番外 凍れる魔王の目覚め
「魔王様がお戻りになられました」
部下からの奇妙な報告に、ハインツは未だに慣れない。
なぜなら、魔王はこの部屋にずっといたのだから。
魔王アビスはいつも通りの気だるげな様子で、彼の執務室に置かれた寝椅子に横たわって書類に目を通している。その一方で、部下の報告度の通りに魔王は部屋へと戻ってきた。見間違いでも、双子でもない。赤い髪に緑の眼をした、作り物みたいに顔の整ったその男は間違いなく魔王アビスだ。
外から戻ってきたアビスには生き物らしい表情はなく、ふらふらとしたおぼつかない足取りで壁に置かれた箱の中へと自ら入っていった。これも日常だが、ハインツは未だに慣れない。
「今日はどちらへ」
ハインツは寝椅子に横たわっているアビスに訊ねる。彼は書類を宙に浮かせ、目だけを動かして書類を読んでいるところだった。
アビスからの返事はない。彼が言葉で応答することは稀だ。その代り、ハインツの前にメモ用紙が舞い降りて、目の高さでぴたりと止まった。
『シージエの様子を見に行っていました』と、文字が浮かび上がる。
シージエ。アイリーン王国の北西にある山麓の町だ。現在、同国王子のラスターが滞在していると聞いている。
メモはふわふわと宙を舞うと、自ら蝋燭の上へ行き、じりじりと端から燃えて塵になった。
魔王アビス。
「彼には始まりもなく、終わりもない……」元老院最年長の悪魔が、アビスについて語る前に謡うように呟いた。いつのころからかこの男は魔王のそばにいて、時が経ち、ついには魔王になっていた。いまでは誰も、彼が魔王であることに疑問を示さない。そして彼が魔王になる前のことを知るのはもはやこの長老のみになってしまった。だがこの長老でさえ、アビスが魔界へ来たときのことは知らない。
アビスは、魔族よりも長く生きる古代の人間なのだと、長老は言った。普通の人間よりもはるかに長い時を生き、いまだにその命の終わりは見えない。
「本当に人間なの? インキュバスではなくって?」
サキュバスの娘が言う。長身に、天使に似た見るものを惹きつける相貌、そこへはめ込まれた緑色の瞳はペリドットのように輝き、赤銅色に燃え上がる髪と、それに反して沈着な彼の態度は、魔族の女性たちに非常に人気があった。気だるげな動きは時に少々粗暴だが、そこに色気があるのだと女性陣は言う。
しかし、普段表に出ている彼は『人形』だ。箱の中にいるのも、寝椅子に横たわっているのも、アビス本人ではない。
魔王の側付になって少し経った頃、そのことに気づいたハインツは『人形』が全て出払っている時を見計らって、アビスの寝所を探索した。そして小一時間探した末、『本体』を見つけることができた。
部屋の隠し扉の向こうに、透明な棺の中で彼は眠っていた。氷で作られたその棺は非常に冷たく、アビスの肉体は凍っていた。
そしてアビスが醜男であることを期待していたハインツは、目論見が外れてとても落胆した。
凍り付いてもなお、美しい相貌。長いまつ毛に霜が降り、氷の精にすら見える。
『満足ですか?』
雪の結晶が宙に舞い、文字を形作る。
サインツは素早く辺りを見回した。誰の気配もない。あるのは、氷の棺のみだ。
短い叫び声をあげた後、サインツは気絶した。再び目を覚ました時には自室の寝台に寝かされており、誰が自分を運んだのかと同僚に訊ねて回ったが、誰も自分ではないという。
きっと運んだのはアビスだ。
けれど何故だ。寝所をあさったのにハインツは殺されていない。密偵だと判ぜられて、その場で斬首されてもおかしくはないのだ。アビスのことが、さっぱりわからない。
あれ以来、ハインツはもう二度とアビスのことは探るまいと固く誓った。わからないものが、この世で最も恐ろしい。何より彼は仕事を怠らないし、無駄口も叩かず、彼の下で働くのは快適なのだ。何の文句もないのだから、命の危険を犯す必要がなかった。
執務室から寝所へと続く扉が開かれた。
空気が冷える。
そちらを見ると、アビス、それも本体が、ゆっくりとした歩調で歩いて来ていた。
「魔王様!」
驚いて、書類を取り落とす。
「自分の体を動かすのは、難しいですね」
眠っている間に髪が伸びたようで、赤銅色の髪を床に引きずっている。
「髪、切ってもらえますか」
「は、はいっ。すぐに美容師を¬¬——」
「頭が重いので、早く切って」
アビスは寝椅子に横たわる。先ほどまでそこを占領していた『人形』は部屋の隅で人形らしく立っている。
ハインツはアビスの長い髪を束ね、手近にあった鋏(それも書類用のもの)で、それを切った。髪はまだ冷たく、そして魔力に満ちていた。
「それ、何かに使えるんですか」
ハインツが髪をじっと見つめていることに、アビスが気づいた。
「織物にでもすれば、かなり効果があるかと……」
「じゃあ、作ってください。それと、少し出かけます。人形はいつも通り動きますから、あなたも変わらず仕事をしていてください」
アビスの髪は、肩を少し越す程度の長さになった。毛先もバラバラで整っていないので、ハイツンはまだ切りたかったが、止める間も無く、空間に歪みを作ってそこから去ってしまった。
ハインツはふっと息をついて、赤い髪の束を縫製部へと持っていくことにした。
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