第2話
通された寝室はシンプルな洋室だった。田舎の家なのに洋室だと違和感があったけれど、これは偏見というものだなと思い、口にはしなかった。
「好きなように使っていいからね」
祖母にそう言われたが、部屋にはベッドと本棚があるだけで、机もなかった。大きめのクローゼットがついていて、六畳ほどだろうけれどずいぶん広く感じる。
荷物を置いて僕は本棚の前に立った。本の背表紙を暇つぶしに眺めた。
カフカ、ドストエフスキー、夏目漱石。文学ばかりの本が置いてあって、あまり本を読まない僕には敷居が高く、いまいち興味を持てなかった。
ベッドに座ってスマホで父に連絡した。無事についたこと、祖父に線香をあげたこと。
父はどうして線香をあげなかったんだろう。聞きたくて仕方なかった。
絶縁した理由は教えられていなかった。これまでに二度、父に尋ねたことがある。最初は中学生の頃。
朝ごはんの時、父が梅干しを口に入れた時、訊いたのだ。けれど父は渋い顔をして、何も言わなかった。梅干しが酸っぱかったのか、それとも本当にイヤだったのかはわからないが、父は顔をしかめたまま、何も答えなかった。それは清々しいくらいの拒絶だった。父なりの「お前には教えられない」という意思表示だった。父は普段口数こそ少ないものの優しいだけに、そんな風に渋い顔で押し黙ったのは初めてだったので、軽はずみに尋ねた自分を恥じた。僕はそれ以来聞こうとはしなかった。
二度目。二度目はもちろん、今回の話を持ちだされた時だ。今まで絶縁状態だったところに、どうして行かなければいかないのか、絶縁の理由はなんなのか、それは解決されたのか。僕はこれまでの鬱憤を晴らすように、父に尋ねた。父は今度は黙ることはなかったけれど、梅干しを食べていないのに渋い顔をした。
父は「お前が自分で確かめてこい」とだけ僕に言った。それ以上の追求はできず、理由はついに教えてもらえなかった。僕は、仕方なくそれを飲み込み、祖母のところへ二泊三日で行くことにした。
そして結局、僕は何も教えられないままひとりでここにいる。
しばらくしても父からの返信はなく、やることもなくて、僕はSNSをのんびり見ていた。その時ノックの音がした後、ドアが開いた。
「ナナコの散歩に行ってくるから」
祖母がそう言いながら顔を出した。暇を持て余していた僕は立ち上がって、自分が行くことを提案した。祖母は少し考えた上で「そうかい、じゃあお願いしようかね」と言った。
庭に出るとナナコはすでに嬉しそうに尻尾を振って待っていた。祖母が短いリードに付け替えると、途端に歩き出した。少し引きずられながら、祖母が僕にリードを渡してきた。
「道はナナコが知っているから」
ナナコはリードの主が僕に変わった瞬間、お前が行くのか、と歩みを止めた。ジッと僕を見てきたかと思うと、まあいいかと妥協するように歩き出した。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
父以外にそんなことを言うのは初めてのような気がした。
庭を出て、ナナコがぐいぐいリードを引っ張りながら走りだすように歩いている。結構力が強くてリードを手のひらに巻きつけた。ナナコが飛び出そうとするたびにリードの紐が手をきつく締め付けてくる。
いつもの散歩コースなのか、ナナコの歩みには迷いがなかった。田んぼの方へ向かってその脇道を歩いていた。田んぼは夕方の柔らかい光を受けて、緑色の稲穂が元気に風で揺れていた。もうしばらくすれば、あれも年をとった老人みたいにふんわりするのだろう。
「あら、ナナコじゃねえか」
名前を呼ばれて、ナナコが尻尾を振った。田んぼの真向かいにあった畑に、おじさんが一人立っていた。畑仕事の途中なのか軍手をしていて、それは泥だらけだった。
「こんにちは」
誰だかわからないけれど、ナナコを知っているのだから近所の人なのかもしれないと僕は頭を下げた。当たり前だけれど、ナナコの方が僕より顔が広いのだ。おじさんは怪訝そうな顔をしながらも、僕に軽くお辞儀を見せてきた。ナナコはおじさんに近づくと、また尻尾を振っている。
「ばあちゃんはどうしたんだ」
おじさんが軍手を取って、しゃがみ込みながらナナコを撫でる。
「家にいます。今日は僕が、代わりに。僕……おばあちゃんの孫です」
「尚文さんとこの孫かあ? 初めてみたなあ、ずいぶんでかい孫がいたんだな、知らなかった。ああでも、そう言われると若いころのあの子らに似てるなあ。名前は?」
「健太です」
尚文が誰なのか咄嗟にわからなかった。目を瞬かせていると、それがようやく自分の祖父の名前なのだと見当がついた。
「正二郎のところの子どもかな?」
「はい、父です」
「ああ、戻ってきたんか。もう何年も見てないな。元気か、父ちゃんは」
「えっと、元気ですけど、父は来ていなくて。僕だけです」
そう言うと、おじさんは残念そうな顔をした。
「そうかあ。正二郎は来てないのか」
絶縁のことを知っているのだろうかと思ったけれど彼の態度からは読み取れなかった。
「尚文さんの時も来なかったし、賢一の時も来ないなんてな。本当に絶縁しちまってんのか。何があったんだか」
「賢一?」
僕が聞き返すと、驚いたようにおじさんがナナコから顔を上げた。
「正二郎の兄ちゃんさ。お前の伯父さんだな。線香あげに来たんじゃないのか?」
初耳だった。父に兄弟がいたなんて。
「亡くなったんですか?」
線香をあげに来た、と聞かれて僕は唖然としていた。父がわからなかった。知らなかったんだろうか。伯父さんだから関係ないとでも思っているのか。
「ああ、つい先月な」
「祖母の家の仏壇には、祖父だけでしたけど」
そういえば、祖母も僕になにも言わなかった。二人とも、伯父という血縁関係は遠いものと考えているんだろうか。
「そりゃあそうさ。仏さんは奥さんのところだから。なんだ、本当に知らなかったのか?」
「はい……」
「正二郎も知らなかったのかね? なんなら連絡してやりな」
そう言われて、僕は頷いた。
おじさんと別れて、ナナコについて散歩コースを歩きながら僕は考えた。なにかが上手く噛み合っておらず、言い知れぬ不安が僕取り込もうとしていた。
そこにナナコのハッハッハと呼吸の音が聞こてくる。規則正しいその呼吸に、少し落ち着きを取り戻した。そろそろ祖母の家が見えてきて、散歩は終わりらしかった。
庭に入るとナナコは俄然張り切って駆け出そうとした。慌ててリードを強く引いてそれを止める。自分の水飲み場まで僕のことを連れてくると、入っていた水を勢い良く飲み始めた。僕は僕で、ナナコの庭のリードを見つけて、それをその間に散歩用リードと交換した。
「おかえり、暑かったでしょう」
祖母が玄関から出てきて、そう声をかけてきた。僕はナナコを撫でて立ち上がった。
「いえ、大丈夫です」
「ご飯が出来てるから。ナナコもご飯ね」
ナナコがご飯に反応して、はちきれんばかりに尻尾を左右に振る。その顔が嬉しそうに笑っているように見える。表情豊かだ。
僕は家の中に入り、洗面台で手を洗った。洗面台の鏡には僕がいる。父は僕を見ると時々「母さんに似てきたな」と目を細める。どの辺が似ているのか自分ではわからないけど、目なのかもしれない。父が祖母と同じ目をしているように、僕も母と同じ目をしているのかもしれない。
キッチンに行くと、生暖かい空気で、安心する匂いに包まれていた。たくさんのおかずが並んでいて、僕は席について両手を合わせた。祖母も向かいの席に座って、同じようにする。
夕食の時でも祖母との会話は少なかった。なにを話していいのかわからなかった。大学のこと、父との生活のことを話し、そして話題が尽きると、とうとう散歩中に出会ったおじさんのことを話した。
「ああ、西のところか」
西、というのは名前だろうかと首を傾げてみせれば、祖母は、
「ここいらはみんな、川口っていう苗字だからね。屋号で呼び合うんだよ。うちは坂上」
「屋号?」
「どの家か判別するために、家ごとに名称をつけてるんだ。それを屋号と呼んでいるね」
そんなややこしいルールがあるなんて初めて知った。屋号をいっそ苗字にしてしまえばいいのに。
「おじさんが亡くなったって聞きました」
「西のところの?」
「いえ、僕の伯父さん。父さんのお兄さん」
そう言うと、祖母の表情が変わった。そうか、僕の伯父さんということは、この人の子どもなのだ。無神経なことをしたかもしれないと反省し、謝ろうと口を開こうとした時、祖母が言った。
「お父さんから、伯父さんのことはなにか聞いてるかい?」
「いいえ、僕に伯父さんがいたことも初耳でした」
「そう……まあ、先月のことだから」
祖母はそれきり、黙り込んだ。僕も黙って食事を続けた。
食べ終わってから、お皿を下げようとすると止められた。
「片付けはやるから、お風呂に入ってきなさい」
頷いて、二階に上がった。着替えを取りに部屋へ戻り、ふと父に伯父が亡くなったことを知らせなければと思った。知らなかったのなら、連絡しておいたほうがいい。スマホを見ると、祖母の家についたという連絡に対して、父からまだ返信が来ていないことに気づいた。
普段だったらすぐ返信があるはずなのに。少し心配になった時、まるでその心情を察したかのように、わかった、と短い返信が入った。僕はすぐに伯父が亡くなっていたことを返した。しばらくベッドに座って待っていたが、それきりスマホは鳴らなかった。
諦めて風呂に入ろうと立ち上がると、ベッドにタオルケットしかないことに気づいた。東京の夏ならこれで充分だけど、この地域の気候には少し肌寒いような気がした。クローゼットにもう一枚タオルケットか掛け布団はないだろうかと、引き扉を開けた。
目当ての物は見当たらなかった。代わりに面食らった。そこにはベビー服から子どもの玩具がたっぷり入っていた。どの年代を狙ったものなのかよくわからない。どこかの戦隊物のグッズがあったかと思えば、家庭用ゲーム機の箱が見えた。箱にはテープがしっかり貼られていたから、どれも未開封だとすぐにわかった。
この家には子どももいないのに、不気味に感じられた。積まれた箱はクローゼットに入っていたからか、ちっとも埃をかぶっていない。そういえば、伯父さんに子どもはいるんだろうか、と気づいた。その子は僕にとっての従兄弟になるはずだ。
何気なく、そのプレゼントを数えてみれば、ちょうど二十あった。はっとする。
これはもしかして、僕への贈り物なんだろうか。
伯父さんの子どもなら直接渡せるのに、それをしていないのは僕のためのものだったからか。それとも伯父さんとも絶縁しているのだろうか? いや、それなら田んぼで会った人が僕に教えてくれたに違いない。そもそも伯父さんはこの近くに住んでいたんだから、仲は悪くなかったはずだ。
住所を知らなくて送れなかったのか、父との絶縁のせいで送らなかったのかはわからないが、とにかくそれは孫へプレゼントするために買い集められたものだった。複雑な表情だった祖母を思い出して、僕は少しかわいそうに思った。大事にしたいものを大事にできないのは、寂しいし悲しい。
興味本位でクローゼットの左側にあった引き出しを開けると、そこは新品の玩具とはまた違ったものだった。古いアルバムだ。取り出して開いてみれば、家族四人の写真が写っていた。少年が二人と、母親と父親。
その一番小さい少年が父だ、と感じた。不思議なものだ。写真の中の少年は僕より年下に見える。きっとまだ中学生くらいだろう。その隣には父より背が高く、優しそうな顔をした少年がいた。この人がきっと自分の伯父なのだろう。名前は確か賢一と言ったか。
父はこの人とも縁を切っていたんだろうか。いや、そうか。祖父が亡くなったのを知っていたのは、もしかしたら伯父から連絡が行っていたのかもしれない。だから、伯父と連絡が取れなくなって、心配して僕をここに送ったのだろう。
なんだか合点がいって、すっきりした気分になった。
大事にしまわれていたアルバムを戻し、ふと、伯父さんはどうして亡くなったのかをまだ聞いていないことを思い出した。
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