第3話 鬼哭蒐集 凄門②

 弾かれたような勢いで空へと飛び上がった叶達の姿を呆けた顔で見送った異形――金子だったが、すぐさま「何ボサっとしてんだ、追えよ!」と背後の茜に檄を飛ばす。しかし黙したまま硬直している彼女とその足元に散らばる陶器の破片を見て、わざとらしく舌打ちを立てた。

「……何やってんだよ、ソレもう残りなんかないんだぞ⁉」

 怒鳴り声にひ、と小さく悲鳴を上げて耳を押さえる茜。しかし金子が不機嫌な態度を取る以上のことをしないのは彼の優しさ等。その理由を唯一知る者は苦笑しながら進み出た。

「俺が行きますよ」

「あぁ?」

 そう言葉を発したのは、今まで卑屈な笑みを浮かべながらも黙していた水沢だった。

「黒江ちゃんもいなくなった、茜ちゃんもその様子。もう正面から戦えるのは俺だけでしょ」

「らしくない真似をするじゃないか」

 嘲りを含んだ金子の言葉だったが、水沢は鼻で笑って受け流す。

「分かってんでしょ? ガチンコ向きだった黒江ちゃんはあんなことになったし、茜ちゃんはその様子だ。金子さんじゃもっと無理でしょ」

 金子を見下すような態度を隠しもしない水沢だったが、彼が言っていることは事実だった。事実、金子の卑神のは荒事には向いていない。

「お前だって正面から戦え《やれ》るタイプじゃないだろ」

 金子の反論に対し、水沢は小ばかにした態度を隠さず鼻で笑い飛ばした。

「何をビビってんすか。確かに最初はブルったけど、黒江ちゃんをやったのはあの女じゃねぇ。でなきゃただ鉄骨を撒いて逃げるなんて真似はしないっしょ、それに……」

 水沢はポケットに突っ込んでいたものを取り出す。口吻が鳥のように尖った、白い面。

「そろそろあの人に媚を売って点数を稼いでおきたいんスよね、アンタみたいに」

 金子の変じた異形がそれ以上何も言わないのを見て取り、水沢は見せつけるように面を額へと推し戴き、宣言する。

「神威顕装――猿咬徒えんこうと!」

 先程の金子同様、水澤の輪郭が消失する。一瞬後に立っていたのはまた新たな異形だった。



 叶は今朝見た夢を思い出していた。

 何者かに抱かれながら燃える大地を見下ろす夢。だが夢と共通しているものあれば、異なるものもある。今まさに彼女の身体は放物点の頂点を超え、徐々に落下し始めていた。

「舌噛むよ、口閉じてて!」

 何者かは分からずとも、自分の生死を握っているのがこの声の主であることだけは間違いない。言われた通りに叶は固く歯を食いしばる。

 重力に従い地面へ急降下する叶だったが、その身体に何度も引っ張られるような制動がかかる。内臓を揺らされるような不快感が襲ったが、地面に叩き付けられるよりはよほどマシだった。

 着地の直前まで続く制動で落下の勢いはほとんど失われており、叶は少しよろめきながらも地面に降り立つ。そこは先程までいた路地裏とは離れた、廃ビルに囲まれた空き地のようだった。隅に廃材が積まれている以外はただ広いだけの空間。昨日の雨でできた水溜まりが数カ所に点在している。人気もなく、女二人が急に空から落ちてきたとしても咎める者はどこにもいない。

「ごめん、大丈夫だった? 荒っぽいやり方だったけど、こんなのしか思いつかなくて……」

 そこでようやく叶は、自分を抱えて空へと飛んだ人物の顔を見、「あっ」と小さく声を上げた。

「確か、朝に駅で……」

「こんばんは、今朝方ぶりだね」

 そう言って軽く手を挙げた彼女の顔は白い面で覆われていた。そして身に着けているのは、どこに出しても恥ずかしくないオーソドックスな巫女装束。

「大丈夫? あの人達に変なもの飲まされてない? 体のどこか、おかしい感じしない?」

 彼女が差し出した手を取ろうとして、叶の動きが止まる。

「怪しいよね、こんな女に急に振り回されて。訳分かんないよね」

「すみません。助けていただいたのに――実のところ、さっきの人たちより怪しいです」

「言ってくれるじゃない……」

 面を通して見て取れそうな渋面の彼女を見て叶は少し笑い、その手を改めて握り返した。

「助けられた、ということでいいんですよね。ええと――」

 当然ながら名前を知らず口ごもる叶に、彼女ははにかみながら答えた。

「彌月でいいよ、名前で呼ばれたいから名字は内緒ね」

 そう言いながら彌月が手を振ると、指先からふわりと糸が空中に揺れる。二人の体に付着していたそのか細い糸が彼女たちの体を空中へと飛ばし、さらには落下する際の勢いを殺していたのだが、今の叶には知る由もない。

「助けた、って言いたいところなんだけど。まだちょっと早いかな。あいつらに何ができるか分からない以上、どれだけ逃げても十分ってことはないんだよね」

「……何なんですか、さっきの人たちは。変な生き物を連れているし、何か飲ませようとしてくるし。それに茜ちゃんのことも――」

 彌月が「それは……」と言って口ごもる。

 どこまで伝えたものか、という逡巡が表情に見て取れた。叶がさらに疑問を重ねようとした、その時だった。視界の隅に違和感。見間違いかとも思ったが、彌月の背後に視線を向ける。二人が立つ地面の一部、それが確かに波打ったのだ。

 急に押し黙った叶の視線を追って彌月が振り返り――

「危ない!」

 彌月を押し倒すようにして叶が地面に伏せる。しかし地面から飛び出してきたものの方が一瞬早く、それは彌月の背中を切り裂いた。

「……マズったな、殺すなって言われてたんだ」

 揺れる地面から出現したのは、一本の銛。続けて手が、腕が、そして体がずるりと地面から抜け出した。その姿を見て叶は息を呑む。

 人型のシルエットに、しかし人間を大きく逸脱した生物。ぬめぬめとした肌、鋭い爪と水かきを備えた手足、そして顔を覆うのは嘴のように尖った仮面。頭頂部は頭骨がむき出しになったかのように、白くつるりと光っていた。

「……やっぱり、アンタら全員『卑神憑き』だったのね」

 叶の隣で彌月が呻くように呟く。地面から現れた異形は見せつけるようにゆっくりと歩を進め、先ほど投擲した銛を拾い上げる。

「さっきはどうも、お嬢ちゃん」

「その声……さっきの」

 異形の声は間違いなく、先程の水沢という男のものだった。明らかに人間から外れた異形が、人間の声で話すという異常な事態事態。硬直する叶に対し、異形の動きは余裕に溢れていた。

「そっちのヒトも大丈夫? けっこうザックリいっちゃったけど……あれ」

 拾い上げた銛の穂先を見て、異形は素っ頓狂な声を上げた。彌月の背を切り裂いたかに見えた穂先には一滴の血も付着しておらず、代わりに幾本かの糸が絡まっている。

「彌月さん、その傷――」

 叶が見た彌月の背中には一本の傷が走っていた。割かれた部位から覗くのは肉ではなく、紡がれた糸の束。筋繊維が丸ごと糸に置き換わったかような、不可思議な肉体をしていた。

「へぇ、卑神じゃないとは思ったけど変わった体だねぇ」

(卑神? それに卑神憑き……?)

 聞きなれない単語に引っかかる叶だが、眼前の異形はそれを確かめるほどの猶予を与えてくれるとは思えなかった。ひゅん、と穂先で風を切りながら、異形は大きく銛を振り回して担ぐ。

「――俺さぁ、嫌なんだよね」

 何が?と二人が問う暇もなく異形は一人ぶつぶつと呟く。

「人に指図されたり上から何か言われるの。手っ取り早く稼げるっつうから協力してやったのに、やらされるのはジジババ相手にひたすら電話かけさせられたり、よく知らねぇヤツの言いなりでヤバそうな荷物を運ばされたり。それで貰えるのははした金って、おかしいっしょ?」

「それは――ご自分が悪いのでは?」

 思わずそう突っ込んでしまった叶の口を、彌月が首を横に振りながら手を伸ばして抑える。異形はそんな二人の様子に気付いていないのか浪々と話し続けた。

「だからこの力を……猿咬徒を手に入れたその日のうちに、ムカつく先輩とか、こき使ってくれた上司とか、全員ブチ殺した訳よ。刻んだり、地面に引きずり込んで溺れさせたりしてさ。どいつもこいつも『なんで自分がこんなところで死ななきゃいけないんだ』って顔で死んでいくんだよ。ケッサクでしょ?」

 けたけたと引き付けのような笑いを起こすたびに、異形が手にしている銛が揺れる。鋭いの付いた穂先が、嫌でも惨たらしい傷を連想させた。

「それを、あの野郎」

 異形は突然、足元に銛の石突きで殴りつける。地面が爆ぜて砕かれたアスファルトが飛び散った。一度ではなく二度、三度と石突きが打ち付けられ、そのたびに地面が大きく抉れる。

「ザコを増やして群れることしかできねぇ癖に、自分が気に入られているからってリーダーぶりやがって。知ってんだぜ、次は自分が狩られる番じゃねぇかって死ぬほどビビってること」

(叶さん、聞こえる?)

 異形の声を遮り、叶の耳に彌月の声が届く。だが彼女の口元はほとんど動いておらず、それがどのような方法で聞こえているのか叶には分からなかった。

(私がアレの気を引くから、あなたは逃げて)

「そんな、駄目ですよ……!」

 思わず声を上げて反論した叶を彌月が目で制す。だが彼女の顔は苦悶で歪み、脂汗が浮かいた。その身体が常人のそれと異なることは明白だったが、とはいえ傷が無視できるものではないのだろう。

(……ゴメンね。「どちらかが犠牲に」って私の趣味じゃないんだけれど、他に方法が思いつかなくって。だから――)

「行って!」

 叫ぶと同時に頭上へと掲げられた彌月の掌から糸が空き地中へと広がり、周囲の廃材を宙へと持ち上げる。引き絞られ、ギリギリと音を立てる糸に込められた力は見た目から予想もできないほどの力が集中していることが窺えた。

「これでも喰らっとけ!」

 拘束していた糸が弾け、鋼材が飛ぶように空を切って異形へと殺到する。鉄パイプ、鋼板、鉄骨。トンを優に超える質量の即席質量兵器。命中すれば人間はおろか羆ですら挫滅するそれらは異形へと殺到し、けたたましい音を立てて着弾した。だが彌月は着弾した廃材たちを一瞥すると、周囲に糸を巡らせて警戒を続ける。

「行って、卑神がこんなもんで片付くくらいなら誰も苦労はしないわ」

「彌月さん、でもその傷じゃ……」

 巫女装束の裂け目から覗く彌月の背中は、相変わらず血が流れてはいないものの決して無事とは言えないものだった。

「掠り傷よ。分かるでしょう? 普通の体じゃないの」

 それでも、彌月は振り向くことなく叶に背を向けて山積する瓦礫の山へと対峙する。

「大丈夫、ちゃんと後で追いかけるわ」

 糸を構えながらそう言う彌月の手を、不意に叶が強く引いた。

「――確かに普通の体じゃないよね」

 引っ張られた彌月が大勢を崩すのと、声とともに足元から飛び出した銛が彌月の腕を深く抉るのとはほぼ同時だった。もしそのまま立っていれば、銛は彌月の胸を貫いていただろう。

「……おかしいな、また避けられた」

 再び地面から浮かび上がった異形が不思議そうに穂先を見つめ、次にその穂先で彌月の腕を指し示す。

「悪さをするのはその手かな? でも、これで悪足掻きはお終い。まぁ……俺の猿咬徒えんこうとならあんなガレキ、避ける必要もなかったけれど」

 猿咬徒、それが水沢の変じた異形の名なのだろう。先ほどの廃材によって受けた傷などどこにも見当たらず、未だ状況を呑み込めていない叶でも地中に潜って逃れたのだということは容易に想像できた。

「でも片腕を傷付けただけじゃ安心できないんだよね、足の腱は切り落としておこうか? もう逃げられると面倒臭いだし」

 事もなげにそう言いながら銛を彌月に向けて振るう猿咬徒。腕を庇いながら忌々しく睨む彌月だったが、庇うようにその眼前へ立つ者がいた。

「……何? 君、邪魔すんの」

 穂先を眉間の十数センチ先に捉えながら、叶が立っていた。

 何を言うでもない、ただその視線はじっと猿咬徒に向けられている。

「ちょっと、何やってんの⁉」

 おかしなことをやっているという自覚は叶にもある。眼前にいる異形――猿咬徒は、人間や獣とは全く異なる常識の埒外の存在だ。文字通り指先一つで自分の命など容易に奪うことができるだろう。運が悪ければ死体はこの空き地に沈められたまま永遠に見つかることなく――いや、死ぬよりももっと惨い目に遭うかもしれない。

 それでもなお。死ぬと分かっていたからといって、ただ怯えている自分を受け入れる理由にはならなかった。

「群れることしかできない、でしたっけ」

「はぁ?」

 この状況で思いもよらない言葉が叶の口から出たため、銛を持つ猿咬徒の手がわずかに揺れた。

「誰のことか分からないですけれど、さっきの金子さんのことでしょうか」

「……だったら何、何が言いたいんだよ」

「随分お友達に恵まれないみたいですね、……でも」

 猿咬徒を見上げ、見せつけるように叶は微笑んだ。

「あなたも大して変わらないのでは? こそこそと覗き見や聞き耳がお得意みたいですし、お似合いだと思いますよ」

「……へぇ~、君ってそういうキャラなんだ」

 猿咬徒の銛が叶の頬を撫でる。肌に沈み、しかし傷は付かない程度にまで皮膚に食い込んだ。

「君は無傷で連れていこうかなと思ってたけど、気が変わったわ」

 いつの間にか猿咬徒の――水沢の声が怒気を孕んだものに変わっていた。見せつけるようにゆっくりと銛が高く持ち上げられる。

「やっぱり血が出ないと満足できないわ。指ぐらいならいいよね、どれを残すかくらいは選ばせてやるからさァ!」


 今にも振り下ろされようとしている銛の穂先を見上げながら、まるで他人事のように叶は考えていた。

(何をやってるんだろ、私は。こんな訳の分からない化け物相手に粋がって)

 別に腕が立つ訳でもないし、飛び抜けて運動神経がいい訳でもない。この危機を切り抜ける機転もない。状況をただ徒に悪化させているだけだろう。

(せっかく助けてもらったのに)

 だがあの時、彌月の声に従ったとして逃げ切れる保証もなく。そしてわが身可愛さに逃げ出せるほどの聞き分けの良さは持ち合わせていなかった。

「いい声で泣いてくれよな、でなきゃ煽られた甲斐がないだろ⁉」

 猿咬徒が雄叫びを上げながら銛を振り下ろす。

(あぁ、私ってけっこう頑固だったんだな)

 自分の指先に触れる寸前の鈍く光る銛を見ても、叶は目蓋を閉じなかった。

 猿咬徒の仮面の下から下卑た笑みが漏れても、叶は視線を逸らさなかった。


 ――そして、上空から突如降ってきた新たな異形に猿咬徒が叩き伏せられた時。叶の眼に焼き付いたその後ろ姿を、彼女は生涯忘れることはなかった。


「――え?」

「……遅いのよ、バカ」

 土煙とともに突如として目の前に出現した新たな異形は猿咬徒の顔面を地面に押し付け、直刀――装飾を廃した拵えに、反りのない刃を備えた刀――を振り上げた。

「な、何だよお前⁉」

「黙れ、死んでろ」

 銀光一閃。

 新たな異形が猿咬徒の首元を目掛け、直刀を振るう。その頸が斬り飛ばされる瞬間に猿咬徒は地中へと潜行して難を逃れた。

「なるほど、そういう手合いか」

 異形は身を起こすと直刀を下段に構える。瞬く間に姿を消した猿咬徒を警戒しているのだろうか、その切っ先は地面へと向けられていた。

「彌月、無事か⁉」

「遅かったじゃない、次は私が無傷な時に来てくれると助かるわ」

「お前が変な方向へ跳ぶからだろう!」

「『こういう事にならないよう携帯電話を持とう』って私言ったのに、面倒だって持たなかったのはどこの誰だっけ?」

「……悪かったよ」

 口ぶりからしてこの異形は彌月の知己なのだろう。力士像のような巨躯に、乾いた血のような暗い赤色の鎧を纏った人型。振り向いたその顔に張り付いていたのは、二本の角と四つの眼を模した仮面だった。

「気を付けて、下から来るわよ」

「だろうな。糸は使えるか?」

 彌月は首を横に振りながら深手を負った右手を持ち上げる。

「泣き言は言いたくないんだけど、ちょっと無理」

「分かった、後は何とかする」

 彌月が晒した右腕は、銛を受けてほとんど千切れかかっていた。

「大丈夫なんですか⁉」

「死ぬほど痛いけれど、まぁ見た通り普通の体じゃないから。今はアイツが……九朗と〈凄門〉が勝つことを祈るしかないわね」

 二人の視線の先、凄門と呼ばれた異形が地面を睨んでいた。 


「……お前、思い出したよ」

 刃の間合いの外。地面から這い上がるようにして、猿咬徒が地面から顔だけ浮かび上がる。

「十津川九朗ってんだろ、『卑神狩り』。それとも〈凄門〉って呼んだ方がいいか?」

(……トツカワ、クロウ?)

 叶はその名前に聞き覚えがあった、先ほど金子が尋問する際に口にしていた名前。そして彌月も呼んでいた凄門というのが、新たに表れた異形の名なのだろう。

「女子供をいたぶるだけしか能のない変態にどう呼ばれようが一律で不愉快だ。好きにしてくれ」

「……あぁ?」

 不満げに声を上げる猿咬徒に対し、彼はさも気怠いと言わんばかりに直刀を担いだ。

「同情するよ。せっかく化け物になれたってのに新しくできることといえば覗きだけだろ? その銛も随分と綺麗だな、卑神と殺し合うのは初めてか? 昨日戦った女学生の方がよほど圧があったぞ」

 滲む嘲りの色に応えたのは猿咬徒の声ではなく、空を切り裂いて突き出された銛の穂先。後先を考えず力任せ、だがそこに込められた威力は対物ライフルの弾頭を超えるほど。直撃すれば生身が抉るどころか爆ぜるほどの衝撃が、しかし――

「だからこんな安い挑発に乗るんだよ」

 空き地に甲高い金属音が響き渡る。突き出された銛に凄門の直刀、その柄頭が激突していた。どこを狙って突き出されるかの目星がついていれば、間合いで勝っている長柄の武器であっても対応することは容易い。刺突には「前に進もうとする力」は強いが、左右から力が加われば狙いを簡単に逸らすことができる。

 ましてや相手が挑発に乗り、あえて無防備な胴を考えなしに突き刺そうとする相手ならば。

(――誘われた⁉)

 水沢が気付いた時にはすでに遅い。

 武器というものは攻撃の直後が最も無防備。再び刺突を繰り出すために猿咬徒が引き戻そうとした銛の柄の端――穂先の根元を、凄門はすでに掴んでいた。力づくでその手を振り解こうとした猿咬徒だったが、重心を低く構え体重で銛を抑えている凄門から奪い取ることができない。

 さらに渾身の力で銛を引き戻そうとした猿咬徒の手から、不意に抵抗が消える。何が、と猿咬徒が気付いた時。凄門は銛での引き合いを放棄して直刀を構え跳躍していた。

「……チッ」

 九朗は仮面の奥で小さく舌打ちする。刃の切っ先が触れる直前、猿咬徒は再び地面に潜行して逃れていいた。凄門は手にしていた直刀を水溜まりに突き立てると、猿咬徒が残していった銛を担ぐように構えて身体を捩じる。

「お前みたいな奴が次に狙うのは――」

「えっ?」

「はァ!?」

 向き直った凄門の正面。相対した叶と彌月の疑問符が重なる。凄門の構えた銛の穂先が二人に向けられていた。凄門は全身の捩りと発条を用いて銛を投擲する。思わず目を背けた二人の背後で、水を含んだ何か重いものを殴りつけたような鈍い音が響いた。

 振り向いた二人の傍らには、今まさに襲い掛からんと地面から浮上した猿咬徒が腕を広げていた。その胸には深々と突き刺さった銛。

「がッ……お前、よくも!」

「『よくも』なんて、言えた義理か!」

 力任せに銛を引き抜く猿咬徒だが、その手の間合いには叶と彌月が未だに残っていた。

(こうなりゃ仕方ねぇ、どっちか一人でも連れてさっさとこの場から逃げる!)

 視界の隅には直刀を引き抜き、振りかぶる凄門の姿。だが猿咬徒がいるのは直刀の間合いの外、銛でさえ届く距離ではない。

(ザマぁねぇ、女奪われて吠え面かけや!)

 怯える二人を目掛けて伸ばされた猿咬徒の手。咄嗟に彌月を庇った叶に水沢は目を付けた。

 先ほどあからさまに自分を挑発した、嫌な目つきの小娘。こいつを連れ去ればあの十津川とかいう野郎もさぞ――

 だが、水沢の思考は眼前で突如ひしゃげた腕の痛みによって中断させられた。

「へェッ?」

 呆けた声を上げる水沢には知る由もない。凄門の持つ直刀は透明の刃で延伸されていた。それはまるで熱田神宮に伝わる「真柄大太刀」の如き異様な姿。

――零落神名帳れいらくしんめいちょうみずち

 先日トンネルで雨水を操って氷の刃を生成し、散婆娑羅を降した凄門の異能。水溜まりから生成したその大太刀は本来の間合いの外から猿咬徒の腕を砕いていた。

 凄門は氷の刃を解除し二の太刀を振るうべく跳躍。だがその切っ先は再び、潜航する猿咬徒を追って土を掻くに終わった。

「また逃げるのか? 得意だものな」

 聞えよがしに声を張る九朗。その声に応える者はおらず、凄門は周囲を一瞥すると直刀を構え直した。


「……強いんですね、あの人」

 繰り広げられる異形同士の激突に大声を出すことが憚られ、叶は小声で彌月に話しかける。こんな常識の埒外にいる存在同士の争いはおろか、格闘技の試合すら彼女は実際に見たがない。それでも、目の前で繰り広げられている戦いは終始後から現れた凄門という異形の方が優勢に見えた。

「全然よ」

 だが、彌月は不満げにそう答える。

「いっつもボロボロで、傷だらけになって。そのくせ自分はなんともないって顔で、瘦せ我慢ばっかり。今だって相手の頭に血が上りやすいのと、特に戦闘向きじゃない弱い方の卑神だからなんとかなっているだけよ」

「あれで、弱い……?」

「この前はトンネルごと圧殺されそうになったみたいよ、髪の毛で」

 その言葉が意味する情景はまるで分からなかったが、彼の戦いが容易いものではないということだけは伝わった。で、あるならば。……自分にもできることがあるのではないか。

「彌月さん、相談なんですけれど――」



(あぁ、クソが、クソがクソがクソがクソが、何なんだよ一体……!)


 地面の下、どこまでも闇が続く世界で、猿咬徒は……水沢は毒づいていた。

 こんなはずではなかった。いつもリーダー気取りで上から物を言うあの金子が取り逃がした女二人。それを捕まえて戻るだけ。調子に乗っているチンピラを地面の下へと引きずり込むよりもずっと刺激的で、そして自分に向いた仕事だと思った。


 この地中への潜行――彼やその仲間たちはこの特性を〈仮層潜行〉と名付けていた――で入った闇は、地上の建造物をほとんど無視して行動することができる。上空へと跳んで逃れたとしても、女二人組を追いかけることなど造作もないはずだった。

(それが、何なんだよ。何だってんだよ、このザマは……!)

 左腕は砕かれ、右肩には己の銛で抉られた傷痕が残っている。武器を満足に振るうことすらできない、今あの凄門に襲い掛かっても何もできず返り討ちにされることは明白だった。

 水沢自身に傷はない。卑神となっている間に負った傷はわずかな例外を除いて卑神憑きに還ることはない。だが水沢の自尊心に受けた傷だけは、このまま逃げ帰ることで回復するものではなかった。


 以前の水沢は彼自身が蔑んでいる、ただの無気力なチンピラの一人に過ぎなかった。上役に無理難題をふっかけられた腹いせにと、街で見かけた男に因縁を付けて路地裏へ引っ張り込み――その男が無数の白い獣に変貌して生きたまま身体を端から齧られそうになるまで。

 恥も外聞もかなぐり捨てて命乞いをし、その男――金子にこびへつらい続け、何とか卑神の力を授かる機会を得た時。彼はようやく誰にも蔑まれることのない、自分が「勝ち組」に回る番が来たのだと思った。自分の本当の人生はここから始まるのだと。

 だが彼を待っていたのは、チンピラの上役が金子という別の人間に変わっただけの人生。長年彼の底で澱のように溜まった鬱屈とした念は、それを到底看過することなどできなかった。


(大丈夫だ、まだ手はある――)


 自分を包む闇を強く蹴り、猿咬徒は泳ぐように上昇する。

 上昇は地中へと潜航した起点となる地面――いわば「水面」の高さを通り過ぎても続いた。猿咬徒が今いるのは物理的な「地中」ではない、万物に備わったいわば「影」を泳いでいるようなものと水沢は認識していた。常に地面を通じて潜航するのは「手っ取り早い」という理由だけだったが、〈仮層潜行〉が「地中へ潜航する能力」と九朗が認識しているであろうこの状況を生んだ自分の運はまだ尽きていないのだと感じる。


(それにしても――)

 水沢はちらりと視線を下方へ向け、猿咬徒の目を通して闇の底を見る。無限に続くかのような、深く暗い闇。始めて〈仮層潜行〉で影の中へと潜った時はただその闇が恐ろしく思えたが、今の彼にとってはまた異なった畏怖の念を抱いていた。

 何かがいる。夥しい何かが息を潜めて、こちらを伺っている。気配はない、息遣いも聞こえない。だが確かにこの闇には、何かが潜んでいるという直感を水沢は抱いていた。何かがすし詰めになった部屋に、自分一人だけが目隠しのまま放置されているかのような居心地の悪さ。

(……下らねぇ。何をビビってんだ、俺は!)

 自分を奮い立たせるように銛を構え直し、さらに上昇する。


 猿咬徒が音もなく「浮上」したのは廃ビルの壁面だった。凄門の頭上、彌月たちの死角。こちらに気付く気配はなく、誰もいない地面へ警戒を続けている様を見て水沢はほくそ笑んだ。

 ――卑神には各々に一つ、人智を超えた力が備わっている。猿咬徒にとっては〈仮過潜行〉がそれであり、そして凄門にはあの水を氷の刀にした力がそれだと水沢は踏んだ。種さえ分かってしまえば何のことはない、死角から襲い掛かる相手にはさして役に立たない能力だ。今なら十分先んじることができる。

 猿咬徒が影から音もなく抜け出し、壁面に足を着ける。無防備な凄門の背中を目掛け、槍を構えて跳躍。

(死に晒せ、クソ野郎!)

 いかな卑神といえどその核たる「御」を破壊すれば卑神憑きは無事では済まない。狙うは人体における水月。例え甲冑を纏っていようと猿咬徒の力であれば問題はない。

 猿猴徒が頭上に銛を振り上げる。凄門は未だ気付かない。


(……何だ?)


 勝利は確実なはずなのに、水沢は脳内から違和感が拭い去れない。何かを見落としている。

 目の前の、最大の脅威はこれで潰える。死角からの、予想外の一撃だ。気付かれるはずがない。


(じゃあ、何で)


――何であの女は、叶とかいうガキは、何の力もないはずのこいつは、俺が出てくる場所を分かっていたかのように。


(俺のことを指さしているんだ……!?)


 頭上を仰いだ叶の白い指先が、真っ直ぐに空中の猿咬徒を向けて伸ばされていた。

「最後は背後からか。やっぱりお前はどこまで行ってもそういう手合いなんだな」

 気付けば背中に突き立てられるはずだった銛は、凄門が背に回して構えた直刀で防がれていた。たとえ全体重を掛けた長柄の武器とて、一たび他の物体に当たれば衝撃は大きく削がれる。銛の切っ先は逸れて凄門の鎧に浅い引っ掻き傷を作っただけだった。

 千載一遇の機会を逃した猿咬徒が着地したのは、凄門の直刀の間合い。

 猿咬徒の眼前で凄門が旋回した。体重、遠心力、膂力。あらゆる力をこめた一撃が来る。

(死ぬ、マズい、地中へ逃げ――⁉)

 潜行して逃れるには一手足りず、猿咬徒は無意識に銛を構えていた。片腕では最早満足に扱えない長柄武器、だが凄門の力といえど、同じ卑神の体をその武器ごと一刀のもとに切り捨てることはできない。それはたった今しがた、片手で渾身の一撃を防がれた水沢が実感して得た生存への一手だった。


「――零落神名帳れいらくしんめいちょうたたら


 手にした銛から重い衝撃が伝わる。しかし凄門の直刀は猿咬徒に届いていない。

(助かった、あとはこのまま地中へ――!)

 逃れようとした猿咬徒に銛から伝わる異様な気配。

 否、異様なのは銛ではない。そこに食い込んだ凄門の直刀だ。紅く輝き、灼熱を纏った直刀が銛を捉え、触れた部位を断ち切らんとその柄をじりじり溶かし進んでいる。

「何だよ、おかしいだろ! 卑神のチカラは……一人一個だって――」

「よく知っているな、お前の言っていることは正しいよ。卑神に備わった恩頼みたまのふゆは一柱につき一つだ」

 猿咬徒の足はすでに地面へ触れている。〈仮層潜行〉を使えば地中へ潜り、逃げることも可能だった。

 だが、それは今まさに直刀を受け止めるべく銛に込めている力の源、両の足による踏ん張りを失うことを意味する。そうすれば猿咬徒が手負いの片手で保持している長柄武器など容易に切り払い、二の太刀で仕留めにかかるだろう。逃れる術などない、水沢は己に迫る刃を目の前にしながらただ耐えることしかできなかった。

「だが俺は、凄門の恩頼が氷の武器を作ることなどと説明した覚えはない」

「ごめ、……許しッ……!」

「例え卑しき神であろうが、その手を血で穢した罪を贖う方法なんてない。俺もお前も、消えない罪を背負ったまま黄泉比良坂よもつひらさかを降るしかないんだよ」

 異様な音とともに銛の柄を完全に溶断した直刀が、そのまま猿咬徒に食い込む。〈仮層潜行〉で逃げようとしたその体は半ば地面に埋まったまま袈裟掛けに両断され、炎を纏った刃は宙に光の軌跡を残した。

「――こんな、はすじゃ」

「先に逝け、俺もいずれ後を追うよ」

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