異常はなし、やはり眠っているようにしか見えませんね。言われた通り拘束はしたままですが」
白衣の男が懐から取り出したカードキーで開錠する。扉の先には六床のベッド、うち一つがカーテンで区切られていた。九朗は空いているベッドに水沢の体を下ろす。
「処置は前回と同様で構いませんね?」
「はい、目を覚ますことはありませんが念のため拘束は解かないで下さい。何かあれば神祇院外局まで御連絡を」
白衣の男に短く指示しながら、九朗は閉じられていたカーテンを開いて中を覗く。静かに寝息を立てていたのは、先日散婆娑羅として九朗と戦った黒江結香だった。
「趣味が悪いわね、寝ている女の子の顔を覗くなんて」
「……そうだな。こうしていれば、ただの子供だ」
かたかたとカーテンの金具が揺れる。彌月が目を向けると、九朗が固くカーテンを握り締めていた。
「お前はどう思う。いると思うか、この街に」
誰が、という言葉を抜かした問い。二人の間に、それが何を指すのかという確認は不要だった。
「一つ所で短期間に、四人も卑神憑きが生まれている。あの人以外がやれることじゃないわ」
「……あの、どうかされましたか?」
異様な雰囲気を感じてか、白衣の男が躊躇いがちに話しかけた。この病院も、そして白衣の彼も本来は卑神とは無関係で、昏睡状態の患者複数人を担当するよう上司から厳命されただけだ。急に一人で話し始めた九朗に対し、何か自分が失礼をしでかしたのかと不安に感じただけである。
「大丈夫です、お気になさらず。後はよろしくお願いします」
カーテンを閉じ、その場を離れる九朗。固く握りしめたそこには、わずかに血が滲んでいた。
●
予想できたこととはいえ、やはり翌日の学校に茜の姿はなかった。それとなく担任教師に聞いてはみたが、他の家族にも連絡がつかないらしい。
(やっぱり、手掛かりはあの彌月さん達しかないか……)
そう思ってはみる叶だったが、九朗達と連絡先を交換した訳でもない。当て所なく捜したところで、あの二人が見つかるとは到底思えなかった。
(それでも……言われるままに全部忘れるなんて、私にはできない)
放課後、叶は昨日と同様にあの路地の入口が見える辺りへと立ち寄っていた。当然周囲にも茜の姿はない。強張っていた全身から力を抜き、ため息を吐く。
「何やってんだろう、私――」
独りで彼女を見つけても、何もできることはない。諦めて帰ろうとしたその時だった。
「……あ、あのっ!」
「えっ――はい?」
急に声を掛けられて答えた叶の声が疑問へと変わる。目の前にいたのは見知らぬ女の子だった。おかっぱに近いボブカット、歳は中学に上がりたてくらいだろうか。叶に疑問符を付けさせたのは、年齢に似つかわしくない彼女の恰好だった。今時見ない和装の上に、「道行」という古風なコートを纏っている。
(なんか、和装の人との遭遇が続くなぁ)
ぼんやりと考えていた叶に、少女は続ける。
「見間違えであれば申し訳ありません、昨日……九朗さんたちと一緒にいませんでしたか?」
●
叶が妙な格好の少女と遭遇していた同時刻。
面に巫女装束という異様な姿の彌月は、しかし誰の目に留まることもなく路肩に停まった軽自動車に乗り込んだ。
「どうだ、首尾は」
運転席に座るのは九朗。彼が見上げる先には古びたアパートの一室があった。扉の脇には「朱田」と書かれた表札が掲げられている。
「中には母親が一人。糸は十分張ったわ、あの茜って子が帰ってくれば私がどこにいてもすぐに分かる。ただ……帰って来るとは思えないけどね」
「他に奴らの手掛かりはない。金子と水沢も手掛かりを探してもらってはいるが、まだ時間はかかるみたいだ」
「そのことなんだけど――もう一カ所、茜さんが立ち寄りそうな場所が分かったわ。これ、あの家に落ちてた」
手癖の悪さを指摘する前に、九朗は彌月がアパートから持ち出したものを受け取る。「宗教法人磐座会」と書かれた、四つ折りフルカラー印刷のパンフレットだった。
「これは……新興宗教か?」
「あの子の母親が随分熱心に信仰しているみたい。祭壇や数珠みたいなものとか、大きい水晶の……原石?みたいなのがいくつもあったわ」
パンフレットの最終面には各地にある支部の住所が書かれている。そのうちの一つが、この街――新和市にあった。
「確かに、あいつの好きそうな話だ」
「どうする? そっちの支部にも糸を張ったほうがいいと思うけれど」
「そうだな……ところで」
車のキーを回し、エンジンをかけながら九朗は続ける。
「あの子は――御崎叶は問題ないか」
九朗の問いかけに対し、彌月は半目でじっと見つめ返す。
「あのねぇ、正直気が引けるんですけど」
「俺だってわざわざ彼女のプライバシーを侵害したくはないが、仕方ないだろう。彼女が狙われる可能性は捨てきれないし、かといって四六時中見張る訳にもいかん」
「……分かったわよ、でも絶対アンタには聞かせないからね」
「当たり前だ」
ため息をつきながら彌月が立てた指先には、あの極細の糸が付着していた。糸はわずかに開いた車窓からずっと先――新和市のどこかにいる叶の体へと続いている筈だった。
人知を超えた糸は一度付ければよほどのことがない限り途切れることなく叶を追い続ける。そして彼女の周囲で発生している音を糸電話のような要領で振動として彌月に伝えることができた。ただ無断で音をすべて拾うことに彌月が反対したため、聞き取るのは「周囲に人がいるか」「危険な状況に巻き込まれていないか」などが判断できる程度に抑えられていた。
彌月は糸を額に当て、瞑想するように瞳を閉じる。
「うん、問題ないと思う。周囲に人も大勢いるし。今は……一人でいるみたいだけれど」
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