第2話 鬼哭蒐集 凄門①

 眼下に広がる世界は、消えぬ炎に包まれていた。


 割れた大地が山となり津波となり、大地を蹂躙している。穿たれた地面は空へ落ち、茜色の空は海と溶け合っていた。地中からあふれ出た燃える汚泥が炎と混じり合い、更なる業火となって僅かばかり残った地表を舐め尽くす。

 轟音、轟音、轟音。暴力的に知覚が伝えてくる何もかもが、受け入れられる前に新たな破壊によって押し流されていく。


 そのすべての向こうで、意志を持った炎の濁流が蠢いている。八つの頭に一つの尾。空からでさえ全貌が見通せないその大きさは、一体どれほどなのか。

 何もかもが憎いと言わんばかりに、執拗に世界を炎で薙いでいる。

 何もかもが愛しいと言わんばかりに、執拗に世界を炎で抱いている。

 あれは炎の形をした破壊という概念だ。そこにいるだけで何もかもを灰燼に帰さねば存在できない、そういう生き物なのだ。


 八つの首の一つが一際高く吠え、ぐぐ、と首をもたげる。

 炎の濁流がこちらを見た。瞳も目も、感覚器が何一つなくとも、空の彼方から己を見下す不届き者を。首の一つが炎を撒き散らしながら、一際深く大きく嘶いた。あまりに大きな体故、どれほどの隔たりがあるのか分からない。それでも咆哮はびりびりと体を震わせる。黒い翼に抱かれて空を飛びながら、少女は何もかもを終わらせた蛇を見ていた。

――覚えておいて、この名前を。

 翼の主が自分に語りかけている。

――今は忘れてもいい、本当は思い出すこともないといいんだけれど……きっと運命はあなたを逃さない。そんな時、この名前はきっとあなたの力になってくれる。

 顔を上げると、黒い硬質の仮面が目に入った。スモークガラスのように薄く透き通った仮面の奥に覗くのは、強い意志を秘めた眼光。

――いい? この子の名前は……



 携帯電話のアラームで、彼女――御崎みさきかなえは目を覚ました。何度となく見慣れた夢だが、いつも寝起きは最悪だ。数年経った今もなお記憶は忘れかけていた頃を見計らって夢となり現れる。お陰で炎はいつまで経っても色鮮やに思い出すことができた。

 名残惜しくも布団の中で微睡みたかったが、寝汗でへばりついた寝間着の不快感が勝った。いつもより早くシャワーを浴びると制服に着替え、焼いたパンと昨晩の夕飯の残りで朝食を済ませる。「どんなに時間がなくても必ず三食を欠かさないように」とは、学生の身分で一人暮らしを許可される代わりに養父母と交わした約束の一つだ。

 その間、携帯電話でニュースをチェックする。注目記事の上位に表示されているのは「女子学生の連続首吊り自殺」、「廃墟内で若者の溺死体発見」、「町中で獣に襲われ会社員が重体?」――どれもおどろおどろしい見出しばかり。ある記事には識者らしい人物の「まるで現実のタガが外れたようだ」というコメントが引用されていた。

 ……タガなど本当は最初から存在しなかったのではないか。

 ふとそんな風に考えてしまうのは、あんな夢を見たせいだろうか。その疑問に答えられる者は、この部屋にはいない。"お守り"を制服に忍ばせた叶の「いってきます」と残した声が、誰もいない部屋に響いて消えた。



 もう何度目になるだろうか。朱田すだあかねは、学生鞄の底に隠した面に手を触れた。

 白く飾り気のない、齧歯類のような何らかの獣を模した仮面。肌に引っかからない程度にざらついたその表面は、ひやりと冷たかった。

 目の前のビルを見上げる。「新和市宗教法人磐座会」と書かれたレリーフの埋め込まれた以外は何の変哲もないビル。朝早くからずっと佇んでいる茜を不審そうに見ては、何人もその中へと入って行った。

 大きく息を吸い込み、細く、長く息を吐く。肺までからっぽになったのを確かめ、茜は「よし」と小さく独り言ちた。意を決して仮面を掴み、その手を――


「――ちゃん、茜ちゃん!」

「ひっ⁉」

 手首を掴まれ、茜は咄嗟に仮面から手を放す。いつから呼びかけていたのだろう、ぽかんとした顔で茜を見つめていたのは叶だった。己を不思議そうに見つめる瞳から目を逸らす。視線を合わせていると自分の何もかもを暴いてしまいそうな、深く黒い瞳。昔から彼女のそれが茜には苦手だった。

「何やってるの? 学校、こっちじゃないよね」

「叶ちゃん、あ、えと……」

 面が入った学生鞄を後ろ手に隠しながら茜は後ずさる。そんな茜をよそに、叶はビルを見上げていた。

「あれ? ここって――」

「なっ、何でもない! 何でもないから!」

 叫ぶようにそう言い残すと、茜は学生鞄を抱えてわき目もふらず駆けだした。雑踏をかき分けて進んでいく茜を追いかけようとした時、叶は何かにぶつかりたたらを踏む。倒れかけた体が何者かに抱き止められた。

「ごめん、大丈夫だった?」

「すみません、こちらこそ不注意で……」

 謝りながら顔を上げた叶は――相手にとって礼を欠いた行為と知りつつも――その顔を数秒見つめることを止められなかった。

 叶の身体を受け止めた人間が身に纏うのは白衣緋袴姿、所謂「巫女装束」と呼ばれるものだ。街中で気軽に見かけるような恰好ではない。その上彼女の目の周囲を覆っていたのは、白い仮面だった。目に当たる部分には穴が開き、そこから覗く両の瞳が叶を見つめている。

 そして彼女の風体以上に異様なのは、そんな彼女を他の誰も訝しむ様子がないということだった。決して公序良俗に反する類の恰好ではないが、人通りの多い朝の日中で見かけるものではない。誰しも最初から視界に入っていないかのように、しかし往来の真ん中で立ち止まる二人にぶつかることなく通り過ぎていく。

「……どこか怪我でもした?」

 そんな彼女自身は何もおかしいことがないと言うかのように、叶へと話し掛けてくる。

「だっ、大丈夫です! ありがとうございました!」

 慌てて茜の後を追い走り去る背中を、巫女装束の女――彌月は見送った。何事か考えあぐねる彼女の傍へ一人の男が歩み寄る。

「彌月」

 十津川九朗、あの鬼のような姿に変じて黒い巨大な毛虫の如き怪物――卑神・散婆娑羅と戦った男だ。声を掛けられた彌月が振り返り、九朗の目の周囲に色濃く残る疲労の色を確かめて眉間に皺を寄せる。

「精神負荷は大丈夫なの?」

「問題ない。ついでに黒江結香の資料を引き取ってきたが、あまり思わしくはないな」

 九朗が手にしていたのは地元の警察署の名前が書かれた封筒だった。中に収められている捜査資料は、本来であればまっとうな手段で借り受けられるものではない。

「性格は内気で内省的。それが災いして学校では入学直後から一部のクラスメイトに目を付けられていたようだ」

「……が好きそうな境遇ね」

「その中心人物全員を吊るした後、見て見ぬふりをした他の級友を縊り始めた矢先に対処できたのは幸いだった。だが彼女に卑神を与えた相手の手がかりは全くない。最近は町で学校以外の人間と一緒にいた、という情報もあるが、外見やその他は不明だ」

「局長は何て?」 

「別命あるまで調査継続。いつも通り振り出しだ」

「そう、なら私は別口を当たるわ」

「別口?」

 語尾を上げる九朗に見えるよう、彌月は人差し指を立てた。その先からはかすかに光を反射する極細の糸がどこかへと伸びている。

「さっき、私が見える子に会ったわ。ぶつかって謝られちゃった」

「――へぇ」

 九朗は彌月の格好をまじまじと眺めた。

「何よ」

「いや。仮面に巫女装束の変な奴に話しかけるなんて、いい根性してるなと思って」

「年中お通夜みたいな恰好のアンタに言われたくないわよ。じゃあ、何かあれば連絡する」

 背を向けて立ち去ろうとした彌月だったが、「ねぇ、九朗」と足を止めて背中越しに声をかける。

「本当にあの人がいると思う?」

「……いるさ。わざわざ卑神憑きにした相手に俺の名前まで伝えたんだ、絶対に何かロクでもないことを企んでいる」

 その声の冷たさに、彌月は思わず身震いする。一体今の九朗がどんな表情をしているのか。彌月は彼を振り返ることなく、叶の後を追って駆け出した。



「お願い、叶様!」

「……またぁ?」

 登校した叶を待っていたのは、合掌して懇願する級友の平木ひらき萌黄もえぎだった。その間には古文のテキストが挟まっている。

「頼むよ、次の小テストで満点取らないと母さんにスマホ没収されちゃう!  いつものヤマカン、一発お願いします!」

「こういうのは日頃の積み重ねだって、前も言ったじゃない」

「そういうのは大丈夫です。間に合ってるんで」

「……私、頼られる立場なんだよね。見捨てていい?」

 冷めた目の叶に対し、萌黄は最敬礼から直角にまで腰の角度を下げてから畳みかけた。

「昼飯奢るから!」

「……しょうがないなぁ」

 義両親から仕送りがあるとはいえ、出費はできるだけ抑えたい。それに事実として、彼女の勘はよく当たるのだ。彼女が望むと望まないとに関わらず。

 逡巡の末、カナエは深くため息をつきながらテキストを受け取った。

「外しても恨みっこなしだからね」

「分かってますって、セーンセイ」

 ぱらぱらとめくり、「じゃあここ」と適当なページで止める。開いたのは『伊勢物語』の「芥川」。「昔、男ありけり」から始まる、女を鬼に連れ去られた男が嘆いて歌を詠む話だ。

「なるほど、『伊勢物語』。シブいですねセンセイ」

「本当に分かってるの?」

「まっさかぁ、分かってればヤマカンなんかに頼ったりしないってば」

「何それ。……あ、ちょっと待って」

 自席に戻って早速詰込み学習に勤しもうとする萌黄の襟首を掴む。「ぐぇッ」と蛙の断末魔じみた声が聞こえたが、それは無視した。

「茜……朱田さんはまだ来てない?」

「朱田さん? 今日は……というより、今日も来てないねぇ」

 二人の視線の先、教室の端で忘れられたようにぽつんと静かに佇む机。始業時間間近だというのに、未だ座る者が現れる様子はなかった。

「付き合い長いんだっけ」

「子供の頃に、ちょっとね。昔は家族ぐるみだったんだけど、まぁ、色々あって……」

 萌黄は「そっか」とだけ呟くと口ごもる。顔を盗み見ると目があからさまに泳いでおり、いかにも「私は内緒にしたいことがあります」と物語っていた。こういう裏表のない、嘘の吐けない彼女の性格が叶は嫌いではなかった。

「何かあったの?」

「うーん、先週くらいの話なんだけど……」

 状況を思い出しているのか萌黄は目を閉じ、渋い顔になって続けた。

「友達とカラオケに行った帰りに朱田さん、駅前で見かけたんだよね、西口の方」

 彼女のいう「西口の方」とは、二人が通う学校の最寄り駅にあたる「新和市駅」周辺のうちゲームセンターや飲み屋などが乱立する繁華街を指す。人通りが多い分トラブルも多く、学校からはあまり近寄らないよう口酸っぱく注意されている場所だ。

「なんか、ヘンな人たちと一緒だった」

「ヘンな人……?」

 そう言われて叶は、今朝方ぶつかった人物を思い出した。巫女装束に仮面の女、あの時は茜を追いかけるのに必死で大して気にも留めなかったが十二分に「ヘンな人」だ。

「それって、コスプレみたいな恰好?」

「コスプレ? いや見た目はフツーだった。だけど組合せがちぐはぐでさ。普通の男の人と、ちょっと若いヤンチャで怖そうな人と、あとウチの学校とは違う学生服の女の子。気にはなったんだけど無理矢理連れていくって感じでもなかったし、四人ですぐ裏路地の方に行っちゃって……」

 確かに変だ、と叶は独り言ちる。

「カラオケ屋のあたり、だよね」

「うん、コンビニの横の路地を――ねぇ、何か危ないこと考えてない?」

「危ないことって?」

「違うならいいんだけど……」

 何か萌黄が言いかけたところで予鈴が鳴り、彼女はしぶしぶ自席へと戻って行った。教室へ入ってきた担任がホームルームを始め、昨日別の学校の生徒が意識不明で倒れているのが見つかったことを挙げて注意を促す。だが「危ないこと」で占められた叶の耳には届かず、そのため古文の小テストが本当に「芥川」だったことなど彼女はまるで気にも留めなかった。



 何か備えがあった訳でもない。「そこにいる」という確信があった訳でもない。

 だからその日、萌黄に教わった西口の周辺で茜の後ろ姿を見つけた時。思わず駆け寄り、彼女の腕を掴んだ時。彼女が二人の男と共にいることに叶は全く気付いていなかった。振り向いた茜の顔が驚愕に歪む。

「何で、こんな……」

「あ? 何だ、お前」

 茜が何かを言い切る前に、彼女の後ろにいた二人の一人、傷んだ金髪の若い男が凄む。くたびれたシャツを纏う痩せた体に反し、やけにギラつく両目が叶を睨みつけた。

「違うんです、この子は」

「友達です!」

 茜の腕を強く引き、叶は自分の方へと振り向かせた。

「茜ちゃん、最近変だよ。学校にも全然来ないし、おばさんだってきっと――」

「うるさいッ!」

 突如として茜の声量が大きくなり、道を行く人達の視線が集中する。彼女はそれをお構いなしにまくし立てた。

「……知った風な口ばっかり利かないでよ、何も関係ない癖に!」

「はい、ストーップ。そこまでにしよう。他の人にも迷惑だからね」

 その時、二人の間に軽薄な声が割り込んだ。茜と共にいたもう一人、眼鏡の若い優男。まるで大学生か塾講師のような風体で、確かに萌黄の言う通り先ほどの男とは妙な組合せだと叶は思った。

「何ですか、あなた」

 叶は警戒心をあからさまに隠そうともしない目つきで優男を見上げる。それを平然と受け流して彼は続けた。

「怖い顔しないでよ、君と同じ彼女の友達。疑う気持ちは分かるけどね」

 身を引いて距離を取りつつも、叶は手を茜から離そうとはしない。その手を振り解こうともしない茜の態度から、叶は彼女が何かに迷っていることを読み取った。

「茜ちゃんには僕たちの仕事を手伝ってもらってるんだ。もちろんいかがわしい事じゃないよ、学生ボランティアみたいな感じ」

 人当たりのいい笑顔に、落ち着いた明るい声。もし本当に塾講師などであったならきっと人気が出ただろうと叶は思う。だが自分たちの置かれている状況が、そう判断させることを拒んでいた。

「あ、そうだ!」

 よほどろくでもないことを思いついたのか、満面の笑みで手を叩いてみせる男を見て叶の眉間はさらに深い皺を作った。芝居がかった仕草が鼻につく。

「よかったらキミも手伝ってくれない? 最近女の子が一人減っちゃってさ、困ってんだよね」

 提案という体を装ってはいるが、間違いなく強制だった。振り返るともう一人の男がにやけた面で道を塞いでいる。人目もあるため振り切って走れば逃げ切れないこともないが、当然そうする時は茜を置き去りにしなければならない。

「どうする? 忙しいなら無理にとは言わないけれど」

「……いいですよ、行きましょう」

 その一言を聞いた茜の手が少し震え、茜は握り返す。

「そう言ってくれると思ってたよ」

 張り付けたような笑みが消え、男の表情が冷笑に変わる。

(もう取り繕う必要がなくなった、ってことね)

 叶は内心でそう納得した。



 金子と名乗った塾講師じみた優男が先頭に立ち、四人は西口付近の路地裏をどんどん進んでいく。叶と茜の背後にはチンピラ風の男、こちらは水沢というらしい。歩を進めるたびに人の気配は減っていき、叶は茜の手を握る力を強めた。

「ねぇ、二人はどこで知り合ったの?」

「教える必要あります?」

「つれないなぁ、これから仲間になる関係じゃん」

「承諾した覚えはありません、私は『行く』と言っただけです」

 角を曲がる瞬間、水沢の目を盗んで鞄に空いている方の手を入れる。携帯電話に触れると「110」を押し、あとは通話ボタンさえ押せば通報できるよう準備しておく。もして制服に忍ばせた"お守り"の感触を確かめた。

「まぁ、教えてくれないなら別にいいけど。……へぇ、叶ちゃんの実家が茜ちゃんの近くなんだ」

 叶の足が止まる。金子には実家の住所どころか名前すら名乗った覚えはない。だというのに、金子は本を読み上げるかのようにすらすらと続ける。

「その歳で一人暮らし? 二人の学校、そこまでして通うような所だっけ。この成績ならもっといいところも狙えそうだけど……おや、両親と名字が違うね。へぇ、複雑なご家庭なんだ」

「一体、何を――」

 金子の言葉はでたらめではない。全て真実だ。

 子供の頃、家が近所だったことから茜と縁を持ったことも。義両親に頼み込んで、わざわざ選ぶような理由もない学校へ通うため逃げるように家を出たことも。茜が何かを吹き込んだ素振りは今まで見せていない、ならばこの男はどうやって。

「分かんない? 分かんないよねぇ」

 金子が引き攣るような笑みを強め、一歩こちらに踏み出す。

「近寄らないで下さい!」

 携帯電話を持ったままの手を目の前に突き出す。すぐに警察が呼べる訳ではないが時間稼ぎくらいには、と思った矢先。手に衝撃が走った。

「おっと、危ない。さっきから何をやってるかと思えば」

 叶の手から携帯電話を奪ったのは、白いずんぐりとした獣だった。齧歯類のようだが、鼠にしては大きすぎる。それに――

「可愛いだろ? 従順で、僕に似て頭もいい」

 獣は金子の身体を駆け上がり、その肩に飛び乗ると叶から奪った携帯電話を渡す。ああいう獣がそこまで懐くものだろうか。

(いや、そんなことどうでもいい)

 頭に沸いた余計な疑問を打ち消すようにかぶりを振り、叶は茜の腕を引っ張る。

「茜ちゃん、やっぱりこの人たち変だよ。あの鼠みたいな動物も」

「――見えてるんだ、すごいね」

 だが、茜はその手を振り解くと茜に向き直る。向けられた瞳に宿る光は茜が知っている冷たさではなかった。

「何にも知らないくせに、そうやって私の場所を滅茶苦茶にするつもりなんだ。本当に知らないの? 本当は全部知っててやってるの?」

「分かんないよ、茜ちゃんが何を言っているのか……」

「君、トツカワって男の知り合い?」

 唐突に横から口を挟んだ金子の言葉に対し、叶は疑問符を浮かべる。その様子を見て何を得心したのか頷く金子。

「とぼけてるって訳でもないかれど、知らないならただ本当に『そういう体質』ってこともあるのかな。いやぁ興味深い」

「いいよ、どっちでも」

 どこか楽しげな金子の口調に苛立ったのか、それまで後ろに控えていた水沢が声を荒げた。

「めんどくせぇ。さっさと飲ませよう」

 何を、と疑問を差し挟むことすらしない。「飲ませる」という響きに嫌なものを感じ走りだそうとした叶の肩を水沢が乱暴に掴む。もう片方の手で叶は顎を掴まれ、その口をこじ開けるように固定された。

「大丈夫、毒じゃないさ。君は資格がある」

 どこから取り出したのか、金子は黒一色の瓶子を手にしていた。

「きっといいモノに選ばれるよ」

 瓶子に結ばれていた紅い紐の封を解き、蓋に中のものを注ぐ。無色透明、一見ただの水に見えた。だがこの状況で水でも飲んで親睦を深めよう、などという能天気なことになりはすまい。毒物か、あるいは薬物か。

 ぐい、と顎を押し上げられ、口に冷たいものが流れ込むのを感じる。無味無臭、ただの冷たい水だ。それを全て注ぎ終え、叶の喉がごく、と動いたのを見て金子は手を離した。

 途端にびしゃり、と水音が弾ける。

 何が起きたのか金子が理解したのは、オークションサイトで15万円を掛けて落札したヴィンテージのシャツから水が滴った時だった。

「びっくりしました? 無理に嚥下させる時は鼻を塞いだりするといいらしいですよ。でないと今みたいに飲んだフリでやり過ごせますから」

 口腔に残った水を地面に吐き出し、叶はできるだけ嘲るような声色でそう言った。金子の顔がみるみるうちに紅潮する。

「お、お前ッ!」

 ぱん、と乾いた音が響く。怒りに任せた金子に平手打ちされた叶は、しかし頬を赤く腫らしながらもその視線はすでに彼ではなく、茜を見ていた。

 その瞳にもし哀願や懇願の色があったなら、茜は叶のことを許そうと考えていた。自分は選ばれた者、彼女はそうではない。であるならば、無知な者の無礼は許すのもやぶさかではないと――あたかもそれが高貴なる者の義務ノブレス・オブリージュであるかのように。

 だが、叶は違った。その瞳に請い願うような色はない。


――それで、どうするの?


――これでいいの?

 そんな声が茜の耳に届いた気がした。勿論叶は何も言ってはいない。それは茜自身が自らに問い続け、気付かないふりを続けた内なる声だった。

 そして茜は叶から目を背け、再び自身の置かれている状況からも目を背けた。


(昔からそうやって、全部知ってるような目をするのが――ずっと嫌いだった)


 叶の顎を金子が掴み、無理矢理己の方を向かせる。

「大人の言う事を聞いていればいいんだよ、子供なんだから」

「あなただって大して歳は変わらないでしょう。それとも同じ大人に構ってもらえないから子供とだけ遊んで、んんッ」

 金子の手で口を覆われ、叶はもがくことしかできない。その姿を見て金子は満足げに歪んだ笑みを浮かべた。

「口を開けば不愉快なことばかり、イラつく子だ」

 瓶子を茜へと手渡し、代わりに懐から何かを取り出す。

「気が変わった、お前はの祝福を受けるのに相応しくないよ」

 その手に持っていたのは白い面だ。丸い眼球と耳が目立つ、何かしらの獣のような面。それを額に押し戴き、金子がどこか恍惚とした声で告げる。


「神威顕装、群がれ――堂売僧どうまいす


 その言葉が何かの引き鉄だったのか。叶の顔を掴んだ手は確かに存在しているのに、金子の体の輪郭がまるで揺れる水面のように崩れる。そして波紋が収まるかのようにぼやけた体が収束した時、そこにいたのは全く別の存在であった。

 凡そ人と呼べるものですらなく、黒い袈裟とも襤褸とも判別がつかない衣を纏った直立する獣。枯れた枝のように細く、しかし人の体など容易く切り裂いてしまえそうな力を秘めた指に喉を掴まれ、叶の息が詰まる。

「お前はあの人の謁見にすら値しないよ」

 異形の姿となっても、声はあの金子という男のまま。そのギャップがひどく歪曲されたカリカチュアのように感じられた。

「僕に盾突いたことを悔やみながら死ね、低学歴が」

 金子の声に応じるように、ざわりと周囲の気配が騒ぐ。目だけを動かして周囲を見ると、その視界で先程見た小さな獣がしかし先程とは比べ物にならない数で蠢いている。

「体の端から食い千切らせてやる。その憎たらしい口は最後にしてやるから、いい声で泣き喚いてくれよ?」

 叶を取り囲む無数の気配が一段、また一段と距離を詰めてくる。自分の身体を押さえている水沢でさえ、その手から緊張が伝わってきた。だが――

「何だよ、その眼は」

 金子が変じた異形が声に不満の色を滲ませる。

 叶はただ、金子が変じた獣を見ていた。自分がこれからどのような目に遭うのかも、そこから逃れる術がないと知りながらも、ただ真っ直ぐに見据えていた。

 それだけだ。

 金子にとって彼女は、これまで傷付けてきた有象無象と同じ。不可思議な事件の哀れな被害者として、翌日新聞に載るだけの存在。あと一声自分が号令をかければ、襤褸雑巾のように哀れな姿へと変えられる存在。そのはずなのに、その彼我の差をまるで意に介しない叶の瞳に、金子はたじろぐ。


 その時だった。ごつん、と鈍い音を立てて何かが異形の頭を跳ねる。

「……何だ?」

 地面に落ちたものへと視線を向けた異形の眼に映ったのは、建設用のボルトだった。それが元々あったであろう先を見上げた時。その場にいた四人が目にしたものは、彼らを目掛けて落下してくるボルト、ナット、鉄骨、鉄パイプ、その他大量の建築資材だった。

 咄嗟に自分を庇おうと叶から手を放す異形。叶はその場を飛び退きざま、一匹の獣から自身の携帯電話を奪い返す。続いて硬直している茜に手を伸ばすと、彼女が握っている瓶子を叩き落とした。資材の跳ねる金属音に陶器の砕ける音が加わる。

 そして叶の身体に何かがぶつかる軽い衝撃が走った。

「掴まって!」

 誰が言ったかも分からない言葉に従い、自分に当たった何かに腕を回し力をこめる。叶の身体に強烈なG《加速》が加わり、目を固く閉じた。足が地面から離れ、全身を浮遊感が包む。

 目を見開いた叶の眼下に広がっているのは、遥か上空から見下ろす街の景色だった。

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