第7話

 訓練室前に、水下愛はいた。入り口に寄りかかって私を見つけるとなにか言いたげに口を開いたが、なにも言わなかった。昨日で終わりといったのに、彼女は今日も来た。私を待っていた。

 そうして、私もここに来てしまった。

 私が来ると思っていたんだろうか。頭を掻いて、彼女に近づいた。


「昨日は突き飛ばしてごめんなさい」


 素直に謝った。間違ったことを言ったとは思っていないが、大人の取るような態度ではなかった。これまでだって彼女に対して大人として振る舞えていない。

 彼女は首を横に振ると、頭を下げてきた。


「あの、私もすみませんでした。妹さんのこととか、一方的にお願いしているのに、自分ばっかり熱くなって」

「私も悪かったよ。教えるって言ったのに中途半端だった。月子のことは久しぶりに名前を聞いて動揺してしまっただけだし、気にしないで」

「はい……」

「…………」

 不自然な沈黙が続いた。どう話を切り出していいか迷ってしまっている。けれど、ここは大人の私が切り出すべきだ。


「それで、今後のレッスンなんだけど。お父さんに嘘ついてたんだってね」


 水下愛は、苦笑いを見せた。


「はい、案外簡単にバレちゃいました。出てしまえばこっちのものだと思ったんですが。さっさと地球に帰って来いって怒られました」


 思っていたよりもあっさり言うので、バレるのを覚悟していたのかもしれない。


「じゃ、帰るんだ?」

「ええ、そうですね」

「リハビリは?」

「……怪我のこと、聞いたんですか」


 水下愛が諦めたように、こちらを見つめてきた。


「リハビリはもう終わってるんです。怪我も生活には問題ないです」

「あのさ、それって……シンクロ? とかいうやつ、もうできないくらい酷いの?」


 踏み込んだ質問だったけれど、やっぱり確認しておきたい。シンクロの代わりにダンスをする気なら止めておきたかった。それはヤケになって自殺するのと同じようなものだから。


「どうしてそんなことを聞くんですか?」


 水下愛は嫌そうに顔をしかめた。


「言いたくなきゃ、別にいいけど」


 気まずくなってそう言ったが、彼女は勇敢だった。


「正直に言うと、もう少し様子を見ないとわからないんです。でも、プロとして続けていくことは無理でしょうね」

「そう。だからシンクロには戻らないんだ」


 水下愛は少し動揺したように、唇を噛んだ。


「というより、パートナーがいないんです」


 沈黙の後、彼女はそう言った。


「私、パートナーの子と二人で、デュエットの大会に出てました。もちろんソロとかチームで出ることもありましたけど、その子とは息ぴったりで最強でした。たくさんの大会に出て、優勝して、その内マスコミとかにマーメイドなんてアダ名付けられて」


 なんだか私と月子を思い出す。もっとも呼び名を付けられたのは月子だけだったけれど。

 まくし立てるように話していた水下愛は、ふう、とひと息ついた。


「強化選手に二人とも選ばれました。嬉しかったです。未成年で選ばれたのは私と彼女だけ。でも、私は怪我をして、強化選手リストから外れました。私の年齢にはオーバーワークで怪我をする選手が多いんですって」

「…………」

「でも、もうやめようと思ったのは……パートナーの子が、私が怪我をしたと分かるとすぐに違う子とデュエットを組んで、大会に出始めたからです」


 泣き出しそうな笑顔だった。水下愛もわかっているのだ。私にだってわかる。その子が裏切り者とか、薄情者じゃないってことくらい。


「怒っていたのか、嫉妬なのか、悲しかったのか。多分全部なんですけど。そういうの全部ひっくるめて、もうやめようと思ったんです。だって、私、その子がパートナーを変えた気持ち、よく分かるから」


 水下愛は涙声になっていた。俯いて話し続ける。


「だって、私もそうしてました。彼女が怪我をしたら」


 そう、それは当たり前のことだ。世界で戦うなら、当然のことだ。

 それでも悲痛な声だった。泣くのを我慢するかのような沈黙の後、水下愛は顔を上げた。


「だから、シンクロをやめてスペースダンスをやろうと思ったんです。怪我の治療でせっかくこっちに来られるし、シンクロとスペースダンスってすごく似ているでしょう?」


 シンクロのことなんてちっとも知らない私からすると、全然わからない。どちらかというと、スペースダンスはよくフィギュアスケートにたとえられることが多い。

 とはいえ、水下愛の苦戦を見ると思うことはひとつだったので、素直に伝えた。


「でも、全然違うんでしょ」


 苦笑いを見せて、水下愛はため息をついた。


「ホントに。こんなに難しいなんて思いもしなかったです。早めに実績作って、父を納得させようと思ってたんですけど」


 ああ、だからあんなに焦っていたのか。ようやく大会に出たがっていた真意が見えて、私は納得する。


「……もうわからないんです。やりたいのはシンクロのはずなのに、続けられないなんて。秋月さんたちの演技を見て、綺麗だなと思ったのは本当です。でも、自分でやりたいと思ったことはなかった。好きか嫌いかで言えばダンスは嫌いじゃないけど、情熱というか、そういうものがないから余計焦っていたんです。頑張っていればなんとかそういう気持ちが後からついてくるんじゃないかって」


 彼女の言っていること、よくわかる。

 情熱。のめり込むような、夢中になるようなあの気持ち。一度味わってしまったら、追わずにはいられない。

 けれどそれを取り上げられて、全く別のなにかをやらなきゃいけなくなったらどうだろう。楽しくないわけじゃないけれど、わくわくしない。あの甘美な気持ちを知っているから、なにをしてもこんなんじゃない、と思ってしまう。

 でも、頑張らなくちゃいけないから必死になる。必死になって余計な力が入って、そして失敗する。そういう軌道に乗ってしまうと出ることすらままならず、グルグル回り続けなければいけない。


「実際にやってみて、夢中になれなかった?」

「ぜんっぜんダメです。だって、ちっともできないんですよ? 水の中ならあんなに気分よく動けるのに、いきなりこんな機械つけてそれで動けって」


 正直な彼女に思わず吹き出す。そりゃそうだ。なんだって似てるなんて思ったんだろう。


「でも、秋月さんに重心のことを教えてもらって、徹夜しちゃいましたけど、初めて真っ直ぐ進めたときは気持ちよかったんです。少し……期待しました」

「そっか」

「せっかく真っ直ぐ進めたんですけどね」


 諦めきれないような顔をしている水下愛を見て、尋ねる。


「怪我、ダンスをしても影響はないのね?」


 私の質問に不思議そうな顔をしながら、水下愛が答えた。


「ええ、負担の少ないスポーツですし……」

「でも諦めて帰るんだ」

「それ、続けろって言ってるんですか?」

「別に。ただ、あんだけ散々必死ですアピールしてたのに、やめる時はあっさりだなと思って」


 そう言いながら、自分に驚いていた。私だって彼女のことは言えない。だってあれだけ危険だからやめろって言っていたのに、今は彼女を引き止めるようなことを言っている。

 でも、それがなぜなのかはわかっていた。

 アランが言ってたことを思い出す。

 ――なにかを教えるというのは、そいつ自身のことも知らないといけないんじゃないかな。

 私は知らなかったし、知ろうともしなかった。なぜ彼女がダンスをやりたいのか。なぜ彼女がそんなに必死なのか。そして今、ようやく彼女のことを知ったのだ。つまり、これまでの私は自分の義務を果たしていなかった。


「水下さんが、続けたいなら私は手伝うよ」


 選択権は彼女にあるのだ。彼女はおずおずと尋ねてきた。


「……夢中じゃなくても?」

「情熱がなくても、夢中じゃなくても、真剣ならきっとできるよ」


 私も同じだ。ずっと振り回されている。まるで星の軌道に乗ってしまったかのように、全然関係ないところから力が加わらないと、もうそこから抜け出せない。永遠にさまよい続けるだけ。

 ――なら、私と彼女は、お互いに外へと向かう力になれるだろうか。ぶつかって、お互いの推進力で軌道から出られるだろうか。

 そんなことを思いついてゾッとした。一体どうしてしまったのか。こんな子どもに頼ろうとするなんて。私はもう三十になる大人なのに。

 それでも、お互いがそうなら、と思った。


「本当にやりたいことなのかどうかまだわからないんでしょ。でもやりたくないとは思ってなさそうだし」

「それはそうですけど」


 お互いに、軌道を彷徨っているのならば、やってみる価値はあるんじゃないか。そうすれば私もここから、ちゃんと生きていけるような気がした。

 水下愛に笑ってみせた。大人の強がりの笑顔だった。


「だったら、それを確かめるべきなんじゃない」

 どうしたらいいか、わからないなら。

 本当は向いていないんじゃないか、もうダメなんじゃないかと疑いながら、やってみるしかないのだ。

 そうだ、きっと全然向いてなかったと見切りをつけるためにも、途中でやめるわけにはいかないのだ。


「水下さんにやる気があるなら、私はレッスンを続ける。死ぬかもしれない覚悟があるなら、大会にだって出る。どう?」

「お願いした時はやりたくないと言って、やめるといえば続けろなんて、ずいぶん天の邪鬼なんですね」

「そうよ。スペースダンサーなんてね、命綱を自ら外した大馬鹿者なんだから。外すなって言われれば、外したくなるものなのよ」


 開き直れたのは、やっぱりどこかでやけくそだからなのだと思う。それか月子が残していった重たさに引きずられるのは、もういい加減、愛想がつきたのかもしれない。私だって、やり続ける新しい理由が欲しかった。

 水下愛は、少し俯いて考えた後、顔を上げた。


「やります。嫌いかもしれないし、情熱なんてないけど……でもきっと、続けてみないと見えてこないものがあるから」


 続ける。そう、それが一番難しいことだった。でも投げ出すのはいつでもできるはずだ。それでも躍起になって、続けてみようと思えるのなら。もがいて見ようと思えるなら。それでも、と思えるのなら。

 ――もう少しだけ、やってみていいはずだ。


「もちろん大会も出るんだよね」

「そりゃ目標がないと、頑張れないですから」


 水下愛の言葉に、私はもう一度念を押して確認する。


「命懸けの意味、わかってる? ホントに死ぬよ? 去年の死亡事故はプロの大会だけで二件。その他の事故は二十件くらいだよ?」

「わかってないと思います。死ぬ間際になったら後悔するかも。でもそれと同じくらい、ここでやめたらずーっと何十年もしんどいんだと思うんで」


 高校生に命の覚悟を問うなんてバカげている。いい大人なら止めるべきなのに。次に口から出たのは、本当に呆れるしかない言葉だった。


「でも、次に徹夜したら速攻中止だから」


 釘を差して、私は水下愛に笑いかけた。彼女もにっこり笑い返してくる。四日間、何度もこうやって向き合ってきたはずなのに、私はそのとき初めて水下愛を見た気がして、目がちかちかした。

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