第4話 魔王アビス
「賢者様!」
ラスターの声が聞こえた。
気力を振り絞って、そちらを見る。仄かに光る半透明の馬に乗って、音もなくこちらに駆けてきている。
「邪魔が入りました、残念です」
「賢者様から離れろ」
ラスターが、馬上から男に剣を向ける。青い目が、氷のように鋭く男を睨んでいる。
剣を向けられた男は剣を向けられながらも、動じず、随分と余裕がある、というよりもむしろ面倒そうな顔をした。男はラスターをじろじろと観察する。
「ああ、その眼、その髪。あなた、聖女のいとし子ですね」
「お前は、誰だ」
「俺が誰か聞いてどうするんですか。名前を使った呪術は時間がかかりますよ」
男は、屈んで晶の腕を掴もうと手を伸ばした。
「それに、俺はあなたに用事はない。この中にいる彼を、起こさないといけないんです。放っておいてもらえますか」
「賢者様に触るな」
「ああ、これが『賢者』ですか。先代とは随分雰囲気が違う……」
ラスターは剣の切っ先を首元に突き立てた。
「今すぐ立ち去らなければ、ここでお前を殺す」
「はあ、お優しいと噂のいとし子も、口が悪くなることもあるんですね。いや、『賢者』の存在がそうさせているのか。面倒なので、今回は帰ります。あと、あなたじゃ俺を殺せないですよ」
予想に反して男は大人しく晶から離れ、森の方へと歩いていく。
ラスターは馬を進ませ、男と晶の間に立った。剣の切っ先を男の方へ向けて、睨み続けている。敵意と警戒で、彼の後髪が逆立っているようにすら見える。
「面白いものが見られて気分がいいので、さっきの質問に答えてあげます」
男が急に振り返った。気だるげな緑の眼が晶を見、そしてラスターを見る。口の端が僅かに上がっている、確かに少し機嫌がいいらしい。そうして笑うと男の作り物の様な美貌が更に際立ち、自分を殺そうとしたこの美しい死に神の冷徹さに、晶は恐怖を覚えて寒気がした。
「俺の名前は『アビス』だそうです」
アビス。晶が目覚めてすぐ、聖女と共にいた黒い髪の男がその名前を口にしていた。この国で最も強い人物。
名前に憶えがあるのか、ラスターの緊張が更に高まった。
「火焔の魔王アビス……!」
「はあ、そんな大層な呼ばれ方をしているんですね、俺」
アビスはつまらなそうに欠伸をすると、まるでカーテンをめくる様に空中に手をかけた。空間が捲れ、その向こうには闇が広がっている。アビスはそこへ足を踏み入れる。
「また会いましょう、『賢者』」
そう言い残して、去っていった。アビスの去った後には、元の通りの景色が広がっている。
ほっとして身体から力が抜ける。晶は気力でなんとか上半身を起こして顔を上げていたが、今はもうぐったりとして目を開ける気もわかなかった。大量にかいた冷や汗に風が当たって、身体を冷やしていく。
兎に角、助かった。
重いものが落ちる音がした。ラスターが乗っていた馬が消え、地面に彼が横たわっている。彼が乗っていた馬は本物ではなく、ラスターが魔法で作り出していたものだった。
ラスターが苦しそうにうめいている。この辺りに漂う黒い空気は身体の自由を奪う。ラスターも無理をしていたのだ。
「早くここから……」
ラスターの声はあまりにも小さく、その先を聞き取ることはできない。だが、言いたいことは伝わってきた。ここから移動しなくてはいけない。
だが晶も、ラスターも、身体の自由が利かない。
晶は這って、ラスターに近づく。晶にはまだ這うだけの力がある。ラスターの服の袖を掴んだ。少しずつでも、這って、街へ戻らなければ。この黒い空気さえなければ、もっと早く動けるのに。でも、やるしかない。
ラスターの手をしっかり握った。
途端、辺りが明るくなった。
周囲にあった黒い空気が晴れている。
ラスターも気がついたようで、晶と二人で顔を見合わせた。
体も軽い。
「いまのうちに戻りましょう」
幽体の馬が再び現れ、ラスターはそれに晶を乗せ、その後ろに自分も乗る。
ラスターは街に向かってがむしゃらに馬を走らせた。晶は自分でも気がつかないうちにかなり街から離れていたようで、街の西に広がっている畑の果ての方まで来てしまっていたようだった。その長い距離が、一瞬で過ぎていく。
燃えた畑、燃えた動物の死骸、そこから死の匂いが立ち上り、再びあたりを黒く覆おうとしている。振り返れば、森の方から黒い空気が、川の水ように流れてくるのも見える。
「あの黒いのは、何なんですか」
「あれは瘴気です。こんなに濃い瘴気のなかで普通、無事ではいられません」
それがわかっていて、ラスターは晶をここまで探しに来た。申し訳なさで、胸が痛み、服を強く握った。
街の外壁の近くまで来た。門が開かれる。馬は減速せず、素早く中へ入る。門は、すぐに閉じられた。
「殿下!」
馬が消え、ラスターは晶を抱えて着地した。彼の従者のハースが、こちらへ駆けてくる。
「ご無事で何よりです」
ラスターにうなずいて答えた。
外壁の更に内側に築かれたバリケードの向こうへ戻ると、見物人が集まっていた。何かを囁き合っている。ラスターは彼らに笑顔を返しながらも、早足で市庁舎へ向かって進んでいく。晶を抱えたままで。正直早く下ろして欲しいのだが、体に力が入らない。もう瘴気はないはずなのに。
「先ほどの光は、何があったのですか」
「その話は後で。そんなことよりも、賢者様がすごい熱なんだ。早く医者を」
身体がだるくて動けなかったのは、熱のせいだった。晶はそのまま部屋に運ばれて、寝台に寝かされた。
ハースが呼んだ医者は、晶の熱を測り、それから不思議な機械を晶に持たせ、色々なことをした。そのひとつひとつにどのような意味があるのか、晶にはさっぱりわからなかったが、負担があるものではなかったのでおとなしく従った。
「おそらく、急性の魔力中毒といったところでしょう」
医者は色々と調べた結果、そう結論づけた。
「普通、魔力のない人間はそもそも魔力を蓄える『杯』を持ちません。ですがこの方——賢者様は魔力がないにもかかわらず『杯』があります。そこへラスター殿下の魔力が注ぎ込まれた。これだけならまだよかったのですが、更にそれを消費した。この二つが急激に行われたことによって、身体が拒絶反応を起こしたのだと考えられます」
心当たりはないかと問われて、晶はすぐに思い至った。
「たぶん、俺がラスター様の手を掴んだ時……」
「ええ、私もあの時だと思います。身体が楽になって、周囲の瘴気が消えていました。賢者様のお力かと」
「では、先ほどの光が。壁のこちら側にいても、非常に強烈な光でした」
医者は広げた道具を片付けると、最後に念を押した。
「今日は安静に。王都に戻ったらくわしく検査をするべきでしょう。『杯』がありながらも魔力がないというのは、私はこれまで診てきたなかでは一度もありません」
医者が帰った後、ラスターもハースも部屋から出て行き、ひとりになった。
カーテンの閉められた部屋は暗くて静かだ。
頭ががんがんと痛み、身体中が軋むようだった。
うまく考えられなかったが、あの黒い空気が『瘴気』で、自分にはそれを祓う力があること。そしてそのために多くの魔力を使うのだということだけは、わかった。
熱にうなされて眠る中で、額にひんやりとした感触を感じた。薄らと目を開けると、ラスターが心配そうな顔をしてこちらを見ていた。額の感触は、彼の冷えた手だったようだ。
この人の手を掴んだ時に、あの力が使えた。
一体なぜ。
深く考える余裕もなく、再び眠りに落ちていく。
しかしはっきりわかっているのは、あの時ラスターを助けたいという気持ちが鍵になったに違いないということだ。
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