Pedigree

朋峰

第1話

 祖母と初めて顔を合わせた時、僕はなんと二十歳だった。

 選挙権を貰って、飲酒に喫煙すらできる年齢で、初めて自分の祖母に出会うのはなんとも奇妙な感覚だった。

 だってその辺りの道端ですれ違ったとしても、この人が家族なんだとは気づけない。赤の他人と同じ感覚なのに、同じ血が流れているらしいというのは、なんというか、腑に落ちない。

「健太、お前、俺の田舎に行ってこい」

 大学での二回目の夏休みだった。友達と遊びにいく計画をしている中、突然父親に言われたのは自分の田舎へいけ、だった。

「泊まるところはお前の祖母にお願いしてある」

 渡された田舎の住所を見つめながら、青天の霹靂という言葉が浮かび、僕は狼狽えた。

 祖母とはいえ、いきなり知らない人間と二人きりになるのは気まずい。同世代ならまだしも、お年寄りなんてめったに話すこともない。誰かしらクッション役が欲しかった。

 けれどそのクッション役になるはずの父には断られた。自分の母親であるのに、会いたくないと首を横に振った。理不尽な仕打ちだったが、僕は父を責める気になれなかった。僕が生まれる前に絶縁していると聞いていたので、強く言えなかった。だからこそ、今まで一度も祖母に会ったことはなかったのだ。かといって、母は僕が生まれてすぐに交通事故で亡くなっているから、クッション候補は父ひとりだけだった。

「父さんがいかないなら、僕もいかないよ」と言ってみるとなぜか父は悲しそうな、安心したような顔をした。けれど考え直したように言った。

「お前はいかなくてはいけない。祖母に会えるうちに会っておけ」

 父は頑固だった。子供の頃からそうだ。言ったことはやり遂げるタイプなのだと思う。

 小学校の三者面談で先生が「お母さんがいなくて寂しいと思うけど」と口を滑らした時、「いえ、こいつは大丈夫です。寂しくはありません」と言い切るような人だ。

 たしかに父子家庭だったけれど、小学校まではどうにかやりくりしてくれていたのだろう。学校から帰ると必ず家には父がいた。僕はひとりになることはなかった。父は自分自身で言ったことを、きっちり守っている人だった。

 そして中学にあがる頃、父は「これからは一緒にいてやれない」と言った。父は約束を破る時には正直に話してきたのだ。中学生ながら、僕はそれを理解していたし、父にべったりする年でもなかったので、素直に頷いた。

「別に寂しくないよ」

 その言葉を受けてなのか、父はどんどん忙しくなっていった。僕は自分で食事の用意をするようになった。たまに父の分も用意する。父の帰りは遅かった。僕も部活で早く家を出るようになって、だんだん生活がすれ違っていった。

 おかげで反抗期、というものを迎えたのに反抗する相手との時間はなかった。

 高校の頃になると父と顔を合わすのは休みの日、朝食の時だけだった。だからといってなにを話すわけでもない。食事をしながら、僕らは無言のことも多かった。ときおり学校のことを話したし、父は僕の話を静かに聞いていた。そして父が話すことは、だいたい夕食の献立のことだった。

 父はいつも俯いて話す。あまり僕の顔を見てくることはなかった。たまに目が合うと、じっと僕の目を見つめてきて、母さんに似てきたな、と笑う。

 そういう静かな人だった。なにを考えているのかいまいちわからないし、それが普通なのかもわからなかった。

 父親との距離感というのは、これが普通なのだろうかと考えることもあるが、答えはなかった。

 そういえば一度だけ大変怒られたことがある。それまで叱られたり、注意を受けたりすることはあったけれど、本気で怒られた、と感じたのはあれが初めてのことだ。

 大学に入って、初めての飲み会で酒の飲み方も知らず、酔っ払って、何の連絡もせずに友達の家に泊まった。家に帰って父に酒を飲み過ぎて友人の家に泊まった、というと怒鳴られた。

「なにを考えているんだ、お前は」

 見たこともない形相だった。まるで重罪を犯したかのようだった。それまで温厚だと思っていた父が怒鳴ったことに対して、僕は驚いたし、それから同時にどうしてそんなに怒るのかと思った。未成年の飲酒は、大学では誰もがやっていることだったのに。

 怒鳴るほど酒に厳しいなんて初めて知った。父だって、時々だけれど酒を飲んでいる。未成年の飲酒がダメだったのか、連絡をせずに泊まったのがダメだったのか。とにかく僕は父がそんな風に怒ることに驚いて、それきり酒をやめてしまった。

 そんな父が突然に祖母に会いに行け、と言ったことには一体どんな意味があるんだろうか。

 イヤだ、と断ることもできたのかもしれない。けれど結局、僕はそうしなかった。自分の祖母だという人物に気まずさを覚えながらも興味があった。母方の祖父母はとうに亡くなっていると聞いていた。僕の家族はこれまで父だけだったから、家族が増えるならそれはそれで、良いことのように思えたのだ。

 だからわざわざ新幹線で二時間もかけて、電車を乗り継いでさらにまた一時間、そしてさらに駅からバスに乗って三十分の田舎にやってきた。朝に出てきたはずなのに、すでに昼を過ぎていた。田舎って遠いんだな、とバスを降りた時にため息を付いた。祖母の家はバス停からさらに二十分ほど歩いたところにあった。

「はじめまして、健太です」

「ああ、よく来たねえ」

 祖母は腰が少し曲がっていたけれど、見る限りまだ元気そうで、複雑な表情で僕を迎えてくれた。笑っているけれど、どう接していいのか困ったような笑顔。歓迎されていないわけではないけれど、彼女もなにか思う所があるらしいとはっきり読み取れた。

「大きいねえ、今年で二十歳だったかな」

 目を細めながら、祖母が僕に聞いてきた。

「はい、五月が誕生日だったので」

 祖母とはいえ、いきなり打ち解けられるはずがない。僕は大学の教授よりも他人のように感じて、敬語で返事をした。

「そうかい、こんな田舎じゃなにもないけど、ゆっくりしていってね」

 バス停から歩いてくる間、田んぼばかりで民家は一、二軒ほどだった。もちろんコンビニもなかった。

 でも日光を遮る木々もなかったが、思っていたより暑くはなかった。これなら東京のほうが暑い。

 祖母の家は、思っていたより新しかった。田舎の一軒家じゃ、古民家みたいのを想像していたが、普通の二階建ての家だった。僕が父さんと住んでいる東京の一軒家より、もう二回り大きく、祖母ひとりで住んでいるのかと思うと無駄な気がした。綺麗に手入れされている芝生の庭も広く、もう一軒、家が建てられそうだった。その庭にぽつんと座っている柴犬がいた。僕らに気づいて、腰を上げると尻尾を振っている。

「ナナコだよ」

 それがこの犬の名前らしかった。笑っているような顔で、舌をだらんと垂らしている。柴犬は軽い足取りで祖母の足元までやってきた。よく見れば繋がれているけれど、そのリードはずいぶん長い。庭中を走り回れるようにしているらしい。

「ほら、健太くんだよ」

 ナナコの頭を撫でながら、祖母が僕を見た。その時、僕も初めて祖母の顔をまじまじと見た。シワの中にある、目尻の下がった目。気弱そうにも、優しそうにも取れる目。その目は、父だった。思わずたじろいだ。実感だったのか、ショックだったのか、僕はようやく彼女が父と血が繋がっているのだと気がついた。

「さあ、暑くて疲れたでしょう。お茶でも飲もうか」

 祖母がそう言って家の中に入っていく。ショルダーバッグを抱え直しながら、それについて行った。

 案内されたのはダイニングキッチンだった。広めのキッチンの真ん中に二人用の小さめのテーブルが置いてある。僕は床に荷物を置いて、そのテーブルに向かった。

「麦茶でいいかな」

「はい」

 コップに冷たい麦茶をついでもらい、それを受け取ると口をつける前に僕は聞いた。

「あの……おじいちゃんにお線香あげたいんですけど」

 父から祖父は亡くなっていると聞いていた。僕の一族は早死の家系なのかもしれないな、と思った。

「ああ、そうしてくれるの? 良い子だね、そうだね、こっちだよ」

 居間に通されると、そこに黒い立派な仏壇があった。その真ん中に収められた遺影には、気難しそうな顔をした老人がいる。いかにも厳格そうな男だった。彼が僕の祖父なのだ。

 祖母がろうそくに火をつけてくれた。仏壇の前に置かれた座布団に正座で座り、僕は線香に火をつけた。線香の先が赤くなり、頼りない煙が小さな糸のように揺らめいた。祖母が呟く。

「もう三年前だね、おじいさんが亡くなったのは」

「そうなんですか。会えなくて残念です」

 それはある程度は本心だった。会ってみたかった、と思った。でもその死を悲しむには他人過ぎた。鈴を鳴らし、手を合わせ、そして座布団から立ち上がる。それから父を思い出した。

「父は来ましたか?」

 父は、祖父に線香を上げに来たんだろうか。祖母はため息とともに、

「いいえ、一度も」

 線香すらあげに来ないなんて、絶縁は本当らしかった。

「お父さんは元気かい?」

 祖母の言葉に僕は頷いた。祖母が知らなかったのは意外だった。連絡くらい取っていると思っていた。

「急に手紙が来て、健太くんが来るってだけだったからね。それが二十年振りの手紙だったから」

 僕の訝しげな表情を見てか、苦笑いで祖母はキッチンに向かった。それを聞いて、それならいったい父はどうして祖父の死を知っていたんだろうかと不思議に思った。

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