第2話 聖女と王子

 地面がぐんぐん近づいてくる。

 晶はバンジージャンプの経験があったが、スカイダイビングはしたことがない。それにバンジージャンプは命綱があるし、下にマットも敷かれている。

 でも今は、何もない!

 車に轢き殺された次は落下死なんて!

 意識が遠のきそうだ。いっそ遠のいてくれればいい。このままもう一度死ぬしかないのか。

 そう思った時、晶を受け止めようとしている人物が目に入った。

 白銀の髪の青年が、晶に向かって手を伸ばしている。

 そんなことしたら巻き添えで圧死確定だって!

 そう叫びたかったが、口に空気が入って喋るどころではない。

「風と土よ! 彼を守り支えよ!」

 青年が叫ぶと、晶の身体は空中でピタリと止まった。そしてゆっくりと、青年の腕の中に収まる。

 心臓がバクバクと大きく音を立てていた。全身の震えが止まらない。

 晶が立てないのを青年は察して、ゆっくりと地面に座らせ、その背中を支えた。

「アイリーン国王子、ラスター・メティス・アイリーン」

 上空から声がした。見上げると、銀髪の女性がまるで階段を下りるかのように空中を優雅に歩きながら、こちらへと近づいてくる。その姿は輝いており、まるで月の女神のようだった。

 晶の耳に彼を支えるラスターが、息を飲む音が聞こえた。

 彼は小さな声で、女性に呼び掛けた。

「母様……」

 ラスターの呼びかけに、女性は静かに首を横に振った。

 女性はラスターのところまで歩み寄ると、

「ラスター王子、神より、この者をあなたに託します。賢者と共に、西の山脈の深くへと赴きなさい。この世が闇に飲まれぬように、世界の亀裂を塞ぎなさい」

 そう告げて、彼に薔薇を渡した。あの庭に咲いていた、白い薔薇だ。

 ラスターの両の目から、涙が細く流れ落ちる。

「私は……」

 女性は再び首を振り、ラスターのか細い声を遮ってしまった。

「あなたが自分の力で私のもとへたどり着いたときに、話をしましょう。今はあなたのやるべきことをやりなさい」

 彼女の姿は一陣の風と共に消えてしまい、残ったのは薔薇の花のみだ。ラスターはその薔薇を、じっと見つめていた。

「殿下! ラスター殿下!」

 遠くから、男がラスターを呼んだ。こちらへかけてくる。その後ろを、四人の男が担架と共についてきていた。

 ラスターは目元を拭うと、晶に向き、

「大丈夫ですか」

 と声をかけた。ラスターの頬にはまだ涙の跡が残っている。

 晶の心臓はまだ早鐘を打っていて口が利けなかったので、代わりにコクコクと頷いて、無事を表現した。

 しかし、ラスターは何を思ったか、晶を横抱きにして立ち上がった。

「え、あのっ! 歩けます!」

 それに担架も来ているし。

 ラスターは首を横に振ると、そのまま歩き出してしまう。その首を振るしぐさが、あの女性と非常によく似ていた。

「殿下、担架をお使いください」

 男が声をかけたが、「大丈夫、ありがとう。この方は私が連れて行きます」と言って聞かず、担架を運んできた男たちは哀れにもからの担架を持って戻る羽目になった。

 運ばれる身としては、担架の方がよかったのに。と、晶は思った。だが歩けるとは言ったものの、実際にはそれは強がりだった。足に力が入る気がしない。ラスターには見透かされていたのだろう。

 ラスターは何も言わず、彼らがいた広場から大きな建物へ真っ直ぐ歩いて行った。晶も黙って運ばれていたが、やがてそのまま眠ってしまった。


 晶とラスターがいた広場は街の中心に有って、北側を元領主の邸宅が、残る三方を半円状に商店が囲んでいる。なので、ラスター王子が女性から青年を預けられたのを大勢が見ていたし、そのことはすぐ街中に広まった。

【ラスター王子、聖女様より賢者を授けられる】

 そう題された号外が、翌朝には配られていた。

「大変な騒ぎになってしまいましたね」

 従者の男が、往来で入手した号外をラスターに渡す。写真こそなかったものの、見た者の証言をもとに描かれたスケッチが一面を飾っている。

「大変な騒ぎになるように、あの場所が選ばれたのだろう」

「え……? それはどういう意味ですか、殿下」

 ラスターは返事をしなかった。あの広場を選んだのはおそらく、聖女と呼ばれている銀髪の女性ではない。その背後に居る「神」だろう。聖女と賢者の降臨と、それを授けられた王子の話しは瞬く間に街中に広まった。数日中に王都にまで噂が広まるだろう。「神」の狙い通りのはずだ。

 ラスターが昨夜聖女から渡された薔薇は、花瓶に生けられている。少し透けたような白い花弁が、雪をまぶしたようにきらめいていた。花瓶は、元領主の邸宅を利用した市庁舎の貴賓室に置かれており、そこはラスターが一時的に私室として使用している部屋でもあった。

 ラスターは豪奢な貴賓室が居心地悪く、そのほんの隅の方を使用していた。公務を行うようになった頃、やはり同じような豪奢な部屋へ通されて、もっと質素な部屋を希望しようとして従者であるハースに止められた。彼らの最大限のもてなしを無下にするべきではないというのが彼の意見だった。当時はいまよりずっと幼かったラスターだが、ハースの言葉に従った。忙しなく立ち働く人々や、その土地の上長の精一杯な様子を多く見て、今ではそのような要求をすることは考えなくなった。特に今回は非常に切迫した状況の土地なので、わがままを通すべきではなかった。もちろん、事前に通達しても無意味だったのもある。

「目が覚めましたか、賢者様」

 寝台の方で布の擦れる音がして、ラスターがそちらに声をかけた。晶が、目を覚ましたのだ。

 晶は、また見慣れないところで目を覚ましたことに少し困惑した。それに、運ばれたまま眠ってしまい、お礼も、自己紹介もできていない。

 ラスターは辺りから適当な椅子を持ってきて、あきらの寝ている寝台の近くに座った。彼は両手で椅子を持ち、音を立てずにそっと床に置いた。

「私はラスター・メティス・アイリーンと申します。お名前を、教えていただけますか」

 穏やかな声だ。昨夜、女性に呼びかけたときのか細い声とは丸っ切り違う。王子としての責任と自信に満ちている。

「アキラ、久慈晶(くじ あきら)です。晶が名前で……。それで、昨日のことなんですけど……」

「ああ、それは……」

 ラスターが指を、窓辺に向けて指す。そこには薔薇の他に、先ほどの号外が置かれていた。新聞がふわりと宙に浮き、寝台のそばのチェストに着地した。

 晶が驚いて口を開けて見ていると、むしろそのことにラスターも驚いた。

「ええと、私は、何か変なことをしましたか……?」

 ハースと顔を見合わせている。

 なるほど、この世界では指を向けただけでものが宙に浮いてこちらにやって来るのは珍しいことではないらしい。思えば昨夜も、落下していた晶を受け止める前にラスターは何かを叫んでいた。そしてその後で、晶の落下は減速したのだ。おそらく、この世界では当たり前のことなのだろう。

「ものが宙を飛ぶのを見たことがなかったので」

 晶は正直に答えた。映画やドラマ、アニメではみたことがある。でもあれらは仕掛けがある。詳しくは知らないが、大抵はワイヤーによって操られており、その後の加工で本物らしく見せている。何の仕掛けもなしにものが浮き上がり、こちらの希望通りに移動することはまずない。

 ふたりは晶の回答にも驚いたようだった。

「そうでしたか。なんと説明したらいいか……。後程、お話ししましょう。話が逸れました、昨日のことでしたね」

 ラスターは号外を晶に渡す。

【ラスター王子、聖女様より賢者を授けられる】

 見出しと、証言をもとにしたスケッチ。スケッチは実際よりもかなり神秘的だ。空から舞い降りる青年を、受け止めようと手を伸ばす王子の姿。そして上空からそれを見守る聖女が描かれている。実際には晶は絶叫しながら落下しており、舞い降りるとは程遠かったし、受け止められてからも情けない様子だった。

「あの、賢者というのは……」

「あなたのことです、アキラ様」

 ですよね、と心内で独り言ちる。

 賢者と言われても、ぴんと来なかった。どうやらこの世界は「魔法」があるようだが、晶にはそのような力はない。特別賢いわけでもなく、何か特別な知識を持ってもいない。星占いだってでいない。なぜ「賢者」と呼ばれるのかわからない。「世界を救え」と言われたが、何をどうしたらいいのか思いつきもしなかった。

 再び紙面に目を落とす。昨夜の女性は、この国では聖女と呼ばれているようだ。聖女が現れるのは珍しいことらしく、「ラスター王子救出以来」だと書かれていた。「『聖女様に護られし刻印の王子』であるラスター王子の前に再び聖女が現れことにより、国内ではラスター王子を次代の王に推す声がより高まっている」と記されていた。

「いまからふた月前、神官らに神サンスーンからのお告げがあったのです。主旨としては『異国の青年が賢者としてこの国に授けられる、その青年が西の山脈の瘴気からこの国を救うだろう』という内容です」

 神官は王宮に進言するも王の耳には届かず、しかし庶民の間にこの神託のうわさが広まったために神殿への寄進が増え、それを不満に思った貴族が進言してようやく王宮が動いたのだという。

「王宮はこの問題に注力しているという態度を示すために、私がこの街の慰問に送られました」

 ラスターは険しい顔で黙ってしまった。

 その後を従者ハースが継ぐ。

「街に着いた時にはひどい有様で、食料も物資も枯渇しており、医療体制は崩壊していました。昨日、ようやく立て直したとろこです。ですが、失った命や損なわれた健康、生活は戻りません」

「もっと早くこの街に来ていれば……」

 ラスターはこぶしをきつく握っていた。爪が彼の手のひらに食い込んでいるのがわかる。彼は息を吐いて、冷静さを取り戻すと、晶に向き直る。

「あなた様が来てくださって、本当に心強く思っています。協力していただけますか」

 穏やかな物言いでこちらの同意を求めているが、この世界で身寄りもなくお金もない晶にとっては、実質一択だった。

 まあ、なんとかなるだろう。

「何ができるかわかりませんが、よろしくお願いします」

 ラスターは心底ほっとした様子で胸をなで下ろしていた。

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