第25話 その涙だよ

――青人視点――


 首輪をつけた子犬が歩いている。そして、そのリードを持った少年がいて、さらにその近くに少年の母らしき人物がいた。


 一匹と二人は、森の中を歩いている。まさに、平和を体現した風景。一つの絵に収めてしまいたい風景。しかし、終わりは唐突に訪れた。子犬が足を踏み外し、坂を転げ落ちたのだ。リードはつながっていたが、それは少年の手をするりと抜ける。親子はしばらく唖然としたが、その後慌てて追いかけた。しかし、そこにあったのは、無残に引き裂かれたその子犬と、一匹の獰猛な目をした大型犬だった。


 そこで、急に場面が真っ黒に染まる。そして、再び開いた場面にいたのは、長い木の棒を持ち、血に染まっていた、少年であった。少年は、母親に向かって、笑顔で言った。「悪者はやっつけたよ」と。母親はただおびえた目で息子を見つめた。息子は、その反応に首をかしげる。母親は、その様子を見て、唐突に息子を抱いた。そして「どうしてどうして」と言いながらずっとすすり泣いた。


 という夢を見た。夢が昔の内容を示すとはあまり聞かないが、確かにそれは、昔の記憶だった。


 幼少期、俺の家では、犬を一匹買っていた。近所の人から譲ってもらった子犬だ。母は、犬好きで、ほぼ母の要望で犬を譲ってもらったようなものなので、母は、その犬を大層かわいがっていた。もちろん俺も新しい家族が増えたようでうれしかった。


 しかし、その犬と母とで北島に散歩をしに訪れる。後は、夢のとおりである。母のために、子犬の敵を討ったはずだが、母はずっと泣いていた。


 今まで忘れていた記憶だった。しかし、今、このことを思い出した理由は推測できる。


 母は、家族思いの人だった。父が惚れた理由もよくわかる。だからきっとこの夢は、母が言っているのだろう。こんなことをしても誰も喜びはしないと。


 しかし、だ。


 そこまで考えたとき、また場面が暗くなる。今度は目の覚めた合図だった。


「青人、おはよう」

「おはよう」


 俺に幸は、いつ問変わらない顔でそう言った。その顔を見て、俺は、夢での決意を再び固める。


 どんな理由があろうとも、幸を死なせるわけにはいかない。例えそれが、幸に嫌われることになったとしても。


「大丈夫。青人。顔、怖い」

「ああ、大丈夫だよ」


 幸にそう言われたので、俺は心配をかけまいと笑って返す。しかし、おそらくうまく笑えていなかったのだろう。幸は、心配そうな顔を向ける。


 その顔を、避けるように、そしてここがどこか確かめるために俺は周りを見渡した。すると朱音がいることに気付いた。


「おお、朱音。生きてたのか。よかった」

「うん。起こすと悪いし、洞窟の外に行こう」


 そう幸に促され、俺と幸は、外に出た。


 外に出たとき、上の崖を見て言う。


「ああ、ここ東島なのか。じゃあ、この洞窟は、あれか」

「知ってるの?」

「ああ、母さんが死んだときよくここに来たんだよ」


 泣くためにな、と心の中で付け加える。あのころの俺は、幼少期であったため、妙な意地があった。だから、誰にも涙を見られないよう、母のことを少しでも思い出すことがあった時、よくここにきて泣いた。幸は、その言葉の続きを理解したように、それ以上そのことについて聞きはしなかった。


「青人以外に、この場所を知る人はいるの?」


 朱音は、俺にそう聞いた。確かに今ここにいて、ゆっくりしている以上、ここが他人に知られているかどうかは重要なところであろう。


「いや、あまりこの場所は知られてないよ。本当にみんな崖には近づかないし、船もあまりここには流れ着かないらしいから。でも、母さんは知ってたなあ。俺にこの場所を教えてくれたのは母さんだから」

「へえ」


 そこまで話して俺たちは、砂浜に座り込んだ。砂からは、じんわりと熱が伝わってきた。


 上を向いて、やけに眩しく見える太陽を見上げながら、俺は幸に聞いた。


「朱音は、今無事なんだよな? じゃあ白羽はどこにいるんだ?」


 答えはわかっていたが、聞いた。小さな希望にすがるように。しかし、希望などなかったことは、幸が答えるにわかった。幸は、目に涙を浮かべていた。


「白羽は、死んじゃった。自分から火に飛び込んだんだって」


 幸の涙はどんどん勢いを増していった。


「死んじゃったんだって、もう会えないんだって、なんで、なんで、なんで」


 そう言って、幸は、俺の胸に顔をうずめた。幸は何度も、なんでなんでと繰り返していた。


 俺は、そうか、とつぶやき、幸の頭をなでる。人を殺した手のため、少しためらいがあったが、それ以前に眼前の彼女を見てなぐさめずにはいられなかった。


 しばらくそうしていた。幸は体の水分すべてなくなってしまうぐらい涙を流していた。しかし、俺の顔は、すこしも涙でぬれることがなかった。俺の心を占めていたのは、悲しみではなく、怒りや、憎悪であったのだ。きっと、俺は、あのときに、人として大切なものを、名前ももう憶えていない何かを置いて行ってしまったのだろう。


 昔、代々、昔おこった日本の戦争の経験を語り継いでいるという人の話を聞く機会があった。その人は言っていた。「戦争は人の心を変える。戦争に行った人はみな、人ではない何かになった」と。


 今の俺は、障害物を排除しても何も感じない英雄であり、それを得た代わりに、人に必要なものを失った何かだった。きっと俺は、こうなる運命だったのかもしれない。幼少期の時は母が、今このひと時だけは幸が、何とか俺を、普通の人間に繋ぎ止めているが、俺には、もう一度あの姿になる必要があった。


 俺は、幸に言った。


「幸、そろそろ離してくれないか」


 幸は、それを無視し、顔をうずめている。その表情は見ることができなかったが、もう泣いていないことはわかった。


「なあ、頼むよ、幸」

「嫌」


 幸は、顔を上げ、眉をしかめ、目を細め、今まで見た中で一番心配そうな顔をして、言った。


「また人を殺すの?」

「ああ」


 俺は、淡々とそう口にした。嘘をつく気などなかった。


「嫌、もう青人に誰も殺してほしくない」

「でも、そうしないと、こっちがやられる」

「青人は言った。ここは誰も知らないって。だからここで待ってればいい」

「違うよ、幸。後少し時間がたつだけで、ここは見つかるよ。あっちには父さんがいるんだ。父さんは、絶対に俺たちを見つける。父親が、子供の場所がわからないはずないだろう」


 そういうと、幸はまた下を向いた。おそらく幸もそれはわかっているんだと思う。あの父親が敵の限り、俺たちは逃げることはできない。幸の顔がみるみる曇っていく。


「そんな顔するなよ。土門さんに聞いたら、父さんもなんか事情があってやむを得ず戦ってるんだってさ。だから、幸が嫌いになったわけじゃないんだよ」


 あまりにも幸の顔が見るに堪えないので、俺はそう言った。しかし、幸は「違う」と声を張り上げた。


「わかってる。お父さんが何の理由もなしに戦うわけない。でも、だからこそ、どうして親子同士で殺しあうようなことをするの?」


 俺は驚いた。幸は、俺の決心に気付いていたのだ。


 おそらく今の俺は、軍に引けを取らないと思う。これは、おごりというより本能のようなものである。おそらく拳銃しか装備していない軍人に今の俺は負けない。俺たちが乗ってきた船には、たくさんの武器が積まれていたのを見ている。それを今の俺が使えば、勝てる。


 ただ、父さんに勝てると言われれば、俺は自信がなかった。まあ、これも理由を聞かれれば、本能のようなものだが。とにかく俺が生きるか死ぬかは、父さんとの戦いで決着がつくと思う。つまり、あの父親とは、必ず決着をつけなければいけない。


「そりゃあ、俺だって、できることならしたくないよ。でも、この戦いで死んでいった人のためにも、俺には、戦う義務がある」

「違う。そんな考え方絶対に間違ってる」

「間違っててもいいよ。俺は行く」

「行かないでよ」

「いや、行くよ」

「青人」


 急に幸がそこで口を止める。俺は、その流れにつられて聞く。


「何?」

「好き」

「は?」


 そしてその流れは唐突に止まる。幸は少しだけ頬を赤らめながら、驚いている俺に、しっかりと認識させるように、続けた。


「あなたが、好き。いつものあなたが好き。すぐに泣くあなたが好き。いつもみんなのことを考えて、精一杯行動するあなたが好き。東島にいたころのあなたが好き」


 そして、目に涙を浮かべながら、さらに続けた。


「でも、誰かを殺すたびに、青人は、青人じゃなくなってく。青人お願い。もうやめよう。私は、いつまでも青人のままでいて欲しい」


 それを言い終わったとき、幸の目に留まった涙が落ちた。俺は、それを見て、すこしだけ微笑んだ。


「幸、その涙だよ。それが、俺が幸と初めて会った時の涙と同じなんだよ。それが自分以外の誰かのために流す涙なんだ」


 幸は、俺の言葉を聞いて、袖で涙をぬぐう。俺は、続けた。


「それを知った幸にはもう俺なんて必要ないよ。幸は、本当に人間らしくなって、本当にやさしくなった。幸の隣にいるべき人は、俺みたいに汚れた人じゃない」

「違う。私には青人が」


 その言葉が終わる前に、俺は幸の額自分の額を当てた。そして、ポケットに手を伸ばし、まだそれの存在があったのを確認しながら、言う。


「幸、俺も好きだったよ。多分あの時涙を流した時から、幸が好きだったと思う。でも、君と最後まで一緒にはいられない」

「やだ、駄目」


 言葉ばかりを繰り返し、幸は涙をずっと流していた。ずっとその顔を見ていたかったが、俺は、すっと額を離し、ポケットから出したそれを幸に突きつける。


「ありがとう。さよなら」


 そして、スイッチを押す。幸は、悲鳴も上げずにゆっくりと後ろに倒れる。


 俺は、立ち上がった。気づけば、俺の顔は涙にぬれ、その涙は、左手のスタンガンを少し濡らしていた。


「さよなら」


 俺はもう一度そうつぶやいた。

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