第3話 懐かしい気配

 朝食はクロックムッシュとサラダだった。朝食は庁舎の食堂ではなくラスターの滞在している部屋へ直接届けられ、晶の分も用意されていた。

 サラダの中には見たことのない形や色の野菜があったが、キュウリとズッキーニ、ブロッコリーとカリフラワー、ピーマンとパプリカの違いのようなものだ。元の世界にもロマネスコやビーツ、リュバーブのような普段食べないような珍しい野菜は沢山あったので、抵抗はなかった。野菜はどれも味がよく、特にトマトに似た野菜(以後トマトと呼ぶ)がみずみずしく美味しかった。

 食事の間、ラスターとは何も話さなかった。ラスターは部下からの報告に耳を傾け、彼らに指示を出していたからだ。それに、晶の方にも食事中にあまり人と話す習慣がなかったので、ラスターに話しかけることもなかった。

 食事が済むと、ラスターは「お相手ができず申し訳ございません。また夕方にお会いいたしましょう」と言って、ひとりで出かけて行った。誰も彼についていかなかった。

「ついていかなくていいんですか?」

 玄関先まで見送っていたハースが戻ってくると、晶は尋ねた。

「この街の中は安全ですので」と彼は答えた。

 それでも、誰かひとりはついていくものじゃないのだろうか。疑問に感じたが、それは自分の常識で、この国の人たちの非常識かもしれないと思って、それ以上尋ねはしなかった。

 市庁舎から外に出ないようにと言われたので、晶はまず部屋の中を見て回ることにした。昨日、ラスターが見せた号外新聞は既に読み終わってしまっていた。部屋の探索も数分しかもたなかった。

 晶はハースに声をかけて、より広い範囲を探索することにした。彼は別の部屋で仕事をしており、晶は彼に許可を得るのにその部屋に顔を覗かせた。

 ハースは忙しいようだった。彼は日程の変更について、部下に細かに指示していた。晶が現れたことによって、予定が変わってしまったためだ。まだ数日滞在する予定だったところを急遽切り上げて、王都に戻るのだという。それでラスターも予定を繰り上げねばならなかったので朝から忙しく、朝食が終わると早々と出かけて行ったのだ。

 ハースが部下と話が終わって顔を上げた時、扉を少し開けて覗いていた晶と目が合った。

「賢者様、どうされましたか」

 晶は部屋に入って、扉の前に立った。少し気まずかった。

「部屋から出て、お屋敷の中を見て回ろうと思ったので、声をかけておこうかと……」

「そうですか、わかりました」

 ハースの指示で騎士がひとり付きそうになったが、「お屋敷の中なら安全ですよね」と説得して、自由を得た。折角の異世界だもの、いろんなものを見て回りたい。

 市庁舎の見取り図を渡され、入ってはいけない場所にハースが印をつけた。元領主邸を利用した市庁舎はとても広く、離れを利用した資料館や花園も併設しており、見て回るところはたくさんありそうだった。建物には塔があって、この塔の最上階は展望台として開放されているとのことだったので、そこから行くことにした。

 市庁舎の通路には品の良い厚手の絨毯が敷かれている。壁には絵がかかり、廊下の踊り場には花瓶が置かれている。一見すると美しい邸宅なのだが、隅に埃がたまっていたり、花瓶に花はがないことが、少し気になった。市庁舎内は静かだった。

 最上階といっても四階建ての建物なので、直ぐに着いた。ほとんど使われていないのか、なんだか薄暗く、他の階よりも埃っぽい。

 塔の窓は曇っていたため、外はよく見えなかった。窓は簡単に開くようだったので、晶はそれを開けて外を見た。

 この塔は全方向に窓があるので、街の四方を見渡せる。晶が明けた窓は南方を向いている。西洋風の街並み。市庁舎の南方には広場があり、そこを中心に街が広がっている。あまり大きな街ではないが、どの建物も美しい。しかし、奇妙だ。人の往来が全くないのではないが、数が少なく、活気がない。荷馬車は道の端に止められたまま、動かない。

 晶は西側の窓を開けた。落ちていた双眼鏡を拾って、覗いた。街の西側の外壁が良く見える。城壁の向こうには荒れた畑。幾筋かの黒い煙も上がっており、それが風で拡散して黒い靄になっている。外壁は一部が崩れており、近くにそのがれきが散らばっていた。街の建物、民家や商店も荒れている。外壁より数百メートル内側に、家具や木材片による急ごしらえのバリケードがあり、更にその内側に新設したと思われるバリケードが築かれていた。

 晶は塔を下りた。四階分、階段を下りるのがもどかしい。急ごうとすると足がもつれて転んでしまいそうだった。誰ともすれ違わないまま、晶は市庁舎を出た。

 西に向かって街を進む。気づけば走っていた。走ったのなんて、何年ぶりだろうか。

 どの店も閉まっている。露店に立つ人も居ない。大きな荷物を持っている人に、すれ違う。

「おい、君! 戻っておいで!」

 その人が晶に向かって叫んでいた。でもそれよりも早く、晶は走り去ってしまった。

 バリケードにたどり着いた。丸太を組んで作られており、高さは二メートルある。辺りを見回すと、近くの民家の前に捨てられた家具の山があった。その山へ登り、民家の壁を支えにして、バリケードを越えることができた。

 家具を積み上げて作られた急造のバリケードの方は、簡単に越えられた。

 あたりの家は皆、荒らされ、壊されている。割れたガラス、荒れた室内。空気が黒く、淀んでいる。

 その中を、更に西へ進んでいく。進めば進むほど、空気が重くなる。息がしづらい。身体が重くなるような感覚で、いますぐ横になりたい。でも足を進めた。

 何故か、外壁の先に懐かしい気配がするのだ。その気配が晶を惹きつけ、動かしていた。

 外壁の門は固く閉ざされているが、人ひとりが通れる小さな扉が備え付けられていたので、そこから外へ出ることができた。

 荒廃した畑。民家もある。民家の様子は、外壁の中とは比べ物にならない。

 黒い煙の火元は、燃えた動物の死骸だった。大きいのから小さいのまで、さまざまな大きさの死骸が転がっている。それらが燃えて、黒い煙になっているのだ。死臭に、服の袖で鼻を覆う。

 しかしそれ自体が、このあたりに漂っている黒く淀んだ空気の正体ではない。

 黒い空気は、ずっと遠くにある森の奥から流れて来ていた。山の斜面を降りて、街の方へと流れ込んでいるのだ。

 一体何が起こっているのだろう。

 畑道を、そこに転がる動物の死骸を避けて、森に向かって進む。空気がより黒く、重くなるにつれて、身体がどんどん重くなっていく。足がもつれて、転がっていた死骸に躓いて派手にこけた。白かった服が泥にまみれている。手も、黒く汚れている。

 何度か転んだあと、立ち上がるのが難しくなった。身体が鉛のように重く、身動きが取れない。

 横たわったまま、荒れた畑を眺めていた。

 身動きが取れないが、しかしこうして横たわっている方が、晶には馴染みがある。この世界に来てから、何事もなく動けていたことの方が、晶にとっては珍しいことだった。

 そういえば聖女は「新しい身体」と言っていた。死んで、新しい身体になったから、動けていたのだ。しかしそれも、もう駄目になってしまった。

 晶が畑道で横たわっていると、遠くの方からいくつかの足音と、荒い息が近づいてくるのが聞こえた。なんとか動いて手を付き、首を動かしてそちらを見る。

 黒い野犬の群れだ。こちらに向かって駆けてくる。近づくにつれ、野犬が黒いのではなく、その身体に黒いモヤを纏っているのだとわかった。その上ただの野犬ではない。犬たちは走りながら黒い雷を街の外壁に向かって放っていた。雷は大きな音を立てて、外壁をえぐっている。

 晶は野犬たちの進路上に横たわっている。このままでは、下敷きになるか、餌食になる。

 逃げなくては。

 でも晶の身体は動かない。這って動いたとしても、逃げ切ることはできない。

 頭を守って、うずくまる。やり過ごすしかない。

 だが、野犬の群れが晶の上を通過することはなかった。代わりに野犬の苦しそうな鳴き声が聞こえてきた。

 貝のように縮こませていた身体を開いて、顔を上げる。

 野犬の群れが、男の周りで息絶えていた。

 背の高い男。生気のない彫刻のような端正な顔を縁取る、夕暮れと同じ群青と混ざりあったような暗い赤色の髪に、眠たげなペリドットの瞳。その瞳が不機嫌そうに、晶を見据えている。

「こんなところで何をしているんですか」

 顔を上げるのもやっとな晶は、返事ができない。

 野犬たちが纏っていたモヤは、男の右手の上に、球状になって浮いていた。男はそれを小さく丸めたと思うと、一口で丸呑みにしてしまった。それから、残念そうに首を振った。

「懐かしい気配がして出てきたんですが、人違いですね。あの人はこんなちんちくりんではなかった」

 懐かしい気配という言葉に、晶は驚いた。晶も同じ理由で突き動かされ、ここまで来たのだ。そしてその気配は、確かにこの男から発せられている。だが、晶はこの男に見覚えはなかった。

 男は晶をじろじろと観察する。顎を掴むと、晶の眼をじっと覗き込んだ。

「あなた、身体はひとつで魂も一つなのに、ふたりの人間が入っている……。ああ、あなたの中で眠っているんですね」

「眠っている?」

 何の話だ。ふたりの人間?

「自覚がないんですね。あなたを眠らせれば、彼が起きると思うんですが」

 男は晶の首を掴んだ。

 殺される!

 無我夢中で、首を掴む男の腕に爪を立てる。

「暴れると、眠れないでしょう」

 男は面倒そうな顔をして、晶の首から手を離す。男の手のひらに、黒い塊が現れる。帯電したようにバチバチと音を立てて、いまにも炸裂しそうだ。

 あの塊が当たれば、ひとたまりもなく身体が砕け散ってしまいそうだ。血の気が引く。助けは来ない、逃げる手立てもない。

「その身体、彼に返してくれませんか」

 ああ、終わった。

 晶は死を覚悟して、ぎゅっと目をつむった。

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