第5話 不安

 晶は塔の上から、街の西部を眺めていた。

 煤を含んだ煙たい風が頬を撫でる。街の西部に築かれていた二つのバリケードはその一部が突破され、そこが現在、瘴気を纏った野生動物——魔獣と軍隊による戦いの前線となっていた。火と煙が上がっている。戦況は芳しいとは言えない。

 熱が下がり、身動きが取れるようになった晶が扉の外へ顔を出した時、そこにはふたりの衛兵が立っていた。晶が一度「脱走」したからだ。どこへ行くのかと尋ねられたが、晶が塔から街を見るつもりだと伝えると許可され、部屋の外に出ることができた。本当は屋敷の外へと行くつもりだったが、階下へ続く階段の手前にも衛兵が立っていたので、諦めて塔を上ったのだった。

 数日前に見た状況から、街の様子はさらに悪くなっている。置いたままにしていた双眼鏡を覗く。外壁の崩壊はさらに進んでおり、瘴気は街の中により流れ込んできている。

 魔王アビス、きっと奴の差し金だ。と晶は思った。

 アビスは、晶のなかに他の誰かが「眠っている」と言っていた。彼はそれを、目覚めさせたがっていた。晶を狙って、街を襲っているのではないだろうか。

 だが晶には、自分の中に他の誰かがいるという感覚は一切ない。自分が十七年、久慈晶として生きてきた記憶もある。両親と共に過ごした記憶、友人との学校生活、闘病の日々。その記憶に綻びはないし、幼かったころにイマジナリーフレンドがいたとか、幽霊が見えていたこともない。何かの間違いなのではないか。

 そんなことのために、街と、そこで暮らす人々の生活と命を脅かすのだなんて、怒りが沸いた。

 そして何より、己の非力さに腹が立った。

 前線で戦う軍隊の中には剣士の他に、魔法使いと思しき存在が確認できた。

 医者の話しでは晶は魔法を使い瘴気を払ったのだという。

 自分にも何かできることはないか「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」と映画の真似をしてみたが、双眼鏡は浮かばない。

 あの時は、晶もラスターも命の危機に瀕していて、とにかく必死で、ラスターを助けなければという思いもあって、だからこそ奇跡が起きたのだろう。今だってもちろん真剣だけれど、おそらく、条件が違うのだ。

「その不思議な言葉はなんですか?」

 床から、ひょっこりとラスターの頭が出ている。ちょうど塔の階段を登ってきたのだ。

「えっと、俺の世界の、空想の魔法の呪文です」

 ¬¬——見られてた! 晶は恥ずかしさで、顔が真っ赤になるのを感じた。

 ラスターは階段を登り終えると、「どうぞ」と言って晶の肩にブランケットをかけた。別に寒くはなかったのだが、彼のやさしさだと思って受け取ることにした。実際晶は薄着で傍目には寒そうに見えたし、塔は窓が開いて風が強く吹き付けていた。

「ありがとうございます」

「先ほどの言葉、不思議な響きですね。何かの呪文ですか」

「はい、映画……物語の世界の呪文です。魔法がある世界を想像して書かれたお話で」

「賢者様の世界には魔法がないのでしたね」

「はい。だからたくさんの人が想像して、いろいろな物語と魔法の呪文を想像したんです。いまのは、一番有名な呪文だと思います」

「どんな力が?」

「物を浮かせる魔法です」

 ラスターはなるほどと頷くと「風よ、その息吹にて支え給え」と呟いた。すると床に転がっていた双眼鏡がふわりと宙に浮く。

「私たちは、元素の力を借りて魔法を使います。なので、風にその助力を願うような文句になります」

 ラスターが晶を受け止めた時も、確か、似たようなことを呟いていた気がする。

「火、水、風、地の四元素、そこに光と闇の二軸を加えた六元素で魔法を組み合わせるのです」

 ラスターは左手を空中にかざす。空気中の水蒸気から水が集まり、空気が冷え、それが氷の剣として固まった。氷は解け、水となって床に落ちると、そこから芽が出て木となり、その木が盾となる。盾となった木は燃え上がり炎の球を作り、最後には爆風となって焼失した。

 晶は、一連のショウを、目を輝かせてみていた。物が浮いて移動するだけでもすごいのに、こんなこともできるなんて!

 晶が思わず感動して拍手をすると、ラスターは照れくさそうに、頬を赤らめた。

「凄い!」

「魔法の基礎訓練の一部です」

「それができれば、また瘴気を晴らせることができるんでしょうか」

 晶は、努めて明るく言おうとしたが、声の調子が沈んでしまう。戦っている人たちの力に、少しでもなりたいのに、己の非力さが歯がゆく、苛立って仕方がなかった。

 晶は強くこぶしを握った。手のひらの肉に、爪が食い込む。物理的な痛みが、心の痛みを少し和らげるような気がした。

 ラスターはそんな晶を無言で見つめていたが、不意に、晶の両手を握った。包み込むような優しい握り方で、急なことに晶は驚いたが、しかし不快ではなかった。

 ラスターは両手で晶の手を包み込むと、彼が驚いてこぶしを緩ませた鋤に、ゆっくりとその手を開いた。晶の手のひらに、爪の跡が深く残っている。

「この街は、瘴気と魔獣によって多くの被害を受けていたにも関わらず、王宮によって無視されていました。私たちが来るまでの間、怪我、病気、飢えのなかで、一カ月以上も耐え忍んでいたと聞いています。何度も王宮へと知らせを送ったそうです。でも、聞き入れられなかった。神の啓示を得てようやく王宮は動き、私たちはこの街へ来たのです」

 ラスターは晶の手を握りながら、ぽつぽつと経緯を語り始めた。その表情は悲痛で、感情を必死に抑えようとしているようだった。

「この街はもう、捨てなくてはいけません。住民の避難は済ました。今後は前線基地として街全体を利用し、被害が国に広がるのを防がなくてはいけません」

 晶は顔を上げ、窓の向こうに広がる街の景色を見た。人々の暮らしがそこにあって、その暖かな街の景色が、知らないはずなのに目に浮かぶようだ。ここに暮らした沢山の人々、彼らの穏やかな日々も、悲しい日々も、すべて内包してきた街はいま、守るべき人々を失い、街路には寂しい風だけが通り過ぎていき、笑い声の代わりに獣の声が響き渡る。

「そのような中で、あなた様が来てくださったことは、私たちにとって本当に希望です。賢者様は神サンスーンと、聖女サフィアが我々にもたらした、光なのです」

 ラスターはその青い瞳で、晶を真っ直ぐに見た。

「あなたが私たちのために心を痛めて下さることを、心から有難く思います。神があなたに何を言ったのかはわかりませんが、どうか気に病まないでください。元々はこの世界の、この国の問題です。ですが、改めてお願いです、どうかその力を貸してほしい。私と共に、この国を救ってくださいませんか」

 晶の手を握るラスターの手が、少し震えている。真摯だ。そして真剣だ。あの瘴気の中で、自分も苦しむことがわかっていながらも、晶を助けに来た。あの時の心強さと、安心。ラスターが居なければ、晶はアビスによってなぶり殺しにされていただろう。空から落ちた時も助けてくれた、命の恩人だ。

 ラスターの力になりたい。

 彼に初めて会った時の消極的な協力の意志ではなく、彼のために力になりたいと強く思った。そして、そのために力が欲しい。

「協力、したいです。でも俺には魔力がないから、どうしたらいいか」

「一緒に方法を探しましょう。魔力が必要なら、私が分けます。一度できたのですから」

 晶はこくりと頷いた。

 だが、不安が残る。どんなにラスターが頼もしくとも、晶はこの世界のことを何も知らず、それ故にどのような方法で魔法が使えるようになるのか見当もつかないし、ラスターですらそれを知らないのだ。だがその不安よりも、方法が見つかったとしても自分が魔法を使えるようになるとは思えないことが、そう思っている自分自身が、晶にとっては不安だった。ラスターを信じたいのに、信じきれない自分の情けなさに、ラスターの手を強く握り返せないでいた。

 ラスターは優しく晶の手を放す。

「私は前線に戻ります。私の従者、ハースのところへ行ってください。馬車を用意しています。賢者様を安全なところへご案内します。あとのことは、馬車のなかで話しましょう」

「はい。どうか、気を付けてください」

 晶の応援に、ラスターは頼もしい笑みを浮かべると、彼は窓から外へ飛び出した。

 驚いて、慌てて窓辺に駆け寄って外を見ると、ラスターは空中に留まったまま魔獣めがけて氷の刃を降らせていた。

 ――そっか、魔法の世界だった。

 まだ自分が心から魔法を、この世界の理屈を、信じ切れていないことを改めて思い知らされる。

 目の前で見ていても、自分が一度使えたのだとしても、実感が伴ってこない。昔一度だけ遊んだ、ヴァーチャルリアリティのゲームに似た感じだろうか。大型ショッピングセンターの一角にあったVR専門のゲームコーナーで、ゴーグルをはめておもちゃの銃を手に持って、ゾンビを倒したときのような。ゴーグルの中だけの現実、ゴーグルを外したら消えてしまう幻想。

 そう、根本はまだ、自分が死んだことを受け入れられていない。夢だと思っている。だから、この世界も、信じ切れていないのだ。一度納得したにも関わらず疑念が沸くのは、きっと自分の生を諦め切れていないからだ。

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