第31話 蛇塚の過去

――鷲沢京子視点――


 時刻は、深夜の三時を回った。蛇塚も熊崎ももう眠っているだろう。


 掃除用具を片付け、目の前のパソコンと対面する。もう一度、少しだけ、あの映像を見ようと再生ボタンを押す。

 

 この映像は、蛇塚がドラゴンの力を確認するために、部下(暴力団員)に撮らせたものだ。そして、三時間ほど前に、蛇塚、熊崎とともにその映像を見た。しかし、ドラゴンの力を見るために撮ったのにも関わらずそこにドラゴンの姿はなく、代わりに凄まじい物が映っていた。


 映像は、一人の青年が海岸に来たところから撮られていた。(おそらくこの映像を撮った暴力団員が興味本位で撮り始めたのだろう)その青年は、寄ってきた一人の兵を、ためらいなく撃ち殺した後、次々と他の兵の命も奪っていった。撮影されていることには気付いたらしいが、意にも介さず、その後も青年は軽々と、人を殺した。


 しばらくその映像が続いた後、青年は、一人の男性に撃たれた。そしてその後ドラゴンが現れて、そして女性に姿を変えたドラゴンが青年に口付けをし、青い光が現れ、女性が目を覚まさなくなるまで映像は続いた。最後にその女性がどうなったのかは、映像を通して何となく伝わってきた。


 私は、この映像を見たとき、終了まで少しも目を離すことができなかった。冒頭の時は青年の強い怒りの情が、最後の青い光の時は、女性のやさしさが、最後まで私の目を引き付けていた。そしてそれは、蛇塚や熊崎も例外でないと思う。映像が終わり、蛇塚がある言葉を呟くまでの数時間、誰も声を出さなかったから。


「なるほど、これなら作戦が失敗するのも無理はないな」


 私はその言葉にすぐに反応した。


「作戦は、失敗したんですか?」

「ああ、部下の報告だと死者は百人程は出てるし、ドラゴンも結局捕まえられなかった。完全に負けだな」

「夫は、栄治は、生きてるんですよね」

「知るかよ。まあ少なくとも借金チャラはなしだな」


 即答だった。全く相手のことを考えない、見事なまでの即答だった。


「そんなことより、とっととこの部屋掃除しろ。てめえには、それぐらいしか存在意義がねえんだからよ」


 そうして、蛇塚は私を蹴った。どうやら、よほどドラゴン捕獲を失敗したことが頭にきているらしい。私は唇をかみしめながら「はい」と声をだし、仕事に戻った。


「蛇塚さん」


 次に熊崎が、口を開いた。少し声が震えているのは、映像で部下の死を目の当たりにしたからだろうか。


「何だ?」

「この映像は、どうしますか?」

「一応残しておけ。ドラゴンは捕まえられなかったが、あの青人とかいう男は、部下の報告だと、今生きているらしい。ドラゴンに代わる戦力になる可能性もある。明日、もう少しその映像を見る」

「わかりました」


その会話を最後にして、蛇塚は寝室に、熊崎は自宅へと帰って行った。


 そして、掃除を終わらせ、現在に至るわけだ。


 もちろん、私には、今、再び映像を確認する必要はない。蛇塚にはいつも、掃除が終われば、近くのマンションに帰っても良いと言われているし、それは今日も同じだ。そして、いつもの私なら、その蛇塚の指示通り、すぐに近くのマンションに帰り、倒れこむように眠るだろう。反抗心など一切なしで。


 しかし、この夜は違った。この夜だけは、簡単に朝を迎える気にはなれなかった。今の私には、ほんの少しの反抗心が芽生えていたのだ。


 私は、映像を途中で切り上げ、蛇塚の引き出しの中から、一つのUSBメモリを取り出す。その中に映像のデータをコピーする。そして、蛇塚の寝室に灯りがついてないことを確認し、首相公邸を出る。


 反抗心が芽生えた理由は、別に先ほど蹴られただとか、夫が死んだかもしれなかっただとか、そういう理由ではない。あのようなことなど日常茶飯事であり、今頃どうとも思わない。私を今突き動かしているのは、蛇塚に対する恨みではなく、この映像と、一昨日のある人の言葉だった。


 玄関のドアを開ける。自分の車へと走り出す。マンションに帰りさえすれば、誰も邪魔をすることができないはずだ。目の前の安全を一刻も早く手にするため、私は走った。


「そんなに急いでどこに行くんだ?」


 よく聞く声が聞こえたのは、玄関を出た矢先のことだった。私は、声のした方向を見る。


――熊崎。


 眉間にしわをよせそうになったが、それを何とかこらえる。大丈夫、まだ裏切りがばれたわけではない。うまくここを切り抜けられれば、計画を実行することは容易なのだ。


「いえ、少し急ぎの用がありまして、早く家に向かいたいのです。特に何か仕事は残っていませんよね」


 私は、表情を取り繕ってそう言った。咄嗟にしてはよくできたと思う。多分、何か隠しているとは思われていないはずだ。


 しかし、熊崎は、それにこう返した。


「お前はずいぶん演技が下手だな。いつもはそれほど笑えないだろう」


 私の繕われた表情は、一瞬のうちに己の気持ちを写す鏡に変わる。熊崎はいつもの、私への感情等何も感じられないような、淡々とした口調で言った。


「蛇塚に言われたんだ。『一昨日鷲沢が誰かから電話を掛けられていたから、そろそろ裏切るだろう。一応出口のあたりは、見張っておけ』とな。電話と裏切りがどうして関連するのか俺には分からないが、どうやら予想は当たったらしいな。その手にあるものをこちらに渡せ」


 それを聞いて、私は、唇をかみ、拳を握りしめた。全て蛇塚の言うとおりであった。


 一昨日私は、確かに電話を受け取った。他でもない私の夫、栄治に。ドラゴン騒動があってからは、全く電話がかかってきていなかったので、私は、飛び上がりそうになりながらも通話ボタンを押した。そして、いつもしているとりとめのない会話の後で、栄治はこう言った。「もうすぐで終わるから、待っていてくれ」と。


 栄治のその言葉は、かつて栄治が、店を出そうと言った時と同じくらいの力強さがあった。そして、その栄治が頑張っている証は、私の背中を簡単に押してくれたのだ。


 しかし、背中を押してくれたとしても、それがすべてうまくいくのなら、この世に貧富の差など起こらない。そして、それで例えるなら、私はどうやら貧民であったらしい。私はただ、成功者の掌の上で踊らされていただけなのだから。


 私は、一つ小さくため息をつき、熊崎にそれを渡した。もはや、ここから逃げる気も許しを請う気も起きなかった。


 熊崎は、その私に、いつも通りの何を考えているのかわからないような、無機質な目を私に向け、車のドアを開けて言った。


「乗れ」


 私は、されるがままにその車に乗った。


 熊崎の車は、静かに首相公邸を離れた。少しずつ縮んでゆくそれを見た後、私は、心の中でぽつりと呟いた。


 ――これで終わりなのか。


 自分がこの先どうなるかは、大方予想がついた。借金もまだ返せていないのだ。恐らく、女の私から、他人に取れるだけ金を搾り取らせるのだろう。死んだほうがましだと何度も思うような、地獄を見ることになるのだろう。


 別に捕まえられた時を考えていなかったわけではない。あのUSBメモリを手に握りしめたときから、それなりの覚悟はしていた。しかし、それでも一つだけ私にはぬぐいきれない不安があったのだ。それは、蛇塚に仕えてまで守ってきた、己の潔白さが失われたとき、夫はそれでも私を愛してくれるのだろうかということだ。


「夫のことでも考えているのか」


 私が、景色を眺め、ぼーっとそんなことを考えてきたとき、熊崎が唐突にそう聞いてきた。私は、首を弱弱しく頷かせる。


「お前は、いつも口を開けば、夫のことばかりだったからな。蛇塚はいつもその様子に腹をたててたよ。それであいつはあんなに態度が悪いんだ」


 熊崎はミラー越しに少し遠い目をしてそう言った。いつも感情を表に出さない彼だったが、その時は何となく彼の心が泣いている気がした。


 私は、私の言動が蛇塚の機嫌に影響があることを疑問に感じながらも、それを表に出さず、ミラー越しの熊崎の目を見た。彼が何かを、伝えたそうな顔をしていたからだ。熊崎は、私のほうをちらと見た後、再び前を向き、案の定、口を、まるで鉛でもついているかのように重々しく開いた。


「なあ、鷲沢。お前に蛇塚の話を伝えておきたいんだ。聞いてくれるか?」

「はい」


 私はそう答えた。なぜか、そう答えなければならない気がした。


 夜はだんだん明け始め、町は徐々に光に当てられていた。熊崎は、光に少し目を細めながら、話し始めた。


――過去――


 蛇塚は、昔はあんな奴じゃなかった。本当だ。俺はあいつと中学からの付き合いだが、そのころのあいつは、他人思いのいい奴だったよ。絶対に戦争を始めようなんて言うやつじゃなかった。別に犯罪者の関係者みたいな発言をするわけじゃなくてな。


 あいつが、ああいう風に、権力や武力にこだわるようになったのは、高校生の時からだ。


 英隆には、中学時代からの彼女がいたんだ。そいつの名前は、半田美奈子って言ってな。うちの副団長の半田峰彦の一つ上の姉だ。家が貧乏で、バイトで家計の手助けをするようないい奴だった。美奈子と英隆はずいぶん仲が良くてな。あのまま順当にいけば英隆も独身で総理大臣に就くなんてことはなかったろう。でもな、話の流れ的に想像がつくだろうが、美奈子に不幸が訪れたわけだ。


 きっかけは、弟の峰彦だった。あいつはひどくおとなしくてな。俺や英隆や美奈子と別の高校に通っていたんだが、そこでいじめられていたんだ。靴や文房具がなくなることがいつものことでな。でも、ふとある時を境にそういうことがなくなった。俺たちはてっきりその時いじめがなくなったものだと思った。峰彦自身で解決したんだって。でも、それは間違いだった。


 ある日に俺が買い物をしていたら、落ち着かない様子であたりをきょろきょろしながら、歩いている峰彦を見かけた。怪しく思ってつけてみたら、峰彦は細い路地に入って、五人組の不良に金を渡していた。後から聞いた話だと峰彦は、学校での安全と引き換えに頭の悪い先輩の言いなりになっていたらしい。


 俺は、心底慌てた。当時は恐喝などとは無縁の生活を送っていたからな。とりあえずそのことについて峰彦に問い立ててみたら、こうでもしなければ自分が殺されるらしい。聞けば向こうの先輩方は麻薬をやっているため少しでも金が欲しいようで、金を渡さなかったら何をされるかわからないそうだ。俺はその話を聞くと峰彦の同意の上で美奈子に話をした。


 英隆には話せなかった。もちろんあいつはいい奴だったわけだが、行動力がありすぎてなあ。あいつに話すと何が起きるかわからないと思ったから、その時は話さなかった。


 でもその判断は、大きな間違いだった。


 美奈子は、ある日急に、その連中のところに乗り込んだ。そして、何を話してきたかは知らないが、その日の夜に帰ってきて、峰彦にもう大丈夫と言った。俺たちもずるい人間で、それで本当に解決したものとして元の生活に戻った。急に夜に姿を消したり、彼氏の英隆の前にいるのがだんだん苦痛そうになったりしている美奈子を見れば、美奈子が何をしているのか想像がついたのに、俺は何もしなかった。


 そしてしばらくした後、美奈子はある病気にかかった。後天性免疫不全症候群、エイズと呼ばれるものだ。早期発見できたのは、美奈子が英隆に移さないよう早めに検査に行ったからだろう。そして美奈子は、その検査の結果を受けて、何も言わずに英隆に別れようと言った。


 英隆は、そんな美奈子の代わりに峰彦に理由を問いただした。峰彦はその時思い当たる事情をすべて話した。英隆は俺にもその詳細を聞いた。英隆はすべてを知ってから、「殺してやる」とつぶやいて、外に出て行った。誰を殺したかったのかは、その時は分からなかった。その頭の悪い先輩どもか、あるいは美奈子を買った客か。でもその時の英隆の目は、もうやさしい子なんかじゃなくなっていた。


 休日だった日に、俺と峰彦は、英隆に、どこにでもあるような、広めの家に連れてこられた。俺と峰彦は、異様な雰囲気の英隆と到着した場所が合致しなくて、不審に思った。でも、その家に入ったら驚いた。そこには、血まみれで、今にも死にそうな男が何十人も転がっていた。そのとき蛇塚が言った言葉は今でも覚えている。


「こいつらが峰彦の先輩に麻薬売りつけていた暴力団だ。美奈子の仕事の紹介料なんかももらっていたらしい。だからこいつらで、美奈子の体に触れたやつ全員殺しに行く。こいつらなら少しは、ばれない殺し方を知っているだろう」


 当然、俺は聞いたよ。何でこいつらが協力してくれるんだって。そしたらあいつは平然とこう答えた。こいつらを二度と俺に逆らえないよう痛みつけたからだって。


 そして、英隆は、何の滞りもなく、美奈子の客だったやつを殺した。流石に暴力団の協力ともなれば手口も鮮やかで、その殺しには証拠も何も残さなかった。


 だが、英隆が全てを終えて、美奈子の家に行ったとき、美奈子は死んでいたんだ。


 恐らく、美奈子は英隆がやっていたことに気付いていたんだろう。自分の知っている顔が次々と行方不明になったんだ。気づかないわけがない。そして美奈子は決して喜ばず、全部に責任を感じて自殺したんだ。


――現在――


 ここで、熊崎は口を閉じた。私は、今の話に思うところがあった。いや、きっと私に限らなくとも、私と同じ状況であったならだれでもこう思った。蛇塚の話があまりにも似すぎていると。


「それって……」

「ああ、あの映像の奴とそっくりだな。誰かのために何かをして、それが何の意味をなさなかったところとか特に」


 そう言って、熊崎は軽く鼻で笑うしぐさをした。しかし、そのしぐさが彼の本心から来たものでないことは、彼の瞳から察することができた。バックミラー越しの彼の目は、いつものような鋭さがなかった。


「美奈子が死んでから落ち込んでくれればよかったんだがな。英隆の行動は真逆だった。あいつは、美奈子が死んだ理由を決して自分のせいだと思っていなかった。あいつは、その理由をエイズのせいだと思い込み、美奈子がエイズになったのは、あいつの家が貧しかったからだとした。そして、自分が政治の実権を握り、美奈子のような人間を作らないよう、この国を豊かな国にしようと考えた。そして、その結果が見てのとおりだ。所詮他人の痛みがわからない英雄様がとる政策なんざわかりきってたんだよ」


 そして、彼はため息をついた。もう話すことはないようで、彼は、そのため息を最後に口を閉じた。


 私は、すっかりこれ以上話す様子のない彼を見て、一つ疑問に思った。何故彼は、私にこの話をしたのだろうか。


 蛇塚の話は、ある程度納得はできた。ミラー越しの熊崎の目は、この話が事実であることを物語っていたし、その話も、今の蛇塚の性格を形成するには十分な理由だった。


 だが、だからこそわからない。なぜ今、一人の家政婦でしかない私にこの話をする必要があったのか。

私は聞かずにはいられなかった。


「どうして、私にそれを話す必要があったんですか?」


 その質問がされるのと同じタイミングで車が停車した。質問が聞こえていなかったのか、熊崎は言った。


「車から降りろ、ここから少し歩くぞ」

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