卑しき神の名において
棺桶六
第1話 序文
人家を離れた幹線道路の高架下、日中はほとんど人通りのないトンネル。水無月の雷雨に紛れて、オレンジのナトリウムランプの光に照らされ二つの影が蠢いていた。
一つは天井からぶら下がる少女。彼女の身体を高く固定しているのは、尋常ではない長さに伸びた彼女自身の頭髪である。身体よりも長く、房は体より太く伸びたそれらは彼女の首と橋桁の鉄骨に絡みつき密林の樹木のような様相を呈している。少女は辛うじて己の髪の毛を掴み、首に力がかからないように耐えているが、力尽きるのも時間の問題であった。限界が近づく彼女の指はじわじわと力を失い、頭髪は絞首台の縄の如く彼女の首を絞め上げていった。
「――た、たすけっ……!」
少女がなけなしの力を振り絞って出した声を聞く者は唯一人。一人と数えるのが適しているのかも怪しいが、確かにそこにはもう一人いたのだ。だがもし正気を保った者がこの場にいれば、ぶら下がる少女よりも先にそれへと目を奪われていただろう。
その姿に最も近いのは毒蛾の幼虫か。だが大型トラックほど巨大な体格を持つ幼虫などこの惑星には存在しない。
ふ、ぶふふ、ぐふ。
ドブの中から浮き出た泡が割れるような笑い声。少女の苦悶を耳にして、異形は堪え切れぬという風に二つの口で笑った。その異形を最も異形たらしめているのは、頭と尾にあたる部分に据えられた巨大な人の唇であった。
人の口を頭と尾に持つ二口の巨大な
ぐふふ、ぶふ、ぶふううう。
少女の頭髪が意思を持つかのように首へと食い込み、彼女は頸骨が軋む音を聞いた。それに比例し、異形の漏らす笑い声が一際大きくなった。異形が愉悦を覚えているのは明白、しかし誰にもこの蛮行を止める術はない。いるとすれば、それは同じ異形だけである。
少女の指から力が失われ、頭髪の縄がずるりと抜けた。それが少女の首に致命的な負荷を与えんと締まる。
ぐぶ、ふ、ぶふうふふははっ!
異形の笑いは最高潮に達したその時。高架下に人影が姿を見せる。傘を忘れたのか全身ずぶ濡れになった若い背広姿の男が駆け込んできた。少女が目を見開いて男へ懇願するような視線を向けるが、男は髪を濡らす雨粒を拭いながらただ平然と歩いてくる。
「いいよォ、お願いしてみれば? 助けてくださいって」
異形が二つの口で全く同時に人語を喋る。少女は喉を通るほんの僅かな息で掠れた声を上げたが、男は異形にも少女にも気付かないようにただ彼らの脇を通り過ぎた。
「不思議だねェ、どうして気付いてくれないんだろうねェ? こんなにアンタが苦しんでいるのにねぇ!」
首を絞める髪の毛の力がさらに増す。走馬灯を見る余裕すら与えられず少女の意識が暗転した次の瞬間、その体が落下した。
「な……何よッ!」
それまで余裕に塗れていた異形の声に初めて焦りの色が滲む。落ちてきた少女の体を受け止めたのは先程の背広の男だった。彼の手には菱形に折られた紙が連なる鉛筆ほどの大きさの白木――御幣が数本握られている。そして先ほどまで彼女の首をぶら下げていた天井の髪の毛にも同じものが幾本か刺さっていた。御幣が刺さった髪の毛は先程まで動いていたのが嘘のように力を失くしている。
「アンタ――誰?」
毒毛虫が出した苛立つ声は、意外にも少女の年頃と変わらないほど幼さが残るものだった。そんな違和感を意に介さず男は抱えていた少女を地面へ横たえる。
六月に着るには暑苦しい黒の背広に身を包んだ男。よくよく見ればまだ大学生と言っても通じるような顔立ちだったが、暗く沈んだ陰鬱な目が彼の年齢を分かりづらいものにしている。男は巨大な毒毛虫を前にしているにも拘わらず、表情一つ変えなかった。
男は背広の内側に手を入れると何かを投げる。異形の足元に散らばったそれは、三枚の証明写真だった。写っているのは三人の少女。皆一様に、横たわったままの少女と同じ制服を着ている。
「
男が異形に呼びかける。その名前に、異形はぶるりと身を震わせた。
「そこに写っている三人は、いずれもこの一週間以内に首を吊って死んでいる。それも、自分の髪の毛で」
「――それが、何だってのよ」
異形は幼さの残る、だが唸るような声で返す。身体に纏う毛をざわりと逆立てた。男は返答の代わりに再び背広へと手を差し入れる。取り出したのは白い仮面だった。二本の角に、四つの瞳を模した穴。
尋常ならざる異形を前にするには、あまりに無意味に過ぎるただの面。だが異形は、黒江結香は、それが己を害する唯一の力であると知っていた。
「名乗れ、
「……なんですって?」
「例え卑しい神であろうと、神名を知らずに
常識の埒外にいるはずの己を前に平然とした態度を崩さない男。黒江結香は目の前の男もまた、自分と同じ常識を外れた側にいるのだとようやく理解した。
尾をもたげて二つの口を揃え、口角から泡を飛ばしながら叫んだ。
「いいわよ、決めた。そんなに死にたいならアンタも縊り殺してあげるわ、この私が――
「ああ、それでいい」
空気を震わす大音声をものともせず、異形の名乗りを聞きながら涼しい顔で男は答えた。
「
そして仮面を構え顔に押し戴き、卑しき神の名を唱える。
「――
その言葉を合図とするように仮面を被った男の輪郭が風景に融け、代わりに背後から覆いかぶさるように滲み出たのは新たな異形であった。
力士像を思わせる筋骨隆々の巨大な体躯、古式の装束と挂甲と呼ばれる鎧を纏い、腰に反りのない直刀を佩びた――鬼のような異形。先程男が手にしていたのと似た、しかしさらに凶悪な顔つきとなった面には二本の角。そして角の下には金色に燃える四つの目があった。
目の前に現れた自分以外の異形に一瞬たじろいだ黒江結香――散婆娑羅だったが、己を奮い立たせるかのように吠える。
「アンタもアイツらみたいに縊り殺せば、少しは静かになるんでしょうが!」
散婆娑羅の体毛が蠢き銃弾のような勢いで空を切る。凄門は腰に佩びた直刀を抜き放ち、切断された体毛が宙に舞った。凄門は足元で横たわったままの少女を抱きかかえ、雨が降るトンネルの外へと放り投げる。
「
放物線を描く少女の先に、声に応じて白い人影が躍り出た。白衣緋袴の巫女装束に身を包んだ人影は空中で少女の身体を抱きとめると、雨に濡れたアスファルトに背中から落下する。ぐぇ、と潰れたような息を漏らした人影は、拳を振り上げて非難の声を上げた。
「バカ、投げるならそう言え!」
「そんな余裕はない!」
凄門を睨み付ける「彌月」と呼ばれた人影の顔は、目の周囲が面で覆われていた。まだ何か言いたげだった彼女だが、こちらを睨みながら毛を逆立てて敵意を向ける散婆娑羅を視認すると少女の身体を軽々と持ち上げ、その場に背を向けて走り出した。
「……待ってよ。ソイツは私がこれから殺すトコでしょうが!」
散婆娑羅の体毛が広がり、トンネルを縦横無尽に駆ける。毛先の一条が二人へと迫り――
「いや、お前はここまでだ」
ちん、と涼しい音を立てて凄門の刃が走り、トンネルの中に一周した切断面を残す。明らかに間合いの外にあったはずの体毛さえ切断され、暗がりのなかにはらはらと落ちた。雫の滴る刃の先を散婆娑羅に向けて、凄門は続ける。
「例え卑しかろうと神の身を弄んだこと。人の命を軽んじ、徒に奪ったこと」
刃の先から物理的な圧力が放たれたかのように散婆娑羅がたじろぐ。ただ刃を向けられたからではない。言葉にできない、初めて浴びる種の圧力。凄門から発せられているのは、散婆娑羅が――黒江結香がこれまでの短い生涯で初めて浴びる「殺気」というものだった。
「お前はその罪穢れを、ここで払われなければいけないんだ」
気圧され、震える散婆娑羅の唇。こんなはずではなかった。いつものように狙った相手の後をつけ、周囲に人気がいなくなった瞬間――それが相手の家の中でも構わない――面を着けて散婆娑羅となり、与えられた力を以て縊り殺す。
自らの意思に反して動き、伸びる己の髪に混乱し、涙や鼻水を無様に垂らし命乞いの言葉を口にしながらじわりじわりと死んでいく。そういう犠牲者の姿を今日も見るはずだったのだ。自分にはそれが許されているはずなのだ。
(だって、私はあの人に選ばれたんだから!)
それが、この状況は何だというのだ。自分と似た超常の力を与えられた何者かが自分の邪魔をする。こんなこと、許されるはずが――
「
浴びせ続けられる殺気に抗うように、結香が呻くような声で名前を告げる。急に呼ばれた男の動揺が凄門の手にした直刀の切っ先をわずかに揺らす。
「同じ卑神憑きを狩る、『卑神狩り』。あの人が言っていたわ、いつかあんたみたいな奴が私を殺しに来るって。でも冗談じゃない、私は――!」
「そうか、会ったんだな。あいつに」
凄門がわずかに身を沈める。何の心得もない結香でも分かる、彼はこの殺し合いを終わらせに来る。確実に自分を殺しに来る。彼は――自分にとっての《死》なのだ。
次の瞬間、命の危機を感じた結香の意思より早く散婆娑羅の体毛が凄門目掛けて殺到する。四肢を、あるいは首筋を狙う黒縄。しかし死を手繰る黒い線は宙を走る銀の閃光によって切断された。
散婆娑羅の体毛とて、ただ闇雲に伸びている訳ではない。凄門の現在地、予想できる移動先、そしてあえてランダムな場所。その組合せを無数の体毛が狙う。だが体毛の全てを凄門は躱し、斬り、払う。決して広くはないトンネルの中を縦横無尽に駆け回り、あまつさえ双方の距離はじわじわと近付きつつあった。結香には暗がりのなかで鋭い光を放つ直刀が、ずっと喉元に突き付けられているような錯覚さえ覚える。
ものが違うのだ。ハードではなく、ソフトの差。一体ここに至るまで、どれほどの鍛錬を重ね――死線を潜ったのか。
結香とてこの「散婆娑羅」へと初めて「成った」時。他者や己の体毛を操作するという力を持っていることも、そしてその使い方もまるで既知のものように理解した。髪の一本でさえ人を容易く縊り殺し、束ねれば装甲車さえ捻り潰すほどの膂力を出せる。凄門に向けて放たれる髪は鉄杭にも等しい硬さと鋭さで、アスファルトの路面やトンネルの内壁を抉っていた。
だが、今はそれだけだ。
「どうして当たらないのよ……!」
「威勢がいいのは無抵抗の人間を嬲る時だけか?」
切断された無数の体毛が舞うなか、九朗の声は雨音をすり抜けて結香のもとへと届いた。
「神の力を得ておきながら随分と控えめなことだな」
「黙れェッ! 〈ぬばたま・
散婆娑羅の尾から一際長く伸びる二束の体毛が
「あんたみたいなヤツが何もしてくれないから、私を助けてくれないから、こうするしかなかったんじゃない! 今さら出てきて、分かったような口きいて!」
空気を震わす慟哭とともに、散婆娑羅の神威も高まる。
(お前も、そうなんだな)
声には出さず、表情にも出さず。九朗は胸中で呟く。
(あの女が選ぶのは、たいていそういう人間だ……だからこそ、分かる訳にはいかないんだ)
「看取るよ、お前の最期。だから全部、ここに置いていけ」
荒れ狂う嵐を前に、凄門は再び直刀を構えた。
●
初めは髪の毛だった。
教室で髪に違和感を抱き、振り返るとあの四人がニヤニヤと笑っていた。
「ごっめーん、ハサミが当たっちゃったぁ」
頭に手をやると癖毛の一部がばっさりと切り取られていた。こちらから何かをした記憶はなく、聞くところによると「髪が当たってウザかった」かららしい。鋏を持ったあいつは自慢の長くてサラサラの髪をなびかせ、けらけらと笑いながら教室を出て行った。そんなことが何度も続き、その度に私の癖毛は秩序のない虫の群れみたいに無残なものとなっていった。
数少ないクラスメイトは距離を空け、相談した先生もただ面倒臭そうに「注意しておく」と繰り返すだけ。親は元々私に関心がない。誰も私を助けようとはしなかった、だから私は「与えられた」のだ。面を、この身体を、散婆娑羅を。
御自慢の髪の毛で絞殺してやった時はすごくすごく胸がスっとした。散婆娑羅となった私が急に目の前に現れた時よりも、自分の髪の毛が急に動き出したことのほうに驚いていたようだ。命乞いをする時の無様な震えも、骨の軋む感触も、ゆっくりと失われていく体温も、私の意のままに動くようになった髪の毛を伝って全部感じ取ることができた。
一緒になって笑っていたあいつらも、同じように殺してやった。見て見ぬふりをして、私から逃げた友達――友達ヅラをしていたあいつも殺してやるんだ。私は自由なのだ。誰にも縛られず、誰にも咎められず。意のままにこの力を振るっていい、いいはずなのだ。
――これであなたを縛るものは何もなくなったわ。人の法も、理も、あなたの楔足り得ない。
――でも覚えておいてね。いつかあなたの元に必ず「死」が訪れる。その名前は……
「私はこれからなのよ。私を見下すヤツを全部殺して、邪魔するアンタも殺して、私はやり直すのよ! だって私は――選ばれたんだから!」
絶叫する結香に対し、九朗はあくまで冷静だった。
「お前を選んだのは神でも悪魔でもない。自分のためならいくら他人を踏みにじろうと何も感じない、最低最悪のクソ女だ。そんなものに選ばれたからって、お前は何者にもなれやしないんだよ」
「黙れよォッ!」
その言葉を引き鉄に散婆娑羅の体毛が爆発的に増殖する。身構えた凄門だったが、体毛は放たれることなく散婆娑羅の眼前に収束していった。その莫大な量の体毛は一点へと集中し続け、やがて黒い球を生成する。
高まり続ける散婆娑羅の神気を前に凄門は身構える。内側からの圧力で弾けそうな体毛を、さらに次の体毛で覆い続けた文字通り散婆娑羅の全身全霊。そこに蓄えられた力を解放すればただでは済まない。だが今から散婆娑羅の本体を狙うには距離が空き過ぎている。避けるか防ぐか、あるいは――。
凄門は直刀を逆手に持ち直すと、右腕を大きく絞った。
九朗の思惑とほぼ同時に、結香の切り札も完成する。
「〈ぬばたま――
黒球の表面に稲妻のようなヒビが入り、集中していた圧力が一気に解放される。
次の瞬間轟音とともにトンネルを埋め尽くしたのは、ありとあらゆるものを削り取る黒い奔流だった。圧し留められていた黒髪が解放され、コンクリートもアスファルトも等しく削る暴力的な不協和音と化す。決して狭隘とは言えないトンネルの全てを埋め尽くす勢いで、全てを黒く染め上げる荒れ狂う黒い大河。備えている体毛の悉くを注ぎ込む、継戦を度外視した文字通り散婆娑羅の「切り札」であった。
濛々と灰色の砂塵が舞う。元の形を失い、あらゆる所が無秩序に削り取られたトンネルの中で散婆娑羅は荒い息を吐いていた。どれだけ腕が立とうと、どれだけ実力に差があろうと、防御も回避も不可能な量と速さで押し潰してしまえば何の意味もない。 全てを呑み込むその勢いは凄門とて例外ではなく、その姿は光沢を持つ黒い破壊のなかに消えた。
「……ははっ、偉そうなこと言ってさぁ! 結局アンタも口だけじゃない!」
これで自分を阻む者はいなくなった。大丈夫だ、これからも自分は今まで通りにやれる。誰を害するも思うがまま、だって私は――
ごぼりと不快な音を立てて笑みに歪んだ散婆娑羅の口から血液が漏れる。そして腹から上ってくる熱と痛み。
何が、と見下ろすと視界に入ったのは橙色に輝く直刀。先ほどまで凄門が握っていた刃が光と熱を纏って突き刺さっている。内側から文字通り焼かれるような痛み。それは散婆娑羅の体を纏った結香が初めて負う傷だった。
「堪能しろ、それがお前の罪だ」
散婆娑羅がはっと顔を上げる。薄れゆく砂塵のなかで、ゆらりと幽鬼の姿が起き上がった。決して無傷ではない。纏っていた鎧は大部分が削り取られ、角も片方が砕かれ、千切れかかった片腕もなんとか体にぶら下がっているといった有様だ。だが金色に燃える四つの瞳だけは今も爛々と輝き、散婆娑羅の姿を捉えている。
毛髪によって至る所が等しく抉り取られたはずのトンネルの内部。そのアスファルトの底面が、凄門を頂点として扇状に無傷を保っていた。散婆娑羅が全てを注ぎ込んだ「混洪潶」が放たれる直前、凄門は直刀を投擲していた。どのような技か高熱を纏った直刀は、解放される直前の黒球の一部に瑕疵を為して散婆娑羅に突き刺さる。そして不完全な球から放たれる「混洪潶」の奔流に。凄門が生き延びられるだけの空隙を生じさせていた。
「この……ッ、死にぞこないのクセに!」
散婆娑羅の体毛が直刀を掴み、ぶすぶすと肉を焦がす音を立てながら引き抜く。
(大丈夫、仕留め損ねただけで傷は負わせている。武器も奪ったし、私が負けるはずがない)
結香は己に言い聞かせる。
事実、直刀は散婆娑羅の卑神としての核である「御」を逸れている。そして凄門には直刀以外に武器らしいものは見当たらなかった。高熱を伴う攻撃は脅威ではあったが、凄門の手に残っているのは直刀の鞘のみ。
(そんなもの、何の役にも立つか!)
だが凄門は鞘を腰から解いて脇構えにする。結香は理解した、この男が。十津川九朗という死神が。その身を抉られて絶体絶命という有様になろうと、自分を殺すことを何一つ諦めてはいないと。
「
散婆娑羅の知覚を通して結香は空気が凍てつき、ひび割れる音を捉えた。九朗の声に応じ、鞘の周囲に冷気が舞い始める。トンネルに流れ込む雨水が吸い寄せられるように鞘へと纏わり付き、それを核として一つの形を作り始めた。
その姿は、「長巻」と呼ばれる武具に酷似していた。太刀から派生した、相手の肉も骨も諸共に断ち切るかのような身の丈を超える刃。見るからに満身創痍の凄門は、鞘を柄として氷を刃とする長大な長巻を担ぐように構えた。
「そんな……そんなものでッ!」
散婆娑羅が吠え、残っていた体毛の全てが凄門を門目掛けて迫る。だが凄門はまるで意に介さず、散婆娑羅目掛けて一直線に跳んだ。身を焦がした傷のせいで体毛の操作が乱れ、全てを注ぎ込んだ切り札までも使い果たした散婆娑羅。その体毛は疾走する凄門の姿を捉えることが叶わない。
最早何もかも手遅れだと結香が気付いたのは、大上段から振り下ろされた氷の刃によって散婆娑羅が両断されたその瞬間だった。
長巻に両断された散婆娑羅の身体は墨のような黒い影へと変わり、地面に漆黒の溜りを残しながら消えていく。後に残された結香の姿は、癖毛が目立つあどけない学生服の少女だった。
彼女の額に当てられていた白い面が、路面に落ちて甲高い音を立てる。一瞬呆けていた結香は我に返ると、両断されたはずの己の体が無事な事を疑うかのように自身を検めた。
「卑神の受けた傷は、俺たち卑神憑きに還ることはない」
凄門の体躯が霞の様に消え、仮面を外した九朗の姿へと戻る。彼が地面に落ちた結香の面を拾い上げると、彼女は目を見開いて叫ぶ。
「返してよ、私にはまだ殺さなきゃいけないヤツが残ってるんだから!」
「お前の散婆娑羅は『御』を破壊された。これはもう何の力もない、ただの面だ」
九朗が放り投げた面を受け止めようと手を伸ばした結香だったが、届く前に彼女の体は路面に倒れ伏す。起き上がろうとするものの、力が入らずまるで虫のように蠢くことがせいぜいだった。そして――
「何よ、これ……」
彼女を襲うのは、まるで眠気のような耐えがたい意識の喪失。
呻くようにそう呟く結香の横で、九朗は再び仮面を拾い上げる。
「卑神を便利に使える神様の力だとでも思ったか。そんな都合のいいものじゃない、ツケは払わなきゃいけないんだ」
朦朧とする意識のなか、九朗の声だけがはっきりと結香の耳には届いた。
「人の罪は人の法が裁く。神の穢れは神の理が祓い清める。だが、人が卑神に犯させた『死』という最大の罪穢れは、人の法では裁けない。神の理でもすべてを祓い清めることはできない。だから残りは人が代わりに背負って行くんだ」
雨に濡れた路面の冷たさでさえ、最早結香には分からない。ただでさえ暗いトンネルの中に、結香が見えるものはもう残っていない。
「お前の心は罪穢れとともに
「わ、たしは、いつ――」
いつ、目が覚めるのか。
いつ、心が戻って来られるのか。
結香が何と続けようとしたのかは分からずとも、九朗の答えは同じだった。
「心が根國底國へと流された人間が目覚めた例を、俺は知らない。明日かもしれないし、永遠に目覚めないのかもしれない」
(ああ、それなら)
九朗へ言い返そうとしたが、結香にはその力ももう残っていない。代わりに唇が笑みの形へ歪んだ。
ならばいっそ目覚めなくてもいいと、眠りに落ちる寸前の結香はそう願った。
たとえ今から行くのがどんな場所であろうと、あの教室よりマシなのだから。
●
意識を喪失した結香を見届けると、九朗も路面に座り込んだ。懐から錠剤を取り出し、嚙み砕いて嚥下する。
「また無茶したみたいね」
いつの間にか、傍には彌月と呼ばれた仮面の女が立っていた。九朗はどろりとした目で呆れた様子の彼女を見上げる。
「『御』は破壊されていない、じきに凄門も回復する」
「また余計なこと言って怒らせたんでしょう」
「それで大技を放ってくれば付け入る隙も生まれる。……さっきの子は」
「引き渡したわ、命に別状はないみたい。今頃は病院で眠ってるわ。その子ほどじゃないだろうけれど」
よっ、と軽い掛け声とともに、彌月はその細腕の見かけによらない腕力で結香を担ぎ上げる。九朗は彌月の前を行くかのようにトンネルの出口へ歩き始めた。
「どこへ行くの? 無傷とはいえ、あんたも休まないと――」
「あの女がいるんだ、休んでなんかいられるか」
顔に浮かんだ呆れの色を濃くする彌月をよそに、濡れることも構わず歩き始めた九朗の進む先。豪雨に煙る遠景に、一つの街が浮かんでいた。
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