第5.5話

——七年前



 照りつける日差しの元、蝉の喧しい音をバックミュージックに真っ赤な自転車をギアをいじりながらひたすら漕いだ。田んぼの泥と何かを混ぜたような青臭さを置き去りにして向かったのは、いつも遊んでいる公園だった。その公園は砂のグラウンドと屋根のついた石畳のエリアがあり、俺は集合時間を過ぎてしまっていることを中央に聳え立つ時計で確認し、慌てて既に形成されていた人だかりに飛び込んだ。


「楓ッ!遅いぞッ!」


「ごめんッ!今どこまで進んだ!?」


「まだ龍之介と悠ちゃんが準決勝やってる!」


 俺が人だかりの中心を見ると、地面に膝をついた二人の小学生が、トレーディングカードを手に持ち向き合っていた。互いのTシャツには汗が滲み、白熱した試合が行われていることを俺は感じ取った。


「よっしゃーッ!!」


 やがて試合に勝利したのかショートカットの少女がガッツポーズをした。試合に負けたらしい同じクラスの龍之介は頭を抱えて悔しそうにしていた。


「悠ちゃんッ!勝ったの!?」


「あ!楓!決勝はお前だろ!!絶対負けないからな!!」


「うん!俺も最強デッキ作ってきたから!」


 俺はそうは言いつつも勝つ気など毛頭無かった。何故なら今日は悠ちゃんが転校するため、俺が主催で開いたお別れ会であり、子供ながら花を持たせよういう考えに至ったからだ。


「よし、じゃあ決勝戦だ!」


 俺と悠ちゃんは試合が始まると一進一退の攻防を繰り広げた。そして終盤になって、俺達の間では最強だと言われていた黄金に輝く鳥のカードが手札にきた。それをフィールドに出せば、一気に有利な状況になると分かっていたが、俺はそれをサッと他のカードの裏に隠した。ふと顔を上げると、悠ちゃんのちょっと鋭くて、でもどこか安心できる優しさを備えた目が、俺をじっと見つめていた。


「楓!本気で来い!」


「ッ!?」


 俺は嘘のつけない性分ですぐ顔に出るが、これは悠ちゃんの察しの良さ、他人の心情を慮る力が凄いというべきだろう。負い目やら罪悪感やらが俺の心を蝕み、そして遂に自らの恩人に、親友に敬意を示そうと決心した。


「黄金の鳥ピースを召喚!」


「「「おおッ!」」」


「悠ちゃんのモンスターに攻撃!」


「‥‥‥楓、やっぱり強いね。僕の負けだよ」


「「「すげー!」」」 


 友達からの賞賛を受けた俺はその後、友達みんなで賑やかにサッカーをして、遂に悠ちゃんとの別れが近づいてきた。空はトンボみたいに赤く染まり、いつもは朗らかな印象のその色は、今日ばかりは俺に哀愁を感じさせた。

 ふと隣を歩く悠ちゃんを見て、初めて会った日の事を思い出す。人見知りだった俺は公園に行っても一人で遊んでいて、自分はこれで楽しいんだと、平気なんだと格好つけていた。だけど本当は、みんなと一緒に遊びたかった。そんな時、悠ちゃんが俺に「君も一緒にやろうよ」と声をかけてくれた。俺にとっては悠ちゃんは女の子だけどヒーローで、憧れで、一番同じ時を過ごした親友だった。


「悠ちゃん!俺ちょっと用事ができた!」


「え?」


 もうすぐ悠ちゃんは車で遠くに行ってしまうというのに、俺は居ても立っても居られなくなってその場から駆け出した。公園に戻って一番大きな網を持ってドブで獲物を探した。しかし、ドジョウやザリガニや小さなカニでは到底満足する事は出来なかった。有り余る体力と勇気で立ち入り禁止のエリアに侵入し、俺の身長の三倍ほどの深さのダムのような場所に滑り落ちた。足が汚水と藻に浸る感覚も気にはならず、悠ちゃんが昔案内してくれたエリアへと辿り着いた。そこで懸命に目を凝らし、生き物の痕跡である水飛沫を捉えた。


「おりゃ!!!」


 網を水中に突っ込むと中に獲物が入った事が感覚で分かったが、それは物凄い重量で、とても持ち上げることは出来なかった。それでも踏ん張っていると網が悲鳴をあげ始め、遂には持ち手が折れてしまった。


「嫌だッ!!絶対取る!!」


 俺は持ち手を捨て手足に擦り傷を大量に作りながら網に覆いかぶさった。そしてその巨体に全身で抱きつくようにして捕まえた。そしてそれを大きな水槽に入れ、水を道に溢しながら裸足で力の限り走った。


「悠〜、もう行くわよ〜」


「う、うん」


 車に乗り込んだ悠ちゃんが遠目に見え、喉を枯らすほどの大声で叫ぶ。


「悠ちゃーん!!!」


「え?楓!?」


 既に発車して信号待ちをしていた車のミラーが開き、悠ちゃんが顔を出した。俺は持っている水槽から、ヌメヌメした巨大ナマズを懸命に持ち上げた。

 

「悠ちゃんが教えてくれた池のヌシ!!取ったよ!!」


「楓ッ!!」


「俺!絶対に悠ちゃんの事忘れないからッ!!」


「うん!!僕も忘れないよ!!」


「サッカーも続けろよッ!!」


「うんッ!!当たり前だろッ!!」


 俺達は瞳に涙を浮かべながら最後の会話をした。やがて信号が青になり、俺は最後の曲がり角まで走りながら声を振り絞った。


「悠ちゃんッ!!俺達いつまでも、親友だぞッ!!」


「うんッ!!」











 俺は懐かしく濃厚な夢から覚め、顔を洗って学校の準備を始めようとして、今日が土曜日だった事を思い出した。頭に巻いてある包帯に隠れた傷を抑えながら食パンを焼き、その間に古着屋で買った小洒落た服に着替えると、肩掛けバックに最小限の物を詰め込んで、永らく買い換えていない汚れが目立つ、だが逆に良いアクセントになっているとも思えるスニーカーを履く。ドアを開け、すぐ隣の部屋に入り、中に向けて大きめの声を出す。


「弓月!今日の予定は?」


「何でお前に言わなきゃいけないんだよ!」


「そっか。友達、美雨ちゃん以外にいないもんな。ごめんな」


「憐れむな!殺すぞ!」


「そんな言葉遣いしたらダメ!パンはここに置いとくからね!ちゃんと昼も食べてね!」


 あくまで否定はしない寝起きで気の立っている様子の弓月に別れを告げ、俺は駅に向かって歩き出した。駅に着くとエスカレーターと薄墨色の階段を天秤にかけ、結果階段を駆け上がって改札に続く長い道で首を振る。


「あ!いたいた。すみません、遅れてしまって」


「だ、大丈夫です」


 そこには地味なカーディガンに身を包んだ美雨の母親、若山栞がいた。昨日コネクトで簡単なやりとりを行い、その結果早速バイトに出掛ける運びとなった。二人でホームまで行き、電車を待つ間に隣で落ち着かない様子の若山栞に話しかける。


「それにしても栞さんは本当に凄いですね。俺ならあんな事があった次の日にここまでの勇気と行動力は持てないですよ。それもあんなに酷い事を言ってしまった俺と会うなんて」


「い、いや、そんな事ないです。私が全部悪いんです」


「そんな事ないですよ。栞さんは真面目すぎるんです。肩の力を抜いてください、この世は一見複雑そうで、実はとても単純なんですから」


「わ、分かりました」


「こんなガキの言う事を素直に吸収できる栞さんは優秀ですね」


 俺は思ってもない事をスラスラ捲し立てながら、人当たりの良い笑みを浮かべる。昨日、若山栞に鞭を打ち、今日は甘ったるい飴を腹一杯食べさせることで、俺と彼女との間で上下関係を確立させる事が目的だった。電車が到着し吊革を命綱かのようにしっかりと握りしめて待ち、四駅目で降りる。駅から徒歩で五分ほどの位置にあるスーパーに辿り着き、若山栞を店長のもとに連れて行った後、品出しを開始した。冷凍食品の前出しで悴んだ手を気にしながらも単純作業に没頭していると、いつの間にか昼を回っていた。

 周りに挨拶してスーパーを出るとスマホを取り出し、アプリ欄から「新・なんでも屋」を起動した。姦しい音楽が流れ利用規約が表示された後、画面には自分のアバターである鬱金色の太った鳥が表示された。


「メールが届いています」


 抑揚に乏しい無機質な音声を聞きメールボックスを開くと、漆黒の羽色を持ったカラスのアバターが依頼書を咥えていた。


(先着順タイプの依頼‥‥‥大事なのは成功報酬っと‥‥‥一、十、百‥‥‥‥は!?ご、五百万!?肝心の依頼内容は‥‥‥ある人物を捕縛してこちらに引き渡すこと、か。これは怪しいなんてもんじゃないな)

 

 この「新・何でも屋」アプリは海外の凄腕ハッカーが運営しているアプリで、ユーザーは依頼人と請負人の形で、請負人は現実世界で仕事をこなすと報酬を仮想通貨として手に入れる事が出来るというもので、海外の多くの国では使用は禁止されている。それは名前に「新」がついていることから分かるように、十年前にリリースされた初代「何でも屋」アプリはユーザーの詐欺罪や業務上横領罪等々での逮捕が相次ぐなど、正に闇バイトとも言える依頼が蔓延しており、多数の悲劇を生んだ。「何でも屋」は結局各国の政府の圧力によって姿を消したが、運営メンバーは三人が捕まったのみで他の多数のメンバーの行方は今も捜索中とのことだった。


(怪しいけど‥‥‥信頼度はCか。俺の信頼度とプロフィールを見て、その上で指名依頼を出したんだ。‥‥‥受けるか)


 信頼度はユーザーのアバターである鳥についている首輪に表示されており、最高がAで最低がGのアルファベット順で評価してある。依頼主と請負人で信頼度はそれぞれあり、今回の場合依頼主は十件以上の依頼を出し、その全てで提示した請負人に支払っている。更に先着順タイプの依頼の為、俺だけではなく複数の請負人を募って早い者勝ちの形をとっているため、途中で抜けたとしてもペナルティは少ない。そんな利点を頭の中で列挙していくが、結局は五百万という大金の魔力に抗うことが出来ていないだけの俺は、その依頼を受ける事にした。










 訪れたことのない巨大な駅で交錯する人の波を掻い潜りながら目的の場所へと歩く。

 

(俳優の橘湊の顔が写った映画のホログラム‥‥‥あれか)


 そこには想像していたより寄りで撮られた、気迫のこもった表情の橘湊のホログラムが映し出されており、俺は目新しさから来る好奇心からゆっくりとそれに近づいていくと、不意に背後から肩を叩かれた。

 

「振り向かずに聞けや」


「もしかして、依頼人の名無しさん?」


「黙っとれ。‥‥まだガキやないか、ちゃんとやれんのか?あ?」


「‥‥‥」


「なんとか言わんかいッ!」


「あんたが黙ってろって言ったから」


「うるさいわッ!‥‥‥なんやったけか、ああ、思い出した。これ持って駅のロッカー行け。ヘマすんなよ、ガキ」


 俺が後ろ向きで開いた手に少しの温もりを纏った鍵が手渡され、手間取りながらそれを受け取りしばらくして振り向いた時には背後には誰もおらず、どこまでも続くこの人混みでは先程の人物を特定する事は困難だった。


(念のため保険は掛けておいたけど、今のは依頼人じゃないな。知り合いかもしくは、俺以外にも「新・何でも屋」で雇ったか‥‥‥それにしても本当の依頼人は、随分と回りくどいな)


 俺は訝しみつつも駅のロッカーを探し出し、対応する番号のロッカーの鍵穴に鍵を押し込んだ。ギィという耳障りな音がしてロッカーが開き、中には三枚ほどの写真と一枚のメモと「参加者証明」と書かれた謎の高級感のある独特な肌触りをしたカードが入っていた。それらの写真は様々な角度から同一人物が撮られているもので、メモには丸っこい字で依頼人の電話番号、写真の人物の名前と最終目撃地点、住所などが詳細に記されていた。またカードは目的の人物を受け渡す際に提出するようにとの事だった。最初は黙々と情報をインプットしていた俺は、徐々に全身の筋肉が弛緩していくような感覚と共に、自分の天運を呪った。


(‥‥‥そんな、馬鹿な)









 肺が焼き切れそうなほど苦しく、しばらくするとまともな思考すら出来ないくらい全身の感覚が麻痺し始めた。それでも私は本能的な恐怖から足を動かし、額から目に入らんとする忌々しい汗を雑に拭いさると、固いコンクリートの階段を駆け上る。


「はぁ、はぁ‥‥」


「おいッ!!逃げんなやッ!!」


 こうして誰かに追いかけられ必死に逃げるというのは、ただ毎日が楽しかった小学生時代の鬼ごっこ以来の事でふと郷愁を覚えそうになったが、今は文字通り絶体絶命の状況である事を思い出す。しかし何の偶然かあの時と同じで追いかけっこの舞台はマンションであった。


「どこ行きやがったッ!?」


 駆け込んだマンションの駐車場で自動車の後ろに身を潜めて、ガラの悪そうな追手の男の様子を窺いながら、暴れ回る心臓の鼓動を鎮めようと努める。男はその場でしゃがみ込んで車体の裏を順に覗き込んでいき、それはどんどんこちらに近づいてきていた。私はゆっくりと狭い車体の間を抜けて何とか男を撒いたと思った次の瞬間、下の階へと続く坂を歩いていた別の男と目があった。次の瞬間、私は手足をみっともなくばたつかせながら、来た道を全力で逆走した。


(マンションの住民ならあんな場所にいるわけないッ!!一体何人いるの!?)


 案の定後ろからは先程の男が迫ってきており、女子の中では足の速い私であっても、スピードの差は歴然だった。更に逆走してきたため当たり前ではあるが、車体の裏を探していた男もその先にはいる訳で、私は二人の追手に挟み込まれる形になった。私は行き場を失い後ずさると、駐車場の端の壁にぶつかった。そこからは遥かに遠い地面が覗いており、自己防衛感が全身を駆け巡りぞっと背筋が凍りつくが、血走った目で今にも殺されそうな勢いで追手が目の前に迫っていた。


「あッ!?」


「おいッ!!」


 私は身を翻し、目を瞑って三階の駐車場から飛び降りた。希望的観測という名の妄想の中での私は鮮やかな受け身をとっていたのだが、実際は暗澹とする他ない浮遊感と空気抵抗に押し潰されそうになり、恐怖を感じるいとまもなく私の脚は地面に衝突した。


「ああああッッ!!!痛いッ!!うああ、ああッ!!」


 私は絶叫しながら燃えたように熱い左足首を押さえつける。だが左脚はまだマシな方で、右脚は骨折したのか動かす事も出来ず遅れて身体中が痙攣するほど死を意識させる痛みが私を襲った。


「ああッ!!痛いぃッッ!!誰かッ!!」


 芋虫のように地べたを這いずりながら顔を上げると、一人の少女と目が合った。親に買ってもらったのか溶け始めているアイスクリームを手にぎゅっと握りしめ、こちらをその無垢な瞳で不思議そうに眺めていた。


「なに、してるの?」


「た、助けてッ!!救急車ッ、よんでッ!!」


「あははッ、面白い!」


 私が必死にもがく様が面白かったのか少女はその小さな口でアイスクリームを食べながら、こちらを見下ろしてクスクスと笑った。


(‥‥‥そうだよ。こんなに醜くてどうしようもない私を、誰かが助けてくれるはずがないじゃないか。‥‥‥私は一体、何から、何のために逃げているんだっけ?)


 そこで私の人生という映画のエンドロールが、脳内で一人でに再生され始めた。まさしく走馬灯と言っていいそれの一コマ目は高校への入学を控えたある日の事だった。ただ何の信念も情熱もなく、ただ機械的に受験勉強する日々が終わり、私を待っていたのは妙に痛痒い胸の痛みだった。後に肺気胸だと分かるそれの痛みから、私は入学式の日には一人でベットに横たわっていた。そこで私は、何のために生きているのか、分からなくなった。自らの人生に付随する全ての事柄が起こる理由を、ただ知りたかった。

 そこから私は学校を辞め、家を出て、そしてどこまでも落ちぶれていった。時たまに襲いかかる後悔や寂しさは、無理矢理頭の隅へと追いやった。そして場面はクライマックスへと移る。

 そこには素裸で布団の上に寝そべる私と、その脇でガウンタイプの白いパジャマに身を包み電子タバコを気持ちよさように吸っている男がいた。この男とは少し前にナンパされて以来の、身体だけの関係であり、私はその日も青白いスマホの光を顔いっぱいに浴びながら、男の掠れた低い声に少し耳を傾けていた。


『なぁ。俺、やっちゃったんだ』


『ん〜、何を?』


『人を、殺しちゃったんだよ』


『‥‥‥何それ』


『‥‥冗談だって、そんな目で見んなよ。ところでお前さ、よくお金が無いって言ってるじゃん、‥‥これ、お前にやるよ』


『え?どうしたのそれ?』


『言ったろ?デッカい仕事があるって。俺お前の事本気だからよ、受け取ってくれ』


 見た事のない大金を手にした私は、大して興味もなかった高級バックや服を衝動的に買い漁り、友達とも言えない連中にご飯を奢ったりした。そこでふと全く連絡を寄越さない男の事を思い出し、久しぶりに抱かれてやるかと男の家に行くと、スーツを着た強面の男達が物凄い剣幕で話し合っていた。


『あったか?』


『ねぇよ。しかもわざとパクられやがったなあの野郎。この落とし前はきっちりつけさしたるぞ』


 私は怖くなってその場から逃げ、太陽の照りつける真昼の公園でスマホを食い入るように見つめた。


『本日未明、警察は指定暴力団組員殺害事件で、割出町のホテルに宿泊中だった自称会社員の松田楓容疑者を逮捕しました。容疑者は強盗目的で被害者宅に押し入り現金五千万相当を盗みだし、寝室にいた被害者の首を絞め殺害したと見られ‥‥‥』


 全身の血の気が引いていき、あの時の話が本当だったとか、あの大金の出どころだとか、色んな事が頭の中で錯綜し、私はお得意の現実逃避へと走った。ただそれは未来の自分の首を絞めているだけであり、数日後私がアパートに帰り照明をつけると、部屋の中は何者かに荒らされていた。それに気づいた時には背後から伸びてきた腕に口を塞がれ拘束された後、スーツの男達に取り囲まれた。

 

『金は?どこにやった?』


『ひ、引き出しに』


『‥‥‥おいッ!!全然足りねぇじゃねぇかッ!!舐めてんのかッ!!』


『つ、使ったのは、百万円、くらいです』


『‥‥‥指輪は?お前はどこまで知った?』


『わ、分かりません、何も、知らない』


『嘘つけッ!!』


『うッ!?』


 腹を蹴られその酷烈な激痛に意識が飛びそうになる。目の中で明滅する光の奥では、男達が私の処遇を話し合っていた。その候補は、ただ殺すか、犯してから殺すかという二択であった。私の身体を恐れと生存意欲が突き動かし、立ち上がって入り口の男の顔面に玄関にあった虫除けスプレーを噴射するとドアを外側から閉め、靴も履かずに脱兎の如く逃げ出した。辛うじてポケットに入っていた財布でタクシーを捕まえ、その場からは逃げる事が出来た。とにかく遠くに逃げた私だが、数日後には新たな追手に追われ、泊まっていたホテルに隣接するマンションに逃げ込んだところで意識は強引に現実へと引き戻された。


「そうです‥‥‥足りない?はぁ‥‥‥お願いしますよ。‥‥‥それは‥‥大切な人だから‥‥」


「?」


 何やら会話が私の倒れるすぐ横で行われた後、足音が近づいてきて私の鼓動もそれに合わせて速くなる。


「みーつけた」


 その直後私の身体は地面から離れ、目の前には筋肉質な硬くゴツゴツした大きな背中と男の包帯が巻かれた後頭部があった。先程の追手とは背丈や声質が異なり、私は何がどうなっているのか分からなかった。


「あ、もしもし。例の女を捕まえました。‥‥‥ユーザー名は『Peace』です。‥‥‥駐車場の入り口ですね?‥‥‥分かりました」


「‥‥‥やめて‥‥どこに‥‥行くの?‥‥‥あなたは‥‥誰?」


「ん?そりゃ勿論、君に懸賞金まで懸けて、血眼になって探している依頼人のところだよ」


「‥‥‥い、いやッ!!やめてッ!‥‥殺されるッ!」


「‥‥‥関係、ないね。俺は金が手に入ればそれでいいんだ」


 少し歩くと、包帯の男は私を背中から下ろして私の顔に布のようなもので目隠しをつけ、縄で私を後ろ手に縛った。しかしその目隠しは雑につけられたのか隙間が少しだけあり、そこから薄らと私の座らされている駐車場の鼠色のコンクリートを見る事ができた。しかし、その隙間からは希望は一切見えず、私の生温い涙がひたすらすり抜けていくだけだった。


(‥‥‥私、こんなに生きたかったんだ。‥‥‥死にたい、なんて勝手に勘違いしてた。‥‥‥最後まで馬鹿だな、私)


 その後悔はあまりにも遅く、狭い視界には黒塗りのワンボックスカーと思われる車が現れ、そのドアを勢いよく開け降りてきたのは、以前私のアパートを襲撃したスーツ姿の男の一人だった。その男は私を担ぎあげると車のセカンドシートに手荒く放り込んだ。


「おい!お前はカードを提出して降りろ」


「そういう訳にはいかないですよ。ちゃんと振り込まれるか確認する権利が俺にはありますからね」


「あん?ペナルティがあるのに払わねぇ訳ないだろッ!!馬鹿にしてんのか!!」


「別に良いじゃないですか。俺も暇なんですよ。カードはほら、ちゃんと提出しますし」


「こいつッ!!」


「おい、やめとけ。そんなもんで殴ったら殺しちまうだろ。別に構わない、大きな支障はないからな。それに逆に良かったかもしれん。ガキ、だからな」


「ちッ!そうですかい。分かりましたよ」


 耳をつんざくエンジン音と共に車は走り出した。忙しなく揺れるシートに頭をぶつけながら恐怖と絶望に震えていると、約二十分間のドライブは終了し私の身体は宙に浮いた後突然投げ出され、地面に散財した砂利が私を突き刺し呻き声を自然と吐き出す。衝撃で目隠しが外れ、ここが巨大な倉庫のような場所だと分かった。


「おいこら、顔上げんかい」


 私がそのドスの効いた声に反応を見せないと、髪を引っ張られ強引に顔を上げさせられた。その人物はブラウンのチノパンに白いシンプルな長袖シャツの袖を捲っており、そこから少し見える肌には刺青が刻まれていた。鋭い眼光でこちらを睨みながら、自身の小麦色に焼けた鼻を指差した。その手には小指の第二関節から先が無く、その事実が私に底無しの恐怖をもたらす。


「よ〜く鼻を研ぎ澄ましてみぃ、潮の匂いがするやろ?嬢ちゃん今からな、海水浴させたるからな?」


「‥‥‥あ、あのッ!!本当に何も知らないんですッ!!松田とは何でもないしッ、足りないお金は働いて返しますッ!!だからッ——」


「おお、えらい元気やなぁ。けど、ごめんな。松田とかいう奴もすぐに、同じ場所に送ったるでな‥‥おいッ!!準備できとんかッ!!」


 そう男が怒鳴ると、先程助手席に座っていた眼鏡の痩せた男が数人を引き連れ、こちらに近づいてきた。その中にはぼろ雑巾のようになって引き摺られている、さっきマンションで私を背負って運んだ包帯の男がいた。


「本当にドラム缶につめるかはさておいて、例のアプリで雇ったこいつを犯人に仕立て上げましょう」


「おお、随分と男前じゃねぇか」


「おいッ!!話が違うぞッ!!規約違反だろうがッ!?」


「ははッ!馬鹿はこれだから困る。いいか?依頼に対しての報酬はたった今支払った。それで取引は終わり、契約は終了したんだよ!その後俺達がお前から金を巻き上げようがぶち殺そうが、規約には何の問題も無い。ガキの職業体験はとっくに終わったんだよ!」


「そんな‥‥‥」


「どっちからやりますか?」


「ん〜、そうやな。お、嬢ちゃん、はよ泳ぎたいって顔しとるな。けどまあ、生き埋めは勘弁したる。お前、あいつの部下っちゅう話やったな?やり方分かるか?」


「勿論です。殺しはあの人に教えてもらいましたんで」


「ははッ、そりゃあ良い」


 丸刈りの男は犀利なサバイバルナイフのようなものをこちらにチラつかせながら近付いてきた。


「やめてッ!!お願いッ!!死にたくないッ!!死にたくないッッ!!!ごめんなさいッ!!殺さないでッ!!嫌ッ!!嫌ッッッ!!!ママッッ!!助けてッ!!!ああッ、いやああああああッ!!!」


 差し迫った死の恐怖に対する私の絶叫は、丸刈りの男にとっては殺しの快感を際立たせるスパイスでしかなかった。そのまま男はナイフを構えニヤつきながら突き出した。


(あ、死ぬ——)


 私は目をぎゅっと閉じ、自己の死をはっきりと悟った。



 








(あれ?‥‥‥刺されて、ない?)


 瞬間、建物の倒壊するような音と複数のエンジン音の交雑した爆音が、私の鼓膜を激しく揺らした。

多数のバイクの喧しい空吹かしが宵闇の空までこだまし、倉庫の薄暗さを喰らい尽くすヘッドライトの群れは、目も開けられないほどだった。

 

「な、何だッ!?」


「なッ!?あれは三島組ッ!?なぜここがッ!?」


「おいッ!!どうなっとるんじゃッ!!!」


 全員が状況を飲み込めず立ち尽くす中、先程無様に引き摺られ、連中に利用されようとしていた男が、服の埃を払いつつ飄々とこちらに歩いてきた。初めて私が見たその素顔は端麗で精悍で、なぜだかとても懐かしかった。


「ほら、背中に掴まって」


「‥‥‥あ、あなたは」


「ちょっと待てッ!!どういう事だッ!?お前が何かしたのかッ!?」


 眼鏡の男がその胸ぐらを掴み捲し立てると、包帯の男がその眼鏡を目掛けて、頭突きを繰り出した。


「がッ!?」


「暴力団で金融工学がどうのこうの言ってインテリぶってそうなお前程度の考えつく事が、俺に分からないはずないだろ?俺は請負人としての責務を果たしたんだ。それならその報酬で別の奴を雇い、元依頼人の情報を漏らそうが、別に良いよな?」


「は、はぁッ!?ちょっと待てッ!!そんな事ッ、お前が利用される未来が分かってないと、絶対に不可能じゃないかッ!!」


「馬鹿かお前。あんな見るからにカタギじゃない男寄越しといて、警戒しない訳ないだろ」


「‥‥だから何だッ!!お前は確かにあのカードに触れていたはずだッ!!あれには特殊フィルムが貼ってあるッ!!お前の指紋は、殺人の凶器に使われることになるんだよッ!!」


「ああ、お前もあれ使ってるみたいだな。俺のカードには、ロッカーの鍵を受け取るときにとった男の指紋を貼り付けといたけど、それは流石に警戒してるよな?」


「なッ!?そ、そんな、あり得ない‥‥‥」


「俺が依頼主ですッ!!報酬は色をつけて送ってありますッ!!やっちゃってくださいッ!!」


 その掛け声でバイクは一斉にこちらに走り出し、唖然としていた私は包帯の男に一瞬で担ぎ込まれ、そのまま一緒に倉庫の外へと滑り込んだ。怒声やら叫び声やらが倉庫内で鳴り響く中、こちらを覗き見た包帯の男はにこやかに微笑んだ。


「久しぶり」


「え?」


「『え?』じゃないよッ!約束忘れちゃったの?


「‥‥‥‥‥あ‥‥‥そんな、だって‥‥‥まさか‥‥‥楓、なの?」


「やっと思い出した?」


 その瞬間私の中で目の前の男の顔に楓の面影が綺麗に被さり、心になだれ込んできたのは、悲しさと切なさと嬉しさと恥ずかしさの混ざった、言葉に出来ない何かだった。私の身体の穴という穴から液体が噴出し、子供みたいにみっともなく泣き叫んだ。


「み、見ないでッッッ!!!こんな私をッ、見ないでッッ!!!嫌ッ!!!会いたくなかったッッ!!!みんながッ、頑張ってるのにッ!!未来に進むみんなにッ、置いていかれるッ、一人ぼっちな私をッ、見ないでッッッ!!!!」


 顔面がぐちゃぐちゃな私を、躊躇なく楓はその胸に抱きしめた。


「悠ちゃんを、置いていくわけないだろ。悠ちゃんがどこにいたって、何をしていたって、胸の深いところで、いつも繋がってる。だっていつまでも、悠ちゃんは俺のヒーロで憧れで、『親友』、だから」


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