ルナ




 そこは、青い青い星だった。

 けれどもここには何もない。ほんのりと、太陽の光を取り込んで白い光を放つだけ。

 青い星の人々は、私の住む星を見上げて月と呼んだ。私はその、月の女神として存在している。

 青い星の人々が、太陽の明かりが得られない間も、暗闇に飲まれてしまわないよう、優しい光で照らし続けるのが私の仕事。……時折、雲が私の光を隠してしまって天の神々に叱られてしまうこともあるけれど。

 何もない、そこが私の場所。


 そんな世界が嫌で嫌で仕方がなくて……光の湖に飛び込み、青い星へ逃げ出してしまった。天の神々は私の非行を責めるだろうけれど……ほんのひと時、あの青い星の色を感じてみたい。

 私の心は止められなかった。

 湖から抜けた先は、とても美しい場所だ。

 緑色の乾いた音を鳴らすものを、いっぱいに実らせた……木という植物が一面に出迎え、私の場所からはあんなに青く見えていたものは実は透明で、とてもしょっぱい。

 色とりどりの美しい花々や小鳥の囀り……虫たちのざわめき。

 そのどれもが、私の心を躍らせるに十分なものだ。

 つま先を撫でる青い匂いの草を蹴って、色とりどりの香りに満ちた風に抱かれながら、私は駆ける。

 自由だ、私は自由だ!

 そう、心の底から叫びたくて仕方がないほどに、ひどく心が高揚していた。……月にいた時には嘘のよう。

 澄んだ湖に体を浸し、指がきらめく水を纏って弧を描き、波を起こす。ひんやりとした水に抱かれて、そっと目を閉じた。


 ……ふと、誰かの声がする。

 大木のように、しっかりとした……優しい声。

 目を開けると私の体は水の中から陸の上にあり、じっ、と深い翠の目で見つめる、ひとりの美しい男がいた。

 薄いドレスは濡れて、肌の色が透ける。今までは何とも思わなかったのに……とたんに恥ずかしくなって声を上げると、彼もまた驚いた声を上げた。

 それがとてもおかしくて……ふたりで、声をあげて笑う。誰かとこうして笑い合えるのは、どれくらいぶりだろう。天の神々は、こんな風に私と顔を合わせて、子供のように笑ってはくれない。

 それから二人で、野原を歩きながら何気ない会話をした。

 彼はこの先にある村の、とても裕福な男らしい。父と母、姉と弟、妹がいる。好きなのは、鳩とりんごのパイ……菜の花、家で飼っている大きな犬。

 彼はとても魅力的な男性だった。このまま……空に帰ることなくここに、人間としていられたら。彼の笑顔を見るたび、そんな夢物語が浮かんでは消え、そして……日が沈み、星が瞬く頃になると、本来なら私が輝かせる白い月の浮かんでいるはずの……何もない、暗い……どこまでも暗い空を見上げて、それは叶わない幻想なのだと諦める。

 きっと、今頃夜の闇に紛れて良くないものが……人間も、それ以外も姿を見せているはずだから。

「また会えますか?」

 彼は尋ねた。

 新月の頃でもないのに、晴れているのに姿を見せない月を、彼は不思議に思うだろうか?……その原因が、まぎれもない私なのだと知ったら、彼は私をどう思うだろうか。


 私は唇を噛んで、首を振った。

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