第5話


「やめろッ!!楓を離せッ!!」


 その叫びと頭から流れた血の生暖かい感触が俺の意識を辛うじて蘇らせた。頭に登っていた血が外へと排出された事で、先程より幾分か平静を保つ事が出来ていた。しかしやけに苦しいなと思って視線をゆっくり動かすと、太く毛深い腕が俺の細い首を掴んでおり、俯瞰視点で折れそうだなぁと呑気に考えながら、反省を繰り返していた。


(頭痛いな‥‥‥。最近の俺は心のどこかで、自分なら何でもできると過信していた。お節介を繰り返して、人の闇や脆い部分に踏み入れば、こうなるのは当たり前だよな)


 今までは長所であった事も状況が変われば短所に変わると身をもって実感しながら俺はこうなった経緯を思い出していた。









——三時間前


「涼風君、あの人達って」


 部活終わりに俺の隣を歩く姫島さんの目線の先には、門の前でこちらに大声で何かを叫びながら手を振っている、昨日知り合った春日里高校の奴らがいた。騒ぎを聞きつけた生活指導の教師が注意しにいったが、ぎゃあぎゃあ騒ぎ逃げながらおちょくりだした。


「知り合いなのが悔やまれるよ」


「涼風君、偉そうなこと言うけど、春日里の人とは絡まないほうがいいと思う。素行もかなり悪いらしいし、今度あっちのサッカー部と練習試合するけど、前回は負けた時無茶苦茶馬鹿にしてきたし」


 俺が聞く限り姫島さんだけでなく光明の生徒は基本的に春日里に対して良いイメージを持っていない。素行の話もそうだが、自分達より遥かに低い偏差値をネタにして小馬鹿するところを何度か見かけた。


「お前ら騒ぐなよ、先生困ってるでしょ!」


「おお楓!そっちはコレか?」


「違うわ。姫島さん、じゃあ明日部活で」


「う、うん」


 小指を立ててニヤニヤする男に即座に否定し、この場に居たくなさそうな姫島さんを返して俺は辺りを見回す。


「あれ?美雨ちゃんは?」


「あーなんかね、今日美雨にしては珍しくノリ悪くてさ。顔色も滅茶苦茶悪くて」


「そうだよな。あいついつもお前ん家泊まってるくらい家族と仲悪いのに、ダッシュで家帰ったもんな」


「‥‥‥そうなんだ」


 俺は体調が悪かったのかなど色々と沈思黙考を重ねるも、結局は嫌な予感を捨て去る事は出来なかった。今日はどこで遊ぶかを真剣に議論している春日里の連中を横目に、俺は美雨に電話をかけてみるも繋がらず、焦燥感は強まるばかりだった。


「ちょっとごめん、俺美雨ちゃんが心配だから見に行く事にする」


「え?マジかよ‥‥‥分かったわ。家分かるか?」


「いや、分かんない。教えて」


「アタシがコネクトに位置情報送っとくよ〜。美雨の様子教えてね〜」


「ありがと!また今度埋め合わせするわ」


「おう!じゃあ『ドキドキ!真夏のギャルパラダイス』はまた今度にするか」


 てっきり空気が悪くなるかと思っていた俺は意外と情に厚いこいつらに感謝すると共に、題名からセンスと品のカケラも感じない映画にも付き合おうという気持ちになった。

 コネクトに送られてきた住所を目指して走り、鞍山駅から俺や弓月のアパートとは反対方向の電車に乗り五駅目で降り、そこから二十分程の所にあった利便性の悪そうな立地のマンションに辿り着いた。最近の高層化の流れでは珍しく五階建てだったそのマンションは自動ドアの反応の鈍さと壁に刻まれたヒビが築年数の古さを物語っていた。入って右手にはカーテンの閉められた管理人室があり、左手には部屋番号を入力できるデジタルのインターホンが板状に彫られた石に嵌め込まれていた。俺は一とゼロと三を入力し呼び鈴を鳴らし、しばらく経って若山美雨の覇気のない弱々しい声が聞こえた。


「‥‥‥何?」


「あーそーぼー」


「‥‥‥」


「出てこれない?無理ならこっちがお邪魔するけど」


「‥‥‥もうどうでもいい。勝手にすれば」


 そう言った後俺の前の自動ドアが開き、俺はエントランスに進んだ。奧に見える監視カメラ付きのエレベーターの横の通路に行くと今度は手動のドアがあり、それを開けて先へと進むとドアは自動で施錠された。幾つもの部屋から若山と書かれたシンプルな表札を見つけ、放置され垂れ下がった回覧板の真上にインターホンを見つけ鳴らした。しかし応答はなく、二分ほどでようやくドアがゆっくりと開かれた。


「大丈夫‥‥‥じゃないか」


「‥‥‥やっぱり帰って」


 美雨の目は充血しておりその髪にはカチューシャはついておらず、代わりに掻きむしったようにボサボサで酷い有様だった。メイク直しはしたようだが、髪には気が回っていない事が俺のお節介な部分を刺激した。


「帰れないよ、そんな様子じゃ。今家に一人?」


「‥‥‥」


「昨日泊めたんだし今日は俺が泊めてもらうよ」


 俺は半ば強制的に美雨の手を引きながら中に入った。玄関で靴を脱ぎ、何か線香のような独特の匂いが充満している薄暗い廊下からは、左右の二つの部屋の扉と奥のリビングを確認する事ができた。美雨に自身の部屋であった右手の部屋に案内してもらう。そこは生活感のまるで感じられない、想像していた女子の部屋という感じではなかった。狭い部屋の大部分を占めるベットに、脚の部分を折り曲げられる小さな机が一つ置かれているだけであり、その机の側の床に俺は座った。


「美雨ちゃん、取り敢えず座って」


 美雨をベットの端に座らせて俺は床から見上げるような形で問いかけた。


「何があったの?」


「‥‥‥別に、お前に関係ない」


「下僕なんでしょ?関係あるでしょ」


「‥‥‥」


「何でも命令していいから。して欲しい事、ないの?」


「‥‥‥じゃあ一緒に死んで!!」


「‥‥‥それが美雨ちゃんのしたい事?」


「もう、全部どうでもいいの。ねぇ、死のうよ?いいでしょ?」


 そう言った美雨に俺は立ち上がって近づいていき覆い被さると、蜘蛛が獲物の体内に唾液を流し込むようにその官能的な香りのする首に噛み付いた。


「ッ!?」


「死ぬってこんな痛みじゃ済まないよ?」


「あッ、ちょっとやめッ——」


 そこで俺は口を離し、今度は美雨の頭を撫でながら耳元で囁いた。


「どうでもいいなら美雨ちゃんの人生、俺にくれない?」


 まるで昔の少女漫画のような突然キスしたり抱きついたり頭を撫でたりする展開を現実で再現してしまった訳だが、偶然同様にイケメンで産まれてきていたため、大惨事には至らずに済んだのだった。











 ウチ、若山美雨は頭を自分よりも大きな手で撫でられながら、今日あった出来事を楓に話していた。色々とくさいセリフを吐かれたような気がするが、安息と興奮が同時に押し寄せてくるような匂いに自分の全てを管理してほしいと、いつもとは考えられないぐらいかけ離れた感情が心を侵食していった。死にたいという絶望の感情はいつしか、この人とセックスしたいという純一無雑な性欲へとすり替えられていた。


「それで、そのお金はどっちに盗られたの?」


「分かんない」


「それ異常でしょ、両親どっちも信用できないなんて。今まで相当辛かったでしょ?よく堪えたね」


 ウチはその楓の同情がただ気持ち良かった。今まで誰にも相談できなかった事を話せたのは、苦痛という泥水が溜まったダムが決壊するかの如く爽快で、ウチの不幸は辛い出来事自体ではなく、それを愚痴ったりして気軽に吐き出せる相手に出会えていなかった事だと気付かされた。


「泣かないでよ、大丈夫だから。俺が、なんとかするからさ」


 こちらを覗き込む楓の優しい声音が涙を誘うと共に、結局この整った顔がウチは好きなんだと気付かされた。

 しかし幸せな時間は、バンッと必要以上に強く開かれた玄関のドアの音と共に崩れ去った。その音は恐怖の記憶からトラウマとなっており、ウチは楓の胸に強くしがみついた。


「おい、この靴誰のだ?」


 ウチの部屋のドアを勢い良く開けたのは、背が高く小太りで無精髭の父だった。いつも通りの仏頂面を引っ提げてウチと楓を見ると、突然肩を怒らせ青筋を立てた。


「馬鹿猿どもが盛りやがって、誰の家だと思ってんだッ!!」


「‥‥‥お邪魔してます。ところで美雨さんの貯金を盗んだのは、貴方ですか?」


「あ?」


 楓の空気の読めていないような唐突な質問に時間が止まったように父は一瞬フリーズし、その後こちらに鬼のような形相で近づいてきた。楓がウチを庇うように前に出ると、その胸ぐらを父は掴んでそのまま投げ飛ばした。


「ぐッ!?」


 楓は廊下まで転がり、どこかに頭を打ったのか唸り声をあげながら頭を押さえた。ウチは父を制止しようとその太い腕を掴むが、ギロリとこちらを睨みつけるその目にすくみ上がって手を離してしまう。父は廊下の楓を向かいの自室へと放り込むと、楓の腹を思いっきり殴りつけた。楓は横に転がって回避し、壁を支えに立ち上がって父をじっと見つめた。その目は見た事がないくらい冷たくて、強い侮蔑が感じられた。父も同じものを感じたのか、拳を強く握りしめた。


「お前ッ!」


「楓ッ!!逃げてッ!!」


 ウチの自分でもビックリするくらいの掠れた声は楓の耳に確かに届いたはずだが、楓はその場で一歩も動かなかった。父は楓に突っ込んでいき、その勢いのまま足の裏で蹴りをいれた。


「がッ!!」


 無抵抗の楓は後ろの棚に激突し、物凄い音と共に収納されていた物が落下した。その一つであった香水の瓶が楓の頭を鈍い音と共に直撃した。


「楓ッ!!」


「来るなッ!」


 ウチは駆け寄ろうとしたが、楓の大声に足が止まった。しかし、楓の頭から流れ出る鮮血が目に飛び込み、瞬間的な怒りと情けさが恐怖を上回り、父の巨大な背中へと飛びかかった。楓から遠ざけるように押し退けたがすぐさま胸ぐらを掴まれ、首がしまり片足が床と離れ離れになる。


「うッ」


「殺すぞこらッ!!」


 苦しくて、必死に手足をジタバタさせるが不毛だった。この苦痛から解放されようと無様にもがく様は、ウチの人生そのものを表しているようで、このまま死んで楽になりたいと願った。


「おい、負け犬。こっち向けよ」


「は?」


「‥‥‥ゲホッ!!ゲホッ!!」


 ウチは拘束から解放され、枯渇した空気を一生懸命に肺へと取り込んだ。ウチが倒れている間に楓は床で何かをその手に握って父に見えるように掲げているようで、それは目を凝らすとある会社名の入った一本のペンだった。


「この会社名、確かニュースで報道されてましたよ。AI新法で大量のリストラが行われたって。それで会社クビになってそのストレスを娘にぶつけてると考えると辻褄は合いますし。やっぱり負け犬だな」


「‥‥‥ガキが知ったような口利いてんじゃねぇぞ!!」


 激昂した父は楓の首を絞めあげた。楓は頭から滴り落ちる血も苦しい呼吸も関係ないようにか細い声で言葉を紡いだ。


「‥‥戦争でも‥‥AIエンジニアが‥兵士より重宝される‥時代だぞ?‥その業界を選んだ‥お前のせいだ。美雨ちゃんの‥‥せいじゃない」


「ふざけるなッ!俺はッ——」


「負け犬‥‥だろ?」


「殺すッ!絶対殺すッッ!」


 ウチはそこでようやく立ち上がり、震えの止まらない臆病な身体を無理矢理動かして父に向かう。動かそうとしても体重差でそれは難しく、髪の毛を引っ張って楓から何とか引き剥がそうとする。


「やめろッ!!楓を離せッ!!」











 俺は美雨の父親の首を絞める力が緩んだ所でその太い腕を片手で捻り上げた。


「ぐぎッ!?」


 怯んで後ずさった美雨の父親の胸を蹴り上げ、助骨が折れる感触を直に感じとる。それから先程壁に手をついた時に取り付けておいた超小型のカメラを回収し電源を落とした。最近では比較的大きめのサイズのカメラだったが、頭に血が上っていたのか唯の馬鹿だったのかは分からないが、その存在に気付かれることは無かった。ポケットからスマホを取り出して保存している動画から最も最新のものを選び、胸を押さえ倒れる美雨の父に見えるように再生する。


「『馬鹿猿どもが盛りやがって』『殺すぞこらッ!!』『殺すッ!絶対殺すッッ!!』」


「なッ!?」


「映像付きで保存してある。まあ音声だけでも逮捕出来そうだけどな。‥‥‥くそ、まさかこんなに傷を負う羽目になるなんて」


 俺は慢心を反省しつつ、尻餅をつきこちらを見る美雨に駆け寄った。しかしこちらを見上げる潤んだ目は恐怖か怯えのようなものをはらんでおり、俺は美雨の父へと再度向き直った。そして本人には相当高価値であろう薄毛を鷲掴みにし、胸を膝蹴りする素振りを見せる。先程の蹴りが脳裏にこびりついているのか、当たっていないにも関わらず情けない声と共に怖気付いた様子を見せた。勝てないと分かった途端萎縮するのはとても滑稽で、呆れる事すら面倒くさく感じた。


「娘が頑張って働いて稼いだお金、早く返して」


「やめろッ!!‥‥‥ぐあッ!?」


 俺は美雨の父の腹に膝蹴りをいれた。鳩尾に入ったのか苦しそうな様子の美雨の父を見ながら、傷の目立たない所に暴力を振るう俺の思考は、このDV男と同じなんじゃないかと強い嫌悪感を感じる。その苛立ちを何とか放散させながら低い声で美雨の父へと語りかける。


「次はもっと強く蹴るよ?早く返して」


「‥‥‥う、‥‥‥し、知らないッ!!何の話だよッ!!金なんて持ってないッ!!」


「‥‥‥マジ?」


 俺は嘘ではないかと考えるが、目の前で自分の娘と同い年の高校生に怯えている男に、そこまでの肝の太さがあるとは思えなかった。


(ここまでしたのに‥‥‥母親の方かよ)


「おい、次美雨ちゃんに何かしたら骨折程度じゃ済まさないし、社会的にも抹殺してやるからな。分かったか?」


「‥‥‥」


「おいッ!!聞いてんのかッ!!」


「わ、分かったから蹴るなッ!!」


「‥‥‥美雨ちゃん、立てる?」


 俺は黙って頷いた美雨を肩で支えて隣の自室まで連れていくとベットにそっと寝かせる。


「楓!もういいよ!血出てるしウチより楓が——」


「中途半端にしたくないんだ。美雨ちゃんの為じゃなくて、俺の心の安寧の為にお金は取り返したい。お母さんはどこに居るの?」


「‥‥‥リビングの隣の和室だけど、あの人はちょっと。それより病院行こう?ね?もういいよ、何でそこまで楓は——」


 そこで唐突にリビングの方から女性の叫び声が聞こえ、俺は美雨に背を向け歩き出した。


「‥‥すぐ戻るから」


 廊下を通りリビングに近づくごとに漂っている暗香が強くなり、俺のただでさえ低落した思考力はごっそり奪われそうになった。気をしっかり保ちながらリビングに辿り着くと、そこは一見ごく普通の家庭にありそうな部屋だった。物が散乱しているということもなく、ソファがあって食卓があってキッチンがあった。ただ、その清白な様は生活感が全く感じられず、薄暗い照明とも相まって何か不気味な雰囲気を俺に感じさせた。シンプルなデザインの絨毯に足を踏み入れると、障子で区切られた小さな部屋を発見した。この家に入った時から漂う匂いの根源はここにあると分かり、静かに障子を開きその隙間から中を覗いた。


「‥‥‥うっ」


 思わずむせてしまう程の白煙に薄らと人型を捉えるところができた。煙に負けない程の白装束を身に纏い、数珠か何かを大量に腕に巻き付け、ぶつぶつと何かに向かって一心に祈っていた。か細い指をかっちりと顔の前で絡めており、その一切ブレることのない姿勢はある種の美しささえ感じた。


「すみません、美雨さんの友達の涼風といいます。ちょっと良いですか?」


「‥‥‥」


「あの〜」


「うるさいッ!!黙れッ!!」


 突然叫び出した美雨の母は前に立てかけてあった分厚い白い本のページを割れ物に触れるように丁寧に捲り、また何かをぶつぶつと唱え始めた。


(‥‥‥聖白教団か。確か三十年前ほど前につくられた新興宗教で、芸能人が出家したとかで話題になってたな)


 俺はその宗教団体に対して主にキリスト教を軸に世界宗教を混合させたような教義を掲げている胡散臭い連中くらいの印象でしかなかった。


「おい。美雨ちゃんのお金、どうした?」


「うるさいッ!!救世主様のお声が聞こえなくなるだろッ!!」


「‥‥‥まさかとは思うが、寄付したのか?」


「違うッ!!献金だッ!!あんなどうしようもない馬鹿娘もこれで少しは慈悲を——」


 俺はいつも平静を保つようにしていたが、先程からの苛つきを抑えることは到底できなかった。殴ってやろうかと和室に入り美雨の母のその窶れた身体を前にしたところで、唐突な虚脱感に襲われ握った拳を静かに下ろした。


「あの、お気持ちは分かるんですけど、娘さんが一生懸命稼いだお金なんです。返してあげることはできませんかね?お願いします」


 俺は下げたくもない頭を下げ、先程とは違い下手に出る作戦に切り替えたが、感触は今にも破裂しそうな風船のように胡乱で危なっかしいものだった。


「ふざけるなッ!!お前に私の辛さが分かるわけないだろッ!!」


「ごめんなさい。でも、どうかお願いします。返してあげてください」


「‥‥‥教祖様に渡したから無理。出て行けッ!!早くッ!!」


「分かりました。最後に一つ聞いていいですか?」


 俺は美雨の母の顔を掴み、教典か何かから目をこちらに強引に向かせた。驚愕の色を帯びた瞳を覆い隠すように覗き込んで、口をゆっくりと開く。


「お前は、何でそんなに必死なんだ?」


「い、痛い、離してッ」


「何でそんなに必死なんだ?」


「ひ、必死って、どういう——」


「どうしてそんなに無様で滑稽な屑になってまで、生きようとするんだ?神に縋る気持ちは分かるよ、俺も何度も祈ったことはある。宗教の、架空のものに意味を持たせるっていう事に対して嫌悪感は特に無いし興味も無いよ。でもお前、娘の金盗んで、私利私欲で使ったよな?どうせ美雨ちゃんが小さい頃から、その安定しない情緒でストレスを与えてたんだろ?暴力的な夫のせいにして自分は楽になりたかったんだろ?」


「あ、ああああ」


 美雨の母は俺の手から抜け出すと必死に手を動かして、お香をポキポキ折って無数の十字架を作り始めた。それは俺を更に苛立たせ、机をひっくり返し十字架を崩し、聖典を部屋の外へぶん投げた。


「あ、ああッ!!何でッ!!」


「お前が何も生まない人間だからだよ。何かを支えにしているなら、何か人のために、家族のために行動してみせろ」


「そんなの無理ッ!今更出来るわけないッ!」


 そこで俺は腹の底から湧き出る怒りを押し殺し、温和な微笑みをつくり出しつつ、気持ち悪いほど親身な雰囲気で美雨の母の手をそっと握る。


「遅いことなんてないです。まず、旦那さんの暴力は俺がどうにかします。美雨ちゃんが高校を卒業した後は離婚なり何なり好きにしてください。そして、美雨ちゃんのお金は働いて返しましょう。俺のバイト先の一つを紹介してもいいです。そして最後に、教団から脱退してください」


「‥‥‥そんなの嫌ッ!!」


 途中までは落ち着いていた美雨の母だが、聖白教団の脱退を聞いた途端、激烈な拒否反応を見せ脈も激しくなった。


「落ち着いて、大丈夫です。棄教や改宗をしろと言っているんではないんです。今まであなたが祈っていた神様は、信仰を捨てていなくても教団を脱退すれば見限るようなお方ですか?」


「そ、それは、違います」


「でしょ?神様もきっと娘の為に身を粉にして働くあなたに賞賛と祝福を送ってくれる筈です。一緒に頑張りましょう?ね?」


 俺は美雨の母が頷くまで暫く待ち、立ち上がってスマホを起動し、美雨の父の部屋に仕掛けたもう一つの小型カメラが正常に動作しているのを確認して美雨の元へと向かった。










——三日後


 アタシ、弓月海は最近急に仲直りしようと言い出してきた美雨と放課後教室で、椅子があるにも関わらず机に座って惚気話を聞かされていた。


「ちょっと海、聞いてんの?」


「だってさっきから同じ話しかしてないじゃん。カッコよかったのは分かったし、アタシと楓は本当に何でもないから」


「良かった〜、じゃあ——」


 美雨は最近一段と綺麗になった花のような笑顔でこちらをじっと見つめてきた。その髪には、母親から買ってもらったという白いカチューシャが花飾りのように輝いていた。


「楓はウチが貰うね?」











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