第6話


 アタシ、弓月海は今日もまた、同じアパートの住人である涼風楓の手料理に箸をつけていた。舌が伝えるのは以前好んで食していたカップ麺や冷凍食品のような濃い味では無くて、少し物足りなさを感じると共に、焼きそばに盛り付けられた玉ねぎを皿の縁に然りげ無く追いやった。


「お〜い」


「‥‥‥」


「あ〜あ。そんなことしたら、もったいないお化け来ちゃうよ?」


「あんたアタシをガキだと思って見下してるだろ!ちょっとアタシより頭良いからって調子乗んな!」


 アタシがそう言うと楓は持っていた春日里高校で配布されるものの五倍は分厚い英単語帳を閉じ、こちらを嘲るように口角を捻り上げた。


「この前のテスト、現代文以外全部赤点だったね。あんな猿でもできる問題でこんな遅くまで補習受ける羽目になるなんて、ガキでしょ」


「この野郎ッ!!殺すッ!!」


 アタシは楓に飛びかかるが容易く躱され、バランスを崩したところを後ろから抱きしめるように支えられてしまった。アタシの平均よりは豊満だろう胸に筋肉質な腕が当たっており、羞恥心と性欲が心で悲鳴をあげた。こんなバカップルみたいなやり取りをしたい訳では決してなかったアタシは、楓の腕を振り解いた。


「このヘンタイ!離れろ!」


「ガキが色気ずくなよ」


「お前が言うなッ!!」


 色気ずくなんてアタシからすればどの口が言っているのかという話だった。楓とは一ヶ月程の付き合いだが、いつもどこかしらに傷を作って帰ってくる。友達の美雨の様子を見るに、名も知らぬ女達を引っかるために奔走しているのは明白だった。どうせアタシにお節介を焼いているのも父親面しているのも、アタシとセックスする事が目的なのだろうが、今のところ上手く下心を隠しているようである。


「弓月がガキじゃないのはよ〜く分かった。そんな大人な弓月に頼みがあるんだ」


「は?何急に?気持ち悪ッ」


「実は俺な、頼りにしてた稼ぎ口が一つ無くなったんだ。お前も分かるように、誰からの援助も無しに高校生が一人暮らしするっていうのは大変だ。主に金銭面でな。そこでだ」


 楓は自身のスマホをアタシの眼前に持ってきた。その画面にはあるメールのやり取りが映り込んでいた。


(差出人は、クールプロダクション?何か聞いたことあるような‥‥‥。『弓月海様。書類選考に合格された事をご報告致します。つきましては六月一日午後二時に本社の二階にある受付カウンターにてこちらに記載されている番号をご提示いただき、オーディション会場へと案内致します』‥‥‥は?)


「オーディション、受けてきて」


「なッ!?アタシ、書類なんて——」


「俺が送りつけといた。ついでに直接行って売り込んできたから安心してね」


 お茶目ぶってウインクをした楓の股間をアタシは思いっきり蹴り上げた。











 六月一日、アタシは一人のクールプロダクションのオーディション会場でグループ面接に参加していた。明らかに過剰な大きさの会場には長机に居並ぶ面接官と受験者のパイプ椅子が数個並べられていた。


「あなたは、どんなモデルになりたいですか?」


 面接官の一人である気難しそうな女性の質問に順番に答えていっている受験者達を横目に、アタシは先程から一人疎外感を感じていた。それは至極当然の事で、応募したのはアタシの意思では無く楓の独断で、憧れているモデルなど問われても興味が無いし、この事務所に応募した理由も分かるはずがなかった。アタシは他の受験者と同じ当たり障りの無い、模範的な回答を垂れ流しながら、ふと今朝の事を思い出す。楓に着せ替え人形にされ、最終的に何やら流行だというシャツワンピースを着させられたアタシは、その後面接官に問われると予想される質問などの確認を捲し立てられた。正直全くやる気は無かったが、楓にはなんだかんだお世話になっている自覚はあるし、滅多に頼み事などしてこなかった楓が発揮した謎のしつこさで、アタシは渋々行く事にした。道中全く緊張などしていなかったアタシは、会場に着いた時他の受験者から発せられる緊張感とその燃え滾るような自信に満ち溢れた瞳に圧倒され、あっという間に萎縮した。しかし図ったようなタイミングでアタシの携帯が振動し、楓からメールが届いていた。


(『あれだけ死にたがってて自殺未遂までして、それを乗り切ったお前が、たかがモデルオーディションでビビってどうする?いいか?好きなようにやれ。模範回答なんてどうでも良いし、周りや俺の事は気にするな。お前は最初からずっと自由なんだ』‥‥だっけか。正直全く意味分かんねぇし、あいつエスパーかよ、いつもアタシの気持ち筒抜けで気持ちわりぃ‥‥‥けど)


 面接官のこちらを品定めするような温度のない視線を一斉に向けられ、アタシにポージングの順番が回ってきた事に気づいた。先程からアタシの体に重力かのようにのし掛かっていた緊張と不安は達観した慎重さへと変わり、流れるように腕を腰に持っていくと共に、足を後ろでクロスさせ両足間で三角形を構築する。そこからはただ自由に、少し予習した内容にオリジナリティを加え、自分が一番スタイルが良く見えて可愛くなる角度へと、まるで数式を最適な公式を応用して紐解いていくように、自らの身体を人形のように絡繰る。





「ふぅ〜、お疲れ様でした。いやぁ〜、今年は豊作でしたね」


「そうですか?私は十五番と五十番がちょっと気になったくらいですけど。小椋さんはどうです?」


「小椋さんはどうせいつもの辛口評価でしょ。去年なんて、全員不合格、ですよ?」


 長机の中央に座る小椋は、自分より一回りは若い男の発した小声を目敏く聞きつけると、自身の前に置かれていた用紙の束から一枚を選び取った。


「‥‥‥一人、気になった子がいたわ」


「「「え?」」」


「小椋さん、その書類って」


「あ、百四番!書類選考で落とす予定だったところを小椋さんがストップをかけたっていう」


「確かに容姿はずば抜けてましたけど、色々問題があったんでしょ?それにあの写真!素人でももうちょっと上手く撮れますよ!しかも学生服って!なんで通したんですか!?」


「しかも親の許可を得てないって。人格にも難ありですよ」


「ふふ、そこが面白いんじゃない。私が保証するわ。彼女には確かに光るモノがある。でも、それをどう活かせるかは、私達の手腕にかかっているけれどね」


「その言い方‥‥‥まさか、合格させるんですか!?」


 小椋は一ヶ月程前の、事務所での一幕を思い出す。売り込みに来たというその青年は年不相応の豪胆さと観察眼で、事務所内では一定の権力を持つ小椋を廊下でつかまえると、弓月海という少女の魅力を語り始めた。結果職員に連行されるまで話を続けたその青年の話を唯一聞いた小椋には、周りとは異なる景色が見えていた。


(顔、スタイル、そして環境。あの子には全部完璧に揃ってる。それに残酷さの中に脆さを内包したような、影のある若い子にしか出し得ないあの表情。こいつらは何も分かってないわね。取り敢えずキープすれば良いのよ。素質がなければ、勝手に潰れていくのだから)


 小椋は合格者リストに百四番を書き込むと、いつもとは違う本心からの微笑を浮かべた。








「表情硬いよ?もっとリラックスして」


「わ、分かってます」


「でも〜、海ちゃんって本当かわいいな〜。最初はちょっと怖いオーラ出てたけど、話してみたら礼儀正しいし〜」


「‥‥‥そうすかね」


「ところでその左手のミサンガ、誰に貰ったの?まさか、彼氏とか〜?」


「違いますって」


 アタシはメイクの美浦さんの話に相槌をうちつつ、ガチガチに緊張した身体を身震いさせる。アタシはクールプロダクションに何とか所属する事が出来たのだが、いきなり小椋さんというお偉いさんから、あるショーのオーディションを受けてこいと言われ、この乳白色のメイク室へとやってきた。緊張は既に克服していたと思っていたアタシだが、事務所の先輩達からの何やら含みのありそうな視線や、他事務所のモデル達の鬼気迫る表情に、しっかりと気圧されていた。


「あの、アタシさっきから睨まれてる気がするんすけど。これって普通なんすか?」


「え〜、そんなの当然じゃない。だって海ちゃん、入っていきなりでこんな大きなショーのオーディション受けるんでしょ?何年も頑張ってやっとこのスタートラインに立てた人だって沢山いるんだよ?そりゃ悔しいし、憎たらしいよ」


「‥‥‥そろそろ行きます。ありがとうございました」


「は〜い。頑張ってね、私は海ちゃんを応援してるからね」


 会場に着くと続々とモデル達が集まり始め、同じ服装に身を包んで横一列に並んだ様は、より個性を発揮しろ、より他との違いを示せ、と言われてるかのように感じた。更に百七十センチで女子では高い方の身長のアタシより頭一つ大きいモデルが何人もいて、アタシは手汗が噴き出す手のひらをきつく閉じた。


(アタシには危機感が足りてないのかもしれない。何か一芸に秀でている訳でもないし、学もない。お金もないし人脈もない。家族は‥‥‥母親を自称する奴はいるけど、くらい。アタシには顔しかない、顔しかないんだ)


 やがて面接官が部屋に入ってくると、周りからは声のないどよめきが走った。アタシは何も知らないが、三人の面接官の中に明らかに態度と存在感が大きい男を見つけた。カラフルで奇抜ともいえる服装に身を包んでおり、そのチョビ髭は手入れが丁寧になされていた。どかっと椅子に腰を下ろすと、その傷ひとつ無い革靴を見せびらかすように足を組んだ。


「これよりオーディションを開始します。左の君から順番に所属事務所と名前を言った後、その柱からこちらの柱までウォーキングして貰います。また人によってはこちらから指示を出す場合もあります」


 そうしてオーディションが開始され、一人ずつウォーキングを行う。アタシは経験不足からくる焦りで他のモデルを必死に観察するが、この中から自分が合格するビジョンは少しも見えなかった。


(何か、腰から歩いてるって感じか?あんな大股でよく姿勢崩さねぇな。腕も思ったより大きく振ってる。顎を引いて、猫背にならないようにしねぇと‥‥‥それにしてもあいつ、ムカつくな)

 

 アタシは足を組んで机に膝をつく面接官の男に相当苛ついていた。モデルによっては顔を上げずに自身の髭を弄っていることもあるし、ウォーキングの途中で見てもいないのに「もう良いよ」なんて言い放った事もあった。手元の資料には一応目を通しながら時たまに顔を上げる時もあるが、身長の低いモデルに対しては露骨に態度が悪く、中には涙を流し今も目を赤く腫らしている人もいる。全員本当にレベルが高くて、恐らくレッスンなどのトレーニングで必死に努力してきた人ばかりだという事は初心者のアタシにも理解でき、尚更その態度は気に食わなかった。

 そろそろアタシの番というところで隣の金髪で長身のモデルが、こちらを咎めるような鋭い目つきで見ていることに気がついた。野犬のようなにこちらを威嚇する目は、前に一度事務所内で向けられた事があった。


(事務所の先輩か‥‥‥でもこいつ、むっちゃ美人)


 アタシはその先輩が前に出るのを見ながら、正直な心のうちを吐露しそうになる。それくらい容姿は整っていて、スタイルも良かった。ウォーキングを開始するとその暴力的ともいえる魅力は更に際立ち、堂々とした立ち振る舞いはまるで自分の美を周りに押し付けるかのようだった。その切れ長の瞳や、とても細く、しかし折れそうとは感じさせない芯がしっかりとある美脚は、彼女の放つ威圧感や強気なオーラを完璧なものとしていた。面接官の偉そうな男もその仏頂面をアタシ達に晒し、じっと彼女を見つめていた。


「もう一回、やります?」


「いや、もう結構だよ」


 初めて男が口を開いて返答した事で周りのモデル達の空気はピリつき、先輩は飄々とこちらの列に戻ってきた。そしてチラリとアタシの方を見ると、その不動だった口角を僅かに上げ、勝ち誇ったような顔をつくった。

 アタシは続いて前に出るが、一番凄かった先輩の後という凄まじいプレッシャーが腹の底から湧き上がり、血液に混じったそれは酸素と共に身体中へと運搬された。


「ゆ、弓月海。クールプロダクション所属です」


「ぷっ」


 少し吃ってしまい、先輩を含めた数人から堪えるような笑い声が聞こえた。アタシは顔が熱を帯びるのを感じると共に、身体が金縛りにあったように硬直してしまった。まるで世界中全員に笑われているかのような気分になり、怪訝そうな顔をする面接官の前から今すぐ逃げ出したくなった。


(くそッ!怖いッ!‥‥‥最悪だ‥‥‥)

 

 顔は自然と下を向き、左手首のミサンガが視界の隅に映った。それは大分薄くなったリストカットを違和感なく隠すためと楓が渡してきた、アタシの名前である海と同じ、濃い青色をしていた。


(‥‥‥最悪、じゃないだろ。馬鹿かアタシ。‥‥‥まあ本当に馬鹿ではあるけど)


 息を吸い肺を限界まで膨らました後、胸を支配していた黒いモヤと一緒に吐き出す。


(最悪なのは、心が死ぬ事だ。‥‥‥具体的じゃねぇな。アタシはここで尻尾巻いて逃げ出して、あいつに幻滅される事が、何より恐ろしいんだ。それに言われたばっかじゃねぇか、自由だって)


 アタシは結局他のモデルよりゆっくりと時間をかけ、柱から歩き始めた。脳裏には先程の先輩の姿を思い浮かべる。


(アタシもあのカッコいい感じがいい。‥‥喰らってやる、アタシの邪魔をする奴は全部ッ!!)


 腹と肩甲骨に力を入れ、足を踵から地面に突き刺すように機敏に、それでいて周りの目を少しでも長くアタシに焼き付けるかのようにゆっくりと歩く。あの偉そうな男を、まるで睨みつけるかのように残酷で無情な瞳で見つめ、その視線と体幹は一切ぶらさない。やがて向こう側の柱まで到達すると、足を少し開き時が止まったかのように静止すると、まるでここから先はお預けだと言うように、くるりと踵を返して背を向けた。今度は先輩へと視線を向けて歩き、やがて柱まで帰ってきて振り返った。


「もう一回、やります?」


「‥‥‥じゃあ、お願いしようかな」


 いつの間にか両足を地面につけ顔を上げていた面接官の男は、微かに微笑を漂わせた気がした。












「何ジロジロ見てんの?‥‥‥弓月、だっけ?最近、調子乗ってない?」


「は?何言って——」


「それな〜。ぶっちゃけさ〜、その鼻とか整形っしょ〜?必死すぎて引くわ〜」


「てかあの土井さんがあんな撮るなんて有り得ないっしょ。もしかして‥‥‥ヤったの?」


「あははっ!!絶対そうじゃん!!いかにもビッチぽいし〜」


 あのオーディションから一週間後、アタシは事務所の女子トイレで、先輩三人に囲まれていた。新人にして有名なショーのトリに抜擢されてしまったアタシには当然、良い意味と悪い意味の両方で注目が集まった。今日も土井さんと呼ばれる仏頂面でロン毛のカメラマンに数多のモデルの中から指名され、抽象的で難解なポージングの指示を出された挙句、最後には服を脱がされそうにまでなった。嫌々それに従い撮影を終え後からメイクの美浦さんに尋ねてみれば、土井さんは世界的に有名なカメラマンで、素質のあるモデルしか撮る事がないらしい。しかも撮られたモデルは必ず売れると言われていて、それを目標にするモデルもいるらしいとの事だった。その事実を知った時には既に遅く、無知ゆえのアタシの嫌々な態度に、他のモデル達は新人のくせに生意気だと癇に障ったようで、廊下で足を引っ掛けられたり、カバンが荒らされていたり、嫌味をわざと聞こえるように言ったり、アタシが喋りかけてもシカトしたりと、完全に他のモデルから目の敵にされ、孤立してしまっていた。それに加え以前よりハードな生活となった事で、アタシは山のようなストレスを溜め込んでいた。


「‥‥‥」


「ぶははッ!!美咲〜、こいつ泣きそうじゃん〜!あ〜あ、酷いこと言うから〜」


「え〜!ごめんね〜?よしよし〜」


 オーディションにいた美咲と呼ばれた金髪のモデルは、黙りこくるアタシの頭を撫でつけた。その手の良く手入れされた艶のあるネイルが頭皮に食い込み、髪はぐちゃぐちゃにかき混ぜられ鳥の巣のように不恰好に絡まる。


「離せッ!!」


「きゃっ!?」


 急速に頭に血が登ると共にほぼ無意識で身体が動き、美咲の白く細い腕を振り払うと、その顎を片手で掴んだ。そのままその柔そうな頭蓋骨を正面にある鏡に激突させて粉々にするイメージを脳内に描き、それを忠実に再現しようとしたところでふと我に返る。


(クソッ!何やってんだアタシ‥‥‥。駄目だ‥‥‥しんどすぎて、何も考えられねぇ)


「美咲ちゃんッ!!大丈夫ッ!?」


「あんた本当最低ッ!!言いつけてやるからッ!!美咲ッ!!もう行こッ!!」


「暴力はないでしょ〜、事務所の皆んなに気をつけて〜って言っとかないと〜」


 先輩がトイレから出て行ったところでアタシは個室へと駆け込み、清潔感の保たれた真っ白な便器に顔を近づけ、激しくえずいた。吐きたいのに胃は空っぽで、それでも良いから自分を構成する全てを吐き出して、そのまま死んでしまいたかった。


「海ちゃん!?」


「‥‥‥美浦、さん?」


 個室に入ってきた美浦さんの、花のような匂いの胸に抱きしめられる。美浦さんは何も聞かずにしばらくの間アタシの髪を優しく撫で、耳元で「大変だったね」だとか「頑張ったね」といった慰めの言葉をアタシにかけてきた。その様はまるで泣きじゃくる赤子をあやす母親であり、アタシはこの歳にして初めて母性をこの身に受けた。


「私は今までストレスでおかしくなったり、挫折して辞めてしまったモデルを何人も見てきたけどね、その全員に共通して言える事は、考えすぎだってことよ」


「‥‥‥」


「もっと美しく、あの子みたいに綺麗になりたいってね。美への執着っていう言葉では足りないくらいの、ある意味狂気じみたその願いはね、いつもある存在に粉々に打ち砕かれちゃうの。‥‥‥どういう存在か、分かる?」


 美浦さんは右手をアタシの左頬に優しく添え、こちらを慈愛と憂いの両方を帯びた、不思議な眼差しで見つめた。


「海ちゃんみたいな、天才よ」


「‥‥‥アタシが、天才?」


「ええ。流石に自覚はある筈よ。今まで沢山の男がわらわらと寄ってきたでしょ?モデル業だって面白いくらいトントン拍子で成り上がって、エリート街道まっしぐらじゃない。でもそうなろうと他人より努力してきた訳じゃないわよね?」


「‥‥そうっすね」


「別に悪い訳じゃないわ。才能は有るに越した事はないから。あなたには権利が有るのよ?数多の才能に恵まれなかった凡夫共を高い場所から見下ろす、最高の権利がね」


「‥‥そんなの、要らない」


「そう。‥‥海ちゃんは、そのままでいてね‥‥‥よしッ!こんな難しい話はここまでにして、パーっとやりに行こ?」


「え?」










 最近では珍しいネオンサインの看板から中に入ると、クラブミュージックの反響する仄暗い空間が広がっていた。弾力のあるソファには華美なドレスに身を包み、今や高級品となった紙タバコを灰皿に押し付ける長身の美女が座っていて、隣には小動物じみた美少年が、その軽そうな体を女に全て預けるようにもたれかかっていた。


「あなた、名前は?」


「‥‥‥弓月海」


「あら、誰かと思えば、噂のスーパールーキーじゃない。パーティーは初めて?」


「まあ、はい」


「そう。‥‥‥湊ッ!」


 そう美女が声を張り上げると、派手に着飾った女達がまるで魚群のように密集している所から、一人の青年がひょこっと顔を出した。女達からの熱烈な視線や引き止めようとする猫撫で声には我関せずといった様子でこちらまで悠々と歩いてきた青年は、どこかで見た事のあるような気がする、ハーフ顔の美男子だった。


「はいはいっと。姉さん、どうしたの?」


「ほら、この子、あんたの事務所で今話題沸騰中のモデル」


「‥‥‥お〜。流石姉さん、俺の好みがよく分かってる。ねぇ君、あっちで話さない?お酒奢るよ?」


「いや、遠慮しとく」


「‥‥へ!?」


「‥‥ぷっ、あははッ!!こりゃ傑作だね!」


 その均整のとれた顔を間抜けに歪めた男とそれを馬鹿にするように笑い転げる女にアタシは何が何だか分からなくなって、慌てて周りを見回して戦慄した。グラスを手に談笑していたはずの女達は、その血のように赤い口紅が塗りたくられた唇を極限まで歪め、まるで親の仇かのような形相でアタシを睨んでいた。


「あはははっ!!‥‥ふぅ。その反応、あの事務所にいて弟の事知らないのか」


「どちら様?偉い人?」


「ぐふッ!?こ、こんなの初めてだよ!!一応俺、相当な有名人だけどね!?俳優の橘奏!映画とかバラエティとかCMとか出まくってるよ!?君の事務所のエースだよッ、エースッ!!」


「テレビ、見ないし‥‥」


 アタシは目の前で狼狽えている橘奏をよそに、現在進行形でモデルや俳優で構成された衆目に晒され、今日までの比じゃないくらいの嫌がらせを受ける未来を想像し、目眩がする程に憂鬱だった。いつもならここで投げやりに、後先考えず帰る所だが、今日に限ってはそうはいかなかった。


(美浦さんに迷惑かけたくねぇ。‥‥‥もうかけてるか、本当駄目だな、アタシ)


 数時間前、美浦さんがパーティーへの参加を取り計らってくれている所を目撃し、アタシは何故そこまでしてくれるのかと気になり、質問した。その問いに美浦さんは、少し言い淀んだ後はにかんで、三年前に病気で死んでしまった自らの娘によく似ているのだと答えてくれた。どんなつもりでそれを明かしたのかは分からないが、アタシがこの業界に馴染めるようにという優しさと、娘とアタシを重ねているようなその期待やら悲しみやらを内包した視線は、逆にアタシ自身を縛る重圧となっていた。


「おーい、聞いてる?名前、教えてよ。‥‥‥ってちょっとッ!?」


 胸に蓄積する感情の黒煙はぐるぐると渦巻き、耳には周囲がアタシを糾弾し嘲笑う、幻聴かどうかすら定かではない声が響き渡る。途端に貧血に似た立ちくらみがして、フラフラと背中から床に倒れこむ。そこで走馬灯のように感覚が延長され、今にも床に頭をぶつけそうだというのに、色々と余計な思考をする余裕が生まれた。


(‥‥‥折角オーディション受かったのになぁ‥‥何て言うかな‥‥美浦さん‥‥それに)


「‥‥‥楓」


「何?」


 アタシの身体は冷たい床ではなく、温かい何かに衝突した。顔を上げると、見知った顔がこちらを不思議そうに覗き込んでいた。


「急に倒れるなんてまさか‥‥‥そんなにお腹すいてるのか?弁当渡しただろ?」


「‥‥‥ちげぇよ。バカ」


「良かった、大丈夫そうだな」


 楓の登場にパーティー会場はざわついた。その原因はアタシを支える楓がとても絵になっている事であり、更にはこれほどのイケメンがこの業界で無名だったのかという見当違いな驚愕だった。


「もう帰る?」


「‥‥‥うん」


「ちょっと待て」


 帰ろうとするアタシ達を、先程まで呆気に取られていた橘奏が制止する。


「お前、誰だ?招待した覚えはないぞ」


「ん?‥‥‥橘奏ッ!?すげぇ、本物だ‥‥」


「そうそう、これが本来のリアクションだよ‥‥‥じゃなくてッ!どこの事務所所属だお前ッ!!」


「あ‥‥‥やばい」


 そう言った楓の視線の先には警備員と思われる男が二人、険しい表情でパーティーの参加者に何やら聞き込みをしていた。楓は下手な口笛を吹きながらアタシの手を取り、入り口に向かってゆっくりと歩き出した。


「おい。‥‥最後に聞かせろ」


「‥‥‥何でしょう」


「その子、弓月海とお前は、どんな関係なんだ」


「‥‥‥家族、ですけど」


「そうか。それは良かった。もう行っていいぞ」

 

 そう表情一つ変えずに答えた楓に、アタシの胸は何故か、キリキリと痛んだ。

 


 何とか会場を抜け出し、疲れているだろうと言って楓はタクシーを呼んでくれた。それを待つ間、アタシをベンチに残して、楓は蛍光灯に照らされた自販機に行き、飛び交う虫を手で払いながらフルーツジュースとホットコーヒーを購入して帰ってきた。


「ほら。‥‥‥どうした?」


「‥‥‥あんたはさ」


「うん?」


「アタシがもし、この見た目じゃなかったらさ。今日みたいに助けてくれた?毎日ご飯、作ってくれた?」


「‥‥‥内面が好きだからって言いたいところだけど、家族に嘘は吐きたくないしな‥‥‥正直言うと、俺にも分からない。初めて弓月を見た時、本物の天使かと思ったんだ。こんなクソみたいな世界から俺を連れ出してくれる、天使なんじゃないかって」


「‥‥‥あんたはアタシをどう——、何言ってんだろ。やっぱ無し、今のは忘れて」


(アタシを、家族だって言って、一緒にいてくれる楓にこれ以上求めるのは、贅沢だ。このままでいい、このままで‥‥‥)


「‥‥弓月は、全体的にだらしないし、暴言吐くし、情緒不安定だし、テストは赤点だし、全然天使じゃなかったよ」


「ッ!!悪かったなッ!!あんたの天使じゃなくてッ!!」


「でも‥‥、こんな俺と、一緒にいてくれてる。容姿だとか性格だとか、そんな事は正直どうでもいいんだ。あの時あの場所で出会って、今も頼ってくれて、側にいてくれる弓月が——」


「‥‥‥が?」


「‥‥‥タクシー来たから行くぞ」


「‥‥‥何それッ!?無茶苦茶気になるッ!!何て言おうとしたのッ!?ねぇッ!!」


 そう文句を言いながらも差し伸べられた手をしっかりと掴んだアタシは、楓と共にタクシーへと乗り込んだ。これ以上は望まないと決めたはずなのに、ホットコーヒーの温かさの残る楓の大きくてゴツゴツした手を、どうしても離すことは出来なかった。

 

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