第10話 楽しい時間

 当初、ラスターが王都までの旅程はこの国の暦で一週間、つまり五日以上かかるだろうと読んだ通り、五日経った今もまだ王都の付近にすら着いてはいなかった。寄り道しているせいかと思ったが、そもそも晶には乗っている馬車の速度が、その平均に対して速いのか遅いのかすらわからないので、この日数が妥当なのか否かもわからなかった。

 とにかく、馬車は車と比べてものすごく遅い、ということだけは確かだ。時速六十キロで移動していたら、きっと宿に泊まる必要もない距離に違いない。技術の発展で世界は狭くなったんだなあ、などと考えながら、のんきに窓外を過ぎる景色を眺めていた。

 民家、農耕地の様子、そこで働く人々。豊かに実った金色に輝く麦畑と、抜けるような青い空が美しい。

 とはいえ、馬車は(晶にとっては)のろのろとした速度で進むため、その景色が一向に変わることはなく、流石に見飽きてしまう。

 ラスターを見ると、彼は窓外の景色を見ることもなく、黙々と本を読んでいた。本の表紙には『人間の境界』と書かれており、読まずとも難しい本であることは察せられた。

 晶は諦めて、クッションを座席の端に置き、そこに頭をのせて寝転がった。

 馬車は四人乗りで、対面で二人ずつ座れるように座席が作られている。いつしか、ラスターと晶はそれぞれ端にクッションを寄せて、寝転んで使っていた。長い移動時間を、ずっと座っているのは限界がある。

「晶、村に着いたら本を買いませんか」

 晶の様子に気づいて、ラスターが声をかけた。

「次の村では馬を休ませるので、時間があります。少し大きな村なので、本も多少は売っているかと」

「でも俺、あんま難しい本は読めないですよ」

「最近流行っている娯楽小説があります、ひとつくらいは気に入るのがあるかもしれませんよ」

 着いた村はほとんど民家ばかりで、その中に食材や日用品などなんでも扱う店が一軒あり、その店の棚に少しだけ本が置かれていた。ただ晶は、題名を見てもそれがどのような内容なのかさっぱり想像もできなかった。

「この中だと、どれが面白いんですか?」

「そうですね……」

 ラスターは棚から、『二〇四九』と題された本を取り出した。

「最近の作品ではこれがおすすめです。文章も分かりやすいですし、近未来の話で、古典を読むより楽しいかと」

 そう言われても、晶にはどの本が古典作品なのかもわからないので、「じゃあ、それで」と提案された本を選んだ。

 それから村に一軒だけの飲食店で食事を取ることになった。晶とラスターは、ハースと共に店に入った。ラスターは一応、目立たないよう地味な服装をしてはいたが、しかし注目の的である。店に入った途端に先客の視線は一斉に向けられた。西方から王都へと向かう街道沿いの村で、貴族や旅行客も多く通るだろうと思われるが、四頭立ての馬車で軍隊を伴って移動する身なりのいい余所者はそうそう居ないためだろう。とはいえ、やはり街道沿い、余所者に慣れているためか群衆に囲まれるようなことはなかったので、村の中を滞りなく移動することができた。

 別の村でラスターが注目を浴びていたとき、「いつもこうなんですか」と晶は尋ねたことがある。

「そうですね、どうしても完全に『お忍び』とはいきませんから」

 ラスターは苦笑しつつ答えた。使用人や、護衛などがいて、どんなに最少の人数で移動しても、普通の旅行者に比べて必然的に大所帯になる。よくあるファンタジーものの、勇者がパーティメンバーに王子や姫といった王族を含みつつたった六人で移動、というのは現実には無理がある。

 村人の視線を浴びつつ食事を終え、馬車に戻った。

 晶は早速、買ってもらった本を手に取る。『二〇四九』という題名の数字は年号のことらしく、いまから約五十年後の時代が舞台だという。といっても、文化水準はだいぶ異なるようで、馬のない馬車が空を飛ぶような、晶の世界でのいわゆるサイエンスフィクション的な内容だ。

 内容は魔法で作られた有機体の人形が自分の出自を探る物語で、軍人として働く主人公が、人間と魔法人形の間に生まれた『特別な存在』を調査することから物語が始まる。やがて主人公の魔法人形は、魔法人形の精神安定のために植え付けられている偽の記憶が、実は本当の記憶で、自分がその『特別な存在』なのではないかと期待していく。

 晶は本を夢中で読んだ。主人公である魔法人形の記憶は結局偽物で、自分は『特別な存在』ではないのだとわかった瞬間などは、涙を流すほどだった。

「はあ、すごく面白かったです……!」

 晶は涙を拭いながら、本を閉じた。

「それはよかったですね」

「最後、主人公が博士とお父さんを再会させてあげるところなんて、もう、本当、読んでて胸がいっぱいになりました。だって、一度は自分のお父さんかもしれないって期待したんですよ、事実を黙って自分が子どもだと言うこともできたのに、えらすぎます」

「わかります。彼の精神の気高さを感じますよね。怪我を負っていながらもふたりを再会へと導くのは、むしろ一度自分の父親かもしれないと思ったからこその情なのかもしれませんね」

 ラスターも一度読んだことのある本だったので、ふたりで感想を語りあった。ラスターは特に革命を目論む魔法人形の集団が、敵の軍から追われた主人公を助ける場面を気に入っているようで、とても熱く語っていた。

「そうだ、明日の朝、出発までの時間に本屋に寄りましょう。他にもお勧めしたい本があります。その街ならば、大きな店があるでしょうから。朝食は包んでもらって、馬車の中で食べるようにすれば間に合うでしょう」

 ラスターが明日の予定を算段する。

 本屋。そう聞いただけで晶は胸が躍った。

「楽しみです、本屋さん。何年ぶりだろう」

「お住まいは、都市から離れたところだったのですか?」

「そうじゃないんですけど、なかなか行けなくって。その、病気してたんで、家を出る機会がなくって」

 晶がそう言うと、ラスターはハッとなって「失礼しました、辛いことを言わせてしまいました……」と謝った。

「あ、いや、俺こそ、なんていうか、重めな話をしちゃってごめんなさい。でも、今は大丈夫なので。今の身体、何の不自由もないですし、今までできなかったこと――友だちと出かけたり話をしたり、本を読んだりすることができて、すごく楽しいです」

 入学したばかりの高校にすら通えなくなり、友人たちとの距離はあっという間に開いてしまった。日によってはチャットすら億劫になるほどで、その上、話題には自分の知らないことが増えていく。体育祭や文化祭、行事を楽しむ友人たちの写真の中に、自分の姿はない。それが辛く、やがて誰とも連絡を取らなくなった。そうして益々、外界から取り残されていった。

 けれど、ラスターと共に自然に触れたり、本の感想を語り合ったりしているうちに、晶の心の中に空いていた空洞が、ゆっくりと埋まっていくようだった。

「あっ」晶は唐突に気がついて慌てた。

「あの、急に友だちだなんて、おこがましいですよね、ごめんなさいっ」

「いえ、友だちと言い出したのは私ですし。それに、晶に友だちだと思っていただけて、とても嬉しいです」

 ラスターは本当に嬉しかったようで、照れて、色白の顔が真っ赤に染まっていた。

「私も、久しぶりです。こんなにはしゃぐのは」

「そうなんですか? やっぱり王子様って、交友関係が自由にならないんですね」

「いえ、そうではないのです。単に十五歳になってから王都に来たからで。学校にも通いましたし、良くしてくださる方も多く、ですが皆さんの文化に私がなじむことができなかったのです」

 ラスターの詳しい事情はわからないが、しかし意外だった。彼は人当りも良く、穏やかで、友人になりたいと思う人は多いだろうに。きっと、言葉通りの意味ではないのだろう。

 事情を聞いてしゅんとなった晶に、ラスターが付け加える。

「友人とは手紙でやりとりしていますし、王都に来ている者も居ます。私を弟のように気にかけてくださる方もいて、決して寂しいことはないのですよ。ただ、その、晶と居るのがとても楽しいと、言いたくて……」

 一旦は落ち着いていたラスターの顔色が、また見る間に真っ赤に染まる。

「すみません、すこし、恥ずかしいです」

 と、ついには顔を隠してしまった。肌の色が白いのもあって、首まで赤い。

 その様子に、晶も思わず恥ずかしくなって、自分の顔が上気してくるのを感じた。

 お互い顔を真っ赤にして黙り込んでしまったその時、トントンと馬車の扉が叩かれた。

「殿下、賢者様、着きましたよ」

 ハースが外から声をかけた。

 夢中で話をするうちに今日宿泊する予定の街へ着いてしまっていたらしい。今の時期は日照時間が長いため夜深くならなければ陽が沈まないらしく、時刻は夕飯時だったが、まだ夕方のような明るさだった。

 ふたりとも『助かった!』と内心思いながら、馬車を降りた。

 

「すこしお時間をいただいても良いですか?」

 夕食の後で、ラスターは晶の部屋を訪ねて来た。晶がラスターに故郷の景色を見せてもらって以来、寝る前にラスターの部屋に集まってお茶を飲みながら、彼がこれまで見た景色を見せてもらったり本の感想を話し合ったりすることが続いていた。

 晶はちょうど部屋を出ようとしていたところだった。ラスターが来るとは思っていなかったので、驚きつつも、彼を部屋に招き入れる。

「どのようなご病気だったのか、お伺いしても構いませんか」

 彼は真剣な面持ちで、そう切り出した。

 そういえば説明していなかったな、と晶は気いた。どう説明したらいいか少し考えてから、晶は答えた。

「えっと、いろいろ症状があるんですけど、大まかに言うと身体がずっと疲れた状態で、重くて、動かしにくくなるんです。原因は不明で、治療法も一切なくて……。点滴とかすれば、一時的にはよくなるんですけど」

 頭はうまく働かず、気分は落ち込み、微熱が下がらず倦怠感があり、身体の節々が痛くてたまらない。体調が良い日に外に出ることができても、その後は疲労で再び寝込むことになる。感情が昂っても疲れてしまうし、食事をとっている間も倦怠感のために時間がかかった。点滴も薬ではなく高濃度のビタミン剤なので対処療法でしかなく、楽にはなるものの気休めだ。

「ずっと疲れた状態、ですか。休息を取っても治らないのですね」

「そうですね……、朝起きた時からずっとそうなので」

「教えてくださってありがとうございます。もし、今後体調を崩されたら、些細なことでも教えてください」

「ありがとうございます。でも今は本当に大丈夫なんです。はしゃいでも疲れないし」

 晶は両腕でガッツポーズをつくって、頑丈さを表現した。

「それはよかったです。しかし、いずれにせよ慣れない馬車の旅です、なんでも遠慮なくおっしゃってくださいね」

 おやすみなさい、と言って、ラスターは去って行った。おしゃべりしていかないのか、と晶は少し拍子抜けし、そしてなんだか寂しかった。たが、晶の体調を気遣ってのことだろうと納得して、気持ちを収めた。

 晶はベッドに寝転んで、布団に包まる。

 疲れない、痛いところはどこにもない。羽が生えたように身体が軽い。自分の病気を嘆き悲しむ必要もない。頭が働くから本が読めるし、それを語り合ってはしゃいでも、翌日寝込むこともない。

 急に『世界を救え』と言われて空から落とされたけれど、この新しい丈夫な体をくれたことは、神様に感謝だな、と晶は思った。

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