無魔力賢者は聖なる王子と世界を救う(刻印の血脈 青の血統と満月の瞳)
瑞田千貴
第1話 目覚め、そして始まり
少年が腰掛けている台から足を床に伸ばすと、石造りの床は冷ややかで、はだしのつま先はすぐ氷のように冷えてしまった。辺りには靴下や履物は見当たらない。諦めて、そのまま床に立つ。
円形状の部屋だ。四枚の絵が飾られている。高い天井は半円を描いている。扉はひとつ、窓はなし。先ほどまで横たわっていた台は、部屋の中央に置かれていた。人ひとりが余裕で横になれる大きさだ。それらの意匠は、ヨーロッパ風だが、しかし目にしたことがないものだった。
四枚の絵は、それぞれ別の人物が描かれている。赤い衣の者、青い衣の者、緑の衣の者、黄色の衣の者。それらは火と、水と、風と、土を表しているようで、衣にはその印が描き込まれており、それぞれの周囲には象徴するモチーフが描かれていた。
そのうちの赤い衣の者が動いて、扉を指さした。そちらに行けということだろう。扉に手をかけ、しかし気になって絵をもう一度見たが、絵の人物は元の通りの姿に戻っていた。皆それぞれ、額縁の中の自分の世界で静かにしていた。
扉の先は廊下だった。やはり天井の高い、石造りの廊下。壁にランプがかけられており、その中では火ではないものが光っていた。石だ。月のように、白色に淡く光っている。そのランプが廊下の端までずっと灯っており、窓がなくても明るかった。廊下の両側に扉はなく、真っ直ぐ続いているだけだ。
自分が誰なのか、思い出せない。名前も、顔も思い出せない。ただ、この場所を知らないということだけが分かる。それ以上のことは、頭に靄がかかったように不鮮明だ。この場所がどこなのか、どこに行けばいいのか、そもそも自分は誰なのか、なぜここに居るのか、全てが不明瞭で、それらを知るためには進むしかない。
廊下は突き当りを左に折れ、別の廊下につながっていた。
右手側が大きなガラスのはめ込み窓で、月の光が差し込んでいるために明るく、また大きな湖とそれを囲む山々を見ることができた。山々の頂はわずかに白く雪が残っている。この建物は、ずいぶん高い所に建っているようだ。
左手側は壁になっており、さらに進んだ先に扉があった。
手がかりを求めて、扉を開けた。
扉の先は短い廊下を経て、外へと続いていた。
回廊に囲まれた中庭だ。一本の広葉樹と、その周辺には花が植えられている。外気は冷たい。地面は煉瓦敷だ。はだしの足が、土に汚れる。
花壇に近づいて、植えられている花を見る。花は薔薇だが、花弁が見たことがない不思議な色だった。ほとんど透明に近い白色の花弁で、雪がまぶされたようにキラキラと煌いている。
「その薔薇は、あなたの世界にもありますか?」
声がして振り返ると、背の高い女性がゆっくりとこちらに近づいて来ていた。雪のような白銀の髪に、鋭く輝くサファイアの瞳を持っている。
「ここは、死後の世界なんですか?」
自分の口から出た質問に、自分で驚いてしまった。
死後の世界?
「ここは死後の世界ではありませんが、しかしあなたにとっては同じことです」
不思議と、納得感のある言葉だった。
自分の両手を見て、その後、足を見る。どこも血に汚れていない。
そうだ、自分はあの時死んだのだ。病院の帰り、食事を取ろうとレストランへ寄った際、制御を失った車に挟まれて死んだ。
『晶(あきら)……!』
晶の動かなくなった身体を抱き寄せて慟哭する両親の顔が、脳裏に浮かぶ。最期の記憶だ。
身体が急に輪郭を得たように、周囲の寒さがより鮮明になる。泥にまみれ冷えた足先は痛いほどで、薄く簡素な衣服は冷気を通し、寒さは鼻腔を通って内臓まで行き渡り、歯ががちがちと震えて音を立てる。身体に重みを感じる。重力に筋肉が耐えられず、膝をつき、座り込んでしまう。
「記憶が戻ったことで、新しい身体に馴染んだようですね」
「そっか、死んじゃったんだ……」
落胆。しかし、あれで生きていれば奇跡だ。
「中へ入りましょう」
女性の言葉で、どこからともなくフードを被った人物が車椅子を押しながら現れた。その人は無言で晶の身体を抱えて椅子に座らせると、女性の後に続いて部屋に入った。
部屋の暖炉には火が点いており、車椅子はその前に停められた。フードの人物はお湯を持ってくると、素足で庭に踏み入ったがために土で汚れた晶の足を洗う。湯の温かさが、骨まで冷えた足先を溶かすように広がる。泥が全て落ちると、柔らかい布で足についた水を拭った。
「ありがとうございます」
晶がお礼をすると、フードの人物は無言のまま去っていった。
入れ替わるように女性がトレイを手に暖炉へとやってきた。テーブルにトレイを置き、辺りにあった椅子を両手で持って暖炉の前に置き、そこへ座った。
「お茶を」
女性はテーブルに乗ったマグカップを指した。中に、茶色いお茶が入っている。
だが晶はそれに手をつけず、女性に
「自分は、あの時死んだはずなのに、どうしていま動いているんでしょうか」
と尋ねた。
「神があなたを選んだからです。神が望まれたので、あなたは私たちの世界に来ました」
「神が、選んだ?」
「ええ。神はあなたに、『世界を救え』と言うでしょう」
「世界を、救う?」
女性が頷く。
「ですが、あなたが神の命令に従う義務はないと、私は思います。あなたの意志を尊重しているとは思えない。それに、命ぜられて救う世界は、本当に救われるのでしょうか」
彼女が睨みつけた先に、男がいた。晶は驚いて、短く叫ぶ。
いつからそこに居たのか、黒い髪の男が部屋の隅に立っていた。
「それでも、僕は『世界を救え』と言うよ」
にこりと笑う。
氷のように鋭く睨む女性に一瞥もくれず、男は晶に近づいた。
「とても困っていることがあってね。助けてほしいんだ。この世界が深淵にのまれるのを防いでほしい」
規模の大きな話に、晶は何も反応できなかった。
世界を救う?
深淵にのまれる?
どうやって、救うんだ?
「私はやはり反対です。彼に頼るべきではない。それに——」
「いいや、彼にも関係がある。彼にしかできないことだよ。さあ、支度をしよう。彼を、王子様の所へ送ってあげなくてはね」
女性は微塵も動じず、男を睨み続けている。
「あの子も巻き込むおつもりですか」
「『あの子』のところが最も安全でしょう? 何と言っても『聖女様に護られし刻印の王子様』だ、この国でアビス自身以外に彼に敵う者はいない。それに」男は軽かった声の調子を、不気味に落とす。「君に拒否権はない」
女性は男を睨みつけながら、椅子から立ち、明に新しい服を持ってきた。
「支度をしましょう。立てますか?」
「はい」
晶の意志は尊重されないようだ。世界を救うと言われてもどうしたら良いのか一切わからないが、ともかく、着替えるしかない。
フードの人物が再び現れて、晶の着替えを手伝った。簡素な服だったが、留め具の扱いが難しく、そこはフードの人物にやってもらった。
女性も服を着替えていた。白い、神秘的な雰囲気のあるドレスで、氷を模した模様の刺繍が施されている。
「ラスターは現在、西の山脈の手前の街にいます」
女性が姿見の前に立ち、指し示す。大きな姿見に、青年の姿が映し出されていた。白銀の髪に青い瞳で、女性にとても似ている。
男は満足そうにうなずいた。
「歴史に残る夜になるだろうね」
女性は再度男を睨んだあとで、一度深呼吸をすると、小さな声で何かを呟いた。姿見はドアに変わる。
「晶、楽しんで」
男は晶に手を振った。どう反応したらいいのか少し考えてから、晶はぎこちなく手を振り返した。
女性は扉を開け、その中へ入って行く。
晶もそれに続いて、足を踏み出した。
しかし、そこには何も存在していなかった。
足は空を踏み、身体は地面に向かって一直線に落ちていく。
晶は、生前でもなかったほどの、大きな悲鳴をあげた。
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