第6話

 無重力フィールドはすでに装置が起動していた。二重扉の内側に赤く「Gravityzero」の文字が表示されている。二つ目の扉が開くと、ふわりと身体が浮き上がり、設置された手摺を頼りに室内に入った。

 水下愛が不安定に浮いていた。身体のバランスを取りながら、推進剤を使って壁にぶつからないよう何とか方向転換する。

 正直、驚きですぐに声をかけられなかった。まだふらついていて頼りないけれど、昨日のアドバイスだけでここまで出来るようになるとは思わなかった。だって三日かけてできなかったのに。急にどうしたんだろうか。これがコツを掴んだ、というやつか。


「あ、秋月さん」


 水下愛が私に気づいて、こちらにやってきた。ゆっくりと慎重に推進剤を噴射しているところを見ると、まだスピードを出せないらしい。


「どうしちゃったの。いきなり」


 思わずそう声をかけると、水下愛は息を弾ませながら笑った。


「秋月さんに言われたことがようやくわかったんです。水の中みたいに足や腕の振りでバランスをとるんじゃなくて進んでいる方向に逆らわず、それを利用するんだって」

「そう」


 嬉しそうに語る彼女に、私は頷いた。それから昨日のことを謝ろうとして――気づいた。まじまじと彼女を見る。

 気のせいかと思ったが、やっぱり同じだ。彼女は昨日と同じ服を着ている。チェックの赤いシャツ。年頃の女の子が同じ服を毎日着てくるとは思えない。


「昨日、何時に帰った?」


 思わず声が低くなる。私の質問に水下愛はきょとんとしている。


「え? ええと……」

「帰ってないでしょ」

「…………」


 黙り込んだ彼女。図星だったらしい。


「昨日からずっとやってたの? 一睡もせずに? バカなの?」


 段々語気が荒くなっていくのを止められなかった。けど、それは一番やってはいけないことだった。


「だ、だって、今日できなかったら終わりって」


 くだらない言い訳を聞かされて、頭に血が上った。どんっと彼女を突き飛ばす。体勢を崩した彼女は、それでももう無意識化に刷り込まれていたのかすぐに推進剤でバランスを取った。


「宇宙に行くのに徹夜で行くつもりなの? あなた一人ならいいよ、勝手に死ねばいいもの。でも、あなたが出る大会はデュエットでしょ? 頭の鈍った状態で、的確な判断ができるとは思えない。事故につながるんだよ。私だったら徹夜するような人とは組みたくない」


 パートナー同士の衝突事故だって毎年何件か報告されているのに。コンディションが万全でない状態ならそんなものいくら技が決まったって意味がないのだ。

 月子のことを知っているくせに、どうしてこんなことができるのか。信じられなかった。


「秋月さんが勝手にやめようとするからじゃない!」


 彼女が取り乱したように叫んできた。


「だから……だから必死に……」

「一日徹夜でできるようなことを、この三日できなかったってことは、手を抜いてたんだよ。終わりって言われて必死になってできるようになるなら、頑張り方が違う。昨日私は遊びで自分は真剣だって言ってたけど、徹夜してまで頑張るなんてあなたのほうがよっぽどお遊びじゃない」

「違う……」


 唸るように彼女がそう言った。私はそんなことは無視して、訓練室から出て行く。


「とにかくもう終わり。これ以上教えられない」

「そんな! 待ってください、秋月さん! お願いします、私」


 懇願するような声を受けて、私は振り返った。謝ろうと思っていたのにそんな気持ちはどこかへ行ってしまった。どうしても許せなくて、辛辣に言い捨てた。


「宇宙は遊びじゃない」

 訓練室から出たものの、腹の底で嫌な気分が渦巻いている。吐き出してしまいたいが、どうすれば吐き出せるのかも分からず、それを抱えたまま、事務所の廊下を足早に歩いた。


「秋月、どうしたんだ? 今日は練習ないの?」

 光子郎だった。相変わらず昔の日本人サラリーマンのような格好で近くにやって来る。


「もう終しまい。今日で終わりなの」

「は?」


 面食らったように光子郎が聞き返してきた。私はもごもごと言い訳をする。


「だから、もうやめたの。あの子必死過ぎるし、その割に中途半端っていうか……」

「秋月。あの子はまだ十六だよ。なにをしたか知らないけど、大人が簡単に放り投げるな」


 窘めるようにそう言われて、私は黙った。そんなことは分かっている。私がダメな大人だっていうのも、分かっている。でも、どうしても、命を粗末にしているようにしか見えないのだ。


「放り投げてなんかいない。あの子、徹夜で練習してたの」


 光子郎だってわかるはずだ。それがどれだけ恐ろしいことか。私は言い訳を続ける。


「宇宙に出るっていうのに、命懸けだっていうのに、意味のない徹夜だよ? 自殺行為じゃない。危機管理ができない人を宇宙に連れて行くことはできないでしょ。あんなんじゃ、本気で大会に行くなんて思ってないだろうし」

「秋月、あのさ」

「私が真剣にやってないだの、自分は真剣だの言うし。ただの子どもじゃない。全然才能もないし、宇宙に夢見すぎ……」

「おい、聞けって」


 光子郎に腕を掴まれて、顔を上げる。光子郎は小さくため息をついている。それから思案するかのように一度天井を仰ぐと、口を開いた。


「伝えておくか迷ったけど、一応言っとく。あの子は、結構有名人なんだよ」

「なにそれ?」

「水下愛は、シンクロで有名な選手なんだ」

「シンクロって、シンクロナイズドスイミング?」

「そうだよ。俺も詳しくないから、よく知っているわけじゃないけど。いわゆる天才だったらしいよ。マーメイドなんて呼ばれてね。大会で何度も優勝しているし、強化選手にも選ばれていたみたいだし」

「はあ? だったらそっちやればいいじゃない、なんだってダンスなんか……」


 そこまで言って、口をつぐんだ。

 どうしてもうシンクロをしないのか。どうしてスペースダンスなのか。少し想像すれば分かることだった。かっこいいだけじゃない。引退した人達がこぞって飛びついたスポーツなのだから。


「怪我してるの?」

「膝が悪いそうだ」

「歩くのは問題なさそうだけど」

「まだ日常生活に支障を来すほどじゃないんだろう。でもドクターストップがかかって、強化選手リストから外されたと聞いている。それから高校を一年休学してこっちに来たんだと。こっちでしばらくリハビリをしていたらしい」

 休学している、と聞いてはっとした。そうだ、高校生のはずなのに。学校に通っていないのかなんて私は一度も思いつきもしなかった。

「じゃあ、ダンスをしてるのは、シンクロがもうできないからで、シンクロの代わりってこと」

「それは本人に聞くべきだけど、なにか思うところはあったんじゃないか」

「…………」


 私は黙りこんで、水下愛のことを考えた。水下愛はどんな気持ちだったんだろう。自分が頑張ってきたシンクロがもうできなくなって。代わりを見つけようともがいたのだろうか。

 もがいて、見つけたのがスペースダンスだった。似ているとでも思ったのか。それこそナメてる。

 でも練習を始めて、たった三日で才能がないと言われて。挙句の果てに――私にはそんなつもりもなかったけれど――これしかなかった、と言われれば、きっと自慢のように聞こえたに違いない。


「秋月、不本意かもしれないけどさ。あの子の面倒を見なきゃしばらく大会には出られないんだし、やるしかないんじゃないか」


 光子郎の言葉に社長との約束を思い出す。たしかにそうだ。


「人の苦労も知らないで……」

「まあ、俺にはわからないよ、秋月の苦労は。言うだけなら簡単だよ。でも、口にするのも大事だろ。秋月はあの子を応援してやれよ」

「なんでそんなにあの子の肩を持つわけ」

「あの子のためじゃない。秋月がなんでダンスを続けてるのか、俺はちゃんと答えを出してほしいだけだよ」


 その言葉を聞いて、光子郎を見つめる。もしかしたら光子郎は気づいているのかもしれない。私がここ数年、なににもがいているのか。


「俺、秋月にダンスは続けてほしいけど。お前が大会に出られないって聞いたとき、正直ホッとしたよ。やけくそで外に出てなにかあったらって、毎回すごく怖かった。この前の大会だって、本当は心臓が止まるかと思った」

「そんなこと今まで一度も言わなかったじゃん」


 この間食事をしたときだって、平然としていたのに。光子郎の頬骨がぐっと動いたのを見て、彼が奥歯を噛み締めたのだと気づく。


「俺には秋月を止める権利も責任もないけど。でも、今の秋月の状態は俺に責任があると思う」

「どういうこと?」


 光子郎の喉元が動いて、かすれた声が絞り出された。


「月子が」


 墓参り以外で、彼から妹の名前を聞くのは初めてかもしれない。月子の墓は地球にある。日本の、私たちが生まれた場所に。両親が管理しているその場所に、私と光子郎は毎年地球へ帰り、墓参りをする。そこでも私たちはほとんど月子のことを話さないのに。

 月子の名前を聞くのはここ数日で二回目だ。どうして今、ここで切り出されたのだろう。


「月子が、あの大会に出場したいって言ったとき、俺、止めなかった」

「え?」


 どういう意味か聞き返そうとしたとき、光子郎の後ろから社長の姿が見えた。


「満子、ここにいたのか」


 光子郎は我に返ったように社長を振り返ると、話の途中だというのに頭を下げて足早に行ってしまった。タイミングの悪さに思わず社長を睨みつける。しかし彼は気づかずに話し始めた。


「満子、愛ちゃんのことなんだが」


 練習をやめたことがもう耳に入って怒られるのかと身構えたが、社長はバツが悪そうにハゲた頭を撫でながら言った。


「あー、あの、レッスンのことだが。あれ、やめだ。ダンスレッスン

やめていい」

「……は?」


 一瞬、さっきのことを水下愛が伝えたのかと思ったが、そうじゃなかった。


「愛ちゃんのオヤジさんから連絡があってな。大会に出るなんて聞いてなかったそうだ。なんでもダンス教室に通うだけだと思ってたんだと。室内でやる分には構わんが、外でやるのは許してなかったんだ」


 水下愛は、さも当然のように大会に出ると言っていたが、両親の許可は取っていなかった。開いた口が塞がらない。


「な、なに考えてるんですか、あの子」

「まあ、まだ子供だからなあ」

「だからって命惜しくないんですかね。そうとうなバカなのか、ぶっとんでるのか……おとなしそうな顔して」

「とにかく、もうレッスンはやらなくていいから。今日で最後だ。ダンス教室の方を手配しておくよ。それに、お前の大会の件も考え直すから」


 その言葉に徹夜で練習していた彼女を思い出す。自業自得とはいえ、彼女の努力は全て水の泡になったわけだ。

 もう教えなくてよいという安堵と、なんだか複雑な罪悪感が胸の中でざわついた。

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