第3話


 羽毛のように軽く思える財布から取り出したコンドルかの如く重く感じる五百円玉は、最近定期券としても大活躍してくれているICカードに吸い込まれていった。改札を通り駅の各ホームへ続く階段に翻弄されながらも、俺はようやく目的の電車に乗る事が出来た。スマホを開き弓月の現在地の詳細を調べながら電車に揺られ、六つほど駅を通り過ぎて人波に流されるように下車する。

 疲れているのか玄に見えてきた黄昏の空を眺めつつ、これからやってくる寂しい夜を食い殺すかのような明るさの街へと俺は足を踏み入れた。ガヤガヤとした喧騒の中に飛び込むと姿を現したのは、もう酔い潰れてホームレスと並んで地面に横たわるサラリーマンに、眩しいくらいカラフルな髪色と服を見に纏うホストのキャッチや、開店前のスナックバーの前で最近めっきり見なくなった紙煙草をふかす化粧の濃い女、レストラン横の路地裏で身体を重ねるストリートチルドレンの男女といった、映画でしか見た事のないようなアングラカルチャーの街だった。充満する香水と煙草とゴミの混ざった臭いは、自然と共に暮らしてきた俺にとっては毒ガスにも思えたが、息を止めるようにして堪えて街の深部へと足を進めた。







 アタシ、弓月海は友達の美雨と共にナイトクラブへと足を運んでいた。美雨の知り合いだという、名前は忘れたが全身日焼けしている軽そうな男に連れられてやってきたこの場所は、アタシには到底何が楽しいのか理解できそうにもなかった。DJの回すターンテーブルから流れるアメリカかぶれのヒップホップ楽曲には周りと混じって踊り狂う気にはなれなかったし、誰かに貰ったテキーラか何かと思われる飲み物は甘ったるいし度は強いしで、隅のテーブルで一人顔を横にして突っ伏した。ふと脳裏に蘇るのは、今日のいつもとは違った昼食だった。それは、白米に冷凍食品のおかず、少しの野菜とフルーツを不恰好に盛り合わせた、お世辞にも上手とは言えない弁当だった。だが何故か、いつもの熱いお湯を注いだカップ麺よりも何倍も、温かく感じた。


(あいつ、怒ってるかな?)


「ヘイ!キミ、チョットイイ?」


 そこでアタシの肩を叩いてきたのは、恰幅の良い金髪碧眼の若いアメリカ人だった。気立の良さような微笑みと声音は、警戒心を薄れさせるのに特化していた。それと同時に有無を言わせぬ威圧感も持ち合わせていたので、余計にタチが悪かった。


「何?」


「ヒトリデスカ?」


「いや、あそこにいる美雨って子と一緒に——」


「ア〜ッ!キミガ、ウミノイッテタウミチャンカ〜!ボクハ、ルーカスデス、ヨロシク!」


 片言で喋るルーカスのボディータッチを跳ね除けつつ、アタシは椅子を引き立ち上がった。

 

「モウカエルノ?」


「ちょっと疲れたんで」


「ハハハ!!ソウ、ウミチャンハカワイイネ!ソトマデオクルヨ」


「え、いやいらない——」


「イイカライイカラ〜」


 アタシは断ろうとするもルーカスの巨体にガッチリと掴まれてしまい、本能的な恐れが湧き立って声を上げることすら出来なかった。頭の足りないアタシでも、恐らく在日米軍の兵士であるルーカスに逆らえばどうなるかは分かっていた。周りの大人達は黙って目を逸らすばかりで、唯一こちらを見ていた美雨は、どこか皮肉めいた歪んだ嘲笑を浮かべていた。そこでアタシは、美雨が何かを企んでいたのだと悟った。

 畏れを抱いたままクラブを出るやいなや、逃げようと走り出したがルーカスに容易く捕まってしまう。


「離せよッ!」


「ニゲナイデ〜!ヤサシクスルカラ、ネ?」


 ルーカスはそう言うとアタシを雑草の生い茂る路地裏に連れていった。そこでアタシにバッと覆い被さり、ポケットから何かを取り出し口に含み、物凄い速度で顔を近づけてきた。気がつくとダミアンの生温い酒の味のする舌がアタシの口の中に侵入していた。


「ッ!?」


「アガッ!」


「オエッ!!」


 アタシは慌てて舌を噛み、それから口内に広がる不快感に嘔吐した。だが、それと同時に奇妙な感覚に陥っていた。視界がぼやけ時間の進みが遅鈍に感じ始めた。口を抑え渋い顔をしながらもルーカスがアタシに何かを言っているが、スローモーションのように遅く低い声に聞こえ、意味のある言葉には変換できなかった。


(何か、気持ちいい!)


 そんな自分の感覚が加速したかのような全能感と、ふわふわと宙に浮かんでいるかのような多幸感に、アタシはこれまでの全てを忘却し、ただ快感だけを求めるように身体が組み変わっている事を自覚した。しかし次の瞬間、突然奈落に突き落とされた。


「あ!?」


 アタシは元の感覚に戻ってしまっていた。それは折角手に入れた幸福が消えたという異常なまでの喪失感をアタシに与え、猛烈に生きていたくなくなった。その時、ルーカスが罠にかかった獣を見るようにアタシに微笑んだ。


「ホシイ?」


 アタシが頷くとルーカスは服を脱ぎ始めた。鋼のような筋肉がアタシに覆い被さり、服を乱暴に脱がされる。黒い下着と汗と混じった女臭さに興奮した

のか息を荒くしたルーカスの唇が再びアタシに迫った。


「ガッ!?」


 そこで突然、ルーカスの顔面を誰かの足が蹴り飛ばした。ルーカスは呻き声を上げ地面に倒れた。


「軍人!?くそッ!」


 現れた男、涼風楓はアタシに自分の学ランを被せて後ろ向きで腰を落とした。アタシが何か言う前に、憤懣を敷き詰めたかのような、底冷えする低音が聞こえた。


「早く乗れ」


 アタシは怯えながら楓の背中に乗り、景色が高速で流れたかと思うと、既に街の大通りに抜けていた。衆目を集めながら楓は凄まじいスピードで街を走り抜け、入口の門を抜けたところで駅ではなく木に囲まれた小さな公園に入った。


「はぁ‥はぁ‥‥。降りて」


 ワタシは滑り台の下に降ろされ、街灯すら届かない夜の闇に溶け込むように腰を下ろした。楓はアタシを正面からじっと見つめた。


「‥‥‥何だよ」


「‥‥‥」


「いいでしょ!?アタシが何やったって!!お前に何も関係無いし!?」


「‥‥‥」


「何で黙ってるんだよ!?」


「必要あるのか?」


「は?」


「俺がお前を気にかける理由と、お前のどこが悪かったのか説明する、『必要』があるかって言ってんだ」


「ッ!」


 楓はそう言いながらアタシの頬を優しくぶった。おかしいくらい痛くなくて、それなのにどうしてか涙が零れ落ちた。


(何で‥‥‥。‥‥そっか‥‥‥怒って欲しかったんだ、誰かに)


 周りに流されるままに非行を繰り返して、高校の教師達大人には呆れられ、親には偶にお金を仕送りしてもらうだけで何年も会っていなかった。過ぎた自由はいつしか、アタシ自身の現実逃避を助長させていた。いつの間にかアタシは楓の胸で泣いていた。楓は黙ってアタシの頭を撫でるだけで、それが無性に恥ずかしかった。


「アタシって、生きてる意味、あるのかな?」


「‥‥弓月だけじゃなくて、誰にでも生きる意味なんてものはない。考え過ぎるな、世の中そう複雑には出来てない」


「‥‥‥無いなら、死にたい。もう、何もしたくない」


「今はそれでいい。死にたいって言える相手を増やしていけば、いずれ生きたいに変わるだろ。俺が一人目だ、良かったな」


 アタシはそう言って笑った楓という存在が理解できなかった。人外じみた能力とメンタルを有していて、他人を無償で救済する存在。神様か何かなんじゃないかと思いかけたところで、変な宗教に入信した気分になって慌てて首を振った。


「どうした?‥‥‥乳首立ってるしもしかして寒——ぐはッ!?」


「死ねッ!危ない、こんな変態を崇拝するところだったなんて‥‥」


 楓は腹を殴られながらもどこか嬉しそうにしていて、アタシはマゾなんだなと更に軽蔑を深めた。


 






 

 翌日、俺、涼風楓は一人で光明高校へと続く道を歩きつつ、昨日の事を思い出していた。ルーカスとかいう軍人が怒り狂った様子で駅にまで追ってきたらしい事は昨日通報した警察官に確認できたので、公園に潜み血の涙を流しながらも高い金でタクシーを呼んだ事は成功だった。だが弓月が目をつけられた可能性は高く、七年前の戦争の影響で在日米軍は不逮捕特権が与えられているかのような待遇を受けているため、誰にも頼ることができない。流石に今日は弓月には学校を休ませてあるが、いつまでもそうする訳にもいかないし、あのアパートも安全とは言い難い。


(どうするかな)


 目下の課題は、複数の選択肢を確保する事だ。今辿っている道を舗装するだけでなく、道自体を増やしていく必要があるように感じた。


「あっ!涼風君、おはよう」


「おはよう、姫島さん。あれ?髪切ったんだね、似合ってるよ」


 俺の後ろから現れたのはサッカー部のマネージャーの姫島芽衣だった。昨日のツインテールから一変して動きやすそうなショートカットになっていて、女子にしては高い身長によく似合っており、大人っぽさが増していた。


「ありがとう。でも、褒めるまでが早すぎない?いかにも女の子の扱いに慣れてるって感じがする」


「そうかな?今まで恋愛とかした事ないからそんな事ないと思うよ」


「ふーん、そっか。涼風君誰かと付き合った事ないんだ?じゃあ——」


「じゃあ?」


「‥‥‥やっぱり何でもない!それよりシバセンが涼風君の事良い選手だって褒めてたよ。あのシバセンがだよ?涼風君なら三年生の大会に出れるかもね」


「?いや、出るよ絶対。出て、点取って、弱小高なんて言わせなくさせるから、応援よろしくね」


「‥‥‥カッコいい」


「え?」


「あ、私課題やってないんだった!涼風君、また部活で!」


「あ、うん。頑張って!」


 そう言って足早に去っていった姫島さんを見送りながら、その誤魔化し方の雑さに俺は逆に恥ずかしかった。








 

 午前の授業が終わり、俺は清二と一緒に昼食を食べようとしたが、昨日の約束を思い出して清二に断りを入れ、萌を探すが教室には居なかった。慣れない校舎を探し回るも見つからず諦めかけた時、最後に訪れた屋上に続く階段の途中で萌の声が聞こえてきた。屋上へのドアを開けると萌の隣には先客が居り、かなりの剣幕であったためその会話は遠くからでも聞こえてきた。


「何でだよ!?意味分かんねぇよ!」


「そんなに大声出さないで!雄星、もう別れよ?ね?」


「は!?いや、お前が浮気しといてそれは無いだろ!?俺がどんな気持ちだったか分かるか!?」


「それは違うの!とりあえず落ち着いて、私の話を聞いて!」


「そんでまた他の男に股開くのかよ!?このヤリマンクソ女!」


「‥‥は?ふざけんな!この早漏野郎!」


「なッ!?お前ッ!!」


 明らかな痴情のもつれ的な何かであったが、あまりにも聞くに耐えない白熱した展開になっていたため、俺はやむを得ず二人の間に割り込んだ。


「ちょっと、萌さんとマッシュイケメン君!落ち着いて!」


「は?誰?」


「か、楓君!?」


 色艶の良い髪をマッシュにしたイケメンが何か言おうとするのを制止し、萌が被害者意識を全身から漂わせ俺の背中に隠れようとするのも拒絶した。萌は傷心した顔をするが、俺はそのあざとさを一旦無視して、隣のマッシュ君に話しかける。


「俺は六組の転校生の涼風楓だよ、爽やかマッシュ君。あと萌さんは俺との約束はどうしたの?」


「さっきと呼び名変わってるじゃねぇか!俺はマッシュじゃなくて佐々木だ‥‥‥お前が例の転校生か。萌が狙ってるって噂の」


「そうだよ、マッシュ佐々木君」


「今度は芸名みたいになってるじゃねぇか!‥‥‥てか邪魔しないでくんない?俺らの問題だからさ」


「うん、分かってる。でもこのままじゃ埒が明かないでしょ?だからさ、勝負しようよ!」


「は?勝負?」


「うん。次の授業佐々木君の五組と合同体育でバスケだよね?それでもしミニゲームがあったら、そこでうまいこと別のチームに別れて勝負しよう」


「何でそんなガキみたいな事しなきゃいけねぇんだよ?それに俺、バスケ部だぞ?お前身長高いけど、流石に負けねぇよ?」


「負けた方は金輪際萌さんに近づかないってことでどう?」


「いやだから——」


「ふ〜ん?早漏マッシュ君は、バスケ部なのに素人との勝負に逃げるんだ?」


 俺は佐々木が癪に触るであろう声と態度で全力で煽った。


「‥‥‥絶対潰す」


 殴られても仕方がないと思っていたが、意外にも静かな様子でそう言って佐々木は去っていった。俺はそれを見送りながら、側で黙っていた萌に視線を移す。


「‥‥‥あの、楓君、違うの」


「違う?」


「私、もう佐々木君とは何でもなくて、別れたいって随分前に——」


「ちょっと待って。俺はそんな事どうでもいいし、萌さんはクラスでも話しかけてくれて友達だと思ってるから、助けたいとも思うよ。でもマッシュ、じゃなくて佐々木君とは付き合ってたんだよね?」


「う、うん」


 俺は怖い印象を与えないよう、萌の目を覗き込んで諭すように言う。


「詳しい事は分かんないから察するしかないけどさ。俺が萌さんの彼氏だったとしたら、今みたいな噂が流れてて、それでも我慢してたら萌さんから別れ話をされて、それからすぐに他の男と仲良くしてたら、無茶苦茶傷つくし、怒ると思うよ。浮気してたしてないが問題じゃなくない?一回好きになった人に対して、配慮が欠けてるんじゃないの?好きってそんなものなの?」


 萌は俺の発言を聞き、初めて見せる顔をした。それは恐らく素の彼女のものだろう、その綺麗な顔に似合わない冷酷さと失笑を浮かべたものだった。その人間の二面性という闇に、俺は鳥肌が立ちそうになる。


「何でそんな事言われなきゃいけないの?好きがどうこうって、夢見すぎでしょ。田舎ではどうだったか知らないけど、都会じゃ付き合うってそんな大袈裟な事じゃないの。大体何?勝負って。彼氏面しないでくれる?」


「‥‥‥うええええええええええん!!」


 生まれて初めての女子からの暴言、特に田舎者で世間知らずで、この歳で恋愛に幻想を抱いているという痛いところを突かれた事で俺のガラスの心は砕け散り、目を丸くする萌をその場に残して俺は無様に泣きながら屋上から走り去った。









 

 男女別れた体育が始まり、事務的で冷たそうな女教師の掛け声で準備体操を行う。俺は順番を覚えられていないため周りとズレが生じてしまったせいか、女教師の冷ややかな目線が突き刺さった。なんとか乗り切って清二とペアを組みバスケットボールをパスし合う。


「女の人怖いよぉ〜」


「いや、多分先生はお前がずっと涙目だから心配してるんだと思うぞ」


「ぐすん」


「また泣き出した!?昼に何があったんだよ!?」


 その調子でシュート練習やドリブル練習を行い、いよいよミニゲームが始まった。各クラスで五人チームを作って総当たりの形で、一試合五分程度の勝ち残り式だった。俺は清二と何とか一人バスケ部の吉田を引き摺り込み、残りは余った運動が不得意そうな二人でチームを組んだ。


「おい!これで‥‥‥って何で泣いてるんだ!?」


「マッシュ君‥‥‥ぐすん。何回当たるか分かんないけど、一回でも勝ったら約束守ってね」


「お前何でそこまであいつに‥‥‥。付き合ってた俺が言うのもなんだけど、面食いなのか?」


 俺が答える前に佐々木のチームと他のチームが呼ばれてコートに走っていった。試合が開始すると佐々木がドリブルで運びシュートを打てそうな位置で味方にパスをして得点が入った。その後も要所要所で的確なパスを送っており、自分は一回ミドルシュートを打っただけだった。


(動きが滑らかだし、フォームも綺麗だなぁ。それに常に味方への気配りをしていてミスした時のフォローも忘れない。佐々木君は心根が優しい、マッシュイケメンだ。何で俺はこいつと勝負しているんだう?)


 放っておいても佐々木ならどうにかできそうだと思っている内に試合が終了し、佐々木のチームが勝ち残り先生が次の相手を募り、佐々木と目が合うが俺は微動だにしなかった。そして他のチームに対戦が決まり、試合は佐々木のチームが辛勝する形となった。そしてそこでようやく、俺達のチームは名乗りを上げた。


「はぁ、はぁ。おい!ズルいぞお前!」


「いい具合に息が上がってるねぇ、マッシュ君」

 

 そうして俺の姑息な作戦は成功し、試合が始まった。俺は早速佐々木に正面からドリブルを仕掛けた。レッグスルーからのクロスオーバーという自分が出来る最大限の技で挑んだが、佐々木に容易くスティールされてしまう。


「あら?」


「うしッ!」


 佐々木がそのままドリブルで突き進んだが、そこには同じバスケ部である吉田が待ち構えていた。体格は吉田の方が優っており止めれるかとも思ったが、佐々木はその場で素早くステップバックし、吉田のブロックをギリギリで躱し、スリーポイントシュートを放った。そのリリースまでのスピードに驚いている間に、ボールは流麗な弧を描きリングへと吸い込まれ、水飛沫の跳ねるようなネットの揺れは爽快感すら感じさせた。佐々木がドヤ顔でこちらを振り返った時、俺はもう走り出していた。


「吉田君〜!」


 吉田はすぐさま俺の意図を察してボールを片手で相手ゴール目がけて勢いよく投げた。ゴール下には二人の相手が付いてきていて、俺を挟むようにして空中のボールを取ろうと跳び上がったが、リングの少し下までの高さがあるボールには届かなかった。一方俺は高い身長とジャンプ力を活かし跳び上がると、空中でボールをキャッチすることに成功した。


「おりゃ!」


 俺の体は空想のままに自然に動き、着地せず空中でそのままシュートを放った。素人の不恰好なアリウープは、ボールがボードに反射してネットを揺らす事に成功した。俺はまるで勝利したかのような歓喜の声を上げ、自陣に飛び回るようにはしゃぎながら戻った。


「俺の今のシュート凄くない!?それとナイスパス、吉田君!」


「いやすげぇなお前!パスミスったのに届くのかよ!でもあんな事しなくても普通に打てただろ」


「まあ、マッシュ君との力の差を見せてあげなとね」


「まぐれで調子に乗るなッ!」


 俺の煽りに佐々木が試合が再開すると共にドリブルを仕掛けてきたので腕を横に広げマンツーマンでディフェンスをする。ボールを触れていない味方にパスを出す配慮は相変わらずだったが、俺を真正面から叩き潰したいという気持ちは丸分かりだった。佐々木は緩急をつけたステップを踏んで俺を躱すとパスを呼び込み、即座にシュートモーションに入った。


「なッ!?」


 しかし佐々木の手から放たれたシュートは俺の指先が掠った事で軌道がずれリングに当たって跳ね返り、そのリバウンドを吉田が取った。それと同時に先程同様俺は相手のゴール下に走った。


「くそッ!」


 だが今度は逆に手元にボールを要求した俺は清二とパスで攻め上がり、スリーポイントラインまで到達した。チラッと時計を見ると残りは一分程であり、ロングレンジのシュートは決められないと割り切って最後の攻撃を仕掛けた。俺自身の一番好きで尚且つ簡単にできる技であるシャムゴットでディフェンスを躱し、すかさずレイアップの体勢に入った。しかし、猛然と自陣に戻ってきていた佐々木の体が俺の視界を遮った。


(あ、まずい)


 俺はもう体勢を戻すことは出来ず、空中で佐々木と激しく交錯した。


「ぐッ!」


 佐々木が痛みにうめきながら地面に背中から落下し、体格が優っていた俺はなんとか足で着地することができた。ボールはまだその場に転がっており、俺はそれを掴んだ。


「シュート!」


 そう味方に言われた俺は、ガラ空きのゴールにシュートを打つことは無かった。


「先生、佐々木君保健室に連れて行きます」


「そうか、分かった。他の奴らは片付けに入れ!」


 俺は佐々木君の肩を支えて、保健室へと向かった。少し経って廊下の奥に保健室を見つけノックするも返事はなく、居てほしい時にいつも居ない養護教諭に心の中で文句を垂れながらドアを開ける。中にあった無駄にデカいソファに佐々木を座らせ、俺は勝手に氷嚢を探し出して手に取った。


「背中どう?曲がる?」


「あ、ああ。ちょっと大袈裟すぎないか?」


「いやでも背中ってなんか重要な神経が通ってるとか言うし。多分だけど骨折はして無さそうだし、取り敢えず動かさず冷やしとこう」


 しばらく背中を冷やしていると、佐々木がこちらを 訝しげに見ているのに気がついた。


「何で打たなかったんだ?」


「そりゃあ、あんなくだらない遊びで怪我したらしょうがないからね」


「勝負は、どうするんだ?」


「俺の負けだね、佐々木君のはスリーポイントだったし。‥‥‥そういえば俺が負けた時の罰は決めてなかったね。じゃあ、俺と『友達』になるってのはどうかな?」


「‥‥‥へ?」


 俺は佐々木の驚いた顔を、ニコニコと見つめた。











 私、愛上萌は昨日の自らの行いに自責の念を抱きながら登校していた。だが気にしているのは他人からの評価と自分の立場だけであり、雄星や楓君の心情はそんなに気にしていない低劣な心の持ち主である事も自覚していた。こんなに暗い気持ちでも一生懸命メイクをチェックして髪の毛を弄ってる自分に嫌気がさしつつ、泥沼にはまったかのように重い足を懸命に動かす。


(いつからこんな風になっちゃったんだろ)


 一番影響を受けたのは父だと、今なら分かる。医者である父は、自分の優秀さを相手にも求める人だった。私が何かに成功したとしても決して褒めてくれる事はなく、悪い所だけを見つけ執拗に貶してきた。そうして残ったのは自己肯定感と愛に飢えた容姿だけは整った女であり、欠如した部分を補おうと何人もの異性と交際したが、満たされるはずも無かった。それは分かっていても、それでも唯一自他共に認める長所である容姿に、縋るしかなかった。

 歩きながら物思いに耽っていると、スマホのバイブレーションが着信を知らせてきて、既読はつけずに内容を確認する。


(雄星から?「昨日はごめん、あんな事言って。これからは友達として、また仲良くして欲しい」‥‥‥あんなにしつこかったのに急に何で?)

 

 私は疑問を抱きながら学校に辿り着き、愛想を振り撒きながらすれ違う人に挨拶し、やがて教室に入った。すると突然、今まで私と仲が悪かった女子のグループの人達がこちらに近づいてきた。


「萌ちゃん、今まであんな噂鵜呑みにしてて、本当にごめんね?」

 

「うちら、もう一回仲良くできないかな?」


「え?う、うん。勿論だよ!」

 

 今まで陰口の応酬を繰り広げていたとは思えない和やかな空気に戸惑いつつ周りを見渡すと、教室の後ろのドアから雄星が廊下で誰かと談笑しているのが目に入った。私は今朝のラインの事がどうしても気になり雄星の元へ向かうと、側には私と比較的仲の良い雪村さんが居た。


「あ!萌、おはよう!」


「おはよう!えっと、二人は——」


「萌、本当にありがとね?」


「え?」


「私達、付き合う事になったの!萌と楓君には、本当に感謝してる」


「琴音、愛上が困ってるぞ。後さっき日直がどうこう言ってなかったか?」


「あッ!そうだった!」


 そう言うと雪村さんは教室に走っていった。雄星が雪村さんを名前で呼び、私の事を苗字で呼んだ事から、二人が恋人同士になった事は理解した。理解はしたのだが、たった一日でこうなる事は有り得る筈がないと脳が拒んでいた。


「雄星、何がどうなってるの?」


「俺もよく分からない」


「え?」


「昨日あいつに出会ってから、気がついたら恋人ができてたんだ。すげぇ面白いし、何より底抜けに優しいんだよ。とんでもなくいい奴だよ、あいつは」


「‥‥‥まさか」


 私が思い浮かべたその人物はサッカー部の朝練が終わったのか、階段を上がって奥の廊下からこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。昨日の事なんて何処かに置いてきたかのような、爽やか且つ晴れやかな笑顔は、私の人生を大きく変化させて取り返しのつかなくさせる確信をもたらしたのだった。




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