Luce

はるより

本文

 時刻は夜の二十一時。

 雲は無く、霧の都にしては霧の薄い、涼しい夏の夜だ。

 セトは従業員の寮となっている『Angelic Dormitory』の二階、そのテラス……つまりはベランダに備え付けられたベンチに座り、随分と遅れてやってきた変声期に頭を悩ませていた。


「ちっ……汚ったねぇ声」


 苛立った様子のセトは、ベンチの背もたれに勢い良く身を預ける。

 彼が随分と目立つようになった喉仏を指でなぞり、そろそろ潮時か、などと考えていた時であった。


「お兄ちゃん、ここに居たんだ」


 室内に繋がる扉が開き、中からセトのよく見知った人物が顔を出す。

 そばかすの浮いた頬には健康的な赤みがあり、三つ編みに編まれた赤毛も丁寧に手入れされている事がわかる。


 ルーチェ・アンダーウッド。

 彼女の名前に関してはセトが与えたものであり、正確な出自などは全くの不明の少女である。


 セトが頭部暗黒街イースト・エンドに住んでいた頃から共に暮らしていた少女であり、彼らの関係性は血は繋がっていなくとも家族そのものだ。


「どうかしたのか?」

「うん、ちょっとね」


 ルーチェはそう言って微笑みベンチに歩み寄ると、セトの隣に腰掛けた。

 ふわりと石鹸の良い匂いがセトの鼻先を掠める。どうやら風呂上がりらしい。

 そういえばもうそんな時間か、と頭上で薄ぼんやりと輝く月を見上げながらセトは思った。


「お兄ちゃん、昔に比べると随分変わったよね。」

「そうかぁ?」

「そうよ。路地裏暮らししていた時は、あたし達以外の全世界が敵みたいな顔してたもん」

「……それを言うならお前だって変わったろ」


 幼い頃に母を病で亡くしたセトは身寄りもなく……薄汚れたスラムで腐りかけた残飯や、捨てられた缶の底に溜まった雨水を舐めて飢えを凌ぐほかなかった。

 たまに彼のことを見つけた浮浪者や、面白半分で頭部暗黒街に足を運んだ若者から暴力を振るわれる事もあり、十歳にも満たない少年は、一刻も早く自分の命が終わりを迎えることばかりを願っていた。

 それでも腹が減れば苦しいし、死が迫れば生存欲求が首をもたげる。それから逃げるために、有機物を口に入れて命を繋ぐ。


 そんな矛盾した人生の中を這いずっていた時に出会ったのが、餓死寸前で打ち捨てられていた少女だった。

 髪は殆ど毟り取られ、あざだらけの体は骨に皮だけが張り付いているような有様だった。

 どういう境遇でここに居るのかも分からない。しかし、彼女の命が風前の灯だということは幼いセトにも理解できた。


 セトは、彼女のことを羨ましいと思った。

このまま目を閉じてじっとしていれば、きっと彼女は、もうすぐその生涯を閉じる事ができるだろう。

 セトは死後の世界などというのがあるとは思っていなかったが、こんな生き地獄を彷徨うよりはよっぽど幸せだと思ったのだ。


 しかしその少女は虚な目に涙をいっぱい溜めて、傍に現れた影にふらふらと手を伸ばし……『助けて』と言った。


 セトにとって、それは雷に打たれたような衝撃だった。

 きっと大人たちからボロ雑巾のように扱われ、生きる喜びなど知らないであろう彼女が……こんな地獄で尚も生きてゆくつもりなのが、信じられなかった。


 それからセトは、彼女を長らえさせるために走り回ることになった。

 善意や親切心なんかではない。彼女を自身の命を絶つ理由にしたかっただけだ。

 自分よりも酷い有様でも生きる意志を持つ彼女が、手を尽くした上で死んでしまったとしたら……意志すらない自分は、生きていても仕方がないと諦めがつくと思ったのだ。


 しかしその思惑は外れ、少女の容体は少しずつ回復していった。

 セトは自分の為には行っていなかった窃盗やスリに手を染めた結果、それまでに入手していた物よりずっと状態の良い食料を持ち帰る事ができるようになったのだ。

 時には犯行現場を見つかり、店主に顔が腫れ上がるほどに殴られる事もあったが……いつしか、徐々に確かなものになる少女の存在は「死の引き金」から「希望」へと変わっていった。

 そしてセトは、少女に『光』の意味を持つルーチェという名を与えたのであった。


「あたし、初めて会った時……本気でお兄ちゃんの事を、お迎えに来た天使だと思ったんだ。」

「あんなに薄汚い天使が居てたまるかよ」

「見た目もだけど……あたしの事を、あんなに優しい眼で見る人は初めてだったから」


 ルーチェは、セトのブルーグレーの瞳を覗き込む。

 どんなに暗い路地の中でも、どんな苦境の中でも……決して曇らず、いつも彼女に勇気を与えてくれた美しい色だ。


「当たり前だけど……瞳の色は変わらないね。」

「そりゃあな、生まれ持ったものだし」

「あたしも同じだったら良かったのに。」

「俺はルーチェの色の方が好きだよ」


 ルーチェの瞳は茶に近いオリーブ色。

 セトはその優しく柔らかな笑顔を守る為に、必死で戦い続けてきたのだ。


「ね、お兄ちゃん。今幸せ?」

「何だよ急に」

「訊いておきたくて」


 ルーチェの言葉にセトは少し照れ臭くなり、彼女から視線を外して前を向く。


「……幸せだよ。自分でも信じられないくらいにさ」


 セトは飢えや病に苦しむ事のない、穏やかの生活の中で幼い弟や妹が、心から嬉しそうに笑う姿を見た。

 正直なところ、そんな物は彼らと出会った時には想像もできなかったのだ。


 東部暗黒街の何かが変わったわけではない。

 時折『Angelic Dormitory』の事前活動として、スラムで生きる者たちに食糧を配ることはあっても、きっとその裏でまた弱者たちが苦しめられているのだろう。

 自分達ばかりが、幸運に恵まれ、救われてもよいのだろうか……その葛藤がないとは言えない。

 だがセトにとっては自分の心の支えとなってくれた家族が笑顔でいてくれる事は、何にも勝る喜びだった。


「ルーチェ、ありがとう。お前が居たから、俺は今生きてる」

「こちらこそ。あたしの縁は、殆どお兄ちゃんが結んでくれたものだから。」


 ルーチェは頭に浮かべた人数分指を折りながら続ける。


「イレーナ、ヘンリー、フレッド、ジャック、マーガレット、別れてきた弟や妹たち。……それから、ベルさんも。あたしたちに良くしてくれる人たちみんなみんな、お兄ちゃんが引き合わせてくれた」


 セトは、並べられた言葉に「結果論だよ」と返そうとしたが……彼女の真剣な表情を見て、口を噤んだ。


「今のお兄ちゃんなら、きっと一人『妹』が減っても平気だよね」

「は?」


 ルーチェの理解し難い言葉に、セトは耳を疑った。

 その真意を訊き正そうとする間もなく……ルーチェはセトと真っ直ぐ眼を合わせて言った。


「あなたのことが好き。家族としてじゃなくて、一人の女の子として」

「……。」


 セトには、その視線を逸らすことができない。

 月の光が照らす彼女の顔は……セトが知っているルーチェよりも、随分と大人びた少女に見えた。


 ……ルーチェの想いに、セトは以前から気がついていた。

 いつかこういう日が来るだろうと予測はついていたし……その時は、逃げずに応えようとも思っていた。

 それでも、いざ直面すると酷く心がざわつくものだ。

 この瞬間、セトを包んでいた『幼さ』という温かな膜が、パチンと音を立てて弾けて消えたような気さえした。


 セトはがらつく喉を通して、心の中から言葉を絞り出す。


「ごめん、ルーチェ。俺は、お前の事を命よりも大切に思ってる。けど……お前と同じ気持ちには、きっとなれない」

「……うん。知ってた」


 セトの予想とは裏腹に、ルーチェはいつもの変わらない優しい笑顔を浮かべて見せた。

 それはセトがどんな手を使ってでも守りたかった、大好きな笑顔だった。


「だからね、あたし……明日ここを出て行く事にしたの。あなたは良くても、あたしは今までと同じでは居られないから。」

「そんな……」

「と言っても、衝動的な行動じゃないのよ?ちゃんと自分で働き口を見つけて……ベルさんにも相談して、OKを貰ってる」


 余りに突然の事に言葉が見つからないセトをよそに、ルーチェは続ける。


「結構大変だったんだから。ウォーカー家がここの後ろ盾になってる以上、ベルさんが認めた勤め場所じゃない限り許可出来ないって言われて……気付いたら、探し始めてから一年経っちゃった。」

「それで、どこに行くんだよ」

「教えない。教えたら、きっと心配して見に来ちゃうでしょ?……それじゃダメなの。」


 セトは様々な感情が入り混じり……泣きたいような、可笑しいような心持ちで俯く。

 きっと応援するべきなのだろう。これまで自分や弟妹のために多くのこと費やしてくれた彼女が、ようやく自分の人生を歩み始めたのだ。

 兄……いや、彼女をずっと側で見てきたセトにとって、これほど喜ばしい事はない。

 それでも眼窩の奥が熱くなって、何故かうまく言葉を紡げないのが酷く情けなかった。


「ねぇ、こっちを向いて」


 隣に腰掛けていたルーチェがベンチから腰を上げ、月を背にしてセトの前に立った。

 彼女の言葉に、セトは目頭を指で拭ってから顔を上げる。

 ルーチェはセトの肩に両手を掛けると、少しだけ屈み……そっと唇を重ねた。


 まるで時が止まったようだった。

 僅かな風が揺らす髪と、遠くから聞こえる人の営みの音だけが、時の流れを感じさせる。


 やがて、どのくらいそうしていたのだろうか。セトにはやけに長く感じたが、ほんの数秒間の事だったのかもしれない。


 ゆっくりと体を起こしたルーチェが、してやったりの笑顔を向けてくる。


「こんなのじゃ、あなたにとっては何でもないのかも知れないけど……あたし、きっと成長してくるよ」


 ルーチェは後ろ手を組み、薄く口を開けたまま呆然としているセトにくるりと背を向け……そして、肩越しに振り返って言った。


「いつか、何としてでも手に入れたくなるような……そんな良い女になってやるから。覚悟しててよね?」


 セトの答えを待つこともなく、ルーチェは先ほど通ってきた扉の方へと歩いてゆく。


「俺は……!」


 セトは、混乱しながらも必死で声を張り上げた。


「俺も、家族も、ここに居るから!だから……困ったら、帰って来いよ!」

「……。」


 ルーチェは、ドアノブに手を掛けたままぴたりと動きを止める。

 数秒間の後に、ルーチェは震える声で言った。


「うん……ありがとう、お兄ちゃん。おやすみ!」


 そして、扉を開いて彼女は振り返ることなく室内に姿を消していった。

 それを見届けたセトは、頭を抱えてベンチの上に蹲る。


 後悔は尽きない。

 本当に返す言葉はあれで良かったのか?

 引き止めるべきではなかったのか?

 ……そんな考えが頭を巡るが、今更どうしようもない。


「お疲れさま」


 気がつくとセトの側にはベルが立っており、そう声を掛けてきた。


「……お前、まさか最初から聞いてたのか?」

「まぁね。一年半真面目に働いてくれた従業員の頼みを無下にはできないもの。」


 それからベルはベンチの端に腰を下ろすと、組んだ足の上に肘をついてにやにやとした表情を浮かべる。


「セト、あんたの負けね」

「はぁ……?」

「気付いてないの?あんた、顔真っ赤よ」


 ベルの言葉を聞いてようやくセトは自分の頬が上気し、熱を帯びている事に気が付いた。

 それが無性に恥ずかしくなり、肘の内側で顔を隠す。


「うるせぇよ、話し合いに勝ちも負けもないだろ」

「いいえ、負けよ。少なくともルーチェにとっては一世一代の大勝負だったんだから」


 ベルの口調は茶化すようなものではなく、一人の恋する少女に寄り添い続けた友人として、彼女の頑張りを称賛するものであった。


「……ベルは色々聞いてたんだろ」

「まぁ、そうね」

「ルーチェの行き先は大丈夫なんだろうな?」

「それはウォーカー家が保証するわ」

「ルーチェは……いや」


 ベルを質問攻めにしようとしていたセトはふと思い留まり、ため息をつく。


「俺はルーチェを守るつもりで、雁字搦めにしてたのかな」

「何よ、急に感傷的になって」

「そんなんじゃねぇよ。ただ……そろそろ俺も大人にならなきゃと思っただけ」


 セトはベンチから立ち上がり、数歩歩いてベランダを囲む柵にもたれかかる。

 柵の外には、いつもと変わらぬ日常の景色が広がっていた。


「……誓約生徒会カヴェナンターの方はどうするの?あんたの願いって、ルーチェを助ける事だったんでしょ?」

「続けるよ。けど、これからはルーチェ自身じゃなくて……あいつや、これから巣立つ弟妹達が帰る場所を守るために戦いたい」


 勿論、ベルが断らなければの話だけどな。

 そう続けたセトは、ベルが背後で立ち上がる気配を感じる。


「そう。ならお断りさせて頂くわね」

「……マジかよ」

「全員」

「はぁ……?」

「『セトを含めたウォーカー家に関わる人間全員』が生きる世界を守るため、なら協力するわ」


 ベルはそう言ってセトの隣に立つと、彼女らしい不敵な笑みを浮かべた。

 セトはそんな彼女に、一つ大きなため息をつく。


「お前って、本当に俺のこと好きだよな」

「否定はしないわ。」

「まぁ、何でも良いけど。……これからも宜しく」

「ええ。」


 そんなやりとりをしてから、セトとベルは握手を交わす。

 二人は雇用者と従業員。ビジネス上のパートナーの関係である。

 家族や友人と同列に語る事のできない二人だが……その間には、固い絆が間違いなく存在していた。


 少年少女たちの上で、夜は静かに更けてゆく。

 いつもと変わらない一日の終わり。

 多くの人にとっては、日常の一部に過ぎないある日の夜。

 けれども……とある三人にとって、その日は再出発の夜となるのであった。

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