第5話
「はぁっ……」
昨日の大人気なかった自分への苛立ちをエネルギーにして、二百メートルを泳ぎ切った。肺が新鮮な空気を求めている。
プールから上がると人工重力が泥のようにまとわりついて、身体が重たい。低重力障害防止のためにわざわざ地球と同じ重力にしているのが、今は恨めしい。
プールは空いている。平日の午前中だから当たり前といえば当たり前だ。こんな時間にプールに来るなんて、無職かスペースダンサーくらいだ。
ダンサー達は泳ぐのが好きだ。無重力空間と水中が似ていると未だに信じているダンサー達が多いからだろう。
ちなみに私はそんなことまったくないと思っている。体を鍛えるのに効率が良いから泳いでいるだけだ。
「マコ、よく泳ぐな」
「アラン。久しぶりですね」
水泳好きダンサーの一人、アラン・メルヴィルに片手をあげた。私のプール仲間だったが、久しぶりに姿を見た。
彼はアメリカの元空軍パイロットで、人気のあるダンサーだった。六十代になるはずだが、髪はシルバーで綺麗に整えられ、目尻が少し下がっていて優しい印象を与える。見るからに紳士そうだし、身体もだらしないお腹なんて見当たらない。
人当たりのいい性格で、まだ英語があまりうまくなかった昔の私にも気さくに話しかけてきてくれた。私もそんな温和な彼が大好きだった。
「膝が悪くてね、しばらくやめてたんだ」
「え、じゃあこっち来ていいんですか? 重力良くないんじゃ……」
この辺りの地域一帯は、地球の重力と同じに設定されている。ただ、その中でも月の重力を活かした場所もあった。主に医療施設やスポーツジムだ。重力が軽ければ、膝や腰などの身体への負担も少ない。そのため宇宙医学として研究されている。
「しばらくそっちにいたんだが、物足りなくてね。水泳はそんなに負担もないし」
「そうなんですか。大変ですね」
「ああ、まあ、六十を過ぎるとね、あちこちガタが来るよ。やっぱり若いといいなあ。俺はもう、五十メートルも苦しいよ」
「いや、私も結構しんどいですよ。三十ですし」
「あんなに若かったのに、もう三十か。ホント、俺も年をとるよ」
快活に笑いながら、アランは水中に入った。ゆっくりと身体をならすように、肩まで浸かっている。なんだかお風呂に入っているようだ。
「調子はどうだ? 来月の大会には出るんだろう?」
「いえ、次回はエントリーしません」
「それは……先月の大会のせいかな?」
アランは戸惑いがちに尋ねてきた。私は苦笑して頷く。
「しばらくは出してもらえないそうです」
「残念だな。俺もエントリーしようと思っていたんだが」
「応援に行きますよ、アランが出るなら」
「それは心強い」
アランは柔和な笑みを見せてくれた。
「ところで、しばらく休業するならなにをする気なんだい? 地球に帰るのか?」
「いえ、女の子の面倒を見るんです。社長命令でダンスを教えなくちゃいけなくて……」
デュエットの大会に出ることはまだ言わないでおこうと思った。水下愛が本当に出場する気があるか分からないし、そもそも間に合うかも怪しい。
「女の子?」
「十六の女の子にダンスを教えてて……ホント、若い子にどうやって教えたらいいか。難しいですね」
大人げなく怒ってしまったことを思い出して、気持ちが沈む。
「おお、十六か。若いねえ。そんな子どももダンスをするような時代になったんだな。俺の若いころなんて、オヤジばっかりだったのになあ」
どこか嬉しそうに笑って、アランはプールサイドに寄りかかった。
「いや、そんなことないでしょう。ジェイキー・マクレーンだっていたじゃないですか」
「あいつな。あいつはすごかったな。俺もテレビでよく見てたよ。同い年のやつが活躍するのが羨ましくてね。あの頃は自分もスペースダンサーになるなんて思っても見なかったな」
「私も彼に憧れて始めたんですよね」
スペースダンスが始まった頃、最初に飛びついたのは五十代から六十代の初老の男性達だった。
意外に思うかもしれないが、理由は分からないでもない。彼らは過去、ダンサーやスポーツ選手、パイロットなど体力の衰えや怪我が原因で引退した人達だったのだ。アランだってきっとその一人だろう。
無重力ならば身体能力が劣っていても、問題はない。体力だってダンスをする時間、ほんの五分から十分持てばいい。老い先短い自分には命懸けだろうと関係ない。
少しでも長く現役で、これまでの自分を活かせるのならば。そう考えたのか知らないが、とにかくゲートボールよりは随分クールなスポーツだったのは確かだ。
当初そんな理由から年齢層が高かったため、年寄りのスポーツになるかと思いきや、若者も負けていなかった。なんといっても宇宙でダンスなのだ。最高にクールなスポーツなのだ。さすがにティーンエイジャーたちは室内の教室に通うくらいしか選択肢はないが、二十代になれば違う。外でやる大会に出て、有名になるチャンスがあった。
そして伝説的スペースダンサーが、現れた。
ジェイキー・マクレーン。史上最年少の二十二歳のスペースダンサー。ストリートダンスとアクロバット飛行のようなパフォーマンスを組み合わせた彼のダンスは、命知らずの若者達を熱狂させた。
彼は二十七の時に演技中デブリと衝突し亡くなったが、おかげで今でも伝説として語り継がれている。
「あいつの現役時代なんて、マコはまだ生まれてないんじゃないか?」
「ネットで映像たくさんありますから」
私も月子も十代の頃、彼の映像を見て宇宙に憧れた。そういえば最初は月子がウェブに上がっている映像を見つけたんだっけ。
それを見て、水下愛のように十代の頃にダンスを始めたかったが、地球には無重力ドームが都心にしかないし、人気施設なので常に混んでいる。お金があれば定期的に月にあるダンス教室に通うこともできるだろうが、大抵の子どもには無理だった。
私の年代のひとたちも同じような感じだろう。だいたい二十代になるとこちらに移住してきて、バイトをしながらスペースダンサーを目指す。そして運が良ければどこかの事務所が拾ってくれるのだ。
そう考えると水下愛のように十代から月でスペースダンスができるというのは、アランの言うように時代が変わってきているのかもしれない。
「その女の子も、そういうヒーローはいないのかな?」
「え? さあ。聞いてないですね。まあサラ・ウィーランとかじゃないですか」
ここ数年、男女問わず人気ナンバーワンなのだから、ありえる気がした。
「彼女はすごいよね。今期も出てるやつ全部優勝してるんじゃない? 元バレエダンサーってすごいんだね」
「あの体の柔らかさと体幹は正直羨ましいです」
「まあでも、バレエやってた時は結構怪我に悩まされてたみたいだよ。何度か手術してたみたいだし」
「そうなんですか。くわしいですね」
そこそこ長い付き合いだと思うけど、アランから彼女のことを聞いたのは初めてだった。
「飲み友達だからね」
「えっ。初めて聞きましたよ?」
驚いていると、彼はにこりと笑った。
「俺が、というよりマーサとな。別に隠しているつもりはなかったよ。ただ、マコはあんまり彼女のことが好きじゃないみたいだったし、そもそもシングルの選手の話をすることもなかったろ」
マーサというのはアランの奥さんだ。なるほど考えてみればマーサとサラ・ウィーランは年齢が近いし、自然な気がした。
「好きじゃないってことはないですよ……。ただ、もともと他の選手にあんまり興味がなかっただけで」
今じゃ逆に意識しまくりというか、演技を見に行って劣等感すら覚える始末だ。彼女の視界にすら入っていないのに、勝手に意識して勝手に敗北感という、なんとかっこ悪いことよ。
「もしマコが会いたいなら、彼女に聞いておこうか?」
魅力的な提案だったが、私は首を横に振った。こんな気持ちを抱えたまま頂点にいる人に会っても意味がない。
「まあ、会いたくなったら言ってよ。マーサもマコに会いたいって言ってたし、ガールズナイトでもしたらいいさ」
ガールズなんて年齢ではないけど、そこは追求せずにアランに頷いた。そういえばマーサとも、月子がいなくなってから一度しか顔を合わせていない。心配して食事を持ってきてくれたのに、その時にお礼を伝えたきりで、なにも返していないことに気づいた。
「私もマーサに会いたいんで、今度ランチでもいきましょう」
「ああ、いいね。彼女も喜ぶよ」
ふと、水下愛のことを思い出した。あの子も連れて行ってあげたら喜ぶだろうか。それこそ、もしサラ・ウィーランと会えるとなったらどうだろう。
そこまで考えて、彼女の好きな選手やスペースダンスを始めようと思ったきっかけを、私はひとつも聞けていないことに気づいた。
練習を始めて三日になるのに私は水下愛と話していないのだ。会話のほとんどは練習についてだったし、彼女のことを尋ねた記憶がない。私は手で顔を覆った。後悔の二文字が脳裏に浮かぶ。
年齢で危ないからやめろと言ったり、諦めようと言ったり、あげく才能がないからやめろと言ったり。
基本ができていないとはいえ、もし本当にデュエットで組むなら、こんな状態はありえない。なにもかもをすっ飛ばして、いきなり結婚した夫婦のようだ。
このままだとお互いの距離感もわからず、私たちは宇宙に出なくちゃいけないのだ。そんな命知らずなことやるべきじゃないのはわかっていたはずなのに。
大いなる反省の上で、私はアランに聞いた。
「あの、ランチの時、さっき言ってた女の子を連れて行ってもいいですか?」
「君の教え子? ああ、もちろん。彼女の名前はなんて言うんだい?」
「アイ・ミズシタ」
「……アイ・ミズシタ?」
アランが繰り返した。私は頷いた。
「根性はあるみたいなんですけど、ダンスというか、推進剤の使い方がからっきしで。ずっとくるくる回ってるんですよ。なのに頑固でずっと練習しようとするし」
「初心者なんだね」
「ええ、まあ……」
でも、私の時だって一日で前に進むようになった。それを彼女は三日もかかっているどころか、まだ成功すらしていない。
「でも、基本を辛抱強く学ぼうとするのはいいことじゃないか。基礎ができているやつは強いんだし」
その言葉にふと気になって尋ねた。
「アランって誰かに教えたことあります?」
「ダンスを? 真剣にやっている子どもに教えたことはないね。子どもたちに遊びで教えたことはあるけど。そもそもほとんどみんな最初は教室に通って、その後は独学じゃないか」
アランの言う通り、スペースダンス自体歴史が浅いし、様々なバックグラウンドを持つダンサーたちは推進剤の使い方を学んだ後、自分なりのダンスを見つけていく。それぞれの特技を活かしたダンスへ消化させていくのだ。
「そうですよね。どうやって教えたらいいんだろうと思って」
「俺は軍にいたから部下の教育はしたことはあるけど、結局教えるというのは、そいつ自身のことを知らないといけないんじゃないかな」
「知る?」
「うん。この年になって思うんだが、色んなヤツがいるだろ? そいつに合わせた教え方ができたら、これ以上ない最高の教育ができるんじゃないかって思うんだ」
アランの言葉に、彼女がうまくいかないのは、もしかして私が悪いのだろうかと思い始めていた。彼女の才能の問題ではなく、私に教える才能がないのではないか。
そうかもしれない。私はダンサーとして生きてきたけど、誰かにダンスを教えるのは初めてだった。教えるのは下手くそに決まっている。
それなのに、私は彼女のせいにした。できないのを年の離れた子どものせいにした。
恥ずかしくなって、叫び出したい気分だった。思わず水に潜った。水の中なのに顔が熱くなってきて、逃げ出したい。けれどそんなことしたら、今度こそ大人としてすごくカッコ悪い。
水から顔を出して、深呼吸する。目を丸くしているアランに私はお礼を言った。
「アラン、ありがとうございます」
人生の先輩は、ただ優しく微笑みながら頷いてくれた。私はプールから上がった。
「この後、約束あるから失礼します。また連絡しますね」
「ああ、またな、マコ」
ウインクしながら手を振る様もカッコ良くて、アランってすごい、と思う。
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