第3話 #カッコウの餌食③

 私の尾行は付近にある駐車場まで続いた。彼女はそこでバイクに乗り、夜の闇に消えていった。私はナンバープレートをメモだけしてその日の尾行は終わった。世良さんに定期報告だけ済ませて帰宅する。

 基本的にナンバープレートの情報だけで住所を特定することはできない。法律の改正に伴い、登録事項等証明書の取得は厳しい条件が課されている。

 だから、私がするのは地道な作業だ。X区であることはナンバープレートからわかっている。そこから彼女のアカウントの情報を照らし合わせて住所を特定する。

 これは比較的簡単だった。というのも彼女は日常のささいなことでも頻繁に投稿していた。

 橋の上から撮った夕日、店で撮影したスターバックスの季節限定フラペチーノ、馴染みの店で購入したデニムパンツ。写真の中には本人が意図していない情報が隠れている。地図にまとめれば住んでいるエリアがある程度絞れる。

 その後は簡単だ。バンドの収入はあまり多くないと推測し、学生や若者向けの一人暮らしのアパートを漁っていく。

 そして三件目で当たりを引き当てた。ライブの時よりも化粧は薄くマスクをしていたが、あの切れ長の瞳は間違いなく彼女だ。

 アパートの前にある電柱の陰に私は隠れた。

 彼女が右手に持つチェーン店の袋にはMサイズのドリンクが二つ。一人で飲むとは考えにくいから誰かと食べるのだろう。

 それは変だ。友達が遊びに来ているのであれば、わざわざテイクアウトで注文せずに外で食べに行くだろう。彼氏がいるとしても彼女一人で買いに行かせるだろうか?

 幸運なことにアパートには部外者の私でも入ることができた。エレベーターに乗った彼女を追いかけて非常階段を昇っていく。

 郵便受けで確認した通り、彼女の部屋は三階にあった。部屋の前で鍵を取り出した彼女を物陰からのぞく。

 鍵穴に鍵を差し込んだときを見計らい、私は物陰から飛び出した。見つかることも承知の上だ。リスクを冒さなければチャンスは二度と巡ってこない。特に私のような非才な人間には。

 勝算はあった。あの日出会ったときは暗くて私の顔をよく見れなかったはずだ。それに加えて私は簡単な変装をしていた。フチなし眼鏡をかけ、化粧をして唇の下に黒子を書く程度だが、これでも印象は大分変わるはず。

 化粧は椿に教えてもらったものだ。私の三時間の苦労が報われることを祈る。

 扉を開けた彼女の後ろを通る。自然にふるまうことを意識すればするほどぎこちない動きになってしまう。

 唇が震える。呼吸が不規則になる。

 握りしめた掌は汗で湿っていた。

 半分開かれた部屋からは玄関が見える。失踪当時に履いていたというサンダルは見当たらない。もう少しだけ時間が欲しいが、通り過ぎなければ不自然に思われる。

 次の機会を待つしかない、そう判断し視線を前へと戻そうとした瞬間、扉の隙間から見えた人影に私はあっ、と声を出してしまった。

 写真に写っていた時の笑顔は無く、憔悴した表情を浮かべていたが、間違いなく大原里香さんだった。

 

 そして、私の一番の驚きは。

 ファンデーションで隠せない青あざだった。

 

 急いでアパートを離れ、そのまま家に帰ることにした。居場所は確認した。次に確認すべきは逃げた理由だ。私は最後の調査のため、切り札を切ることにした。

 その切り札は、私の家のソファーでぐうぐう眠っていた。よれたシャツに無精ひげ。最近は特に忙しいらしい。普段から細いのに、さらに痩せて骸骨みたいだ。お腹に置かれている制帽が呼吸に合わせて揺れている。

「ほら、起きて。風邪引くよ」

 男の肩を揺らすと、彼はゆっくりと身を起こす。短く刈った髪の毛をがりがりとかきむしる。

「実桜ちゃんか?」

「人の家で勝手に寝ないで。警察呼ぶよ」

「警察ならここにいるだろ?」

 陸和雄警部補はにやりと笑った。


 和雄おじさんはチャーハンを口に運びながら言った。何度も何度もゆっくりと米粒をかみしめる。その姿はまるで牛のようだ。

「今日仕事?」

「まぁ」

 私も淡々とスプーンを動かしながら答える。

 冷凍食品のチャーハンは味気ないもので、しかも解凍できていない塊が残っていた。おじさんの適当な調理のせいだ。文句と塊をインスタントスープと共に飲み込む。

「ふーん」

 西園寺和雄は私の母の弟、つまり、私の叔父だ。多忙な父に代わり、私の世話兼監視役となっている。……実際は私の共犯者なのだが。

「よく反対しないよね。告げ口しないの?」

「賛成はしていないよ。君の仕事も、姉さんを探すことも、できれば今すぐ辞めて欲しいと思っている」

 でも、と続けて言った。

「親を思う子供の気持ちもわかるから、さ」

「子供を持ったら気持ち変わるかもよ?」

「子供の前に結婚だな。恋人探しの依頼とか実桜ちゃんできる?」

「それは無理。来世に期待した方が良いよ」

「酷いこと言うな。泣いちゃう」

 下手な泣き真似をする三十五歳。

 そういう所だぞ。

「で、今回はどんな仕事なの?」

「人探し」

 一拍置いて私は言った。

「大原里香さんって知ってる?」

 彼のにやついた表情が消える。

 当たりだ。

「知ってるんだ」

 彼はばつの悪い顔をした。

「名前くらいは」

 料理はまるでダメだが、和雄叔父さんは有能な警察官である。その有能ぶりは他部署からも相談を受けるほどで、自然と情報が彼の元に集まってくる。

 さらに都合が良いことに素直な彼は隠し事ができない。情報源としてこれほどありがたい存在もいない。

「知ってること教えてよ。可愛い姪っ子を手伝うと思って」

「警官には守秘義務があるの。僕から話すことは無い」

「うーん、そう言われると逆に気になるなぁ。大原里香さんに一体何があったのか?叔父さんは何を隠しているのか?」

 さらに反応を確かめようと私は顔を近づけるも、叔父さんは掌で顔を隠した。

「そういうの、良くない」

「法律を違反したつもりは無いけど」

「法律の問題じゃない。道徳の問題だ」

 はぁ、と深いため息が彼の口からもれた。

「いいかい、実桜ちゃん。君は行動力があり、良い観察眼を持っている。でも、君はもっと手段を選ぶべきだ。強引な方法を取れば周りから人が離れていくよ。人と人の繋がりで一番大切なのは対話だ。ちゃんと相手の話を聞く、相手の気持ちを考える。そうしないと、いつか痛い目をみるよ」

「……」

「実桜ちゃん」

 幼子をたしなめるように私の名前を呼ぶ。

 私はスプーンを置き、席を離れた。

「わかったから、そんな言い方やめて。もういい、もう聞かない。それでいい?」

 苦い顔をした和雄叔父さんが何かを言う前に。

 半分冷凍のチャーハンを残して私は自室に逃げた。

 

 会話が苦手だ。

 みんな会話が大事だと言う。

 でも、私の話を聞いてくれる人なんて誰もいない。 

 和雄おじさんも、お父さんも、お母さんも私の話なんて聞いてくれない。

 だから、私は何だってする。ズルいことだってたくさんする。

 私の話を聞いて欲しいのだ。

 お母さんに会って言いたいのだ。

「何であんなことしたの?」

 ベッドから天井を見上げて呟くも、誰も私の疑問に答えてはくれない。 

 


 駅前の交差点付近、高名な芸術家が作ったらしい彫像の前で待ち合わせるする。

 約束の時間に三十分遅れて椿がやってきた。

「おはよう」

「今何時かご存じ?」

 椿はひときわ大きなあくびをした。普段はぱっちり開いている大きな瞳も今は眠たげだ。

「休みの日の十時は早朝だよ、ふわぁ」

 気の抜けた声を出す椿に、私は冷たく言う。

「寝ててもいいよ。私一人で」

「絶対行くから!」

「はいはい」

 全く、変な所で義理堅い。

 私は昨日の出来事について不要な部分を除いて話した。

「へぇ、オジサンは里香さんについて知ってたんだ。でも、何も教えてくれなかったんでしょ?」

「違う。叔父さんは一つ大切なことを教えてくれた」

 もし警察が里香さんを探しているのなら、私が何か知っているかを聞くはず。わざわざ守秘義務と言って私に隠す意味がない。

「つまり、世良さんは警察に里香さんの失踪について相談していない。だけど、警察は里香さんについて知っている」

 あえて人ごみに混ざるように私は歩く。休日の混雑も、今朝世良さんにした連絡も全て計画の上だ。

 あとは私の体力がどれだけ持つか。

「よくわかんない」

「これからわかる。……走るよ」

「え、ちょっと」

 私は走り出した。人ごみの中をかき分け、白黒の横断歩道を一つ飛ばしで駆けていく。横を見るとすでに椿は追いついていた。すでに呼吸が乱れている私と違い、表情には余裕があった。文化系と体育会系の残酷な格差を感じて悲しくなる。

 より混雑している場所へ、より細い道へ。

 けれど、決して見失ってしまわないように。

「大丈夫?」

 激しく高鳴る心臓の音に混じって椿の声が聞こえる。私は少し先にある曲がり角を指さした。

 曲がってすぐの所で待つ。それから少し遅れて足音が近づいてくる。自分の尾行が気づかれているとは思っていなかったようだ。

 私たちは、後をつけてきた人物と対面する。

「世良さん……?」

「……」

 依頼主は気まずそうに顔を伏せていた。

「どういうことなの?」

 私は壁にもたれかかりながら言った。

 全て私の予想通りだった。

「世良さん、ハァ、は、ゼェ、警察の、ゴホッゴホッ」

 自分の絶望的な運動能力以外は。

「実桜っ、しっかりして!」

「ちょっと、休ま、せて」

 ……死ぬかも。

 

 オレンジジュースを一息に流し込む。それでようやく話す余裕が生まれた。

 向かい合って座る世良さんに言う。

「里香さんは警察に相談していた。正しいですか」

 彼の頭が小さく傾いた。

「それって、例のストーカー?」

「違うよ。話していたのは世良さんのこと」

 私は順序立てて話していく。

「私が疑問を持ったのは定期連絡のこと。毎回調査の度に調査結果を報告させるなんて無駄でしょう?定期連絡が欲しいとしても、一週間や一ヶ月間隔で良い」

 裏を返せば、彼には毎回の調査について報告させる必要があった。

「私が里香さんと話した場合、私が世良さんに調査の報告をしない可能性がある。そう考えたのでしょう?」

 だから、日々の調査報告をさせる必要があった。万が一調査の報告を拒否された場合でも、日々の進捗から居場所がたどれるように。

 失踪当日に彼女が服やお金を持っていけないほど急いでいた理由もわかる。タクシー運転手の世良さんであれば、定時前でもアパートに戻ることができる。見つかる前に逃げたい彼女にとっては、あまり準備もできなかったのだろう。

 ただ、これはあくまでそれは憶測にすぎない。

 だから、私は証拠を探すことにした。

 今朝送った個人チャットで私たちの待ち合わせ場所と里香さんに会いに行くことを連絡した。私の予想が正しければ、彼にとっては絶好の機会だろう。

 結果は見ての通りだ。

「何を隠しているか、教えてもらえますか?」

 男は顔を伏せ、視線をテーブルに落とした。

「隠し事は、里香さんの顔のケガに関係していますか?」

 図星だったようだ。彼は顔を歪め、そして、観念して口を開いた。

「今は反省しているんだ」

「それって……」

「里香さんが警察に相談していたのは、家庭内暴力の事だったんですね」

 吸った息を吐き出す勢いに乗せ、私は言う。

「里香さんが逃げたのは、あなたからだった」

 彼は伏せた顔を両手で覆い隠した。

「……お酒を飲むと感情が制御できなくなるんだ。色々問題も重なって、それで、つい、やってしまって」

 でも、と言って彼は顔をあげた。

「もちろん反省しているし、今は心を入れ替えた!ちゃんと会って、今までのことを謝りたいんだ!」

 私は首を横に振る。

「今回のお仕事は無かったことにさせてください。報酬もいりません。里香さんが納得して帰ってくるまで、世良さんが会うべきではありません」

 世良さんの顔が絶望に染まる。ほんの少しだけ私の中に罪悪感が芽生える。彼が里香さんを愛していることがわかったし、とても暴力をふるう人間には見えなかった。

 しかし、それは幻想だ。頭を振って馬鹿な考えを捨てる。人を見た目で判断してはいけない。真実は常に想定より悪いものだ、と私は今までの経験則から知っていた。

「行こう」

 私は隣の椿をひじでつつく。

椿の顔にはまだ迷いが残っていたけど、私にせかされるとようやく立ち上がった。残ったジュースを一息に飲み干す。

「私たちの仕事はここまでです。お役に立てずすみません。ですが、私は責任のとれない仕事はできません」

「待ってくれ!」

 男の声がファミレスに響く。横を通り過ぎようとしたウェイトレスがこちらを見た。

「彼女の居場所を知っているのか?」

「……」

「知っているんだな」

 テーブルにこすりつけるように頭を下げた。

「お願いだ。せめて彼女に伝言を」

「それは……」

「わかっている。でも、もう一度だけチャンスが欲しいんだ」

 彼の言葉は切実で、真摯なものだった。

「日曜日の夜、僕たちの思い出の公園で待っている。会って話がしたい。僕らの、今後について。もちろん僕が怖いなら来ないでいい。そうしたら僕はすっぱり諦めるから」

 私が断ろうとするより早く、椿が口を開く。

「わかりました。伝えてきます」

「ちょっと椿っ、勝手に決めないで!」

「伝えてみるだけ伝えてみようよ。二人のことを決めるのは二人が決めるべきだと思うんだ。里香さんの話も聞かなきゃ」

「でも、私たちには荷が重すぎる」

「お願い」

 私の前で椿は両手をあわせた。

 こういう時の彼女について私は良く知っている。給食費を盗まれた子のために、何日も振り回されたあの日のことは今でも記憶に残っている。

 そして、いつも、先に折れるのは私だ。

「……やるだけやってみます」

「ありがとうございます!」

「期待しないでくださいね。そもそも会えない可能性の方が高いんですから」

 本当に期待しないで欲しい。

 私はただの女子高生なのだから。


 土曜日は結局仕切り直しとなった。その日はそのまま解散となり、里香さんには日曜日に会いに行くことになった。

 日曜日の朝早くに私は椿と待ち合わせた。そこから電車に乗って目的地に向かう。あえて遠回りの電車を選び、常に背後に注意を払う。今の所、尾行されている気配は無い。

「で、どうやって里香さんと話すの?」

 つり革にぶら下がりながら私は椿に訊く。

 大原里香さんと話をするためには、槙島梓さんを説得する必要がある。当然彼女は事情を知っている。世良さんの手先である私たちに敵意を持っているはずだ。

「お願いする」

「それでダメなら?」

「もっとお願いする」

「……つまり、ノープランってこと?」

 私の指摘に彼女は眉をつりあげた。

「とにかく話してみようよ。話してみないと何も始まらないよ」

ため息で応える。

「話し合いで上手くいくなら探偵はいらない」

「ネガティブだなぁ」

「椿が楽観的すぎるの」

 電車が止まり、車掌のアナウンスが私たちの目的地を告げる。

 電車を降りる私の足取りは重い。

「椿」

 改札口を出た後で私は椿を呼び止めた。

「何?」

「約束して。もし、里香さんと話ができたときは私が話す」

 意外にも彼女の反応はあっさりしていた。

「わかった」

「反対しないの?」

「うん。信じてるから」


 電車に乗ってはるばるやってきたアパートのインターホンを鳴らす。

 いくら待っても反応は無かった。

「留守かな」

「居留守かも。……やっぱり無理」

「諦めるの早すぎ!せっかくここまで来たんだしさぁ、もっと何か方法を」

 うろうろ辺りを見回して打開策を探す椿。

 今の私たちは間違いなく不審者だ。警察に通報されても文句は言えない。

「おい、そこで何してる?」

 しかし、現実は大体想定よりも悪い。

 声に振り返ってみれば、そこには槙島梓さんが鬼の形相をして立っていた。

 私たちに歩み寄ってくる。

「……ヤバっ」

「お前ら、この前のガキだな。あのクソ野郎がガキ使って何するつもりか知らねぇが、痛い目見る前に帰りな。……さもないと」

 梓さんが背後に隠していた右手を前に突き出す。

「ダチに手を出すなら、ガキでも容赦しない」

 小ぶりのナイフがその手に収まっていた。

 彼女の敵意を形にしたような刃が、陽の光を浴びてきらりと輝く。小さくても刃物は刃物だ。急所を切られれば人は簡単に死ぬ。

 椿の手を引く。

「帰ろう。これ以上は危険」

 私が握る手を強めるも、椿は動かない。

 刃物の前で彼女の頭が下げられる。

「里香さんと話をさせてください」

「はぁ?」

呆れたのか、梓の口から気の抜けた声が出る。

「お前状況分かってる?目ん玉腐ってんの?」

「お願いします!」

 彼女の視線が私の方をちらりと向いた。

視線が語る。こいつ、頭は大丈夫か、と。

腰に木刀を差した女子高生がナイフを前に頭を下げているのだ。混乱するのも無理はない。

ただ、私に訊かないで欲しい。混乱しているのはこちらも同じだ。

やがて彼女の疑問は苛立ちに変わった。

「……馬鹿にすんなよ。あたしは本気だ」

 頭を下げたままの椿の頬にナイフが押し付けられる。一本の朱線が彼女の顔に刻まれ、薄く血がにじんだ。血の匂いが私の恐怖を増幅させる。

「椿っ!」

 震える声で私は叫ぶ。

 それでも、椿は動かない。

「……お願いします」

 私も彼女の隣に立ち、頭を下げた。

「あのっ、世良さんからの伝言があるんです。せめてそれだけ伝えさせてください」

 話せばわかると信じるつもりはない。

 それでも、私は卑怯者になりたくない。話し合おうと努力する人を陰で笑う奴にはなりたくなかった。

「お願いします」

 必死に頭を下げて気持ちをぶつける。

「はっ、お前らの話なんて誰が聞くか」

 それでも、届くとは限らない。

 諦めかけた私に助け舟を出してくれたのは意外な人物だった。

「話を聞かせて」

 開いた扉から姿を見せた大原里香さんが、じっと私たちのことを見ていた。

 

 面と向かって初めて話す里香さんは、落ち着いた大人の女性だった。私たちを部屋に通すと、救急箱を持ってきて椿の手当てをしてくれた。幸いなことに傷は浅い。傷跡が残ることはないだろう。

 かけられた消毒液にうぅ、と椿がうめく。

 大原里香さんの手が傷の上に絆創膏を貼る。彼女の薬指には、写真で見たのと同じ銀色の指輪が輝きを見せていた。

「ごめんなさいね。梓、私のせいで神経質になってて」

 彼女の横の椅子にかける梓さんが顔をしかめた。

「こそこそ探って来た奴らを疑うのは当然だ」

それはごもっとも。

でも、椿にしたことを許すつもりはない。

「伝言があると言ってたわね」

 私は伝言とこれまでにあったことを話した。

里香さんは私の一つ一つの言葉に頷きながら聞いてくれた。

 話し終わって梓さんが真っ先に口を開く。

「やめておけって。どうせいつもと同じだ」

 友人の忠告を受けても里香さんの瞳には迷いがあった。

「こんなことになってしまったけど、本当は優しい人なの」

「おい、里香」

「ただ、悪いことが重なっただけ。お酒に頼るようになって、私は助けにならなかった。……私は我が身可愛さで逃げてしまった」

 やっぱりこうなるか。

 意を決して私は言った。

「会わない方がいいです」

 梓さんは驚きに目を見開いた。

「なっ、お前、あいつに雇われてるんだろ!」

「私の仕事は伝言を伝えるまでです。今から話すのは私の、個人的な意見。……人はそう簡単に変わるものではありません。本当の世良さんがどんな人かは知りませんが、暴力は許されないことです。暴行を振るった人の理由は関係ありません。全ての非は世良さんにあります」

 二人は家庭内暴力でありがちな依存関係に陥っていた。加害者は暴行と謝罪を繰り返すことが常態化し、被害者はそんな加害者を支えなければいけないと責任を感じている。

 今戻っても同じことが繰り返されるだけだ。

「伝言があるなら私が伝えます。でも、直接会うのは危険です」

 里香さんは静かに物思いにふけっていた。

 やがて彼女は顔を上げ、一つの質問を私に投げかける。

「……お酒は、まだ、飲んでるの?」

「……」

 部屋には空き瓶が転がっていたと言ってしまえばいい。

 あなたの夫は反省しない酒飲みだ、と。

 そう言えば話はここで終わりだ。

 ただ、それは真実じゃない。私が最初部屋に上がったとき、彼が開いた冷蔵庫の中身を私は見ている。

「いえ。冷蔵庫の中にはありませんでした」

 長い長い沈黙が訪れた。

 やがて、一人の声が沈黙を破る。

「私、あの人と話してみる」

「里香!」

「ごめんね。でも、もう一度会わなきゃ」

 彼女は横にいる親友の手をとった。

「探偵さんの言葉を聞いてね、決めたの。今のままじゃダメ。ちゃんと話して、ちゃんと結論を出したいの」

「……わかりました」

 彼女の出した結論に私は納得できない。

 それでも、依頼者の願いが最優先だ。

「私たちも立ち会います」

「お願いね。……梓はどうする?」

 梓さんは席を立った。

「行かない。あたしがいると話がこじれる。ヤバいと思ったらすぐに帰ってこい」

 そして、私達の方を向いて言った。

「探偵だか知らないけど、責任は取れよ」

 

 帰りの電車に揺られていると、疲れがどっと襲ってきた。

 座った場所の近くにある手すりに寄りかかると、ひんやりとした金属の感触が私の頬に伝わった。

 隣に座る椿は私にもたれかかって眠っていた。よっぽど連日の早起きがキツかったのだろう。口の端からよだれが垂れている。服につきそうだから早く起きて欲しい。

 電車は淡々と進み、まばらにいた人も減っていく。とうとう車両には私達二人だけになった。

「……」

 絆創膏が彼女の頬に貼られていた。まだ傷口はふさがっていないのか、絆創膏はほのかに赤く染まっていた。

 こうならないように一人でやってきたのに。

「次は絶対連れて行かないから」

 車内に私の呟きを聞く人はいない。

「馬鹿よ、椿は。本当に馬鹿」

 その時、ふいに椿の頭が動いた。

「怒ってる?」

「……起きてたの?」

 彼女は猫のようなあくびをする。

「今起きた」

 体を起こした椿が、私の方を見て言った。

「ごめんね。心配かけちゃった」

 視線を合わせたくなくて、外の景色に視線を向ける。見たことも無い街の見たことも無い風景が次々に移り変わっていく。

「怒ってない。呆れてる」

 疑問半分、苛立ち半分で疑問を投げかける。

「どうしてそこまで一生懸命になれるの?世良さんは隠しごとしてたんだよ。本当に信じていいかもわからない。ケガしてまで頑張る理由は何?」

「信じたいんだと思う」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

 何を信じるのか彼女は言わない。

 私はそれが苦手で、そして、少しだけうらやましい。

「私は誰も信じられない」

 頭の中ではわかっていても、人と距離を置いてしまう自分がいた。

 お母さんがいなくなった日、私の中で当たり前だったと思っていたことが全部壊れてしまった。それ以来私の心は不安定で、誰かと接するたびにぐらぐらと揺れるのだ。

「ほら、私って冷たい人だからさ」

 重くなった空気を晴らすように、わざと冗談めいた口調で言い訳をする。

「違う。絶対違う」

 強い否定と共に彼女の両手が私の顔を強引に引き寄せる。あたたかい手が私の顔を優しく抱く。

「本当に冷たい人はこんな大変なことしないよ。実桜みたいに頑張らないよ。……実桜が人を疑うのは、その人を信じたいから。本当の意味で信じたいから疑うんだよ。疑って、疑って、本当のことを探してるんだよ」

「……」

「つまり、ええと、自分でも何が言いたいかわからなくなってきたんだけど、誰がなんと言おうと実桜は優しいから!」

「結論が雑。0点」

「採点厳しいっ!」

 信じたいから疑う、か。

矛盾した意味不明な言葉も、私にとっては救いだった。私の内にある人間不信の先に、いつか人を信じられる日が来る。そう思える気がして。

「その」

「ん?」

「一応言っとく。……ありがと」

 照れくさくなって目線を明後日の方向に向ける。腹立たしいことに私の気持ちは見透かされていた。

「わ、もしかして照れてる?可愛いーっ」

 私の鉄拳が彼女の胸に刺さる。

「馬鹿。……救いようがない」


 これが私の失敗の記録だ。私は一つ大切なことを見逃していた。

 それは専門知識も複雑な思考もいらない。たった一つの気づきがあればいい。

 もしこの文章を読むあなたが探偵なら、きっと気が付けるはずだ。

 ……私の失敗に。

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