第9話 故郷の景色

「わあ、すごく綺麗……!」

 澄んだ水を湛えた池は水底まで見渡せ、その中を色鮮やかな魚が優雅に泳いでいる。

 池は町から少し離れた『ヴェルヌスの庭』と呼ばれる庭園の中にあり、普段辺りは大勢の観光客で賑わっているそうだが、流石に王子が立ち寄るとあって今は人払いがされている。風で木の葉が擦れ合う囁き声のような音と、高く澄んだ声で鳴く鳥の囀りが、静寂の共だ。

「この池は古くからあるそうで、ヴェルヌスという王族の方が護っていたと言われています。彼の魔力の影響で、いまも当時の姿を保っているのだそうです」

 確かにこの美しい池は後世に残したくなるだろうな、と晶は納得した。

 晶がラスターの前で泣いた日から、彼が晶を元気付けようとしているのがとてもよく伝わってきていた。ただその元気付け方が少々不器用で、例えば笑えるような劇を見に行くということはなく、ラスターは『この国の綺麗なところを見て回りましょう』と言った言葉の通りに、道中で花畑や滝のような風光明媚なところがあれば、立ち寄って晶に見せてくれた。

 でもそれが、晶も嬉しかった。

 きっと人の多いところへ行けば、その中に孤独を見出し、例えばある家族の仲睦まじい様子を見て、晶はまた気持ちが沈んでいただろう。

「スマホがあればなあ」

 晶は、指を資格にしてこの綺麗な景色を、写真に撮れないのがとても残念だ。

「スマホ?」

 晶の呟きに、ラスターが首を傾げた。

「えーと、スマホっていうのは、このくらいの大きさの板みたいな機械で」晶は空中に手で長方形を描く。「電話ができたり、写真が撮れたりするんです」

「そんな小さな板で写真が撮れるんですか?」

「はい。動画をみることもできるし、すごく便利で」

「動画?」

 ラスターは具体的に想像ができないようで、目をきょとんとさせている。

「うーん、いま見たままを、そのまま保存できたりする感じで……」

 当たり前に存在していたものを、改めて説明するのは難しい。晶にとってスマホはあって当たり前の道具だった。特に病気の影響で身体が動かせない時などは、動画サイトでお気に入りのゲーム実況を見て過ごすことも多かった。手の平よりも少し大きな端末で、世界と繋がれる便利な道具。

 いまは身体が自由に動いて、いろいろなところを見て回れる。残しておきたい景色をたくさん見ているのに、そんな時に限ってスマホが存在しないのは残念だった。

「この様なことでしょうか?」

 ラスターが両手の人差し指と親指で四角い窓を作った。その中に景色が浮かんでいる。池の中で赤い金魚が泳ぐ様子が、映し出されていた。

「すごい! そんな感じです!」

「ですが私の記憶の再現なので、見たままとは言えませんね」

 ラスターが指を離すと、池の映像は消えてしまった。

「それじゃあ、ラスターがこれまで見た綺麗な景色を見せてくれませんか?」

「私が見た景色、ですか?」

「はい」

 晶は頷いた。

 数日前に立ち寄った滝でのことだ。緑の萌える森と静かで涼しい洞窟を抜けた先に幅の広い滝があり、大きな音を立てて水が滝つぼへと流れ落ちていた。滝の付近は観光用に整備されており、ふたりは滝に近づけるぎりぎりのところまで進み、欄干から水が落ちる様子を眺めていた。

「幼いころ、私の元気がなかった時、母は美しい場所を見せてくれました」

 水の落ちる音で声がかき消されてしまうので、ラスターは晶のそばに寄り、幼少のころを振り返って言った。彼がそのようにして元気付けられたからこそ、晶にも同じようにしているのだ。

「素敵なお母さんですね」

 晶がそう言うと、ラスターは頷いた。

「とてもすごい魔法が使えるのに、子どもの扱いは不器用な人で。でも、とても尊敬しています」

 晶はその時のことを思い出して、「あの、ラスターがお母さんに見せてもらった景色、もしよければ俺にも見せてくれませんか」とラスターに頼んだ。

 ラスターの母が選んだ美しい場所に、興味があった。ラスターの母はおそらく、あの聖女サフィアだ。聖女と呼ばれているような女性は、どのような場所を選んでラスターに見せたのだろう。

「じゃあ宿に着いてからにしましょうか。私も久しぶりに、見たい景色があります」

 ラスターは晶の提案を快諾した。

 ふたりは連れ立って初夏の花が咲く庭園を見て回る。金雀枝(えにしだ)の黄色い花が、あたりを明るく活気づけていた。

 晶は静かに、深呼吸をした。肺腑が初夏の花の香りで満たされていく。自然の澄んだ空気の中を、自由に歩き回れることができる幸せを感じた。そういえばこうして、花を見るのは随分久しぶりだった。本物の花は画像の花とは違って、甘いよい香りがして、その蜜を求める虫がいて、世界と連綿に繋がる自然の一部として生き生きと輝いていた。

 花壇に咲く花にはどれも札がつけられており、晶が初めて名前を知るものばかりだった。特に薔薇に関してはかなりの種類があり、一口に薔薇と言えども、こんなにも色や形が異なるのかと新鮮な驚きでもあった。

「あ、これ」

 晶は、白い薔薇に目を止めた。

「どうされました?」

「この前、聖女様がラスターに渡していた薔薇も白かったなって思ったんですけど」

 その薔薇は、聖女サフィアが渡したものと似て小ぶりな薔薇であったが、ほのかにピンク色の差す別種だった。聖女サフィアの薔薇は、花弁が透き通るような白さで、雪をまぶしたように輝いていた。

「違う種類でした……」

「あの薔薇は、少々特別ですから」

 ラスターの言葉に、晶は納得した。確かに考えてみれば、聖女の薔薇がその辺りに植わっている筈はなかった。

 あの薔薇はラスターにとても似ていると晶は思っていた。色が似ている、というのは確かにあるが、気高く純真で、美しいのだ。きっと手に持って写真にでも撮ったら、絵画のようだろうなと夢想した。


 庭園の奥へと進んだ頃、「そういえば」と晶は思い出して口を開いた。

「魔王アビスについて、教えてくれませんか」

 魔王アビスは、シージエの街の外で遭遇した、赤髪の男のことだ。ラスターは彼を『火焔の魔王アビス』と呼んでいた。彼の使った魔法は黒々として恐ろしい気配を発していたし、空間を移動することもできる様で、確かに魔王と呼ばれるのも納得だった。

 晶は、そのアビスが言った『懐かしい気配』について気にかかっていた。晶もまた『懐かしい気配』を感じ、たどり着いた先にアビスが居たのだ。それに晶の中に眠っているという『彼』のことも謎だった。

 だからアビスについて、少しでも情報があれば知りたかった。

「魔王アビスは、二百年前の大戦のきっかけを作ったと言われています」

 二百年前の大戦は、以前ラスターが歴史について教えてくれた際に、少しだけその名前が出てきていた。

「どんなきっかけだったんですか?」

「私もあまり詳しくないのですが。地上を燃やし瘴気を発生させ、それが飢饉の引き金となり、食料と土地を奪い合って三国が戦争を起こしたと聞いています」

 現在のアイリーン国の北西部のあたりで、二百年前に、北のティターシア国、西のリーラ国、そしてアイリーン国の三国が戦争を起こした。

「戦争自体は四年で終わったそうなのですが、被害が甚大だったそうです。民間人はもちろん、兵士、それに魔術師が多く亡くなったと」

 四年で終わったとは言え、その四年がどれ程壮絶だったか、晶には想像もつかないことだ。魔法のある世界での戦争は、兵器を用いた戦争とはまた違ったものだっただろう。しかし世界や時代が異なっていても、戦争で最も苦しむのが誰であるかは、同じだ。罪のないものばかりが命を落とし、戦争を起こした者や戦争を指揮する者が戦場で死ぬことはない。

 晶は、言葉が出なくて、黙ってしまった。

 静かな庭園に鳥の声が響く。

 ラスターは庭園に流れる小川にかかる小さな橋を渡りながら、静かな声で言葉を紡ぐ。

「魔王アビスのことは、一般には知られていません。無闇に広めて、人々を恐怖させたくはない。ここだけの秘密にしてください」

「はい」

 同意したが、晶にはラスターの他に話をする相手はいないので、無用の心配ではあった。

「アビスを追わなくっていいんですか?」

 ラスターに続いて橋を渡りながら、晶は素朴な疑問を問いかけた。

「すでに連絡は済んでいますので、ご心配なく。私たちは、浄化のことに集中しましょう」

 ラスターの言葉に、晶は頷いた。


    ◆


 庭園に立ち寄ったその日の晩、晶はラスターに彼が幼い頃に見たという景色を見せてもらうため、彼の部屋を訪れた。

 ラスターの部屋は晶と同じく宿の一室であるが、彼の部屋は不思議と良い香りがした。

「なんか、いい香りがします」

「お茶を淹れたので、その香りだと思います」

 テーブルの上にはポットとカップが二つ置かれていた。部屋に備え付けのものだ。

「部屋に人を招くのは久しぶりで……。お口に合うと良いのですが」

 ポットの蓋を開けて中身を見せてもらうと、複数の種類が混ぜられたハーブティーで、乾燥させた果物も加えられていた。

 カップに琥珀色のお茶が注がれる。爽やかで、しかし果物の甘味もある、飲みやすい味だった。

「すごく美味しいです!」

「よかった。昼間に行った庭園で売っていたので、試しに買ってみたのです」

 宿に着いてから、部屋に来るときのことを考えて買ってくれたのだと思うと、晶は嬉しかった。

 お茶を飲み終わる頃、「景色、見せて欲しいです」と晶が切り出した。

「ええ」

 テーブルの上の蝋燭だけを残して部屋の明かりを消すと、ラスターは指で窓を作る。

「あ、そこからだと見え難いですね、どうしましょうか」

 晶はラスターの向かいに座っていたので、ラスターの指の中が見え難く、また景色が反転してしまう。

「そっちに寄ってもいいですか?」

 ラスターが頷いたので、晶は椅子を移動させて隣に座った。

 ラスターの白く長い指で作られた小さな窓の中を覗き込むと、湖が映っていた。緑の鮮やかな山々に囲まれた湖の穏やかな水面が、時折風でさざめき立つ。穏やかな景色だ。

「綺麗なところですね」

「私の、故郷にある湖です」

「故郷、ですか?」

 ラスターは王子様だから、ずっとお城で育ったのだろうと思っていた晶は、驚いて聞き返してしまった。

「はい。十五歳になるまで、山奥の小さな村で暮らしていました。冬になると寒さが厳しいところでしたが、皆で協力しあって暮らす、温かな場所です」

 どうしていまは王宮に? とは、聞けなかった。

 ラスターは、指の中にその村を映し出す。協力して作物の収穫をする人々の姿や、懸命に勉強する子供たちの様子。大人も子どもも混ざって、収穫を祝い歌い踊る、賑やかな宴。

 その景色を、ラスターは愛おしそうに見つめていた。

「素敵ですね」

「ありがとうございます。これまで故郷のことを話したことはなくて……。褒めてもらえると、こんなにも嬉しいのですね」

 ラスターの目元が、少しだけ潤んでいるように見えた。

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